オンボロ寮の門を通り抜け、階段を昇ればもはや見慣れた玄関がある。
しかし案外知られていないことなのだけれど、玄関には入らず左手に進み、更に壁沿いに進むと寮を囲むようにコの字型の林があ出現するのだ。そう鬱蒼とはしていない、本当に寮を囲むだけの木々。そこを通り抜けるとまた空き地が広がっていて、しばらく歩くと小さな岬のような場所に辿り着く。海に面しているそこは、少しの木々に隠れるようになっているのでちょっとした秘密基地みたいだ。
あの寮に住み始めて少しした頃、グリムと一緒に周辺探索したときに見つけた。グリムはこんな寂しい場所には何の興味も持たなかったみたいだけれど、私は違う。ここはいい場所だと、直感した。
以来、私はちょくちょくここに訪れていた。
少し静かに一人の時間を過ごしたいとき、ここは最適なのだ。誰も知らないから絶対に一人になれるし、木々が私をどこからも遮断してくれる。
元からこの世界で私は一人きりだけれど、ここに来ると、本当に一人きりな気分になる。
何もせず、目をつぶってじっとしていると、気分が落ち着いた。
この世界にやってきてそろそろ三か月。
帰る方法は見当もつかない。
一応学園長も調べてくれているみたいだけど、手がかり一つ見つかっていないのが現状だ。
まぁ、相当珍しい出来事らしいからそんなに簡単に帰る方法が見つかるとは思っていなかった。しかしここまでさっぱりだと云われてしまうのも結構凹む。
この世界は、正直に云おう。楽しい。
とても楽しい。
魔法なんてファンタジーが現実で、しゃべる動物も人魚も獣人も空飛ぶ絨毯もある、とても興味深く好奇心がくすぐられる世界だ。
勉強も楽しい。未知の分野に足を踏み入れるのはいつだってワクワクする。
だけど、私は帰る。帰らなければならない。
この世界が楽しいことと、私が帰らないことはイコールでは繋がれないのだ。
そんなに簡単な話ではないのだから。
だから私は考える。
ひとりになって、元の世界を想う。
忘れるはずはないけれど、ちゃんと定期的に考えないと、この世界の楽しさの波にさらわれてしまいそうだったから。
そういうときは、私はここに来る。
バルガス先生が譲ってくれたレジャーシートと、トレイン先生が買ってくれた魔法の水筒――魔法瓶、と思ったけどこれは中身が入っている間そのものの時間が止まるから、保温とは違うらしい。今度是非仕組みを調べたい――と、クルーウェル先生がくれたブランケットだけを持って、グリムにだけは居場所を告げて。
スマホも持たない。
本もいらない。
何もやることはない。
広げたレジャーシートの上に寝ころんで、お茶を飲んで、ただボーっと空や海を眺めるだけの時間。
私にとっては大切な、一人の空間。
けれど今日は少し違った。
いつものようにレジャーシートに座って海を眺めていたら、背後から足音がした。
驚いて振り返ると、そこにいたのはアーシェングロット先輩だった。
「……どうしてここがわかったんですか」
「ツナ缶ですぐに吐きましたよ。誰とは云いませんが」
「もう答えなんですよね……」
乾いた笑いが漏れたのは仕方ないことだと思う。犯人はグリムだ。
というかそもそもの話、ここはグリムしか知らない。スマホは寮に置いてきたし、きっとメールか電話をかけてきて私が応答しないから、GPSか何かでスマホの場所を確認したんだろう。この人はそういうところがある。
で、スマホは寮にあるのに私がどこにもいないから、グリムを買収したに違いない。
確かにグリムに口止めはしなかったけど、適当に誤魔化してくれればいいのに、と思うのは私の身勝手だ。口にしなかったのだから、仕方がない。
