クルーウェル先生に魔法薬学の補習をしてもらっていたら、遅い時間になってしまった。
植物園で薬草を使いながらの補習は実に有意義だった。普段授業中には訊けないようなことまで教えてもらえたし、随分頭に入ったと思う。
どうもクルーウェル先生も興が乗ってしまったようで、放課後の17時から一時間だけの予定が気付けば20時をまわっていた。はしゃぎすぎたと冷静になって二人で反省した。
本当は片付けまで手伝うと云ったのだけれど、一応公表されていないとはいえ私が女子だと知っているクルーウェル先生は、これ以上遅くまで拘束する気はないと云ってさっさと私を植物園から追い出してしまった。酷い。
まぁ確かにあんまり遅くなるとグリムも心配するかと思い、お言葉に甘えてお先に失礼することにした。次の試験は絶対に先生の期待に応える成績を残すのが、きっと先生に対する最大のお礼になる。
昼間は気付かなかったけれど、植物園から寮への道のりはなかなか暗い。夜に出歩くことを想定していないから、あまり外灯がないのだ。
とはいえ賢者の島は星がよく見えるし、今日のように天気が良ければ月明かりだけでも十分明るい。寮近くまで行けば外灯も少しはあるから、転ばない程度に早足で帰路を辿った。
そうして、もうすぐ図書館が見えてくる場所に差し掛かったところで、何かがこちらに飛んでくることに気付いた。
自慢じゃないが反射神経は良い方だ。その飛んできた何かを一歩横にずれてやり過ごすと、なんとそれは人だった。普通人は飛ばない。いや、この世界ならば飛べる人もいるのかもしれないけれど、そういうことじゃない。
どういうことかと考えていると、ザリ、と図書館の方からこちらに向かってくる足音が聞こえた。
薄暗い月明かりの中、少し目を細めて誰かと見極めようとして、顔を確認する前に息を吐く。
特徴的な人が多いこのナイトレイブンカレッジでも、同じような特徴を持つ二人が揃うとなると、もうこれだけで答え合わせのようなものだ。
「……こんばんは」
「おや、こんばんは監督生さん」
「やっほぉ小エビちゃん、こんな時間に何してんのぉ?」
それはこっちのセリフだ。
やはり現れたのはジェイド先輩とフロイド先輩だった。
もはや見慣れた寮服を上品に着こなし、笑顔で私に挨拶を返してくれる人たち。
足元に転がっている人には特に触れず、クルーウェル先生に魔法薬学の補習をしてもらっていたと伝えると、うわぁマジメ、とフロイド先輩は嫌そうな顔をした。私の場合は真面目と云うよりも、やらないと追い付けないから必死なだけなのだけど。まぁ、勉強は嫌いじゃないのでそういう意味では真面目かもしれない。
ゲホッと咽た様子の足元にちらりと目をやると、ボロ雑巾みたいになっていた人が苦しそうに呻いていた。単純に、この二人にやられた以外の答えは出てこなかった。
気の毒だとは思うけれど、どうせこの人が何かやらかしたに違いない。同情する気は起きなかった。代わりに、先輩たちには労いの言葉をかける。
「お仕事お疲れさまです」
ラウンジの仕事もあるのに、こんな時間まで『お話し』とは恐れ入る。
私もたいがいこき使われている方だと思うけれど、実際のところはジェイド先輩とフロイド先輩との方が忙しく動き回っているかもしれない。何せ私はラウンジでの仕事ばかりで、こういった『お話し』業務にはかかわっていないので。
そう考えるとまだマシなのかと一瞬考え、いやそれにしてもシフトの埋め方は尋常じゃないし、働き始めたばかりなのにやたらと事務作業もさせられるし、アーシェングロット先輩の次に頭を使うことをさせられているのだから十分ブラックだと考え直す。
給料が高くて賄いがあるおかげで割と裕福な生活を送れるようになったのはありがたいけれど、それにしても女子高校生の労働量じゃないと思う。この世界にも労基はあるのだろうか。
そんなことを考えながらボロ雑巾を眺めていると、不意にボロ雑巾が転がった。長い脚で蹴り飛ばされていたのが私の視界には入っていた。
追い打ちか、とぼんやりしていたら、ふと目の前が暗くなる。
ブラックアウトしたわけではない。
