ホグワーツに来て――つまり、この物語の世界にやってきてひと月が経った。気温も下がりはじめ、雨が降ることも多くなってきたせいか、校内では風邪が流行っている。
もちろんかこはこのシーズンにそうなることは事前に知っていたので、手洗いやうがいを心がけていたし、防水の魔法も修得済みである。しかし主にクィデッチ選手はずぶ濡れになって練習をするものだから体調を崩しやすく、熱狂的なファン――ハッフルパフの爽やかな好青年が一番多い――が流行源になっているようだった。
友人のチョウもクィデッチ選手だが、流石にシャワーを浴びて身体を温めて帰ってくるのは流石レイヴンクロー生だと、既に愛寮精神も芽生えつつある。
そんなある日のことだった。
「ねえ、夏目さん。あなたは
週に数回行っている空き教室での魔法の練習の際に、マミはそう切り出した。彼女はすでにハーマイオニーから誘われているのだが、今のところ返事は保留にしている。かこから悲惨なパーティーであると聞いていたからだ。美味しいカボチャパイやプディングを逃すことはマミにとって抗いがたい誘惑なのだ。
「そうですね……。私はハロウィンパーティーに参加したことがないので興味はあったのですが」
そこで言葉を止めて、あごに手をやる。
来年も必ずホグワーツにいるつもりはない。解決策を見つけだして物語から脱出する気だ。だとしたら今は物語の出来事を堪能したいのが本心だ。しかし物語の本筋はハリーたちのほうにあるわけで、事件の当事者になれば彼らとの関係性が生まれる(実はかこはハリーたちと面識がない)。
「わかりました。私も同行しましょう」
「えっ」
マミの口から漏れた音に、かこはどうしましたか? と返す。マミは取り繕ってなんでもないと答えたが、美味しいデザートとの別れにほろりと涙した。
廊下にも届くふんだんに砂糖を使ったカボチャの甘い香りに、かこは夕食の献立がカレーだった日を思い出した。種類は異なるが食欲をそそられる香りが充満しているのはワクワクするものだ。朝から男の子たちはもちろん、相部屋の女の子たちのテンションが増していた。
ところが今彼女がいるのは大広間から離れて地下牢へと向かう階段である。さっぱりワクワクしない。唯一の楽しみは物語の主人公たちと会話できることに尽きる。
「夏目さん!」
背後から声をかけられて、伸ばしかけてきた足を戻して身を翻すと、先日見知ったマミがソバージュのかかった少女と赤毛の男の子、髪をくしゃくしゃにした少年と一緒に階段を駆け寄ってくるところだった。
「こんばんは、かこ。私あなたと一度話してみたいと思ってたの。一年生のころから図書室で何度も見かけていたもの。たぶん二年生の中で一番図書室に通ってると思って。でもマダム・ピンスが煩いし、去年はちょっと慌ただしくて……」
「うそだろハーマイオニー。キミより図書室にいるやつなんて……キミ、図書室に住んでるの?」
「もう! ロン! 失礼よ!」
突然始まった掛け合いにかこは目を白黒させた。小説にはない会話だが、間違いなくハーマイオニーとロンが言いそうなことだ。おかしな表現だが、そうとしか例えられない。
「あの、私なら気にしていないので……グレンジャーさんとウィーズリーさんですよね。私、夏目かこといいます。それと……ポッターさんですね」
「あー、ウン。ハリー・ポッターだ。君のことはマミから聞いてる。すごく賢い魔女だって」
一体何を話したのだろうとマミの目を見てみたが、嬉しそうに微笑む彼女からは何も読みとることができなかった。
ハリーのいう賢いというのは、実際に昨年の学期末試験ではハーマイオニーに次ぐ二番の成績だったらしい。それも満点を超える得点を叩き出したので、これはハーマイオニーと揃って後続を大きく引き離していたそうだ。もちろん、かこにはその記憶はない。
「絶命日パーティーはどこでやってるの?」
「たしかニックが教えてくれたのは……こっちだ」
ロンとハリーが先導する形になると、自然と後ろは女の子三人が並んで歩くことになる。廊下はかなり寒く、不気味な黒い蝋燭が並んでいる。おまけに青白い炎が怖さを助長している。ゴーストの趣味なのか慣習なのかは分からないが、死を経験することで感覚が変化してしまったのだろうかとかこはいぶかしんだ。
