「流れ星」
ラウンジ帰り、鏡舎を出てすぐに、それは流れた。
少し肌寒くなってきたこの季節、まだ本格的な防寒具は必要ないけれど吐き出す息は白みを帯び始めていた。
夏にこの世界に来たから気にしてなかったけど、そろそろ防寒具を買いに行ったほうがいいのだろうか。学校指定のマフラーやコートがあれば学園長に交渉できるが、そうでないなら買いに行かなければ。
さすがに購買部に服は売っていないので、行くとしたら麓の街。
そういえばトラッポラやスペードが外出するときは寮長に外出許可をもらっているらしいけど、私の場合はどうなるのだろう。今まで出かけようという気になったことがなかったので気付かなかった。一応あとで学園長に確認してみようか。
私の呟きを拾ったらしく、隣を歩いていたアーシェングロット先輩が少し不思議そうに口を開いた。
「珍しいですか?」
「珍しい……というか、この世界での天文学についてちょっと考えています」
ここは地球ではないだろうに、星はある。月も太陽もだ。ちょっと他の惑星についてはわからないけれど。
星座というものはあるらしいけれど、元の世界のもの以上にさっぱりな形で私はまだひとつも探せていない。そもそもあちらの世界の星座だって、有名なものくらいしか私は知らなかった。春の北斗七星、夏と冬の大三角にカシオペヤ。
一度学園の図書室で天文学についての本を読んでみたけれど、多分根本が違うせいでまったく理解できなさ過ぎて早々に諦めた。ここが地球でないのだから、もともと詳しくもない天文学についての私の知識が通用するはずもない。
もう少しこちらにいるのなら、天文学も面白そうだ。いろんな意味で私の常識を覆してくれそうで、知識欲が満たされるような気がする。
理屈は知らないが、どうやらこの世界にも星があり、流れ星は流れる。願い事を三回唱えるというのは同じなのだろうか。さっき見た限りだと、三回唱えるのは余裕そうだった。
そんなことを考えながら空を見上げて歩いていたからだろう。
「あっ」
足元の石に気付かず、私は転びそうになった。
今時子供でもこんな転び方はしない。いくらぼんやりしていたとはいえちょっと恥ずかしい。
制服が汚れたら困るな、と思い受け身を取ろうとして、それは杞憂に終わった。
「……足元を見ていないからですよ」
「……失礼しました」
私は転ばずに済んだ。なんとアーシェングロット先輩が素早く私の身体を支えてくれたからである。
呆れたようにため息を零され、なんとなく気恥ずかしくて俯いたまま謝罪した。
びっくり、した。
いや、先輩が手を貸してくれたことも正直云えば驚いたのだけど。だって先輩、誰かが目の前で転んでも無関心そうだし、なんなら馬鹿にしたように笑う人だと思っていたから。ああいや別に性格が悪いと云っているわけではないので勘違いしないでほしい。
それじゃあ他に何にびっくりしたかって、先輩の手だ。
私の身体を支えてくれた先輩の手は、思った以上に大きくて、しっかりしていた。
確かに私は先輩に比べれば小柄な方だけれど、少なくとも元の世界での平均並みに身長はある。体重はまぁ、少し軽いかもしれないけれど、一応普通の健康体の重さだ。
それを先輩は、難なく支えてしまったのだ。ちょうど、腰に手を回してもう片方の手で私の手を取って、私を抱きとめるようにして。
男の人なのだと、このとき私は改めてアーシェングロット先輩を意識した。
握手以外で初めて触れたことにどぎまぎしてしまう。
自慢じゃないが私はこれまで異性とお付き合いしたことなんて一度もない。まともに接していた異性は兄と、数人の友人だけで、彼らとだってこんなふうな接触はしたことがなかった。
転んだことへの気恥ずかしさと、思いがけない密着に、私の心臓はドッと大きく鳴った。きっと顔も赤くなっているけれど、これは当然の照れであって、それ以外に理由はない。それでもこの赤いであろう顔を先輩に見られたくないから、外灯が近くになくてよかったと心底思う。
ごちゃごちゃと考えていたせいで、少しの間私は先輩に支えられたまま固まっていた。
