迷宮絶望譚(ダンジョンディストピア) 作:ゴリラズダンジョン
『もしも』の話だ。
全知全能の神々でも、過去、未来が変わる事はない。時の流れとは不可逆なのが、世の理。
だがもしも、世界が複数あるとしたら。世界線、マルチユニバース、呼び方はどうだっていいさ。今居る世界を『一』とするのならば、きっとそれらの世界は千、万、億と違った歴史を辿っているだろう。
昨晩どんな食べ物を口にしたか、今朝何時に起きたか。その些細で、気分によってころころ変わる事柄すらも、その世界が辿った歴史の一頁となる。
そこで、問いたい。
一体何が、過去未来に影響を及ぼし世界の舵を切る『最大要素』に成り得ると思う?
ああ、答えなくていいさ。この問いに関する真実は一つしかなくて、故に俺達神々が求めている刺激や『未知』には成り得ない。
始まりには何があるか。
生まれた時、君達は親に出会う。
成長して、やがて気の合う友達に、心を許せる仲間に、そして全てを捧げられる愛する人に。
あるいは、心を震わせる『憧憬』に出会うかもしれない。
そう、全ての始まりとは『出会い』だった。それこそが、先に問いかけた質問に対するたった一つの真実。
そしてこれから語るのは、その本来起こるべき出会いが起きなかったある少年のお話さ。
●●
「ヴヴォォオオオオオオオオオッ!」
「ひぃっ!?」
端的に言うと、ベル・クラネルは死にかけていた。英雄に焦がれて、冒険を夢見ていた白髪の少年は、余りにも無残な現実を前に成す術がない。
何がダンジョンに出会いを求めるだ、ベッドの上でぬくぬくとして何もしない罪悪感に駆られていた方がずっとマシだった。
だが言っても仕方が無く、既に死神の鎌はベルの細い首にあてがわれている。
ただ文句は言わせて欲しい。ベルは決して自殺願望がある訳ではなく、初めてのダンジョンに細心の注意を払っていた。
悪いのは全部、
怪物の称号に相応しい牛の巨躯、奇跡が起きる事のない絶対的な膂力。ベルが潜っている階層に居てはいけない筈の強者。
ああ、終わった。僕の人生オワタ、さよならバイバイ理想の女の子――。
「うわぁ!?」
心が完全に負けてしまった直後、体が浮いて均衡を失った。
ミノタウロスの蹄。
その絶命の一撃はベルを背後から捉える事はなかったが、代わりに地面を砕いて足場を破壊したのだ。そのまま少年は無残にごろごろと転がって――、
「いててて……」
「フゥー!フゥーッ!!!」
「いぎぃ!?」
ぐるぐると回る視界が戻った頃、その巨躯はもう手の届く距離だ。とは言ってもベルの攻撃でその分厚い皮膚を傷付ける事は出来ないのは明白であるからして。
(あ、死んだ)
背後は壁で、既に逃げ道はない。勝てないと、戦う意思を失った冒険者に『光』はなく。
その時だった。本来冷静で居られる訳がない少年の視界が、やけに晴れ晴れと。
それは走馬灯にしては余りに益体がない。それは本来、迫る危機に対して記憶から『脱却』を探る時間であって、そもそも冒険者としての経験など無に等しいベルには不必要な時間だった。
ならばこれは前兆。哀れな兎を『英雄』が颯爽と助けるために空いた描写の時間。
英雄譚に関してはそれこそ迷宮都市一といっても過言ではないほど趣のあるベルは、今の状況をそう認識した。そしてその
金髪金眼、ベルが求めていた超絶美少女。その腰できらりと光る銀剣が、きっとベルを助けてくれるのだと。
だが直後、少年は思い知る事になる。
奇跡などない。救済の一時だと思っていたこの時間は、ただの『神の悪戯』だったことに。
「――ぁ」
美少女は、白髪の少年に気付かなかった。いや、正確には
その金眼がこちらに向く直前、ベルとは違う冒険者の悲鳴の方に踵を返したからだ。僕はまだ此処に居る。これだけ大きい図体の牛が居るのに、気付かないことなどあり得る訳がない。
そう不条理を心で呟いても、彼女はベルに気付かなかった。それだけが、駆け出し冒険者に叩き付けられた事実。
ゴォーン、ゴォーン。
