かこが明晰夢として魔法使いの小説の世界にやってきてから二週間が経った。毎晩眠る前に、実家の夏目書店の二階の自室で目を覚ましますように、と祈ってはいるのだけれど未だに効果は現れていない。
仕方なく日中は本の中の住人として振る舞う。ところがこれがとても面白い。呪文学では多様な魔法(それもとてもファンタジーなもの)を学べたし、図書館に行けば摩訶不思議な本が陳列されている。荒唐無稽な理論が堂々と紹介されていて、かこは目眩で一度医務室のお世話になったほどだ。
図書館の本といえば英語にギリシャ語、ラテン語が主だった言語で、なぜかかこはこれらを無意識に読むことができた。しかしルーン文字は読むことができなかった。
不思議なことといえばまだまだある。かこは二年生としてやってきたわけだが、どうも同級生たちは一年生から一緒にいたという認識らしい。かこが本に夢中になって授業をすっぽかした話を延々とイジられるだけれど、本人は全く身に覚えのないことなので密かに憤慨している。
本の中の世界はゆるやかに物語を進めているようで、ロナルド・ウィーズリーは吼えメールで散々な目にあったようだし、スリザリンは金の力で最新式の箒を揃えたとチョウが唾を飛ばして猛烈に批判していた。
そして面白いことに、古本市で購入したシリーズ本は、闇の魔術の防衛学の教科書だったのだ。てっきりスピンオフ作品か何かだと思っていたかこには驚きだった。つまり、この世界と現実の世界は何らかの形で繋がりがある。たとえば、鏡の中の世界のように。
かこは頼もしい仲間や最近できたお花好きの友人たちを思い浮かべた。ななかさんならどうにかして助けにきてくれる気がする。
そう思うと、まずはこの物語を乗り切らなければならないことにかこは気づいた。かこが読んだ巻では生徒たちが次々と石にされる事件が起こる。シリーズ作品ということだから、きっと他にも事件は起こるのだろう。
それに、継承者の部屋で明らかになったヴォルデモートという悪の魔法使いと主人公ハリー・ポッターの因縁を思えば、きっとシリーズ通しての主題は二人の間で起こるのだ。そしてかこがこれまでに読んできた新聞のバックナンバーや文献から推察するに、自分の身を守ることさえ難しい展開が予想できて、かこは身を震わせて図書館の机に突っ伏した。
(おかしい。私が思い描いていた本の世界の冒険は、もっと明るくて主人公として和気藹々と仲間と過ごすはずだったのに……)
ところが現実は消えた大量殺人犯の影に怯えている。唯一の救いは、かこが読んだ二作目がハッピーエンドで終わっていたことで、全体としては勧善懲悪の物語だと考えられることだ。ハリー・ポッターの仲間たちがどれほど無事でエンディングを迎えられるかは……英国文学という点でかこはあまり期待しないことにした。
「ここ、いいかしら?」
乱雑に本を積み上げたかこの周囲はいつも人が少ない。がり勉のレイブンクロー生とはそういうものなのだが、今日は例外の日だったらしい。
「どうぞ。この本の山に探し物があるのなら持って行ってくださって結構ですよ」
かこは散らばった本やスクロールを一カ所に集めて、初めて相手の顔を見た。アジア人……いや、日本人だ。髪色はきれいなクリーム色だが、造形は間違いなく同郷の人のものだった。ネクタイの色は燃えるような赤色のグリフィンドールを示している。
「いいえ。私はあなたに会いに来たの」
柔和な笑みを浮かべている一方で、目だけは鋭くかこを観察している。金糸雀色の瞳を見つめてみたが、かこは彼女の意図を読み切れなかった。一拍ほど置いて会話に推移する。
「それは同じ日本人だからでしょうか?」
「もちろんそれも大きな要素だわ。ほとんど確証はあったけど、ここ最近のあなたの図書館通いでそれは確信となった」
ずっと見張られていたということに、かこはぎょっとした。そんなことをする必要がある人物とは誰なのか。かこはしばし逡巡して尋ねた。
「つまり、あなたも私と同じ本の外の人間なんですね」
「……随分頭の回転がいいのね。そう、私は去年からここに囚われている。そして突然同級生としてあなたは現れた。用心しても不思議じゃないでしょう?」
彼女の視点では、かこは突然物語に現れたあり得ざるに登場人物ということになる。もっとも、物語にとっては二人とも場違いだろう。
「あなたが手にした本のタイトルは何でしょう? 私は『ハリー・ポッターと秘密の部屋』です」