「ゴーストって時代が進むにつれて増えていくわけですから、絶命日も増えるはずですよね。そうなるとホグワーツではどのくらいの頻度でパーティーは開かれているのでしょう」
「たぶん、一定の周期ごとにしか開かないんじゃないかしら。100年忌くらい? あるいは特別なゴーストだけが開くとか。じゃないと毎日そこらじゅうでパーティーが開かれていることになっちゃうわ」
「もしかしたらホグワーツの外で行うことの方が多いのかも。でもそうなるとゴーストの総数が増えるからもっと大変かしら」
ロンは後ろから聞こえてくる会話にゲーと吐くジェスチャーをハリーに見せた。
「なあハリー。あれが女三人がする会話? ラベンダーやパーバティーなら絶対しないよ」
「ウン。まぁそうかも。それよりこの変な音はなに?」
「知るもんか。ゴーストのことは死んでから考えよう。じゃないと時間の無駄だよ」
地下牢に着くと、黒いビロードの下に首なしニックことニコラス卿が立っていた。悲しげな表情で佇む彼は葬式に参列した人のようだ。
「ああ、ハリー。そして皆さんも着てくださったのですね。さあ、どうぞ。お入りください」
形式ばった挨拶を終えて、五人は地下牢に入った。真っ黒な装飾――ビロードやテーブルスロス、蝋燭も全て!――に例の青白い炎に包まれた空間には、数え切れないほどのゴーストがいて、思い思いに談笑したりワルツを踊っている。
時代も様々で、甲冑を着た男もいればツイードのジャケット姿の紳士もいる(ただし胸に穴が開いていて周辺は赤くそまっている)。寮付きのゴーストもいるようで、かこは太った修道女と血塗れ男爵を見つけた。
「あ、やだ。マートルだわ」
誰かを見つけたハーマイオニーが進路を変えたので、四人は慌ててついて行く。
「誰だい、それ?」
「嘆きのマートルよ。女子トイレに住み着いてるの」
「かなりの癇癪持ちで、私も何度か話しかけたけどうまく行った試しがないの」
ハーマイオニーの言葉をマミが補足する。かこは物語として存在を知っていたが、そのトイレには行ったことがなかった。
しばらくすればハリーたちはこの怖気のするパーティーから脱出をするのだが、かこは招待されているゴーストたちを一人一人眺めていた。
(レイヴンクローの寮付きゴースト。たしか灰色のレディという方だと聞いたのですが、見あたりませんね)
ホグワーツに来てから二ヶ月が経つというのに、かこは灰色のレディを見たことがなかった。ほとんどのゴーストが色褪せているので、衣装が灰色だったとしても判別がつかない。
またとない機会を逸してしまったかこの手をマミが引いた。どうやらニックがスピーチを行うところのようだった。ところが因縁の首無し狩り部たちが衆目をかっさらってしまったので、ニックはぼそぼそとみじめな挨拶をする羽目になった。
「このような悲惨な日にお集まり頂いて……」
「ソノーラス!」
「私はいたく感激しております。おお! ありがとう、レイヴンクローのお嬢さん!」
かこの拡声魔法で多少の来客の目は引けたようだ。これで彼への義理は果たしたと言えるだろう。
「あれって二年生の範囲で習う魔法じゃないわ!」
「いいから今のうちにずらかろう。がり勉トークはその後にしてくれよ」
我先に階段を目指す三人の後ろを、少し遅れてかことマミが追っていた。
「そろそろね」
「はい。これでホグワーツの注目の的になってしまうかと思うと憂鬱です。特にレイヴンクローは私一人ですから」
地下から地上階への階段も半ばまで上ったところで、急にハリーが足を止めた。視線をあちこちに彷徨わせたかと思うと、今度は壁を見つめている。
「ねえ、これなんの声?」
「声なんて聞こえないよ。それより早く大広間に行こうよ」
「でも聞こえるんだ。なにか……物騒なことを言ってる。上だ! 上に移動してる!」
ハリーが急に駆けだしたのをロンとハーマイオニーが慌てて追いかける。その後ろをかことマミがついて行く。途中何度か声の位置を探るように足を止めたり耳を澄ませていたが、ハリーは三階にたどり着くと狂ったように駆け回った。
