先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
「おや、先生。この様な予定を入れる事もあるんですね」
羽川ハスミが珍しいものを見たと言わんばかりな声をあげたところで、飛鳥は机に並々と積まれた書類の山から視線を逸らした。キヴォトス中の問題がどういうわけかシャーレに収束する都合、それなりに手早く問題を解決する飛鳥であっても時には苦戦を余儀なくされる時がある。今がそうだった。
「物珍しい予定なんてあったかな?」
「はい、ここです。明日の朝一〇時からアクアリウム、と。お一人で行かれるのですか?」
「……僕、あんまりそういうのと縁がない様に見えたかい?」
「失礼しました。珍しい、というよりは意外で。あまりそういった事に興味は示さない方なのかと」
目を通した書類を揃えて整え、一息ついたところで飛鳥は席から立ち上がる。背骨や腰のあたりがポキポキと小気味良い音を立て、デスクワークに身体中が不調を訴えてくる。
得意な方面だと思ったのだが、物事には限度がある。少し休憩を取るがてら、飛鳥はハスミが立つスケジュール表の前まで歩いて行く。
スケジュールの前に立ち、ざっと一週間の予定を確認する。確かにハスミが言う様に物々しい予定が立ち並ぶ中で、『アクアリウム』という文字は少々浮いていると言って良いかもしれない。
「お一人で行かれるのですか?」
「いや、以前話したアビドスの生徒と。誘われたんだよ」
「アビドス……シャーレの初仕事でしたか。大変なお仕事だとは聞いています」
「正確な初仕事は暴動鎮圧だよ。あの時には羽川さんがいて助かった」
そこで飛鳥はハスミを見上げた。彼の身長は167センチ、相手は179センチと来ている。自分より背が高い女性と遭遇した事があまりないので、ある種貴重な体験である。
逆にハスミも飛鳥を見下ろし、
「お互い、まともな挨拶もせずに右は左へ走り回りましたね。新鮮な体験でした」
「あんな規模の事件はそうそう起きてほしくないと、心の底から思ってるよ。多分……シャーレに色々連絡が来るだろうからね。さて、仕事を続けるとしよう。羽川さん、コーヒーを淹れてもらえないだろうか」
「喜んで。ああ、それと先生。ツルギなのですが……」
椅子に座り直した飛鳥はハスミがポツリと呟いた名前に、目に見えて警戒心を見せた。ツルギ、というのはハスミが所属するトリニティ学園『正義実現委員会』の長なのだが……飛鳥の表情は彼にしては本当に珍しいだろう。基本的にどんな相手でも平静を保つはずなのだ。
「……剣先さんが、どうかしたのかい?」
「先日のトリニティ視察が終わってから、先生の名前を聞くと軽い暴走を頻発する様になりました。言っても聞かないので機会があれば先生の方で少しお話をしてもらえませんか」
飛鳥の脳裏によぎるのはツルギと遭遇した為に発生したこの世の終わりじみた大騒動である。飛鳥も盛大に巻き込まれ……というより自然と渦中に飲み込まれた結果、怪我こそしないものの二日程悪夢として苛まれる光景を目にしてしまった。
ツルギにその気がない事は承知している。承知の上で理解の範疇を超えた暴力の嵐を目の当たりにした飛鳥は、わずかにではあるが彼女に対して苦手意識が芽生え始めていた。
「ああ、うん、わかった。次の機会……多分、来週かな」
「よろしくお願いします。ツルギは先生にお会いできる日を楽しみにしているので」
「本当かな、僕はむしろ嫌われているんじゃないかと不安だよ」
「本当です。この前も不良をライフルのストックで殴りながら」
『飛鳥先生、あぁすかせんせぃいいいいいい!!アギャギャギャギャ!!!』
「と笑っていました」
「一応確認したい。それは、僕も同じ様にしてやりたくて楽しみにしているとかではないんだね?」
「ツルギが人の名前をしきりに呼ぶ事は滅多にありませんから」
「羽川さんがそういうのなら僕も信じよう。それにさっきの発言は先生として少し失礼だった。できる限り早く剣先さんに会いに行くよ」
「お忙しいのにこちらの頼みを聞いていただいてありがとうございます。明日は楽しめるといいですね」
「うん。彼女も珍しく乗り気だったから、コミュニケーションを取るチャンスだと思っているよ」