目の前に誰かが立ったおかげで、月明かりが遮られたのだ。この場で元気なのは私たち三人だけだから、必然的にジェイド先輩かフロイド先輩ということになる。
2m弱も身長のある人が目の前に立つと、さながら壁だ。
一体どうしたのかと思って顔を上げると、思いのほか近くに立たれたせいで、ほぼ真上を見る形になって首が悲鳴を上げる。
距離感バグはいつものことでも、なんだか妙な気配がして口を開こうとしたのは、先に言葉を発したフロイド先輩に遮られた。
「小エビちゃん、オレらが怖くねーの?」
フロイド先輩の目はとても冷たかった。
いつものへらへらした笑顔を浮かべたままなのに、その視線の冷たさと云ったら。
もしも視線に温度があるのなら氷点下間違いなしだし、武器になったらあっさり殺されてしまいそうだ。
普通は、恐ろしいのだと思う。
いや、多分、恐ろしいのだ。
フロイド先輩の隣で静かな笑みを浮かべているジェイド先輩も、きっと恐ろしい。
感情が読み取れなくて、ただ冷たい視線だけが注がれるというのは背筋が凍る思いだ。
――ああ、けれど。
私は知っている。
何の因果かよく行動を共にするようになり、おそらく現状この世界では最も親しい部類に入る関係になってしまった人たち。
平和的とは口が裂けてもいえないし、この通り平気で暴力だって揮うけれど、それが自分に向いたことは一度もない。
優しさとも違うだろう。
彼らにしてきっと気まぐれで、ほんの少しだけ懐に入れてもいいと思われているだけ。
飽きれば今転がっているボロ雑巾のように扱われる可能性だってゼロではない。
だけど、少なくとも今は。
――私にとっては、彼らが温かな存在であることは変わらない。
ちょっと誰かをボロ雑巾にした程度では、この暖かさは失われないのだ。
なので、少しだけ皮肉気に口元を歪め、目を眇めて答える。
「怖がった方がいいですか?」
「質問に質問で返すのはマナー違反ですよ」
「……あなた方にマナーについて云われるとちょっとショックです」
割と本気でショックだったので、傷付いたようにクスンクスンと泣き真似をしてみると、一度顔を見合わせた二人は、ややあって揃って噴き出した。
失礼な。乙女の涙を笑うなんて万死に値する。
本気で泣いてやろうかと思ったのに、なんだか私までおかしくなってきてしまった。
思わず噴き出すと、大きく伸びをしたフロイド先輩がへらりと笑った。いつもの笑顔だった。
「オレさぁ、小エビちゃんのそーゆーとこ超好き」
「照れますね」
「でしたらもう少し頬を染めて視線を下げていただいて。その写真、高く売れると思うんですよ」
「訴えますよ」
「勝てるとお思いで?」
勝ちたい。でも多分勝てない。
この人たちならばあらゆる手を尽くして自分たちの勝利が確信した勝負しか挑まないのはよくわかる。
厄介な人たちと親しくなってしまったなぁと改めて思った。
と、その時だった。
朗らかな雰囲気をぶち壊すような、思い切り肩を掴まれ引かれる感覚。
すぐに拘束するように首に腕が回り、背中と首回りには不愉快なほどの体温を感じた。
いつの間にか起き上がっていたボロ雑巾が、まるで強盗がやるように私を人質にしたらしい。
ずりずりとそのまま後ずさって先輩たちから距離を取るから、首が締まって少し苦しい。
「おい、こっちに来るなよ!! こいつがどうなっても知らねーぞ!!」
「あら」
「おや」
「うわぁ」
てっきりもう立ち上がる気力もないだろうと思って捨て置いていたのだけれど、なかなかどうして骨がある。獣人族のようだったから、無駄に体力はあったのかもしれない。
面倒なことになったな、と思いながら先輩たちを見ると、ジェイド先輩はものすごく胡散臭いながらも心配そうに眉を下げ、フロイド先輩はドン引きしたように獣人族を見ていた。
助けてくれる気はあるんだろうか。
あると信じたい。
一部の人しか知らないけれど私は女だ。そして先輩たちはその一部の人で、私が女だと知っている。
普通女の子がこんな目に遭っていたら迷わず助けるのが男の子だと思いたい。希望的観測。
ああだけど、この人たち、普通じゃなかった。