「『ハリー・ポッターと賢者の石』よ。なるほどね。つまりこのシリーズはハリーと何かという組み合わせで名付けられているというわけね」
賢者の石と聞いて、かこは様々な小説に登場する霊薬を思い浮かべた。友人が話してくれたゲームの中にも登場していたはずだ。金を抽出する媒体や不老不死を得られる素材として古今東西の化学の歴史に現れることも知っていた。
「この物語には賢者の石が存在するんですね。それもタイトルに用いられるほどのキーアイテムとして」
「ええ。でも昨年に失われてしまったわ。悪用されるのを防ぐためにね」
彼女の言葉を聞いて、かこはおや、と思った。
「ヴォルデモートが現実的に敵として現れたんですね」
「――ッ!? あなた、どうしてそれを!?」
かこが読んだ『ハリー・ポッターと秘密の部屋』には、かつて主人公と対峙したヴォルデモートは登場しない。その旧臣が敵対的な行動を取ったに過ぎないので、第一巻と思われる『ハリー・ポッターと賢者の石』もまた同様のケースも考えられる。しかし、読書を愛するかこにはシリーズ一作目でその展開には違和感があった。
「簡単な推察です。メタ的な視点ですが、きっと物語として主人公は自分の敵を自覚させられる何かに遭遇しただろう。そして全盛期の力を持ったヴォルデモートではありえない。……命令を託された部下やヴォルデモートそのものの残滓のような弱い存在。少なくとも宿敵そのものを強く意識させる存在が賢者の石を狙い、結果として失われることになった。いかがですか?」
小説は必ず起承転結で構成される。そしてシリーズ作品はそれそのものも起承転結で表すことができる。かこは『賢者の石』を起、『秘密の部屋』を承だと考えている。全部で何作あるのか不明だが、最低でも二冊。あるいは承の話がしばらく続くだろう。
相対している少女は、当初強く覗かせていた警戒心を忘れて驚きで満ちていた。杖にかけていた指先も、いつの間にか離れて、かこの推理に矛盾がないかを考えるためにこめかみに添えられていた。
「もうダメ。降参。あなたの洞察力には敵わないわ」
「いえ、私はただの本の虫なだけです」
「それでも、一年間ここで過ごした優位性が意味をなさなかったもの。最後は呪文に頼るだけだけど、ここでそんなことをしたらミセス・ピンスに殺されてしまうわ」
司書席で目を光らせている魔女は、本を乱雑に扱うものを厳しく罰し、図書館の秩序、言い換えれば彼女の法を破れば酷い目に遭うというのがホグワーツ生の常識だ。幸いかこも同好の士なので彼女にとっては安全圏にいる生徒である。
「しかし困りました。物語を追体験すれば終わりだと思っていたのに、まさか続きがあるとは……」
「ええ。それは私も同感。だからあなたに接触したのよ。一緒にこの物語から抜け出すパートナーになってもらえそうか見極めるために」
「そうでしたか。それで、結果はいかがですか?」
「大当たりよ。思慮深くて冷静なあなたとなら、きっと上手くやっていけると思うの」
グリフィンドールの彼女は、右手を差し出した。
「私は巴マミ。美滝原市に住んでいる中学生。今はグリフィンドールの二年生よ」
「夏目かこです。神浜市在住で、私も中学生です。今はレイブンクローの二年生です」
かこが神浜と口にしたとき、マミはわずかに眉をひそめた。美滝原といえば大規模な近代都市で有名だが、神浜は再開発が行われたがただの古い町だ。かこにとっては最近外部から魔法少女がやってくることが増えたくらいしか目立った話題はない。
「実は私が手に入れた本は神浜市で入手したものなの。そして私の最後の記憶は、神浜市のホテルでそれを読んだこと……」
「この物語をばら撒いている人物は神浜市で活動しているという可能性がありますね」
「ええ。なんにせよ、こんな魔法のような本があるなんて……他の誰かが巻き込まれてしまう前に、早く脱出して回収したいわ」
「回収?」
かこは驚いた。この物語の中では魔法使いとしていくつかの呪文を使えるが、現実では違う。様々な書店や露天を巡るとなると相当根気がいる作業だ。マミは相当正義感の強い人なのだろうか。あるいは権力や財力など
「ええ。実は私、去年トロールと戦ったの。ここには危険な生物や魔法使いがいる。だからこんなことに巻き込まれる人は出来るだけ出したくないわ」
マミはとてもグリフィンドールらしい人だ。勇敢で自ら進んで力を行使することを躊躇わない。
「そうですね。では、今年の物語の説明をしますので、その上で対策を立てましょう」
