珍しく静かな夜だ。
ロナルドさんは銃をはじめ武器のメンテナンス中、お兄様はネイルの塗り直し中でジョンもこちら。メビヤツは帽子掛けに徹している。悠々と水槽を泳ぐキンデメさんはいつもより元気そう。気苦労が絶えない生活の休息日だからだろうか。ヒナちゃんがいないのも確認済みで、さて、誰にちょっかいかけようかと思案する。
ロナルドさんのところに行けば構っては貰えるだろうが、彼に私の相手をしつつ細かな作業をさせるのは無理がありそうだ。作業の内容にもそれほど心動かされない。しかし、中断させる気にもならない。静かではあるが、他人の気配が感じ取れる距離にあり、互いに注意はしていないが、視界の隅に捉えている。そのような空気感が嫌いではなく、崩してしまうには勿体無く感じた。
ということで、お兄様のいるソファへ向かう。私の構い方を一番心得ているので、どうしたいのか察して欲しいときはお兄様のそばが心地よい。
これはずっと昔からそうだ。両親ともに私たちに対して空回りしがちだし、御祖父様はあれでちゃんと察してくれることもあるが、変に琴線に触れると何するか分かったもんじゃない。簡単に言ってしまうと、うちで最も機微に聡いのがお兄様なのだ。
お兄様の隣に転がるジョンを持ち上げて、その場所へ代わりに私が腰掛ける。ジョンはそのまま私の膝の上へ。我ながら完璧な布陣だ。お兄様は一度ちらりと私を窺って、ひとまずそのまま気にしないことにしたらしかった。
節榑だった指が丁寧に赤色を塗り重ねていくのを、なんとなく眺める。手持ち無沙汰にジョンを撫でつつ、思考がほどけてぼんやりしている自分に気付く。こういうのは久しぶりで、落ち着くなと思った。
私が呆けている間に、整えられた赤い爪はトップコートまで塗り終わっていて、乾くのを待つ段階になっていた。
「ね、お兄様」
「なにかね」
手元から顔を上げたお兄様と目が合う。そこに浮かぶ感情がなんというか、ニュートラルで、私は入っていたのかも分からないような肩の力がさらに抜けた。
「私のも塗ってくださる?」
お兄様に右手を差し出しす。ちょうど昨日オフはしたものの、気分が乗らなくてベースコートしか塗っていない。
だって、一目惚れして買った新しい色がどうも似合わない気がするのだ。寒色は余計に血色悪く見えるだろうし。昼の空みたいな、綺麗な色なのだが。
「構わないけど、これ1色しかないよ?」
私たちにとって馴染み深い色で満たされた小瓶を、同じ色の爪で示される。
「私シンプルなのも好きです」
別になにかすごいデザインネイルなどを求めているのではない。お兄様に塗ってもらいたいという以上の思惑はなく、それはつまり、ちょっと甘えたいなという気分なだけだ。
お兄様なら綺麗に塗ってくれるだろうという打算くらいはあるけれど。
「お姫様の仰せのままに」
仕方ないな、とそんな風の苦笑まじりにお兄様が私の手を受け取った。
「それで、どうしたの?」
丁寧に私の指先を整えながらお兄様が問いかける。
「んーと、慣れないことして疲れた、のかな?だと思います」
緩んだまま答えながら、私は息抜きがしたかったのかと気付く。思い返せば、張り詰めすぎている覚えはあった。それもこれも、ロナルドさんのせいなのだが。
「エリー、基本的に追いかけられる側だからね。どう?そろそろ嫌になってきた?」
お兄様はからかいに期待を混ぜて薄く笑う。
「まさか!楽しいんですよ、私。心が忙しくって疲れちゃいますけど、それも含めて。今まで生きてきた中で一番かも」
私もゆるりと笑んでそう返す。お兄様はそれに少し残念そうにした。
「だろうね。見てれば分かるよ。……ちょっと妬くけど」
お兄様だって最近、生き生きと楽しそうにしているのに、と思う。
内訳は多少違っても、この悲しみを伴わない寂寥はきっとお互い様なのだろう。笑う顔を見ていれば自然と飲み込めるような、小さな感傷だ。
「それは私だって、ですよ」
私たちは一瞬だけ顔を上げて目を合わせ、また手元に視線を落とした。楽しいなら仕方ない、と互いの顔に書いてあったから、また笑った。
お揃いの赤が指先に重ねられていく。
「楽しいんです、本当に。ずっと一緒にいたいって思うほどに。でもそれは、私だけなのかな……」
ロナルドさんは違うのかな、と思う。
一緒にいて気を張りすぎて疲れるだとか、ロナルドさんが初心すぎてバグるとか、そういうのは別に良いのだ。いや、良くはないのだが、時間と根気でなんとかなることだ。
けれど、彼に私と一緒にいる気がないのであれば問題だ。
「それまたどうして?どう見たってゾッコンって感じだけど」
私だって好かれているのは分かる。分かりやすいし、疑う余地もない。なので、より困惑しているのだが。好かれていないなら、好かれるよう努力のしようはある。しかし、あれだけ私のことを好きなくせに、遠ざかろうとするのは何故なのか。