「……?あの、ところで何人で行くのでしょうか」
ハスミは飛鳥の言葉に気になるものがあった様で、首を傾げた。何か問題でもあっただろうかと飛鳥も同じく首を傾げながら、
「僕と誘ってくれた生徒の二人で行くつもりだけど……」
「二人きりで……………なるほど、わかりました。念の為に言っておきますが、身の振る舞いには気をつけてくださいね」
「?うん、ありがとう」
ハスミの視線が急激に鋭くなっていく事に疑問を抱きこそすれど、何か機嫌を損ねる発言をしてしまったのだろうか?飛鳥は首を傾げたままだ投げかけられた言葉を反芻する。
飛鳥という男は有事の際は冷静に的確な判断をするのだが、日常においてはイマイチ鈍感であり普通に考えれば自ずと答えが出てくる事柄でも思いつかない事がよくある。今回もそれなのだが、本人がそれを気付く素振りは一切なかった。
※
「うへ〜先生こっちこっち。時間より早いねー」
「そういう小鳥遊さんも、予定の時間より早く来ている。お互い様という奴だね」
翌日の朝一〇時、約束通り飛鳥はアクアリウム前でアビドスの生徒、小鳥遊ホシノと待ち合わせていた。
アビドス高等学校、ひいては学区そのものを巻き込んだ大きな事件は飛鳥とホシノ達生徒による尽力で無事に解決。それからも定期的に連絡を取り合っていたが、そんな時にホシノから飛鳥へと個人的な連絡を送ってきた。それが一緒に水族館を見て回ろう、というものだったのだ。
飛鳥としては良い機会だった。カイザーコーポレーションからの卑怯な勧誘に騙されかけていた際には精神的に不安定な一面を覗かせていたホシノが今はどんな状態なのか、アビドス対策委員会の面々は元気なのか、そういった部分を確かめられるからだ。
「いやあ悪いねぇ先生。忙しいのにおじさんの頼み聞いてくれて」
「生徒の頼みを聞くのが先生である僕の役目だ。それに、わざわざ砂狼さん達ではなく僕を誘うのには理由があるんだろう?」
「うへぇ流石先生、鋭いよ。ともかく中に入ろーよ。もうおじさんパンフレットまでもらっちゃったよ〜」
いつもの気が抜けた声色とは異なり、今日のホシノは快活である。飛鳥の手を引いて早く早く、と催促してくる様子は心を開いてくれている証拠であるが、果たして何を企んでいるのやら。
アクアリウムに入るなり、ホシノは受付へと足早に向かっていく。飛鳥が追いつく頃には、既に職員と話をつけた様で、チケットを二枚持っていた。
「はい先生これ。ペアチケットね」
「ペアチケット?」
手渡されたチケットを受け取り、目を通してみると確かに『ワクワクペアチケット』と可愛らしいフォントで書いており、続いて『ペア様アクセサリー付属!』という文字列が目に入る。そこで飛鳥はようやくホシノの狙いを理解し、口の端を緩めた。
「僕でなくても、誰か誘えたんじゃないかな」
「男女ペアじゃないとダメなんだも〜ん。他に頼れるのは飛鳥先生くらいだし。それにこのチケットなら割引が入るからお得なんだよ?はいこれ先生の分」
そう言ってホシノが指で摘んでいるのは青とピンクの二色に分かれたイルカのアクセサリーだ。青がオスで、ピンクがメスというわけだ。
ホシノはウキウキで飛鳥の手に青いアクセサリーを置き、にんまりと笑った。心の底から喜びが溢れているその表情に飛鳥はただかぶりを振って、
「ペアで来館したのは確かだ。これは受け取っておくよ」
「うへ〜!何処から回ろっか先生。なんでもあるよ、熱帯魚に深海魚、イルカショーにペンギン……一日で回れるかなあ?」
「魚は逃げないと思うし、じっくりと見ていけばいいよ」
「それじゃあ手でも繋いで行く〜?ダーリン、なんちゃって」
にまにまと笑ってホシノは飛鳥の手を取り、館内へと進んで行く。
アクアリウムは外観からも相当な広さである事は予測できたが、地下にまで広がっており、予想よりも展示されている魚のボリュームは凄まじいものだった。
「うへー、熱帯魚だ。先生ほら見てよ」
「実物を見るのは初めてだ。奇抜な色合いが目立つ……」
色とりどりの熱帯魚を眺める時、最初飛鳥はホシノの後ろから覗き込む形だった。
「淡水魚……海の魚とは違ったいぶし銀な色合いだよね」