そういえば一応私には性別誤認の魔法がかかっているけれど、こんなに密着してもバレないものなのだろうか。以前、魔法薬学の授業で失敗してフロイド先輩にかばうように抱き締められたときは何も云われなかったけれど、今とは状況が違う。アーシェングロット先輩は私が実は女だと知っているのだ。
誤認魔法が視覚的なものだけなのか、実際触れても誤認したままになるのか詳しいことはわからないけれど、あれ、女と認識してる人に対してはどうなるんだろう。
そこまで考えてハッとして、咄嗟に身体を起こす。
「ご、ごめんなさい」
どちらにしても密着したままでいい理由なんてない。
慌てて体勢を立て直して離れようとして、おや、と思った。
先輩はしっかり私が立ったことを確認して、行きますよ、と歩き出す。
いや、その、それは構わないのだけれど。
「あ、あの」
「なんです」
先輩は前を見たままで、私を振り返ろうとはしない。
薄雲がかかった淡い月明かりしかないこの道では、先輩がどんな顔色をしているのかもちゃんと見られなかった。
だけど、云わなければ。
だって、これは、どうしてなのかと、訊かなければ。
「手、を」
「嫌なら振り払ってください」
やっぱり振り返らないまま、先輩は早口に云った。
手は、握られたままだった。
繋がれた手と、先輩を何度か交互に見る。
そんなことを云われたところで、振り払えるはずなんてなかった。
だって不思議なことに――本当に不思議なことに、嫌では、ないのだから。
けれどそれを口にするのは恥ずかしくて、代わりに少し、握られた手に力を籠める。
離さない、という気持ちを込めて。
すると、一度びくりと震えた先輩は、すぐに応えるようにギュッと、そうして優しく私の手を握る手に力を込めた。
それから、いつもよりも幾分ゆっくりとした速度で、寮までの道を辿る。
いつも通り、だけどいつもと違うのは、私たちの手が繋がれているということ。
先輩は私の手を離さなかった。
私も、先輩の手を振り払うことはなかった。
しばらくお互い無言で歩き、足音だけが聞こえる。
気まずいわけではなく、なんとなく今は、何も話す必要がないように思えたのだ。
私たちの手は繋がれていて、ただそれだけで、いいような。
そんな気が。
ところが、あれ、と今さらながら気付いた。
先輩は今日、グローブをしていない。
寮服でも制服でも、だいたいいつでもグローブをしているのに。
おや、と思う。
これは、もしや、と。
先輩、もしかして、最初からそのつもりだった?
自分よりも15センチほど高いところにある先輩の顔を盗み見る。
澄ました顔でまっすぐに前を見ていて、私のことなんてチラリとも見やしない。
なんだか少し、ムッとした。
そりゃあ、最初に転んだのは私だけれど、そのあとにこうして手を握ってきたのは先輩なのに、どうしてそんな態度なのかと思う。
まさかまた私が転ばないか心配しているだけなのか、と一瞬気が遠くなったとき、パッと空が明るくなった。月を覆っていた薄雲が晴れて、月明かりで明るくなったのだ。
だから、見えた。
表情とは裏腹に、真っ赤になった先輩の耳が。
それを見て私はたまらなくなった。
胸がいっぱいになって、わけもなく大きな声を出したくなった。
でもそんなことをしたら完全に不審者だ。
だから私は、衝動をぐっと堪えて、小さく笑う。
「……アーシェングロット先輩、手、冷たいですね」
「心が温かいので」
「こっちにもそういう迷信があるんですか?」
「何故のっけから迷信と断定するんですか、失礼な人だ」
ここで、手を繋いでから初めて先輩が私を見た。
私の発言にちょっと眉を顰めて、だけど不快なわけではなさそうな笑みを浮かべて。
目が合って、思わず私も笑ってしまった。
ねぇ、だって。
だって、ねぇ、先輩。
私今、とても浮かれているんです。
◇◆◇◆
繋いだ手もそのままに歩いて、いつものようにぽつりぽつりと話をして、気付けばもう寮は目前だ。
「ありがとうございました」
寮門に到着して、お礼を云う。これはいつものことだった。
