ホースマンの朝は早い。晩秋を過ぎてそろそろ冬も本気を出してきたかというこの時期は眠気よりもとにかく寒さとの闘いになる。
「ざーす」
朝イチの調教が終わって、2周目に入る時間帯。今日の2周目はマカナのジャパンカップ1週前追い切り。朝イチはオーバーライドのマイルCS当週追いで軽めだったので、体もまだ温まっていない。挨拶もそこそこに、萩谷厩舎の通路に置かれているストーブにあたる。フリー故に調教準備はやらなくていいので、厩務員や厩舎所属の新人が準備に馬体洗浄に飼葉に馬房の掃除にと動き回る中でぬくぬくと暖をとることができる。
この時間帯は調教から帰ってくる馬と調教に向かう馬とでどこも忙しないのだが、それにしても今日はやたら人が多い。
「あっ、いた!オマエこんなとこでなに道草食ってんだ」
「道草って、暖とってるんですよ。寒いったらありゃしない」
厩舎の主からお叱りを食らう。同居の件以降、萩谷はやたらと口煩くなってきた。同居して1ヶ月も経っていないが娘も似たようなきらいがある。遺伝か。
「今日から密着だって前に言ったろ。今人来てるからあんまみっともない姿晒すな。いつカメラ回ってるかわかんねえぞ」
「密着ぅ?ンなもんありましたっけ?」
雑誌の取材やらスポーツ系の番組に騎手代表で出てくれみたいな出演依頼はあったはずだが密着なんてことは聞いていない。
「マカナのジャパンカップ特集なんだと。毎日撮るらしいぞ。そんな短い期間で何したいのか知らんが、とにかくこっから2週間毎日カメラが入る。当然お前も取材対象だからな。2週間ぐらいピシッとしとけ」
「取材ったってG1ならいつものことでしょうよ。何を今更」
G1の本命馬はその分取材も増える。マカナ関連の取材などいままでいったいいくら受けたことか。カメラといったって、深夜に放送している競馬の番組なら余計なところはカメラを止めてくれるしもし回っていても編集で消してくれる。番組側のスタッフが半ば固定メンバーだからその辺は手慣れている。
「バカ。深夜のじゃねえよ。時間までは知らんけど、競馬番組内じゃなくて普通の枠だ。まあ一般にも人気出てるからそう言う企画が通ったんだろ」
「じゃあマカナのジャージ着てくれば良かったな」
いわゆるアイドルホースとなりつつあるマカナ。当時を知る萩谷曰くかのオグリキャップブームには及ばないとのことだが、『なんかフェルテマカナっていう凄く強い馬がいて、今度の月末に走るらしいよ』という会話がのぼるくらいの世間認知度はある。と同時に主戦の三宅も競馬界を担う次世代エースとしてフィーチャーされているのだが、おそらく競馬界のお偉い方が思っていた反応と世間の反応がズレている。華々しい成績の若手!みたいな売り出し方をよくされる三宅だが、いうても20後半である。デビューが遅いから歴だけで見たら若手なのだが、年齢的には世間から見て中堅。
プロ野球で例えるなら大学経由の社卒が近いだろうか。もっとも、40には一部の外れ値を除いた全員が引退するプロ野球と違って騎手は平気で40代50代がバリバリにやっているが。
ストーブに当たること10分弱、解凍した両手をウィンドブレーカーのポケットに突っ込んで厩舎の外へ。
既に装鞍の済んだマカナに萩谷の手を借りて乗る。
「いつもの単走で軽く負荷かける感じっすよね?」
マカナの追い切りは大概単走である。併せ馬したとてまともに併せられる馬がいないので仕方がない。僚馬の併せ馬の先行馬として軽い調教をこなすことはあるが併入は先行馬を軽々とブチ抜いてしまうので併せ馬にならないのだ。
「んや、今日は併せで」
「マジすか?併せれる馬いないでしょ」
「クロとやってみる。マカナもそれなりに成長してきたし、強めに負荷かけてみてくれ。鞭も使っていい。せっかくテレビ入ってるんだ、サービスしてやれ」
クロと呼ばれている馬———クロニクルバイツは萩谷厩舎の短距離路線の看板馬で、距離を延長して今週のマイルCSに出走予定である。要するに短距離のG1クラスのスピードならいくらマカナといえども、という考えだろう。
「相手のヤネは?」
「ヤス。助手乗っけたら体重差それなりにでちまうからな。当週だし主戦よ」
「何馬身後ろから行くんです?」
「そうだな、CWだしまあ5馬身くらいで。クロの方も正直まだ仕上がりきってないから強めに追わせるし、マカナも本気出させちゃっていい。というか出させろ。現時点の力量を知りたい。毎度毎度早め抜け出しから最後緩めて圧勝じゃわかるものもわかりゃせん」
「あいよ」
所定の位置について調教を開始。最初は筋肉をほぐすようにゆったりと走らせて、徐々に走りの強度を高めていく。
あらかじめ決めておいたゴールまで1000M少しのところで前を行くクロニクルバイツが追い出され始める。前を行くクロニクルバイツの鞍上には地方から叩き上げの先輩ベテラン騎手。年齢を感じさせない剛腕で、現役騎手の中でもかなり追える方。
短距離G1級の脚力でみるみる加速していくクロニクルバイツ。合わせてこちらも追い出しをかける。脚元のウッドチップが爆ぜて、頬を風が削っていく。
朝イチではなく馬の数の少ない2周目の時間帯にしたのは正解だっただろう。この速度帯だと玉突き事故を起こしても不思議ではない。G1級2頭の併せ馬という物珍しさから調教を一旦止めて観覧に回っている人が多いのも好都合。