自力で何とかできないこともないけれど、助けてもらえるのならそれに越したことはないんじゃないだろうか。
とはいえ獣人族に本気で力を籠められたら私程度はひとたまりもないし、どうしたものか。
やっぱり最後は自分の力で何とかするしかないかもしれない。億劫だ。
しかし、念のため確認しておかなければならないことが一つあった。いくら反撃がやぶさかではないとはいえ、安易に暴力に走るのは良心に訴えられるものがある。私、優しいので。
なので、困った困ったと空々しく呟く二人に向かって私は口を開いた。
「先輩方、一応確認させてください。この方、悪い人ですか?」
すると二人は、当然だと首肯。
「もちろん。そうでなければ僕たちが『お話し』にくる必要なんてありませんでしたよ」
「そぉそぉ。契約違反は悪いことじゃ~ん?」
「なるほど」
「う、うるせぇ! 何が契約違反だ、こんな取り立ては聞いてない!!」
あまり耳元で騒がないでほしい。頭が痛くなる。
それからボロ雑巾だった人は、いかに自分が不当な取引をさせられたか悲劇的に訴えた。聞いてもないのにご苦労なことだ。多分、そうでもしないとやっていられなかったのだろうけれど、私を巻き込まないでほしかった。
どうでもよすぎて無表情を通り越した無の感情で辛抱強く話を聞いた結果、彼の主観を除いてまとめると、こうだ。
次の補習試験で赤点を取ると留年が決定するとかで、それだけは避けたい彼はアーシェングロット先輩を頼った。ところがアーシェングロット先輩力作の虎の巻で試験対策をしたのに結果は赤点。彼の留年が決定したという。
先輩との契約での対価は、彼の出身国である輝石の国産の希少な宝石だったそうだ。とはいえそこまで高価なものではなく、金額的には高校生のお小遣いでも買えるけれど、数が少ないのであまり市場に出回らなく入手が非常に困難な代物らしい。
本来ならば結果に関係なく虎の巻を渡した時点で彼は先輩にその宝石を渡す契約だったのに、試験勉強の忙しさを理由に彼は支払いを拒んで逃げた。先輩は、ならば試験終了後に必ず、と海の魔女の如き慈悲深さで支払いを待ったのだけれど、いざ試験が終わり結果が出て自分が留年決定すると、今度は虎の巻は役に立たなかったので契約は無効だと主張を始めた。
しかし契約書には『試験の結果に関係なく』としっかり記載されている以上、先輩は対価を払ってもらう権利がある。
仕方がないので忙しいアーシェングロット先輩に代わってジェイド先輩とフロイド先輩が『お話し』に来て問い詰めたところ、実は最初から彼は件の宝石など持っておらず、手に入れる伝手も何もないとのこと。
ないものはないのだから諦めろ、というのがこの人の主張。
これは困った、というわけで『お話し』が白熱して現在に至るということだった。
なるほど、と頷く。
私は確かにオクタヴィネルの方々と親しいかもしれないが、肩入れするつもりは毛頭ない。彼らに非があると思えば遠慮なくそう云うし、その権利が私にはある。
つまり、彼の言い分を聞かされて、納得出来れば仲介役を買って出てやってもいいかと思っていた。
本心だ。
私はアーシェングロット先輩やジェイド先輩と違って、思ってもないことは口に出さないタイプである。
その上で出した結論は。
「では遠慮はしません」
「何っ、ぅぐッ!?」
「失礼、不愉快だったもので」
とりあえず、鳩尾めがけて肘鉄を食らわせておいた。
まさか私が反撃するとは思っていなかったらしいその人は、突然の肘鉄に驚いて私から腕を離した。
本当はそのまま先輩方の方に逃げてしまえばよかったのかもしれないけれど、早く帰りたいのにどうでもいい話を延々と聞かされ、背中と首周りに不快な体温を感じさせたことへのお礼をしないと気が済まなかった。
引っ込められた腕を逆に掴み、関節を軸に捻りあげる。同時に素早く膝の裏を蹴り体勢を崩させたところで、グルリと回して頭から地面に叩きつけた。一瞬の出来事である。
ズンッ、と巨体が地面に落ちる音がして、私は短く息を吐く。
ついでにうっかり急所に入れてしまったので、彼は軽い脳震盪を起こしているはずだ。
