【完結】TSぼくっ娘「そうかそうか、つまり君はそういうやつなんだな」   作:守次 奏

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第十話「115万キロの」(終)

 それから、どれくらいの季節が巡っただろう。

 指折り数えてみればあっという間なのに、ぼくたちを取り巻く時間は何年分もの時間を詰め込んだかのように濃縮されていて、頭の中でそれを再生すれば、長く、長く時間がかかる。

 

 それだけの思い出を、恋した人と共有できたぼくは間違いなく幸せ者なのだろう。

 この世に二人といない、きっと世界でいちばんの幸せ者に違いない。

 

 驕るなと詰られたって、関係ないね。

 ぼくの中でそれは揺らぐことのない真実で、誰であっても踏み入ることはできない、神聖なものなのだから。

 

 ああ、だからといってその後にりゅーじと別れただとか、そんな話じゃない。

 これはもっとありふれた、幸せという宝石で飾られた蛇の足だ。

 

「随分大きくなったな……」

「ふふ、君が元気すぎるから親に似たのかもしれないね?」

「言ってくれるぜ」

「冗談だとも、だから安心してくれたまえよ、あなた」

 

 ぼくの中に、もう一つの命が宿っている。

 

 最初は信じられなかったし、まさかこの身体が授かりものを得られるようにできているとも思わなかったから、とてつもなく驚いたものだし、そのせいで色々と苦労もさせられた。

 

 特に吐き気がひどかったね、ぼくの場合。

 それでもお腹にいる子供のために栄養を届けるのが母胎の定めなのだから、吐き気止めと友達になりながら必死に格闘していたっけ。

 

 命を育てるというのは、こんなにも困難なことなのだと身に染みてわかった──そういいたいところではあったけど、ぼくはまだ入り口に立っただけだというのもわかっている。

 

 今はまだ道の半ばで、これから歩いていく先になにがあるのかも見えない状態だ。

 それでもなんとかなるかもしれないと、きっとなんとかなると思うのは楽観論が過ぎるけれど、できることならぼくはそう信じていたい。

 

 今までだって、思い通りに行ったことの方が少ない人生だった。

 

 憂鬱を背負って、悲しみと手を繋いで歩いてきたのがぼくの半生であることに違いはない。

 それでも、だ。

 

「あなた、か……とうとうそう呼ばれる日が来ちまったか」

「ふふ、ぼくだって……『女の子』から『お母さん』になる日がくるとは思っていなかったよ。こんなにも早くね」

「そりゃあお前……ひかりが可愛すぎるのが悪いんだろうが、世界で一番か? いや、宇宙で一番俺の嫁が可愛い」

「ふふ、君にそう言ってもらえるなら、ぼくは本当に宇宙で一番可愛くなれる気がするよ」

 

 すっかり大きく膨らんだお腹をさすりながら、そこに息吹く愛の印を慈しむ。

 今が幸せの絶頂で、これからは下り坂になっていくかもしれないという当然の不安もある。

 

 お互いに情けない姿を見せ合うような日々もきっとあるのだろう。

 むしろ、ない方がおかしいと、頭ではわかっている。

 

 だからといって、ぼくがこの選択を後悔すること、それだけはなにがあってもあり得ないことだけはわかっていた。

 二人で苦渋を舐め合って、二人で幸せを分かち合って、そんな日々が続く限りは、ぼくたちを今もまだ繋ぎ止めている、真っ赤に燃える糸が、小指を焼き尽くさない限りは。

 

 そんな日が来ないことを、ただ祈る。

 恋心だけが二人を繋ぎ止める季節は終わった。

 

 子は鎹というように、きっとりゅーじの日々も、ぼくの日々も、生まれてくるこの子を中心に回り始めることになるのだろう。

 

 その苦労はきっと想像して、今決めた覚悟を易々と上回ってくるに違いあるまい。

 きっとくじける。きっと、どうしようもなくつらくてつらくて仕方がない日々も待っている。

 

「でもよ、ひかり。俺たちが不安がってちゃ、生まれてくるこの子に申し訳ないだろ」

「そうだね……」

 

 りゅーじの言う通りだ。

 例え、子供は生まれてくるときに悲しくて泣き叫んでいるのだとしても、人生は笑顔より涙の数の方が遥かに多いものだとしても。

 