「山登りや川下りで見る機会があると言うけれど、僕の体力ではどちらも不可能だな……遭難しかねない」
川沿いの環境を再現した水槽前では、飛鳥はホシノの隣に立って興味深そうに観察していた。
「これが深海魚かっ。太陽の光も届かないまさに未踏領域。深ければ深い程にその生態は特異なものになっているのがわかる。見て欲しい小鳥遊さん、この独自の進化を遂げた事による特徴的なフォルムを。強烈な水圧に耐える事を目指した結果、生物はここまで変化するんだ」
「おお、先生、凄い熱意。おじさんよりも楽しんでない?」
「……忙しくて、あまり個人的な興味を発散できていなかったものだから、少しね」
海底に生息する深海魚のエリアではそれまでとは打って変わり、飛鳥は猛烈な勢いで食いついてホシノがその後ろから若干驚きの表情で見つめる様になっていた。
アクアリウムを見に行く事に飛鳥は心の底ではかなり楽しみだった。海という未開の領域に生きる生物の生態、そして進化。科学者として観察する機会が得られるのであれば、願ったり叶ったりなのである。とはいえ大人という立場でいる以上は、と自分自身に言い聞かせていたのだが、深海魚エリアで遂に抑えられなくなった次第だ。
「うへー、でもおじさんとしては先生が楽しんでくれているのなら何よりだよ。おじさんばっかりはしゃいでいたら悪いしね?」
「そういえば、どうして水族館なのかについてはちゃんと聞いていなかったな。小鳥遊さんは魚に興味があるのかい?」
「うん、そんなところかなぁ。アビドスはご存じの通り砂漠じゃない、お魚なんて見る機会ないからさ?」
館内でも一番大きなエリア、巨大水槽を目指して歩きながら飛鳥はホシノと話しながら、彼女の意外な一面に思わず感心して頷いていた。アビドスの問題を解決する為に協力していた時のホシノは事情があって、ここまで伸び伸びとしてはいなかった事が原因だろう。
「意外だな。君に昼寝以外で嗜むものがあるだなんて」
「ちょっとちょっと~、おじさんの事なんだと思ってるわけ~?」
「……隙あらば、寝ている?僕と初めて会った時も寝ていた記憶があるのだけど」
「うへ、ちょっと言い返せないかも。でも、こういう風に昼寝以外で楽しめているのは先生のおかげだよ」
そこで二人は遂に巨大水槽へと辿り着いた。展示されている魚類の数は館内でも最大級で、端から端まで魚が縦横無尽に泳ぐ圧倒的な光景に飛鳥もホシノもしばらく言葉が出なかった。圧巻の一言である。
「うわぁー!先生、近くで見てみようよ!」
ホシノに手を引かれ、飛鳥は水槽の元へと走って行く。近付けば近付く程に水槽の内容が鮮明になり、ジンベイザメの巨体がゆったりと泳ぐ姿に飛鳥は息を飲んだ。
生命というものの力強さ、人間では到達し得ない自然の力、水棲動物はそれをありありと見せつける。研究者の目線から見ても、感嘆の声を漏らさずにはいられないのだ。
「見て先生、お魚がいっぱい!アレは鯨って奴?すごーい!」
「ジンベイザメだと思う。凄いな、これだけの種類を集めただなんて。ほら、あそこには他のサメもいる。小魚も」
「ホントだ!綺麗だし、可愛い~!あっちのは何かな!」
二人揃ってガラスの顔を押しつけそうな程の勢いで水槽を右から左へと眺めていく。ホシノは笑い、飛鳥は驚き、別々の感情を発しながらも心からこの瞬間を楽しんでいた。
時間があっという間に過ぎていく。ただ眺めているだけだというのに、数十分は数秒に縮められていく。流石に疲れが湧いてきたところで、ホシノはぴたりと足を止め、ガラスに手を着いて飛鳥へと微笑みかけた。
「うへー、飛鳥先生の意外な一面を知ったなぁ。同士に会えた気分だよ。いつかお金が貯まったらさ、対策委員会の皆で海に行こうよ!バーベキューとかさ、スイカ割りとかもして、釣りもするんだよ」
「海か。良いね、泳ぐのはちょっと自信が無いけど」
「大丈夫大丈夫、その時はおじさんと一緒にお昼寝するんだよ~」
ホシノはそこで一旦言葉を区切ると、水槽へと視線を移した。ほのかに熱が籠もった目だ。
「綺麗だね、先生。スイスイと泳げたりしたら楽しいんだろうねぇ」
「……泳げはしないけど、歩いてはみるかい?」
「へ?」