感心したように拍手をしながらこちらにやってきたフロイド先輩は、伸びた男と私を交互に見て、何故か目をキラキラと少年のように輝かせた。
「え、何なに小エビちゃん、何したの?」
「投げました」
「そりゃ見たらわかるけどぉ」
「……彼は獣人族のなかでも結構大柄な方でしたが、もしや監督生さんって力持ちだったりしますか?」
「違いますよ。ただ、コツがあるんです」
乱れてしまった制服のラベルをピッと整え、埃を掃う。こういうとき、制服がスカートではなくスラックスでよかったと思う。さすがに私だって、スカートでこんなことはしない。
ちなみに私は武道の心得がある。幼い頃から妙に人に絡まれることが多かったので、見かねた兄が勧めてくれたのだ。とはいえ、武術を極めるのが目的ではなく、護身が目的だったので基礎的なことを覚えたらすぐにやめてしまったのだけれど。
しかしおかげである程度のことならば自分一人で対処できるし、体格差を考えた手も覚えたので大男相手でも怯むことは少ない。
加えて、今日の場合はこの人が油断していたからあっけなかったというのもある。
ぽかんとしたまま地面に転がり、いまいち状況が把握できていない獣人族を見下ろす。
多分、今の私の表情はとても冷たい。軽蔑しているのを隠していないから当然だ。
ひゅ、と彼が息を飲んだのを見て、云う。
「ズルをしたくてアーシェングロット先輩に縋って契約して、ズルしても結局結果を残せなくて、だけど負債を払いたくなくて逃げてジェイド先輩とフロイド先輩に追い詰められて、その上人質に出来そうだと見込んだ私にも負けて……みっともないですね」
何かに縋ることを悪いことだとは思わない。
自力でどうにかできないことは生きていればたくさんあって、もしも縋る手段が身近にあるのなら、それを頼るのは一つの選択だ。
ただし、選ぶのは自分。
縋るのも、縋らないのも、諦めるのも、他に手立てはないかと足掻くのも、自分自身が決めること。
彼はアーシェングロット先輩に頼ることを選んだのに、望んだ結果が手に入らなかったという自己中心的な考えで契約を反故にしようとした。
ならば制裁は受けて然るべきだと私は思う。そこに同情の余地はない。
ついでに、というか実際こっちが本命で、背後から密着されて本当に不愉快で気持ち悪かったから一回くらいブン回してやらないと気が済まなかった。むしろこれで済ませたことを感謝してほしい。
コツを教えてほしいとはしゃぐ二人をまた今度と適当に流し、私はいつの間にか落としてしまっていたノートと教科書を回収して振り返る。
「この人、しばらくは動けないと思いますから、あとはお任せします」
「え、マジ? まじで小エビちゃん何したの?」
「フロイド先輩に教えたら死人が出そうなので教えません」
「え~何それぇ!」
「ありがとうございます、寝かせる手間が省けました」
「じゃあ私はこれで。あ、フロイド先輩は明日一限錬金術ですよね。私も一緒ですから、遅れないようにお願いしますね」
「うげ~、小エビちゃん起こしに来てよぉ」
「面倒なので嫌です。では、おやすみなさい」
不満げなフロイド先輩を諫めるジェイド先輩の声を聞きながら、私は今度こそ寮に帰るために足を進めた。
気付けばもう21時。随分足止めされたものだ。
もう今日はさっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。
シャワーから上がり明日の準備も済ませ、すっかり寝る準備を整えてベッドに入ると、スマホに新着メッセージが来ていることに気付いた。
ちなみにこのスマホはアーシェングロット先輩がくれたもので、連絡先を交換しているのはオクタヴィネルの三人だけ。
何だろうと思ってメッセージを開いて、思わず私は笑ってしまった。
『送信元:フロイド先輩
お話し終了☆』
そうして添付されていたのは一枚の写真。
ベンチに脚を組んで座るジェイド先輩に土下座をする獣人族と、それをバックにものすごい良い笑顔で自撮りをするフロイド先輩だった。
すでに寝入っているグリムを起こさないよう笑いを押し殺しながら、ぽちぽちと返信する。
『額に入れて彼のご実家に送りつけてやりたいですね。お疲れさまでした』