飛行機の中で、三宅のスマホは2つの動画を繰り返し映し出していた。
"さぁディープきた!ディープきた!"
"外から栗毛の馬体が来たぞー!日本のオルフェーヴルだー!!"
ディープインパクト。オルフェーヴル。
日本競馬史において歴代最強格とされることの多い2頭。その2頭が敗れた、日本競馬の悲願。
三宅は頭の中でコース形態を浮かべる。三角形の角を丸めたような特殊な形。土地を均し芝を植え人工的に整備した日本のコースとは真逆の、そのままの自然にラチを置いた欧州特有のコース。芝丈の長い洋芝にアップダウンの激しい地盤。悲願を叶えるべく過去半世紀以上も日本から送り出された幾頭の優駿たちが幾度となく敗北を喫してきた、国家の英雄を讃える門の名を冠したそのレース。
垂れ流しになっていた動画はいつのまにか再生が止まっていた。耳に入るのは飛行機の低いエンジン音のみ。隣の座席は空席だ。
窓の外には青い空が雲の上に広がっている。
「晴れたらいけると思うけど、どうかねえ」
三宅はそう呟いた。
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3ヶ月前、クアンタムは新たに主戦として2年ぶりに三宅を鞍上に迎えて宝塚記念を制した。
そして、宝塚記念の後。
'宝塚記念を勝利したクアンタム、凱旋門賞挑戦へ'
競馬専門のネットニュース機関が上記のタイトルの記事を公開した。内容はタイトルそのまま、クアンタムが次走に凱旋門賞挑戦を決めたという内容。
朝日杯を制して2歳王者に輝き、皐月賞をかってクラシックホースに。天皇賞秋を勝って盾の栄誉を得、ドバイターフで海外G1の栄誉。そして宝塚記念でグランプリホースになった名馬の5歳秋。引退前最後のシーズン。国内で取れる栄誉は取ったのだから次は日本競馬初の栄誉を、となるのも自然な発想だ。クアンタム陣営内での反対は無く、一般の競馬ファンも概ね挑戦を好意的に捉えていた。
後に前哨戦を挟まずに凱旋門賞に直行するローテが発表され、クアンタムは期待を背負いフランスへと送られることとなった。
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凱旋門賞はスプリンターズS週の日本時間で土曜から日曜に日付が変わる頃に行われる。
秋口のこの時期はフランスでは例年雨が降り、凱旋門賞もかなり水を含んだ馬場で行われることが多い。日本の馬場基準と欧州の馬場基準が異なっていて、同じクッション値に対する解釈が違う。基本的に日本の馬場は欧州の馬場に比べて馬が走りやすい。馬場を表す基準の区分も日本は4つなのに対して欧州は10に分かれている。
芝以外にも、レースのスタイルが全く違う。欧州のG1は有力馬をアシストするラビットと呼ばれる逃げ馬が出走することがある。馬主や調教師が、本命の馬を勝たせるためだけに出走させる馬で、本命を勝たせるためのペースメイクや進路作りに徹する馬のことだ。こういった狙いで出走をさせることは日本ではまずない文化なので、ラビットが作るペースに適応できるか否かも大事だ。
長距離の移動をこなした上でさらに含めて日本とは問われる能力が根本的に違う馬場を攻略し、日本とは異質なレーススタイルにも適応しなければ勝ちどころか好走もない。日本からの遠征は環境面でのディスアドバンテージがかなり大きい。それでもなお凱旋門賞に挑戦する馬がいなくならないのは、意地が半分、今更やめられないが半分だと三宅は推測している。
スピードシンボリの挑戦から半世紀以上。馬主にとって、日本で初めての凱旋門賞馬を持つということがどれだけの栄誉であるかは計り知れない。これが半分。
もう半分は、端的にいうならコンコルド効果。今まで凱旋門賞に挑戦してきた馬はディープやオルフェを筆頭に当時の一線級がほとんど。一線級の馬たちが適条件の秋天を捨ててロンシャンへと送られ、好走惨敗を問わず敗北してきた。中にはマカヒキやサトノダイヤモンドのように凱旋門賞後は別馬のように変わってしまった馬もいて、そこまでは行かなくとも疲労で秋シーズンを棒に振った馬も少なからずいる。今までこれだけのコストを払っているのだから、今更'やっぱり勝てません'では終われない。3歳牝馬は斤量がいいとかステゴ系の成績がいいとか馬体重は重すぎるとダメとか試行錯誤しつつどこかでうまく噛み合って勝つまで挑戦は続くだろう。
勝つまで終わらないが、そう簡単に勝てるものでもない。悲願であると同時に、どこか呪縛のような側面がある。
パリ空港に降り立った三宅を出迎えたのは雨音だった。
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パリのホテルで、クアンタム陣営の作戦会議が開かれていた。
窓の外では雨が降っている。
「クアンタム自体は輸送後は順調。芝も最初は走りにくそうにしていたが、最近は慣れがみえる」