ゴールまで残り400程。前を行くクロニクルバイツは既に一杯に追われている。対するこちらも全力追い。差は1馬身ほど詰まっている。
調教ではあるが、マカナでガチ追いして負けるのは気が悪い。現時点の天井を見たいという点もあるし、勝ちに行く。
鞭をマカナの顔横へ。見せ鞭加速もだいぶ定着してきた。普段は普通に鞭を入れればいいのでレースに於いては基本的には緊急事態の時のみの運用にはなるだろうが、既に菊で実践投入した感覚を鑑みても隠し球と呼んで差し支えない領域にまで仕上がっただろう。手綱を緩めて鞭の先端の風切音を聞かせてやるだけで馬が勝手にスピードを上げるのだから、調教などで普段使いする分には便利な事この上ない。
マカナ自身がハミをとってさらに速度が上がっていく。4馬身あった差が3馬身2馬身と明確に詰まっていく。
残り150ほどで2頭が並ぶ。鞭を1発入れる。
残り100を過ぎて一気に突き抜けてそのままゴール。1秒ほど遅れてクロニクルバイツもゴール。
「最後なんかありました?流石に遅れ過ぎじゃないすか」
「脚上がったわ。短距離馬だからな、スタミナあるわけじゃねえ」
「あぁ、なるほど」
「というか、わかってはいたけどその馬なんつー馬だよ。G1級のスプリンターの全力追いに差ぁ詰めてこれるスピードもってるクセに3000持つんだろ?無茶苦茶じゃねえか」
「メンツ手薄な短距離GⅢくらいなら現時点で勝てるんじゃないかな。マイルならオーバーライドでやっと相手になるかどうか、ってところですかね」
流石に息の上がっているマカナをクールダウンさせてから調教馬場を出て、馬を厩務員に預ける。その後は萩谷との軽い打ち合わせ。凄まじいタイムが出ていたようで、タイム表示後に記者を中心に拍手が起きていたという。
1週前なので細かい詰め事はなく、凄かったねという中身のない感想だけ言いあってクロニクルバイツの打ち合わせが始まる前に退散。強めと言われていたのに熱くなってガチ追いした先輩が叱責されているのを背に厩舎を出た。
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2週間の密着というなかなかハードな取材も今日で終わる。あとは今現在行われている真っ最中のレースとその後の軽いインタビューで密着は完全に終了となる。TV局で働いている以上過酷な労働環境というのはある程度覚悟していたが、日の出前の深夜帯から起き出して馬糞と獣臭の濃いトレセンに通い詰めるというのは過去の取材の中でも特に堪えるものだった。
レースを眺めてはいるが、近くで見たらなかなか大きかった馬も米粒くらいの大きさにしか見えない。賭けているわけでもなく、何が面白いのか何が凄いのかも全くわからない。ぽつんと先頭を1頭走っているのが取材対象であるらしいことだけはバカデカいビジョンの映像から読み取れた。
「あーあー、まーたそんなに千切っちゃって。大差なんてそうポンポン出していいもんじゃないんだよ」
隣にいた先輩が声を出す。この人は競馬番組から派遣されている助っ人で、当然競馬がわかる。
「フェルテマカナでしたっけ?何がそんなに凄いんですか?ただの馬でしょう?」
「ただの馬といわれたらそれまでだけど、競馬の馬って要するに選手なんだよ。何が凄いというと説明するのが難しいんだが、簡単にいうと全部凄い」
「なんですかそれ。今一番強いから凄いってことですか?」
「今一番強いのは間違いなくそうなんだがな。タイムとかあがり3ハロンとか昔の馬とも比較できる数字が競馬にはあって、それが歴代屈指の数字なんだよ。まああと一番わかりやすいのは戦績だな。G1 5勝————今ちょうどゴールして6勝になったな、G1ってのは一つ勝つだけでもとんでもないことで、5つも6つも勝つってのは10年に10頭いないくらいなもんなのよ」
「10年に10頭なら年1じゃないですか」
「わかりやすく説明すると、そうだな……、馬ってのは2歳から走り始めてG1を勝つような馬は5歳には引退するんだが、2歳時はG1に一回、3歳から5歳はG1に上半期下半期でそれぞれ2〜3回出れると思ってくれていい。牝馬限定戦ってのがあって牝馬は加えて1〜2個多く出れる。んで、過去に日本でG1を一番勝った馬は牝馬で、5歳の冬まで走ってたんだがG1何勝だと思う?」
「2歳で1回と3〜5歳でそれぞれ5〜6回出れるんですよね?じゃあ出れる機会が最大17回くらいだとして牝馬で19……、12回とか?」
「ハズレ。正解は9勝な」
「思ったより少ないんですね」
「牡馬だと7勝が最多で3頭いる。そして、今マカナは6勝目をあげたわけだ。まだ3歳の冬なのに」
「3歳の冬ってことはあと2年走るわけで、じゃあ9勝なんて余裕じゃないですか。早ければ来年の春にはありえるって事ですよね?」
「まだ来年の予定とかは発表されてないけど、最多記録更新はほぼするだろう。何が凄いかわかってもらえたか?」
「なんとなくは。歴史的な強い馬ってことですよね?」
「そういうこと。騎手もまだ28でそこまで歳いってないしな」
「28?!俺と同い歳じゃないですか。凄いな」
スタンドからは勝利した人馬へ祝福の声と拍手が贈られている。同い年というだけだがなぜだか誇らしくなって、自分も観客に倣って精一杯の拍手を贈った。
ジャパンカップは駆け足で。特に見せ所もなく圧勝するだけなので。
大差がついた2着はサステナブルライトです。ここが引退レースでした。