あらすじを説明していくにつれて、マミは顔を強張らせていった。一年生のときに被害に遭ったのが自らと友人、クィレルとついでにスネイプだけだったのに比べると二年生では随分と多い。特に友人の一人であるハーマイオニー・グレンジャーが石化する予定にあるのはなんとしても防がなければならない出来事だ。
また、致死性の攻撃を持つバジリスクという巨蛇や記憶を封じる魔法など、魔法の世界は底知れない(昨年ドラゴンを見たときは興奮のあまり眠れなくなったし、バジリスクという空想の生物は知っていたが)可能性を未だ秘めている。
「私達にはいくつかのアドバンテージと不安要素があります」
「アドバンテージ……というのは敵の正体や未来を知っていることね」
「はい。それによって突発的な出来事を前後させたり、悪しき出来事を防げます。しかし一方で来年以降の小説の描写との乖離を生んでしまうかもしれません。特にそれが重要な伏線だった場合、致命的になることもありえます」
マミは昨年大立回りを演じたことを思い出して、さっと青くなった。
ドラゴンの隠匿での罰則ではハリー・ポッターに同行して、安全に避難するために反撃を行った。また、賢者の石を巡る学年末の攻防では彼を四階の廊下に行かせないために失神呪文を放っている。結局ハーマイオニー・グレンジャーの呪文で石にされて物語どおりにことは運んだ。
すべて『ハリー・ポッターと賢者の石』を無事に終え、あわよくばより良い結果を掴もうという考えからの行動である。
「主人公ハリー・ポッターはパーセルタングによってバジリスクの犯行現場にいち早く駆けつけてしまいます。これによって彼は容疑者の扱いを受けますが……これは防ぐべきでしょうか?」
かこが提案したのは物語を通してハリー・ポッターが劣悪な環境に置かれることの是非である。子供の成長過程に強いストレスがかかることは良い環境とは思えなかったからだ。
しかし、後にこの経験が逆境に強くなる伏線になる可能性は否めない。
「私は……そんな扱いは間違っていると思うわ。ホグワーツの生徒は噂に流されやすすぎる。去年もそうだったもの」
マミの心は怒りと憂いを帯びていた。しかし理性がそれを押し留めている。
「それでも、ハリーがパーセルマウスであることを自覚する必要はあるのよね? それが最終局面のキーになるか」
「はい。秘密の部屋での経験は彼にとって重要だと思います。もっとも一対一である必要はないと思いますが」
「それはよかった。二年続けて指を加えているだけだなんてごめんよ」
さて、二人の密談はいよいよ佳境に入る。最も重要なのは二人がバジリスクの標的にならないこと。そしてハリー・ポッターを犯行現場から遠ざけること。続いてパーセルマウスであることの自覚を持たせること。嘆きのマートルのいるトイレを意識させるためにポリジュース薬の制作は邪魔しないこと。最後の戦いでハリー・ポッターを掩護すること。
「そのためには魔法の腕を磨く必要があるわね」
「はい。来年以降のことを考えると少しでも戦う術を学ぶ必要があります」
マミはぎょっとして、思わず隣に座るかこの横顔を覗き見た。本の山から呪文学と闇の魔法に対する防衛術の本を抜き出して、ページを手早く捲る様や目つきは真剣そのものだった。
「あなた……可愛い顔をしてるのにずいぶん好戦的なのね」
「それは……時には力に訴える必要性を知っているだけです。弱ければあっけなく失われるものもあります。……それだけですよ」
遠くを見るかこを見て、マミも自身の過去を振り返った。たしかに彼女の言う通りだ。それに噂の神浜市に住んでいるというのなら、何らかの悲劇に遭遇していてもおかしくはない。
そのとき、かこたちの視界の端でマダム・ピンスが動いた。さすがにおしゃべりが過ぎたのだろう。
「それじゃあ休日のうち半日を魔法習得の時間にあてましょう。マクゴナガル先生に相談して教室を用意してもらうわ」
「わかりました。私は利便性の高い魔法と実践に使える防衛術をピックアップしておきます」
二人は同時に席を立ってその場を離れた。
かこは本を一冊ずつ棚に戻しながらマミのことを考えた。正義感が強く、実にグリフィンドールらしい少女だ。そして見滝ヶ原という近隣の市から本の世界に囚われた。最も重要なのはこの点だ。きっと来年も誰かが訪れる。その人物次第でこの現象の大きなヒントが得られるかもしれない。
かこは約束した魔法が載っている本を貸し出して、思考を巡らせながら天文台へと歩み始めた。