はじめに管理する萩谷がそう伝える。
「予報では前日は降るみたいですが当日は降るか五分五分ですね。多少渋るくらいならこなせると思いますが、放水された後でレース直前にザーザー降りでもされたら無理です。あとは距離適性が2400でギリなので。不安要素はそこですね。天気は祈るしか。」
天気予報を見ながら三宅が言う。
「血統的には欧州芝に適性があってもおかしくはないと思うんだが。追い切りで走りづらそうにしてたりとかはなかったか」
クアンタムを所有する一口クラブの代表が三宅に問う。
「走りづらそうにしてはなかったですが、日本のときのベストの走りではなかったかなと」
「血統的にはタイトルホルダーと近いんだが、タイトルホルダー陣営に聞いても馬場が悪すぎたしか情報が得られなかった。走れてないわけではなかったらしいが」
タイトルホルダーとクアンタムは父が同じドゥラメンテ。タイトルホルダーは母メーヴェ、その父Motivator。クアンタムは母ソウルスターリングで、その父frankel、母は名牝stacelita。どちらも牝系は欧州型だ。ドゥラメンテも父キングカメハメハの血統を辿れば欧州血統と言えないこともない。
「クアンタムは当然種牡馬入りするわけだけど、ベストは凱旋門賞勝ち。これ以上ないアピールになる。まぁ勝ちはできなかったにせよ、好走はしてほしい。ドゥラメンテ自体が社代の結晶の血をしてるわけだが、そこに社代クラブ所有のソウルスターリングだ。牧場の未来を背負っていく活躍を期待されているわけで、そこに凱旋門賞で惨敗したっていう戦績が残るのは良くない。天秋出れば勝ち負けだったんだろうけど、それはそれで凱旋門から逃げたと言われる。大負けだけはしてくれるなよ」
クラブの代表が念を押す。
「状態自体は良い。調整失敗はない」
萩谷が答える。
「結局は馬場…天気次第ですけど、精一杯乗りますよ。それこそタイトルホルダーの時みたいなドロドロ馬場は無理ですがそれならそれで言い訳になる。馬場がまともなら、芝がどれだけ適性が合わなくても1桁着順には纏めます」
三宅も答える。
「天気は祈るとして、人の手でどうにかなる部分は可能な限りやろう。あとはできるだけ良い状態で騎手に繋いで、そこからは騎手の仕事だ」
ぱん、と代表が手を叩いて解散の空気になる。
外の雨は止んでいた。
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迎えた凱旋門賞当日。三宅は芝チェックをするためにコースに出ていた。普段は騎乗数が多く忙しいのでなかなかできないのだが、今日は凱旋門賞のみの1鞍なので時間はたっぷりある。
芝を軽く触ったり押してみたり。前日の雨の影響もあって、良馬場ではないが、クアンタムにとって絶望的なまで渋っているわけではない。上空には雲がかかっているものの、降るのもまだ少し後になりそうな感じ。
総合評価するなら60点といったところか。物足りない気はするが、馬場が耐えただけマシ。40点分は騎乗で誤魔化せる。
凱旋門賞のパドックは馬だけでなく騎手も紹介のようなものがある。馬名と勝負服がプリントされた看板を持った女性の後ろに着いて歩く。職業柄騎手は低身長で、逆に女性はこういったモデル的な職業柄高身長なので、女性の方が騎手より背が高い組み合わせもある。三宅の組はギリギリ三宅の方が高いのだが、それでも多少は恥ずかしさがある。
地味な公開処刑を終えて気持ちを切り替える。ここからはもう本番、甘えも妥協も不必要。勝つために、一つでも着順を上げるために死に物狂いでいく。
馬の方のパドックも、日本と違って何周も周るわけでなく、数周で終わる。
周回を終えたクアンタムに向かって、そのまま跨る。状態は間違いなく良い。三宅が知る限りではベストの状態に仕上げられている。
「状態完璧ですね」
「魂のメイチ仕上げだ。勝ってこい」
「言われなくても勝ちますよ」
合図があって、馬と馬上の騎手はそのままターフへ。萩谷と代表は関係者用の場所へと向かう。
誘導馬の後ろを歩かせながらロンシャンのスタンド前を通る。スタンド前方には日本人の姿もちらほらと。わざわざ日本から応援に来てくれるというのはとてもありがたいことだ。
ゲート裏で輪乗りを終えて、促されてゲートへ。
クアンタムの首を軽く触る。
「勝って日本に凱旋すっぞ」
凱旋門賞のゲートが開いた。
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"今最後の馬がゲートに入りました。今年はクアンタムが挑みます凱旋門賞。今ゲートが開いて飛び出してました。クアンタムまずまずのスタート。三宅統也ポジションはどうか。外からwonderroom上がっていって先頭へ。2番手にはarcenciel。3番手以降は団子です。日本クアンタムは馬群の中段真ん中を追走"
