水滴の落ちる音がする。
硬い床はじっとりと濡れて、私はそこに胎児のようにして横たわっている。寒くて、不快で、けれど動く気にはなれない。目を開ければ、きっと見たくないものを見てしまう。
「臆病者。そうしてたって、何も変わらないですよ」
若い女の嘲るような声がした。
ざぱ、と液体の溢れる音がして、私の側面を流していく。それが耐えようもなく不快で、渋々起き上がり、いやいや目を開けた。
薄暗い空間に、猫足のバスタブがひとつ。冷たい床はタイルが敷き詰められている。何処も彼処も、赤茶けて元の色なんて分かったものではない。その床を未だ新鮮な赤色が流れていく。
間違いようのない、濃厚な血の匂いがした。
「すっかり血塗れですね」
バスタブに浸かる女が縁からこちらを窺っている。長い黒髪をなみなみと血で満たされた浴槽に浮かべ、青白い顔で嘲笑している。
「お母様……?」
母によく似た女は溜息をついて、呆れを隠そうともしない。
「お母様であるはずがない、そうでしょう?母が、こんなものであるはずが」
立ち上がった女の身体は傷一つ無く、しかし、どうしようもなく血が染み付いている。美しい、そのはずなのに、吐き気がするほど醜悪で、歪んだ笑顔は嫌悪を煽る。
「そうですね、その通りです。お母様なら絶対にこうはしない」
私が断言すると、女ははじめて表情を緩めた。そこに一瞬だけ悲しみを見た気がして、しかし、すぐに無感情な笑みに紛れ分からなくなった。
「悪趣味ですね。ブラッドバスなんて、本当にやってるひといるんですか」
「さぁ、どうでしょう?いるかもしれないですよ。ここはそういう世界ですから」
「それはまた随分と、生きづらい世の中ですこと」
「そうね。本当にその通りです」
女は肯定するくせに、浴槽に戻る。その場所を動くつもりはないようだった。この寂しい薄暗闇で、冷えきった血に沈んでいるのこそが相応しいと。
「あなたは浅いところに向かうとよいでしょう」
女はもう一瞥もくれることなく、ただ細い指で上を指さした。
「もっと妬ましいものかと思っていました」
瞬きのうちに白んでいく視界の中、女が呟いた自嘲が聞こえた。
気付くと、先程より明るいところにいた。
目の前には女をそのまま小さくしたような少女がおり、私の手を引いている。見覚えがあるようでない、後ろ姿を追いかけている。
「ごめんなさい。ちょっと夢が見たくなっただけなんです」
少女は振り返らずに言う。繋いだ手は慣れ親しんだ温度がする。
「でも夢は夢ですね、同じようで違う。私の家族はこの世界にしかいない」
進むたびに明るくなっていく。少女は私が返事をしなくても気にしないようで、話し続けた。独白じみたそれは、聞かれていなくたって構わないらしい。
「笑ってほしいのは私の家族だから」
手を離されて足を止めると、頭上が水面のように揺らいでいるのに気が付いた。足元に波打つ影を作っている。上はより明るいらしく、けれど不思議と眩しくはない。
この境界の先に私は帰るべきなのだろう。
「ひとつ質問をしても?」
「なぁに?」
振り向いた少女は、遠い昔に鏡の中に見た姿とよく似ている。しかし、私の言葉を待ちながら微笑むその顔は、ひどく大人びていた。
「どうしてそう幼い姿をしているの?」
少女はきょとりとしたあと、見た目相応に破顔して笑った。
「これが私の愛し方なのです」
それに私も笑い返して、水面に手を伸ばした。
棺の中、着信音で目を覚ました。
寝惚けたままに手を伸ばし、電話に出る。すると、意外な声がした。
「おはようエリー」
「御祖父様?おはようございます」
「夢見は悪くなかった?」
問われて、もうほとんど思い出せないことに気付く。夢なんて大概そんなものだが、薄らと奇妙な寂寥感を覚えている。
「ううん、難しいですね。楽しい夢ではなかったですけれど、悪夢でもなかったような……」
「そう?」
「ただ、ちょっと皆に会いたくなりました」
「そっか。いつでも帰っておいで」
「はい。ありがとう、御祖父様」
嘘予告エリー
永遠の少女、時間の停まった愛し子。
現在に納得がいかなくて家族の元を離れ対立する道を選んだドラルクに対し、ただ家族と共にあることだけを選んだ。今の世界が正しいとは思っていないが、身内同士で傷付け合ってまで正そうとは思わない。ただ愛され愛を返し、偽りの平穏だけを見せる少女。暗い世界を知ることも巣立つこともない子供であることを望み、望まれてそうある。
見ないふりをしているだけで、本当は分かっている。