話していても滞りなく、丁寧に彩られていく指先を見ながら、頭を悩ませる。
「やっぱりそうですよね。でも、なんというか、私のことわりと蔑ろにしてません?」
思いの外、憤りが篭ってしまった声に、お兄様が疑問符を浮かべる。そのあと悩むように少し唸り、次に思い付いたとばかりに声を上げた。
「エリー悲しいお知らせなんだけどね」
「 なんです……?」
神妙な顔をするお兄様に、私は思わず息を呑む。筆はちょうどよく小瓶に付けられた。
「そんなつもりは無いんだと思うよ。世間一般からしても恐らく普通の範疇」
私たちが普通を語るのも変な話だとは思うけど、と付け加えながら、作業を再開する。浸した筆を取り出して爪に色を乗せていく。
「えっ」
私は予想外のことを聞いて、一瞬、脳が停止した。
では、この不満はどこから来るというのか。そうおかしなことは求めていないつもりだったのだが。
「君、ほら、昔から自分より他が少しでも優先されるの許せないたちなところあるから」
思い出すようにしながら、お兄様はそう評する。片手分塗り終わったようなので、左右を交代させながら、過去を振り返ってみる。
「えっ?私ってそうですか?」
振り返ってみても、嫉妬や独占欲をそう感じた覚えがない。ロナルドさんに対してはともかく。彼は恋人なので、そういう感情を多少なりとも抱くものだろう。
「うん。修行時代に私が帰ったときなんか分かりやすいんじゃない?」
それは私が物心ついた頃の醜態のことだろうか。
あの頃はお兄様が家にいなくて、つまり、私は第二子ではあるが、一人っ子のように基本的に育っていた。その生活にお兄様が降って湧いたから、親を取られると思って駄々をこね倒したのだ。
「あっ、えー?そんな昔のこと……流石に私も成長しているでしょう?」
下の子が生まれたときに、兄姉が赤ちゃん返りするようなものだろう。それを大人になってまで引き摺るだろうか。
「そりゃ、見境がつくようになったとか、相手の事情も考慮できるとか、そういう意味ではね。でも根本的にはそう変わってないんじゃない?」
確かに、あの時だって私が何か変わったのではなくお兄様が上手く取り成してくれたのだ。あれ以降も、お母様が家に帰って来ないだとか、お父様は私よりお母様が大事なのだとか、そういう理由で反抗期を迎えた。そして、私たちは同率1位、くらいを自分の中で落とし所にして受け入れた。
「そう言われると……。えっじゃあ、私って、えぇー」
独占欲めちゃくちゃ強いタイプだったのか……。
「今まで本当に親しい間柄になったのってほぼ身内だけだし、気付かないのも無理ないけど」
「そうですね。一族のみんなってワガママ言ってもだいたい聞いてくれるし」
両親をはじめ、一族総出で甘やかされて育った自覚は一応ある。私は可愛いから当たり前と思っていた節も多少あるが。
「うーん末っ子。私にも覚えがある。ま、それでもちゃんと線引きはできているように見えてたんだけどね」
一族のみんなに私より大事なものがあるのは当たり前だと思っていた。なぜなら、私もみんなより大事なものがあるから。
だから、どこまで許されるのかは見極められていた。両親とお兄様はもう本当にベタ甘だし。御祖父様はちょっとズレてるし。
「恋に恋してたんですよね、私。そういう間柄だと思ってたんです」
恋人というのは何よりも互いを優先するものだと思っていたのだろう。言葉にすると、それはひとによると冷静に分かるのだが。
「なるほど。うちの両親いつまでも新婚みたいだしね」
一番身近なサンプルケースがあの調子なので、基準がおかしくなっていた部分も間違いなくある。
「そうです〜あぁ〜」
羞恥で項垂れる。つまり、この憤りの原因は私の求めすぎだと。それも言外に求めるのでは伝わるものではない。相手はただでさえ鈍感なのに。
「別にそう悪いこととも思わないけど」
「それは、私も正直そう思います。でも」
好きな人に執着して、その愛を乞うそれ自体を間違っているとは思わない。しかし、駄目なのだ。
「でも?」
「これじゃ、一緒にいられない……」
ロナルドさんが退治人をやめられないことくらい、もう知っているから。
「入れ込んでるねぇ。諦めようとは思わないんだ」
お兄様は苦笑しながら、私の手を離した。もう塗り終わっていたらしい。艶々の深い赤が指先で輝いている。
「思えませんよ、今更そんなこと。頑張ります。落とし所見つけるか、もっと私に依存してもらうか、方向性は分からないですけど」
引き返せるところはとうに過ぎてしまった。求めるだけ返してくれるような、そういうひとを探すこともきっと出来た。
しかし、私が欲しいのは、全部あげたいと思ったのはロナルドさんだ。
「私、諦めは悪いですから。まずは試してみなくちゃ」