クアンタムはスタートをまずまず決めた。もともとある程度下げる予定なので出遅れない限りはそこまで問題はない。隣枠が出していくのを尻目にきっちりと折り合う。クアンタムはどちらかと言えばマイル寄りの中距離馬。府中の2400はともかく、ロンシャンの2400で距離が持つと断言はできない。
ポジション争いが起きることもなく比較的すんなりとポジションが決まった。
ラビットが逃げて馬群はかなり密集している。確保したポジションは馬群の3段目の真ん中。欲を言えば内側を取りたかったのだが外枠スタートなので致し方なし。
長い直線を超えて登坂しながら最初のコーナリング。曲がり切って今度は坂を下りながら最終コーナーへ。隊列に変わりはなくそのまま偽りの直線、フォルスストレートへと入っていく。
変化があったのはフォルスストレート。残り600を切ろうかというところ。
"フォルスストレートに入ってきて、まもなく直線へと向かいます。先頭まだwonderroomですが手が動いている。2番手arcencielが先頭に変わって直線へと向いてきます。外に持ち出してluckychanceとlikelovelikeが上がってくる。まだクアンタムは馬群中段"
直線に向いて、逃げていたラビットが交わされて隊列が動き出す。前にいた馬が外に持ち出して先頭へと上がっていき、ペースが一気に上がる。
三宅は周りの仕掛けについていこうとするクアンタムを制止する。
まだ、まだ、まだ、まだ、まだ…
残り300あたりで、逃げていたラビットが後退してくる。ラチ沿いに1頭分、先頭からクアンタムの位置まで、ラビットが通って下がってきたスペースが空く。
「今!ゴー!!」
内にクアンタムを誘導してムチを一発。クアンタムが一気に加速する。
手応えは充分だ。
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"先頭arcenciel外からluckychance並びかけて残り300、最内を突いてクアンタム!最内から日本のクアンタムが上がってくる!先頭まで6馬身詰め切れるか!クアンタムが上がってくる!先頭arcenciel半馬身リード、2番手luckychance、3番手に上がってきたクアンタム!さぁ200を切って先頭との差は3馬身に詰まってきている!クアンタムが追い詰める!"
ラビットが空けたスペースを無理矢理強襲して一気に先頭めがけて駆け上がる。狭いスペースを縫うように上がって一気に先頭との差を詰める。仕掛けてから10秒ほどで目測で5.6馬身ほどの差を半分ほどに詰めた。このままならゴール前には捉え切れる。手ごたえは怪しくなりつつあるがまだいける。鞭を振るって一完歩づつ確実に先頭を追い詰める。2馬身から1馬身、そして半馬身。確実に差を詰める。
そして
"残り100、クアンタムが先頭に変わった!クアンタム先頭だ!"
残り100で前の2頭を捉えて先頭に変わる。
"さぁクアンタム突き抜けるか!クアンタム先頭だリード半馬身!悲願まであと100!粘ってくれクアンタム!"
交わしさった勢いで半馬身の差をつける。残り100M、あとはこの差を維持するだけ。勝てる。三宅がそう思った時。クアンタムのスピードが緩んだ。
「クソがぁぁぁぁ!」
手ごたえは正直もう残っていない。スタミナの限界、クアンタムは欧州芝の2400を走り切るスタミナを持ち合わせてはいなかったらしい。
懸命に鞭を入れて手綱をしごく。ここまできて距離の壁で負けたくない。
だが、無慈悲にもクアンタムのスピードは落ち続ける。
"残り50でarcencielが差し返す!arcencielが差し返す!クアンタム粘れるか!"
懸命に追うがあっという間に半馬身の差が詰まる。並んだ時に一瞬粘ったが、それも一瞬のこと。
"だが!arcencielが再び先頭!クアンタムはもう限界か!luckychanceとクアンタム2着争い!arcenciel先頭ゴールイン!"
クアンタムがゴールを通過する時、もう一頭の馬とも並ぶ形でゴール。際どいが、おそらく差し切られているだろう。
思わず天を仰ぐ。ぽつり、と鼻先に雨粒が触れた。
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掲示板に表示が上がって、クアンタムは3着ということになった。過去の日本馬の結果を見れば決して悪くないどころか上位の結果だ。負けはしたが、ほぼ差のない3着。萩谷からも代表からもよくやったと言われた。それでも。
「あそこまでいったなら勝ちたかった…」
今コースは土砂降りだ。この雨が10分早ければクアンタムは3着どころかもっと後方で先頭争いに絡むことなく沈んでいただろう。
勝った馬の騎手は欧州で長年前線で戦い続けている名手。2着の騎手は50歳近い大ベテラン。
「実力かぁ〜」
言いながら、三宅は第一声を考えつつ記者陣の輪へと足を向けた。
筆が乗りすぎて横山典弘