フェルテマカナ人気の爆発に、萩谷厩舎はてんてこ舞だ。
見栄えよくわかりやすい大差勝ちを繰り返していたフェルテマカナが、今回の宝塚記念ではスタートで苦境に陥りながらも最終直線から別格の脚で全てを置き去りにした。
これまでとはまた違ったパターンのわかりやすい実力の証明に、人々は熱狂。
昨今の競馬人気の高まりの中、歴史を塗り替えようかというほどに強すぎる最強馬が到来。
鞍上の人気と相まって、フェルテマカナの人気は競馬界隈を超えて社会現象じみたものになってきている。
推しという文化と人気者の動物の噛み合いは尋常ではなく、10分に1回取材交渉の電話の音が厩舎中に鳴り響く有様。馬を撮らせて欲しいというテレビの取材に対して放牧に出したから厩舎にいないと返した回数は数えきれないほど。
所有者であるクラブ法人の方もそれは同じらしく、電話の応対で仕事にならないとクラブ代表の酒田が愚痴っていた。
鞍上の三宅はさらに凄まじく、調教に乗るたびに、休みがない、何連勤だとぼやいている。
そんな慌ただしい日々とはかけ離れた落ち着いた雰囲気が流れるしがらき外厩。広大な敷地の中、坂路ではレースへ向けて厩舎へ送り返される前の馬たちが彼方の頂上めがけて蹄音響かせ駆け上がっている。
酒田と萩谷はしがらき外厩に視察に来ていた。
萩谷厩舎に預けられているクラブの所有馬を順番に見ていく2人。夏明けの秋競馬で使うために仕上げられている既走馬たちから始まり、未デビューの馬、怪我明けで慎重に立ち上げている馬、秋の後半へ向けてリフレッシュ中の馬…と来て、2人は最後に一つの馬房の前に至る。
馬房のネームプレートにはフェルテマカナと入っている。
冷房の効きが一番いいという馬房に入れられ、扱う職員も腕利きばかりだという高待遇だ。下手に扱って問題が起きては困るレベルの馬なので高待遇にせざるを得ないの方が正しいか。
寝藁の上に寝転んでいたフェルテマカナが、2人の来訪に気づいて馬房の前にやってくる。外厩入りしてしばらく経つが、あまり太くは見えない。もともと奥手の馬だとは思っていたが、夏でもまだまだ未完成のようだ。
「今日は三宅はきてないよ」
きょろきょろとこの場にいない相棒の姿を探すマカナに、酒田がニンジンを差し出しながらいう。
酒田と萩谷が一緒にマカナと会う時はほとんどがレースの時なので、鞍上の三宅も一緒にいるものだと思っているのだろう。レースや調教以外でも三宅はやたらとマカナに会いに来るのもあるかもしれない。
ポリポリと小気味いい音を立ててマカナがニンジンを咀嚼していくのを会話もなく眺める2人。
「秋はどう使う予定で?」
ニンジンが半分ほどになったところで、萩谷が切り出す。
「菊は確定。菊の前に一つ叩くかは決めてないが、そのあとは有馬が濃厚」
「無難にという感じか」
「何か使いたいレースでも?」
「いや、自分は別にそれで構わないが、三宅の方が」
「三宅が?」
「宝塚勝ったあとに、『菊使わなきゃダメですか』って」
宝塚の口どり前、コースのフェルテマカナを回収した時に三宅に言われたセリフを思い出す。
「凱旋門、か」
深く息を吐いた酒田が重苦しい声で呟く。
「直接言ってたわけではないが。まぁそういう事だろう」
出走するとなれば菊花賞を蹴ることになるレース、つまり初秋から秋の中ほどまでに行われるレースのうち、マカナの適性を踏まえて現実的にあり得そうなのは凱旋門賞かブリーダーズカップターフか豪州遠征かの3択。
ブリーダーズカップのためにわざわざ3歳の時点で急かしてくるとは考え難い。そもそも三宅はブリーダーズカップターフのトロフィーを持っている。
豪州は三宅の視界に入っているかすら怪しい。コックスプレートのコース形態が差し馬に合わないのは周知だ。
「クアンタムの時も結構悔しがってたからな。それにこれだけの馬だ。いちホースマンとしてフェルテマカナをロンシャンで見たいと思うのは俺も同じだ。挑戦させるべき……いや、挑戦しなければならない馬だ」
『フェルテマカナは凱旋門賞に行くべきだ』皐月を圧勝したあたりから生まれたこの世論は宝塚記念を経てさらに大きくなっている。
ただでさえ開催の進み傷んだ芝。おまけに雨で渋った劣悪な馬場をものともせず、さらに伸びない最内を強襲して勝ったのだ。当確の菊なんか走らずに、3歳の軽斤量もあるのだから凱旋門賞へ。そう考えるのも至極当然だ。
