三宅統也《みやけとうや》は、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSのウイニングランで、複雑な表情をしていた。
24歳という若さで伝統のG1を制した喜びは、スタンドからのざわめきによって靄がかかってしまった。
日本出身の三宅にとって勝利騎手、特にG1となればスタンドから無数の喝采を浴びるものだという認識があったが、目の前の光景はとても喝采を浴びているとはいえなかった。人気を集めた英王室の馬を抑えての大金星。
上流階級の社交場の側面を持つ欧州競馬場において、極東からきた他所者がそれも本命馬ではなく穴馬で勝つというのは歓迎されることではないようだった。嘲りと怒号と歓声とが入り乱れるスタンド前でのウイニングランを終え、調教師と握手を交わした三宅はひとつため息を吐き、取材陣の中へと姿を消した。
その日の夜、三宅の姿はアスコット開催の祝賀パーティにあった。飲食の傍らにお偉いさんや調教師、大物馬主らに挨拶回りをし、ほどほどに営業をかける。どんなに腕がよかろうと、欧州や三宅が普段拠点としている北米の競馬関係者にとって極東の島国出身の三宅は他所者であり、自ら営業をかけていかなければ騎乗馬はなかなか確保できなかった。
「三宅くん。少しお話しいいかな?」
挨拶回りを終えた三宅は知らない男に声をかけられた。見たことのない男ではあるが、日本語だったのでおそらく日本人だろう。
「北野ファーム代表の原田だ。今日はおめでとう。」
北野ファームは系列に一口クラブを複数抱え、種牡馬や繁殖牝馬ともに日本トップの質を誇る日本最大の牧場である。
「ありがとうございます。馬も重馬場巧者でしたし、マークもキツくなかったのでなんとか勝てました」
「うちの馬は全然ダメでね〜。良馬場ならと思って連れてきたんだけどなかなかうまくいかないもんだね」
あははと原田が笑った。その後、当たり障りのない話を幾分か続けたのち、三宅は壇上に呼ばれ、その場を離れた。
パーティがお開きになった後、三宅は原田にサシで飲もうと誘われバーに来ていた。競馬関係から冗談話まで一通り話し、そろそろお開きかというところで原田は急に真剣な顔つきになった。
「三宅くんさ、自分の現状をどう思ってる?」
「…現状ですか?」
「調教師に聞いたよ。営業をかけなきゃ乗り馬に苦労する。専属契約もしてないから稼ぎも悪い。こういう言い方はあまりしたくないが、24でキングジョージ勝つような騎手の待遇じゃない」
腕には自信があったが、自分は騎手デビューから3年目の新人だ。G1に乗せてもらえるというだけでありがたい。だが、競馬を取り巻く環境や欧米の中のアジア人という肩身の狭さには思うところがあった。
「単刀直入に言おう」
「短期免許で日本来なよ」
短期免許…と小さく呟く。
「9月の第4週から、秋のG1が始まる。君の実績なら短期免許の交付条件は満たしてる。肩身の狭さもないし、賞金だって段違いに多い。乗り馬はうちの系列クラブの馬を優先的に回す。」
手入れが行き届いた緑の芝。スタンドを埋め尽くす群衆。その眼前を力強く駆け抜けるサラブレッド。懐かしく、求めている光景が脳裏に浮かぶ。
「G1の乗り鞍も当然用意する。勝てば何万、十何万の歓声を独り占めだ。」
今日のスタンドから聞こえたざわめき。アメリカでデビューしてからの4年間、北米でも欧州でも心からの祝福を受けた記憶はあまりなかった。
「君は海外で埋もれていい騎手じゃない。君を正しく評価してくれて、受け入れてくれて、輝ける場所で乗るべきだ。」
自分は、必要とされている。北米や欧州でそこそこの活躍より、日本で…
「スプリンターズSからホープフルまで、うちの系列の馬を頼むよ」
暮れの中山で馬を駆る自分が見えた。答えは一つだ。
よろしく、そう言って差し出された原田の右手を、三宅はかたく握る。
数秒の後、原田は徐にグラスを取った。
「三宅君の日本での騎乗を祝して…!」
深夜のバーに、ガラスのぶつかる音が響いた。夜はまだまだ終わらない。
次回、日本上陸。