帰ったら改めて口止めしなくちゃなぁと思いつつ、無遠慮に隣までやってきた先輩から顔を逸らして前を向く。目の前に広がる海と空は、嫌味なほどに青かった。まるで、先輩の瞳みたいに。
「お隣、失礼しても?」
「嫌だと云ったら帰ってくれますか?」
「嫌です」
云うと思った。
が、私だって引く気はない。
問答無用で先輩が隣に腰を下ろしたのを横目に見つつ、顔は海から逸らさずに云った。
「私、今は一人になりたいんです」
「そうですか」
「先輩が嫌だとかじゃなくて、そういう気分と云いますか」
「そうですか」
「話、聞いてます?」
「聞いていますよ」
「なら、」
「聞いた上で、嫌だと云っています」
その声があまりにも真剣だったから、私は思わず先輩の方に顔を向けてしまった。
声と同じように真剣な視線に捕まって、ああ、負けた、と思った私に、先輩は続けた。
「あなたを一人にしたくありません」
私は咄嗟に息を飲み、体当たりするように先輩の肩に頭を押し付けた。
華奢なように見えて意外と筋肉ダルマな先輩は、私の頭突き如きじゃびくともしない。
人の気も知らないくせに、先輩は勝手だ。
ちくしょう、と心の中で口汚く零し、現実にはもう少しましな言葉を吐きだす。
「……我が儘」
「どっちがですか」
まるで私が我が儘だとでも云いたそうな、呆れた口調の先輩に、噴き出した。
確かに、私の方が我が儘だ。
我が儘ついでに、もうひとつ我が儘を云ってしまおうか。
「じゃあ、私の云いなりになってください」
「要求にもよりますが、いいでしょう」
それは果たして云いなりというのだろうか。
若干の疑問は残るけれど、先輩がいいというのだからこっちも都合よく解釈させてもらおう。私の時間を邪魔した罰だ。
「私がもういいって云うまで、抱き締めて」
「喜んで」
云うや否や、私は先輩の足の間に座らされ、後ろから抱き締められていた。魔法だろうか。いやこんなくだらないことで魔法なんて使わないでほしい。
「前からがよかったんですけど」
「座ったまま正面から抱き締めるのは至難の業ですよ」
「まぁ、そうか」
確かにそうだ。せめてソファに座っていれば横抱きのような形で抱き着けたんだろうけど、残念ながらここは外。固い土の上にレジャーシートを敷いているだけで背もたれも何もないのだ。
ならば仕方ない。
私はアーシェングロット先輩をソファのようにして背を預け、私のお腹に回っていた先輩の手に自分の手を重ねた。
「これでご満足いただけますか?」
「しょうがないから、妥協します」
本当は私は一人になりたかったのに、先輩が私を一人にさせたくないと我が儘を云うから仕方ない。
私は鬼ではないから、我が儘な先輩の我が儘を聞いてあげようと思う。私、優しいので。
それからどれほど時間が経ったのかはわからない。何せ私はスマホも時計も持ってこなかったから。
ただ、先輩のスマホが何度か鳴ったのは気付いていた。先輩が、それを取ろうとしないのも。
空がオレンジ色から藍色に染まり始めたということは、きっともういい時間なのだろう。
どうやら先輩は律儀に私の言葉を守ってくれようとしているらしい。
なんて可愛らしい人なのだろう。
私は、この人のこういうところに気付いたとき、たまらなくなる。思いっきり抱き締めてキスをしてあげたくなってしまう。
けれど、今はまず、先輩を解放してあげなければ。
先輩は、私だけの先輩ではないのだから。
「先輩、そろそろラウンジに行かなくちゃいけませんよね」
「……今日は休みます」
「駄目ですよ、私がジェイド先輩とフロイド先輩に怒られてしまいます」
「でも」
私を一人にしたくない、と先輩は云うのだろう。
先輩が仕事に行ってしまったら、また私が一人になってしまうと先輩は思っているのだ。
もう、本当にこの人は優しい。