だが。
「ダメだ。菊は絶対だ。今秋のフェルテマカナがレースを使える状況にある限り、フェルテマカナは必ず菊花賞に出る」
酒田の判断は三冠を最優先にするものだった。
「判断に文句をつける気はないが、理由は?」
「所有者として総合的に判断…それ以上でもそれ以下でもない」
「三宅を抑え込むのはこっちの仕事になるんだろう?納得できる理由がなきゃあいつもしつこいからな」
「形骸化してる欧州の三冠体系と違って日本の三冠は多少下火とは言えまだバリバリの現役で、種牡馬になった時に三冠馬という実績は全てに勝る箔になる。特にフェルテマカナは無敗だ。過去3頭しかいない。無敗の三冠馬という錦の御旗は種牡馬価値を生み、種付け料を上げ、生まれてきたその産駒はロマンと期待を抱かれて馬主に高値で買われていく。考えたくはないが、仮に種牡馬としてふるわなかった場合でも三冠馬なら手厚く世話してもらえる。"凱旋門賞に行ったが、誰がどう考えても菊花賞に出ていたら菊花賞を勝っていた"じゃダメなんだ。実際に菊花賞に出て、菊花賞を勝たなきゃいけない」
「正論だな」
「別に凱旋門賞に出すことはないって言ってるわけじゃない。そこは勘違いしないで欲しい。来年以降もマカナが力を維持して走るのなら、当然ロンシャンに連れて行くことになるだろう。今は行くタイミングじゃないってことだ」
ニンジンが全てフェルテマカナの胃の中に収まったタイミングで、酒田が外厩の出入り口へと戻りはじめる。視察は終わりらしい。
「こっちとしても手荒な手段は取りたくない。個人の馬ならオーナーが良いならいくらでもローテに口を出せばいいが、ウチはそうじゃない。他の騎手の手前、目に余るようなら降ろさざるを得なくなる。そのことは伝えておいてほしい。来週は海外に行くんだったか?その前に」
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視察の翌日、萩谷は三宅を呼び出した。
「というわけで、マカナは凱旋門賞には出ないからな。あとあんまりマカナのローテに口つっこむなよ」
「あ、はい。8月入っても厩舎戻してない時点で察してたんで。秋は菊直行すか?」
「前哨戦挟むかまでは決めてないそうだ」
ふーん、と三宅から生返事がある。
「個人的にはジャパンカップ使って欲しいですけどね」
「あのなぁ…。お前話聞いてたか?ローテに口を出すなってんだよ。少なくとも酒田さんのとこのクラブの馬の時は大人しくしとけ」
「進言ですよ進言。神戸にしろセントライトにしろせっかく使うならG2よりG1のがいいでしょ。あとシンプルにマカナを海外に知らしめたい的なね。凱旋門のが伝わりやすいから暗にそう言ってたけど、ジャパンカップも一応世界戦だし」
前哨戦のG2とG1を単純比較して良いのかと言う問題はあるが、言ってること自体は間違いとは言えない。
「言いたいことはわからなくもないが。まぁ、前哨戦使わない場合は提案しといてやる。一流馬が下半期で2走は面白くないしな」
結局萩谷も三宅には甘い。変に臍を曲げられて厩舎の主戦から降りられても困るからだ。落馬で1ヶ月いなかった時の厩舎の成績は惨憺たるもので、萩谷厩舎がトップ層の立場にあるのも平場での三宅依存によるところがある。あと娘婿に欲しい。
「来週は海外だったか?」
「そっすね。シャーガーカップ」
「たまには海外もいいだろう。羽伸ばしてこい」
「一応仕事っちゃ仕事ですけどね。まぁリフレッシュしてきますわ」
それじゃ、と言って帰途につく三宅を厩舎の外まで見送る。
見送り終わって厩舎の中に戻ると、デスクの上の携帯が震えていた。着信の相手は酒田と表示されている。
「はいもしもし」
「はい。えー、昨日言ってたマカナのローテ、菊直行に決めたから。戻すタイミングは任せる。それじゃあ」
「菊のあとは有馬で?」
「そこは変わりない。菊から有馬。クラブの馬で賞金を積ませたい馬がいるからマカナに世代G2を荒らされると困る。調整は難しいかもしれないけど頼むよ」
「提案なんだが」
「なに?」
「菊の後にジャパンカップ使いたいんだが」
「……。なんで?」
ここから1時間近くに及ぶ説得が始まるとは、両者ともまだ知らなかった。
多分ハーメルンの競馬小説でシャーガーカップに言及したのはこの小説が初な気がする。