 ただ一つ、たった一つだけでいいから、それ以外の全てが焼け落ちるくらいに、燦然と輝く希望を見つけてほしいと思う。

 

 ぼくがそうだったから、子供もそうだろうなんて楽観論は言わないから、無事に生まれてきて、自分の足で──

 

「……っ……!」

「どうした、ひかり!?」

「……あ、あは……どうやら……生まれる、みたいだよ……」

 

 破水の感覚と、一際強い胎動、そして陣痛が訴える。

 御託はいらない。もうこの子をこの世界に送り出す準備は整ったのだと。

 

「な、なにすればいいんだ!? そうだ、救急車!」

「……たのむ、よ……!」

 

 痛いとは聞いていたけど、尋常じゃないね。

 これからもっとひどい痛みを味わうのだと思うと、ぞっとするけど。

 

 それでもどこかに喜びを感じてしまうのが、母性というものなのだろうか。

 こんな自分なんかにも、それが備わっていたことに安堵しながら、ただ痛みをこらえてぼくは、蹲るのだった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 記憶が遠い。

 思い出が走馬灯のように瞼の裏を駆け巡っていたのだと、ようやく現実味を帯びてきた意識で思い知る。

 

 そして、この手に抱いている小さな命のぬくもりが、生きていることを訴えかける産声が、無事に終わってくれたのだと、ぼくが務めを果たせたのだと教えてくれていた。

 

「あ……ああっ……ああああ、っ……!」

 

 どうしてだろう。

 笑って迎えてあげたかったのに、この子がただ生きている、息をしているというだけで涙が止まらない。

 

 尋常じゃなかった痛みの残滓がそうさせているから? 違う。

 子を産んで、すっかり皮が余っただるだるのお腹に変容してしまったぼくの身体が悲しいから? 違う。

 

 嬉しいんだ。何物にも代え難いほどに。

 この子が生きていることが、生まれてきてくれたことが、ぼくと、大好きな人の間にできた想いの結晶が、形を結んでくれたことが。

 

「ひかり!」

「ああ……りゅーじ、無事だよ。ぼくも、この子も……」

「……っ、よかった……二人になんかあったらと思うと、俺……!」

「泣かないでくれたまえよ……ぼくまで……ぐすっ、また泣いてしまうじゃないか……」

 

 そっと、震える腕に新たな命を託して、ぼくはりゅーじがその腕に子供を抱くのを、静かに微笑んで見守っていた。

 

「息してるんだな……生きてるんだな、こんな小さいのに……」

「ああ……元気な、女の子だよ」

「そっか……名前、考えてきたけど……ひかりはなにかあるのか?」

「君に任せるよ。その子を祝福してくれたまえ」

 

 命をこの世に送り出すまでが、きっとぼくの役目で、その命を最初に支えることが、きっと彼の役目なのだから。

 この星に、この世界に生まれた証として刻む祝福。それこそが、名付けなのだとぼくは思う。

 

 ──だから。

 

「……あかり」

「……ふむ?」

「あかり、でどうだ? ひかりとよく似た可愛い子に育ってほしいからな」

「なるほど……いい名前じゃないか。暗がりでもきっと揺るがない、灯り」

 

 たった今名付けられた子を、あかりを抱いて、ぼくは笑った。

 ひかりから生まれたあかり、か。案外ぼくの愛する人はポエミーだったらしい。

 

 でも、それでいいさ。

 君がそういうやつだってことは、とっくの昔にわかっているんだから。

 

 そして、ぼくがそういうやつだということも、きっと、とっくの昔にわかってくれているのだろう。

 

 世界がそれをなんと呼ぶのか、ぼくがそれを口に出す資格があるのか、ずっとわからなくて、わからないままここにきてしまったけれど。

 

「ねえ、りゅーじ」

「なんだ、ひかり?」

「……愛してる」

 

 ああ、やっと言えた。

 ずっと言いたくて、でも言えずにいたその言葉を。

 

「俺も……愛してるよ、ひかり」

 

 そうか、そうか、つまり君はそういうやつで。

 そうか、そうか、ぼくは──そういうやつなんだな、本当に。

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