先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
ゴールデンフリース号の中心部に位置するカジノは予想以上の喧騒であり、欲望渦巻く混沌と言えた。騒々しいbgmと際限なく続くゲーム筐体からの電子音はある種の酩酊感さえ味わせる。人に、空気に酔いかけるのだ。
そんな熱狂を飛鳥達はかき分けながら進んでいた。間違いなく人混みによって潰れるであろう飛鳥を真ん中のあたりに配置し、先頭を歩いているのはネルである。
「ちっ、なんつー人混みだよ。こいつらもしかしてずっとここで遊んでんのか?」
「この盛り上がり方からして、恐らくそうなんだと思う。ものすごい人気だ……船の運営が生徒会から離れていった原因はこれと見て間違いないだろう」
「巨額の資産を得た結果、独自での運営が可能となり、そして……というわけですね、あうう」
「本当にここにいるのかな、白兎とハッピーケイオス! 全然それっぽいの見えないや!」
ネルの身長は決して高くはない、むしろ年齢の事を考えれば小柄だと言えよう。それでも臆する事なく肩で風を切りながら堂々と進んでいく。その心強い勢いに頼って飛鳥達も彼女の後を続けばなんら問題がなかった。
ケイオスとコユキの姿はまるで見られない。人通りがあまりにも激しいのだ、見つけられるものではない。罠を作るには完璧なシチュエーションであると再認識してしまいながらも、飛鳥は辺りを窺いながら、コユキの姿だけでも探してしまう。それでも後ろ姿さえ見つかりはしない。
「畜生。おい、どっかで一旦休もうぜ。こんなんじゃどうしようもねぇ」
「何処かと言っても……ああ、あそこなんてどうかな。バーか何かみたいだ」
苛立つネルを少しでも落ち着かせようと、飛鳥はカジノの一角を指差していた。バーカウンターらしきブースがカジノから少し離れた場所に設けられており、ほんの僅かではあるが娯楽から意識を外す事のできる憩いの場である様だ。
となればそこに向かう以外に選択はない。人混みに揉まれ、酔うくらいならば一度状況を遠目から確認するのは間違いではないはずだ。
そそくさとカウンターへと向かっていき、ひとまず全員が息をついた。幾らなんでも人が多すぎるのだ、対応にも一苦労です。
「い、いらっしゃいませぇ。何をお飲みになられますか?」
カウンターにずらりと座った飛鳥達へとバーメイドらしきバニーガールが声をかけてくる。何か頼まなくては申し訳ないと思い、飛鳥はメニュー表を見ようとそちらへ顔を向け、「おや」と声を上げた。
「君は確か、部屋に服を持ってきた……」
「あ、へ、へへえ、またお会いしましたね。奇遇ですね、はいぃ」
四人組でやってきたバニーガールの一人、オドオドしながらも飛鳥達に船内でのルールを説明してくれていた少女である。よもやまた会うとは思っていなかった飛鳥はそういう事もあるのか、と驚きつつも、客として接する様に務めた。
「飲み物を頼みたい。何があるかな」
「あ、はいぃ。ええとですね……アイスミルクにオレンジジュース、コーラにジンジャエールにアイスコーヒー……あと乳酸菌飲料、こんなにあるんですねぇ、えへへへ。あ、申し訳ないんですけどお酒はないんです」
「アルコールの類は飲まないから大丈夫。コーラを人数分もらえるかな」
「できたら、ビンのままでお願いしたい。栓抜きも」
財布を取り出し、紙幣を少女へと差し出そうとしたところで横からカリンが割って入った。どうかしたのかと訝しむ飛鳥に対して、彼女は視線で何かを訴えかけてくる。それが飲み物をバーメイド側に開けさせるのではなく自分達の手で行う事で、少なくとも何か入れられる可能性がなくなるからだと遅く理解した。仮にもケイオスがオーナーを務めるカジノである、何処まで手が伸びているのかわからない事を考えれば、警戒するに越した事はないだろう。
アクション映画のボディガードじみた動きであるが、慣れた様子を見るにそうした仕事もC&Cはこなしているのだ。飛鳥は感心しながら、カリンに続いて少女へと頷いた。
「お願いできるかな」
「わ、わかりました、ちょっとお待ちくださいね」
少女は慌ててカウンターの裏側に置かれている冷蔵庫へとしゃがみ込むと、ガチャガチャ音を立てながら人数分のビンをカウンターへと置き、栓抜きもそっと添えてくれた。