今日はいろんなことが少しだけいつもと違うけれど、少しだけ、距離が近付いたけれど、それが少しくすぐったくて気恥ずかしくてどこか嬉しくて、今すぐグリムを抱き締めてゴロゴロしたい気分ではあるけれど、お礼は最低限の礼儀としてきちんと云わなければ。
先輩がついてくるのは、いつもここまで。
門から玄関までは目と鼻の先だし、敷地内には外灯がついているから足元も明るい。
だからいつもここで別れるのに。
名残惜しいけれど、もう戻らなくては。
繋いだ手の温かさが胸をいっぱいにして、この手を離すのが惜しいけれど。
もう少し、と思っても、寮についたらタイムリミット。
だからもう、と思うのに。
いつまでたっても、先輩は私の手を離さなかった。
「……先輩?」
この日、初めて先輩は私の手を引いたまま、寮門をくぐった。
さっきよりも少しだけきつめに手を握られて、痛くはないけれど戸惑う。
一体どうしてしまったのか。
離さなければならないのに、私は部屋に帰って、先輩は寮に戻らなければならないのに、どうして繋いだ手に力がこもるのか。
けれど先輩は無駄なことなんてしない人だ。
だからもしかしたら、この行動にも何か意味があるのかもしれない。私のような凡人では考えつかない、何か理由が。
寮門から玄関までの間、先輩は一言も話さなかった。私も余計な口は開かなかった。
鍵が開きっぱなしの玄関を開けた先輩は、先に私を室内に入れた。
そうして、先輩も玄関に足を踏み入れた時、先輩は私の手を強く引いた。痛くはなかった。されるがままにしていたら、私は玄関を背にして先輩と向き合う形になっていた。
距離は、近い。
私たちの身長差は約15センチ。
だけど今は、もっと近い。
きっと、先輩が少し屈んでいるから。
――どうして、屈んでいるのかしら。
ぼんやりと考える。
信じられないくらいに近い距離にある先輩から、私は目を逸らすことが出来なかった。
とても美しかった。
スカイブルーの目なんて、元の世界ではテレビの向こうでしか見たことがなかったけれど、あれよりもずっとずっと先輩の目は美しい。
きっとこれなら一生見ていられる。
「嫌なら、拒絶して」
その言葉のあと、ゆっくりと近付いてくる、端正な顔。
鮮やかな海のような美しい瞳には私が写っている。ああ、なんて間抜け面なの。
だけど、私は動けない。
そうして。
「――――……」
唇に押し当てられた、熱。
キスをされたのだ。
ああ、そう、これがキス。
なんと優しく、なんと甘美で、なんと――情熱的なのだろう。
触れるだけのキスを、先輩は何度も繰り返した。
啄むように、慈しむように、何度も何度も。
まるで私の唇の存在を確かめるように。
私は、ただその口づけを受け入れた。
拒絶だなんて、一度も考えなかった。
雨のように降り注ぐ口づけは私の心を満たすものだった。
温かい感情で胸がいっぱいになって、途方もない幸福感が頭を支配する。
そうしてしばらくして、やっとその雨が止んだ。
いつの間にか閉じていた目を開くと、鼻先が触れる距離に先輩の顔がとどまっている。海の宝石みたいに綺麗な顔で、私のことを見つめていた。
片手は私の腰をしっかりと抱いていて、もう片方の手が私の頬を包み込むように触れた。
私は、先輩の寮服のすそをぎゅっと握りしめていた。
まるで硝子細工にでも触れるような繊細さで私の頬を撫でた先輩に、私は口を開く。
「……ずるいひと」
ぽつり、と零した声は、思いのほかよく玄関に響いた。
先輩は、そのまま私を抱きしめた。
肩口に顔を埋め、ぎゅうぎゅうと。
少し痛いくらいだったけれど、嫌ではなかった。
むしろ、私の存在を改めて感じられて、ホッとする。
そうだ。
私は、ここにいる。
「すみません」
「どうして謝るんです」
「……許可を、取らずに」
口づけてしまったから、と先輩は続けた。
私が云うのもなんだけれど、この人、生き方が下手なんじゃないだろうか。
私は、服を掴んでいた手を一度離した。
そのまま手を、先輩の背中に回す。
私を抱き締めている先輩を、抱き締め返すように。
途端、びくりと先輩の肩が跳ねたのが分かった。
離れてしまうかもしれないと思い、そうさせないようにぎゅっと更に密着するように私も先輩を抱き返す。