優しくて可愛らしくて、今の私にはほんの少し胸が痛い。
あなたの温かい腕に抱き締められながら、だって私は元の世界を想っていた。
帰るために、忘れないために。
それを裏切りだと、あなたは云うだろうか。
考えて、小さく息を吐く。
いいや、云わない。
きっと悲しい顔をして、そのあとこの人は笑うだろう。困ったように、寂しそうに。
そういう人だ、アーシェングロット先輩は。
私は決して自信過剰だとは思っていない。
それなりに弁えていると自負している。
それでも、先輩が私に並々ならない好意をもってくれていることくらいは、わかる。
手を繋いで、抱き締められて、キスをして、触れた場所から先輩の愛情が流れ込んでくるような気がして、私は胸がいっぱいになるのだ。
私はそれが嬉しくて幸せで、満たされる。
だけど。
……だけど。
一度大きく息を吸い込んで、その息をゆっくりと吐き出す。
そうして、ぽんぽん、と私を離そうとしない先輩の腕を撫でて云う。
「今日は、グリムと一緒にラウンジに食事に行きます」
「え」
「帰りは、待ってますから。送ってください」
だから、今はもういいですよ、と。
先輩の首元にすり寄るようにして云うと、先輩は一瞬ガチッと固まった。けれどそれは一瞬のことで、すぐに私をぎゅっと抱き込むようにして抱き締めた。
そうして、観念したようにゆっくりと体を起こして云う。
「特別メニューを用意してお待ちしていますよ」
「いや、普通でいいですから」
あんまり高いと困るし。
ぼそっと零すと、それくらいご馳走しますよ、と拗ねたように先輩は云った。
その様子が可愛くて思わず噴き出した瞬間、先輩のケータイがけたたましい音を立てる。おそらく、痺れを切らしたラウンジからの連絡だろう。そろそろ本当に戻らないと、フロイド先輩あたりが暴れてしまうかもしれない。それはよくないはずだ。
スマホを確認して大きなため息を吐いたアーシェングロット先輩は、しぶしぶと立ち上がる。
さっきまで先輩と密着していた背中が急に寒くなり、ぶるりと身体が震えた。
クルーウェル先生にもらったブランケットは優秀で、サイズもさることながらものすごく温かい。失った温もりの代わりにマントのようにそれを身体に巻き付けていると。
「監督生さん」
呼ばれる。
振り返れば、アーシェングロット先輩の顔がすぐそこで、私はそっと目を閉じた。
もう何度目か数えるのはやめてしまった、キス。
触れるだけ、押し付けるだけ。
子供みたいに拙い、世界で一番優しい口づけ。
「ではまた、後程」
そう云って先輩は優しく微笑み、ラウンジに向かうべくこの場をあとにした。
先輩の姿が見えなくなるまで見送った私は、そのままべしゃりとレジャーシートの上に寝転がった。
一人の時間を邪魔されたのはちょっと腹立たしいけれど、もうさっきので全部帳消しだ。
優しい温もりの余韻を確かめるように唇にそっと触れると、じわりと胸にこみ上げてくるものがある。
私はこの感情の名前を知っていて、だけど気付かないふりをした。
自覚はしている。
でも、口にしていなければ現実にはならない。
だって私は、『恋』なんて、してはいけないのだ。
だって私は、いつか元の世界に――帰るのだから。
監督生
いつか絶対帰る。公言もしているしその意志は揺らがない。アズールに対する気持ちとこれは別問題
アズールのキスが優しいので好きだけど、思春期男子としてそれでいいのか、とは思っている。陸二年目なのでそこまで知識はないのかな……?
アズール
監督生が帰りたがっていることはもちろん知っているし協力も惜しまないけれど、帰ってほしいとは微塵も思っていない。本心では帰らないでほしいしずっと傍にいてほしい。でも云わない
とりあえず今のところ、キスは許されているので満足