そして彼らは水浸しの廊下にたどり着く。目前の壁には『秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ、気をつけよ』の血文字が不気味な姿勢で宙に吊るされているミセス・ノリスとともにあった。
かこはその文字が雄鳥の血であることを知ってはいたが、生臭さが壁から漂ってきてむせそうになった。しかしこれはまだ犯行から間もないことを示し、ハリーに疑いの目が向くのは仕方がないことのように思えた。
「はやくここを離れよう」
ロンが怖々と言う。しかし廊下を挟む両側からは大広間から溢れ出してきた生徒たちのざわめきが大きくなってきている。すでにこの場を離れる機を逸していた。あっという間に彼らに囲まれてしまうと、一連の光景を把握して胡乱げな視線が五人に集中する。スリザリン寮の同級生マルフォイが何かを叫んでいても、全身を突き刺す不穏な空気のトッピング程度にしか思えないくらいだ。騒ぎがあれば現れる者がホグワーツにはいる。生徒の群れをかき分けて現れた管理人のアーガス・フィルチはまずひと際目立つ五人の生徒を一瞥し、それから壁を見てはっと息を呑むと肺の中のすべての空気を解き放った。
「私の猫だ! 私の猫だ!」
悪人面にねめつけるような目がハリーを捉える。彼は真っ先にハリーを糾弾した。彼には第一発見者という以外に何か確信めいたことがあるようで、執拗にハリーにがなり立てている。もちろんかこはその理由を知っている。クイックスペル――スクイブ向けの教材――のことだ。ハリーが弁明をしている間に、教師たちが現れた。ロックハートがいつものお調子者をやっているが、すぐに猫が死んでいないことと回復の見込みがあることが明らかになり、野次馬たちは
「お前だな! お前が私の猫を殺したんだ!」
なおもフィルチは責め立てる。しかしダンブルドアはそうは思っていないようだった。
「アーガス、二年生にこんなことはできんよ」
「いや、あいつだ! あいつは……あいつは……私がスクイブだってことを知っているんだ! 私の事務所でクイックスペルからの手紙を見やがった!」
フィルチの顔は羞恥で真っ赤になっていて、スクイブという単語はようやく絞り出して放たれた。教師やロン、ハーマイオニーは特に反応を見せなかった。間違いなく誰が見てもそうだと分かることだからだ。しかしハリーにはそうではなかった。スクイブという言葉を知らないので、なぜフィルチがこれほど自分を恨んでいるのか理解できない。かことマミにとっても、スクイブは物語に出てくるワードの一つで、それがどれほど屈辱的に思うものなのかが本当には分かっていなかったので、彼の怒りように顔を引きつらせた。
「校長、一言よろしいかな」
教師たちの中で影に立っていた男が声を発した。ハリーたちはぎょっとしてそちらに目をやる。スネイプだ。最も忌み嫌っている教師が発言を求めたことに、嫌な予感で背筋がぞわりとした。
「ポッターたちは偶然その場に居合わせただけかもしれませんな。しかし彼らはディナーのとき大広間にいなかった。疑わしい」
思った通りの不利な援護射撃にハリーたちはすぐさま絶命日パーティーの説明をして、それから大広間に寄らなかった理由として空腹ではなかったというでっちあげを述べた。しかしそれはロンの胃袋が悲鳴を上げたことで失敗に終わった。ロンの顔が真っ青になる。
「校長、彼らはすべてを話しているわけではないと思われます。その気になるまでは……そうですな。クィディッチのグリフィンドールチームから除名するのが適当かと」
「私にはそうは思えません。この猫とクィディッチには何の関係もありません。セブルス、猫は箒で殴られて石になったとでも?」
マクゴナガルが間髪入れずに反論した。彼女はクィディッチが関わると性格が変わる。皮肉たっぷりに返すとスネイプはそれ以上の追求を止めた。
「疑わしきは罰せずじゃよ、セブルス」
ダンブルドアの一言でその場は解散となった。そのとき、ダンブルドアは輝くような青い瞳をハリーに向けた。その目を見たとき、ハリーはなぜか不安な気分になった。そしてそれは彼だけではなく、一瞬目があったような気がしたかこにも意味深に思えた。安心させるためのものではなく、なにかもっと別の……。