何故だろうか、大鐘楼の音が聞こえた。それは本来荘厳で体を奮い立たせる筈なのに、この瞬間のそれは酷く悲しい泣きたくなる音だった。
ミノタウロスが振り上げた
「うぇっ!?」
運が良いのか悪いのか、どうやら追い詰められた壁の先が空洞になっていたらしく、斧の衝撃でベルの体は暗闇に転がっていく。
上と下がどっちか分からなくなる位の時間を、石ころのように転がり続けた。
そして暫くして、やっと視界が光を取り戻す。
「いててっ、ここは……」
体を起こして周囲を見渡す。
さっきまで居た荒涼した階層と変わらない場所だ。ただ魔石灯一つがぼんやりと照らしているせいで、薄暗くて不気味な印象を漂わせている。
それに一番不可解なのは、何処をどう見ても出入り口がない。今ベルが落ちて来た『穴』という、出入り口とも呼べないそれだけが今の所の唯一の帰り道だ。
「ダンジョンの欠陥……?」
傷付けられれば自己修復するダンジョンに欠陥があるなど、ベルは聞いた事がない。勿論、無知なだけの可能性もあるが、そんな大事な事を【ギルド】のアドバイザーであるエイナが言い忘れるとは考えられなかった。
ならば、これも
さっきのミノタウロスといい、つくづく自分はダンジョンから嫌われてしまっているのだとベルは溜息を零す。
だがまだあの牛の化け物に食べられなかっただけマシだ。どうにかして、ここから出る方法を――、
「ヴヴォ」
直後、ベルはまたも思い知らされる。
どこまでも、神は少年を救済する気はない。幸運と思ったこの状況すらも、絶望を上塗りする為の『策略』だった事に。
ベルが落ちて来た穴から、窮屈そうに体を捩って出て来たのが美少女ではない事は言う必要もないだろう。
助けが来ない密室に監禁。それが意味するのは、少年と怪物の一対一。
ミノタウロスはその状況を理解していない筈なのに、いっその猛撃をベルに繰り出した。
「おわぁ!?」
だがベルは避けた。
一撃だけではない。太い腕が繰り出す剛破を、ほいそれと避け続けたのだ。
確かに、この閉ざされた空間はミノタウロスが駆けるには狭く、さっきから壁に幾度と体をぶつけて攻撃の速度を落としている。
だがそれだけでは、駆け出しのベルが脱兎で居られる理由にはならない。
体が軽いのだ。気持ちの良い朝の目覚めが比にならない程に、体がすいすい動く。
これが覚醒?
お爺ちゃんが言ってた
そう自分に疑問を投げかけながら、宙に舞うベル。
ぽとっ、ぽとっ。
その時、体から何かが零れているのに気付く。そして同時に。自分の体の軽さの理由も知った。
「――ぁ。ぁあああああああああああああ!」
壁が崩れて、ベルは落ちて来た。あの時確かに、
ならば外傷がない訳はない。絶望に気を取られて、いや現実逃避をするあまりベルは気付かなかった。
その右腕が、14年共に過ごして来た利き腕が失われている事に。
喪失に嘆き、次に襲い来る痛みに歯を食いしばる。
そんなベルを見兼ねてではないが、ミノタウロスは少年の痛哭に耳を傾ける事はなく斧を振り下ろした。
そこでさっさと死んでおけば、まだ苦しむ事はなかっただろう。だがベルは半場無意識に、その攻撃を回避した。
この逆境で、戦いへの意思に『炎』が宿った訳ではない。むしろ、逆だ。
「ひぃ、く、来るな……!僕の傍に、近寄るなっ!!!!!」
逃げ出したい、ただその一心で。
だが逃げたいのなら、さっさと殺されてしまった方が話が早い。それでもベルが『生きる』という逃げ方を選択したのは、きっと願望を捨てられていないから。
英雄になる、そうやって迷宮都市に飛び出して来たのがベル・クラネルという駆け出しの少年。
ただ英雄になるために、逃げる。それは酷く矛盾したやり方だ。
本来ならば立ち向かって、戦うべき。
だがベルは逃げ続けた。この狭い空間で一日、一週間――そして最後には、ミノタウロスが自分の斧でへまをして灰になった。
少年の始まりに『出会い』はない。愚兎の物語は『逃げ』から始まった。
ベル・クラネルが地上に戻ったのは、既に【ギルド】で死亡認定された一か月後の事だった。