飛鳥としては、ホシノに何かをしてやりたいという気持ちだった。躊躇いもなく「本」を取り出し、自分とホシノを水槽の内側へと瞬間移動させる。突然の事にホシノは目を剥いて驚いたが、次の瞬間二人は巨大水槽の中心部に立っていた。
「うへ!?先生、何してるのぉ!?ここ、水中!?」
「酸素の方は問題ない。バリアの様なものを張っている。それに、どうやら僕達以外に客はいないから見られる心配もない。99秒という短い間だけれど、海中散歩をするとしよう」
「せめてやる前におじさんに確認を取ってくれないとびっくりしちゃうよ~」
「ご、ごめん。ちょっと思い切りが良すぎたかな」
申し訳なさそうに飛鳥は頬を掻くが、ホシノはすぐに笑みを浮かべて周囲をぐるりと眺めた。ガラスを挟まない水中の世界に目はキラキラと光り、触れられないものかと手を伸ばす。目の前をジンベイザメが通り過ぎていったところで、感激からかため息が漏れていた。
じっと、飛鳥はそんなホシノの様子に頬を緩める。
「良かった、君が笑ってくれて」
「うん、ありがとう先生。実は今日先生を誘ったのはさ、ちゃんとお礼が言いたかったんだ。アビドスを助けて、私も助けて……本当ならもっとちゃんとしたお礼をするべきなのにさ」
「僕は見返りを求めて、君達を助けたんじゃない。僕は……」
「私達の世界を守りたかった、でしょ?」
海中を思わせる静寂に飛鳥とホシノの声が僅かに反響する。本来ならば会話などままらないはずの場所で交わされる言葉は、不思議な力を宿している様だった。
「小鳥遊さん、僕もこの機会に話したい事がある。奇跡についてだ」
「ああ、そんな事話したっけ」
アビドスを助けたい一心でホシノは奇跡を祈った。その正体は奇跡どころか醜い悪意そのものであった記憶を思い出してか、彼女の表情がうっすらと曇る。
「君は僕に『奇跡を信じるか』と聞いたね?そして僕は信じない、と答えた。あれが誤りだったと伝えたかった」
海中にいられる時間は残っていない。できればそれまでにホシノには話し終えたい。
「僕は科学者だ。基本的に、証明できないものを論拠にしたくはない。奇跡についても同様に、そういったものが世界の何処かに存在するのかと問われたら、肯定はできない。僕達が存在している世界が『愛』や『希望』で成り立っているだなんて、心から信じられない様に」
「……」
「けれど、こうも思うんだ。絶対的な存在がもたらす『奇跡』は存在しなくても、自分以外の誰かを想った行動が、思いがけない結果をもたらすのならば、もしくは人生を変える出会いや出来事があるとすれば―――――僕はそれを『奇跡』と定義したい」
「……それじゃあ、私からすれば先生に会えたのは奇跡になるね。シロコちゃん達に会えたのも」
「君達が互いを大切に想う事も、また奇跡だ。同時に僕はこう考えるんだ。奇跡とは偶発的に起こるものなのか?意図的に起こせるものなのか?と」
そこでホシノは何かに気付いたのか、眉を釣り上げる。相変わらず察しが良いな、と飛鳥は頷き返した。
「先生の放送するラジオはその為?先生は、奇跡を起こしたいの?」
「正確に言うと違う。奇跡を起こすのは僕じゃない。僕はただ、数字を発信するだけ。この世界で生まれ落ちる痛みや悲しみを、価値や意味など存在しない透明な数字として。奇跡は君達が起こすんだ」
法術による空間の維持がまもなく終了する。飛鳥は一拍置いて、ホシノへと微笑みかけた。
「人が誰かを想う事を奇跡と定義して、透明な数字がいずれ誰しもの心を突き動かせる様になれば……『善意の集積』は『奇跡の集積』になる。世界平和、それが僕の夢だ」
「……わーお、先生、結構ロマンチックな事言うじゃん?」
「我ながら、そう思うよ。こういう言い回しは苦手だと心底思う」
時間だ。飛鳥はホシノの手を握ると、再び瞬間移動を試みる。ぎゅっと強く握り返されたので何事かと顔を向けると、そこには満面の笑みがあった。
「先生ならきっとできるよ、世界平和!」
私に絵を描く力があればお魚を背景に微笑む飛鳥を描いているところなのだがそのようなものは持ち合わせておりません、悪しからず……。
そして多分なんですけどこの話で出てきた言葉が恐らく最終章の名前になるかと思います。