そうして、云う。
「拒絶しなかった。それが、答えです」
バッと顔を上げた先輩が、私の肩をしっかり掴んでまじまじと私を見た。
唾棄すべき不細工だと思ってはいないけれど、芸能人ですら鼻で笑えそうなご尊顔ををお持ちの先輩にこんな至近距離で見られてはバツが悪い。
けれど顔を逸らすわけにもいかず、やけになって私はニッコリと笑顔を浮かべた。
モストロ・ラウンジで鍛えられたせいで、最近の私は以前よりも自然に笑えるようになったと思う。その成果が今だ。
けれど、考える。
これは営業スマイルなんかじゃない。
驚いたように目を見開いて私を見つめる先輩が可愛くて、ちょっとだけ面白くて、自然とこみ上げてきた笑顔だ。
この世界に来てから、多分初めてなんじゃないかと思う。
誰かに笑顔を向けたいと、そう思ったのは。
先輩にしては珍しく、ポカンとなんとも間抜けな顔で固まっていたので、私の中の悪戯心がひょっこりと顔を出す。
こうしたら先輩はどういう反応をするだろうか、という好奇心を抑えられず、つま先立ちをして、固まったままの先輩の頬に私からキスをした。
「ん、っなァ!?」
「っふふ。仕返しです」
真っ赤になってしまった先輩に、思わず私は笑ってしまった。もう駄目だ、我慢できない。
堪えきれずに先輩の胸に顔を埋めて笑っていると、頭一つ分上にある先輩の顔が面白くなさそうになるのが手に取るようにわかった。
ああ、でも、私は先輩の機嫌を損ねたかったわけじゃないの。
ごめんなさいと笑いを含んだまま云えば、許しません、と先輩は云った。
悪戯のつもりだったのに怒らせてしまったのだろうか、と思って慌てて顔を上げると、先輩は笑っている。全然怒っている様子はない。
目が合うと、わかりやすくツンと顔を逸らされる。
「ごめんなさい。怒らないで」
「嫌です。心を弄ばれて、傷付きました」
「どうしたら許してくれますか」
「では、仲直りのキスを」
真面目くさって云うものだから、私は面食らってしまった。あら、ここは笑うところなのかしら。
だけど先輩はまっすぐに私を見つめてきたので、私はそっと先輩の頬に手を伸ばし、つま先立ちをして、今度は頬ではなくちゃんと唇にキスをした。
くっついた唇から伝わる熱は、涙が出そうなほどに優しい。
そうしてもう一度目を合わせ、私たちは笑い合った。
間違いなく、今この瞬間、世界で一番幸せだったに違いない。
このままずっと一緒にいたいと思うけれど、現実的にはもうそれぞれに戻らなければならなくて、最後にもう一度軽く触れるだけのキスをして、先輩は玄関のドアを開けた。
「おやすみなさい。また、明日」
「はい、おやすみなさい」
玄関を出ていく先輩を見送って、パタンとドアを閉める。
部屋で眠っているであろうグリムに気を遣って、ゆっくりと自室に戻ってドアを閉めた途端、もう駄目だった。
閉めた扉を背に、その場にずるずると座り込む。
キスを。
してしまった。
アーシェングロット先輩と。
自分の身体を抱きしめて、立てた膝に顔を埋める。
繋いだ手が、触れた唇が、燃えるように熱い。
顔から火が噴出しそうで、心臓が踊り出してどこかに行ってしまうのではないかと思った。
いろんな感情が混じりあって、胸が張り裂けそうになった。
嫌じゃなかった。
手を繋ぐのも、口づけも。
幸せだった。
こんなに満たされた気持ちになったことなんて、生まれて初めてだった。
最初はなんて胡散臭い人なのだろうと思っていて、実際ものすごく胡散臭くて、ちょっと知ったら面倒くさい人で、だけど優しくて、わざと悪ぶったことを大袈裟に話す姿は愛らしくて。
意地悪だけど、ちゃんと優しくて。
なるべく人と深くは関わらないようにしていたのに、あの人はあっさり私の心に入り込んできて、居座った。
いつの間にか一緒にいることに違和感なんてなくなって、私を見つけて笑顔で手を振ってくれるあの人を見ることに、心が、踊って。
こんなの、無理だ。
好きにならない方が、無理だった。
私は、アーシェングロット先輩のことが、好きになっていた。
だけど。
だけど――ああ!
――私は、いつか帰るのに!