エリーちゃんは努力家なのだ、負けず嫌いともいう。
「でも、もし、もし……」
私とロナルドさん、どちらのためにもならないとしても。誰も幸せになれないとしても。私は自分で諦められないだろうから。その時は……。
「大丈夫、分かってるよ。好きなようにしなさい」
思わず俯けた顔を上げると、お兄様が笑っていた。
私は安堵して、気合いを入れ直す。ジョンは気配を察知して私の膝からお兄様の膝へ移っていった。彼は本当に良くできたマジロだ。
「よし、そうと決まれば!」
私が突然大きな声を出して立ち上がったので、ロナルドさんが驚いている。
整備が終わったものの、兄妹の間に割って入ることもできず、しかし、気になって不自然に近付いてきていたのは知っているのだ。ついでに何の話しているのかよく分かっていないのも知っている。
「そこで挙動不審になっているロナルドさん!」
「はい!?」
訳が分からないながらも直立する彼に、笑いそうになりながらも真面目な顔を作る。これから言うことを冗談だと思ってもらっては困るのだ。
とにかく、ロナルドさんには私がいないと生きていけないくらいにはなってもらう。そのために距離を詰める。
「私のこと呼び捨てにしてください!前から気になっていたんです。お兄様は呼び捨てなのに、私にさん付けは変ですよね?他人行儀なのは寂しいですから」
いつか床下の彼女にも同じようなことを言ったが、ロナルドさんのそれも気になっていたのだ。それどころではなかったので後回しにしていたが。なんだったら、ヒナちゃんが呼び捨てなのも気になっている。
「えっ突然そんな」
慌てつつも少し赤くなっている彼に近付いて、正面から捉える。ついでに両手も捕まえておく。
「ロナルドさんは私ともっと仲良くなりたくないんですか!?私泣いちゃいますよ!」
「いやそんなことは、」
脅しかければ今度は青くなった。私を泣かせたくないという意思は強いらしい。それならもう少し気を使って欲しいというか、いや、使っているんだろうが。
「仲良くなりたいとは思ってくださっているんですね?」
「もちろん!!」
上目遣いに問かければ、首が取れそうなくらいの勢いで頷かれる。言質は取ったぞ、と誰に言うでもなく思った。
「じゃあこうしましょう。もしロナルドさんがエリさんって言ったら、その度にチューします」
「ひぇ」
今度は固まってしまった。赤やら青やら、イカくらいの早さで顔色が変わっているが大丈夫なのだろうか。
私としてはそろそろ慣れてもらいたかったし丁度いいな、くらいのものなのだが。
「これならさん付けしてもしなくても、もっと仲良くなれますね」
「ひゃ、やっ、そんな」
私がにっこり笑えば、乙女のようなか細い悲鳴が上がる。うーん、正直かなり楽しくなってきた。
「私はやると言ったらやりますからね。人前とか往来とか気にしませんから」
本当は気にしないわけではないが、ロナルドさんの前では大事の前の小事だ。世間体くらいくれてやる。この町でそんなものそもそも機能しているのかは知らない。
「待って、待ってくれエリさん」
期待を裏切らないな彼は。からかいがいがある。もちろん私だって本気でやっているのだが、それ以外の楽しみを見つけたって構わないだろう。
「あっ!さっそく言いましたね?そんなにチューしたいんですか?しょうがないですね」
「ほんとうにまって、そうだ!ドラ公だっているし!」
焦って目を回しながら、その先で見つけたお兄様に救いを求める。それは無理筋だろう。
「私は動画の編集があるからちょっと外すね」
お兄様と腕の中のジョンに手を振って見送る。もちろん、ロナルドさんが逃げないようしっかり捕まえながらのことだ。
「待てこのクソ砂!行かないで!!お願いします!!!」
必死である。流石に少し傷付くのだが、やめることはない。
「もー、そろそろこっち向いてください。キスしにくいでしょ」
頬に手を当ててこちらを向かせる。汗をかいて真っ赤になっているところを見たって可愛いなとしか思えないのだから、諦めて欲しい。
「はわ」
全く、どっちが乙女なんだか。
熱い頬に添えた指先のまだ固まっていない赤色に気を使いながら、爪先立ちをして口付けた。
【エリー】自覚した無自覚強欲吸血鬼。ジェルもポリッシュも使うし、デザインネイルも自分でする。サロンに行ってやってもらうのも好き。
【ドラルク】妹と同居人の恋愛相談に乗らされる吸血鬼。赤一色のセルフネイル。たまに妹に遊ばれてゴテゴテにされる。
【ジョン】空気が読めるマジロ。アルマジロの爪はけっこう鋭いが、現環境では穴を掘る遊びくらいにしか使わない。
【ロナルド】盗み聞きしても分かってない退治人。他人事だと思っているが、いずれエリーに言いくるめられて塗られる。赤は絶対に塗ってやらないとこのと。