カリンは早速一本手に取り、栓抜きで蓋を開けると一口毒見をする。なんら問題がないと判断すると、そのまま彼女はコーラの瓶を飛鳥の前に置いた。
「先生、どうぞ飲んで」
「……えっ?」
飛鳥は思わずカリンを見やる。驚愕のあまり声がうわずってしまい、どうしたものかと数秒程固まった。カリンはと言えば困惑の理由をわかっていない様で、不思議そうに首を傾げている。
毒見というからにはこの結末に辿り着くと何故気付けなかったのかと口がモゴモゴする。視線をビンからカリンの口元へと動いていき、飛鳥はアスナと同様のやりづらさに表情を引き締めた。
「毒は入っていないから心配しなくて良いよ先生。ほら」
「……」
心中穏やかではない。ここでビンに口をつけた時点で事実上の間接キスが成立してしまう。カリンはあくまで仕事として、護衛対象である飛鳥を守る為に毒味を買って出てくれた。彼女自身もその認識で間違いはなく、飛鳥もそこまで知り合ったわけでもないのに体を張ってくれるカリンに対して感謝の念しかない。しかしあまりにもナチュラルに口をつけたビンを置かれては、どうするべきが正解なのかまるでわからない。
(口をつけずに飲むか? いや、しかしそれで角楯さんに悪い印象を与えたら失礼だ。彼女の努力を無駄にするのか僕は……)
いっそアスナがやってくれていたら少しは気が楽なのだが、と考えながら視線をそっとカリンの隣に腰掛けているアカネへと向ける。彼女はクスリと微笑むばかりである。飛鳥は最早避けられぬと覚悟を決めて、ビンを手に取るとぐびりと炭酸を喉へと流し込んだ。パチパチと弾ける感覚と程々な甘さが、人混みの熱気に当てられていた体を癒やしてくれた。カリンも安心した様子で頷くと、自分の分を開けて飲み始める。
「くあ~! 疲れた体に染みるなぁ!!」
「だから、てめぇまだ何もしてねぇだろ……?」
左隣から聞こえてくるマリナの歓喜に震える声とネルの困惑を聞きながら、飛鳥は可能な限り無心でコーラを喉に流し込み続けた。
「あ、あのぅ、皆さん一体どういったご関係なんですか?」
バーメイドの少女は訝しみながら飛鳥へとそう問いかけてきた。彼女からすれば、大人一人と五人の少女というのはさぞかし不釣り合いに見える事だろう。右から左まで興味深そうに眺める視線からも疑問はありありと感じられた。
「僕はシャーレの飛鳥。彼女達は僕の教え子なんだ」
「シャーレ、ああ、知ってます知ってます。へえぇ、シャーレの先生もこんなところに遊びにいらっしゃるんですねぇ……?」
「それが遊びに来ているわけじゃなくて、人を探しているんだ。この子なんだけど」
飛鳥が差し出したコユキの写真を少女は手に取り、まじまじと見つめる。心当たりがある様子だ。
「何処かで見ていたら教えてもらえないかな……?」
「こ、この子でしたら、最近ずっとここで遊んでますよ。はいぃ」
「この大勢の人混みの中から見つけるのは、少し骨が折れるな……」
椅子を一回転させ、飛鳥はゲームに熱狂する少女達を遠目から眺める。この中からコユキを見つけ出すなど、そう上手くいくものではない。しかしながらそう時間も残されていないときている。法術を使ってしまえば容易だろうが、ケイオスの存在を考慮すると決断まで踏み切れない。
「こいつら、なんだってこんなに熱中してんだ? 楽しいからって普通ここまではいかねぇだろ」
「あ、それはですね、このカジノでの結果が船内での待遇に繋がっちゃうんですよ。ゲームの結果によってDからSまでランクが与えられて、高ければ高い程船内での立場が良くなるんです。えへへ、まるで人生みたいですよね、恵まれている者は富に溢れそうでないものは地を這う……人生と社会の縮図を表しているんですよ」
「なるほど、僕がDランクだと言われたのはそのせいか」
「じゃあ何か? こいつら、ゲームに一喜一憂してんのかよ! くだらねぇ……まさかとは思うけど学校にも行ってねぇのか?」
「お、恐らくそうですね、はい」
ビンを片手にネルは心底忌々しげに嘆息する。今すぐにでも手近な生徒に喧嘩を売りそうな勢いだが、怒りを誤魔化すかの様にコーラをあおる。飛鳥はそんな様子に目を丸くして、
「意外だな。美甘さんはサボタージュは好きじゃないんだ」
「あぁ? あったりめぇだろうがよ。あたしはな、真面目で通してんだぜ。こんなアホ共と一緒にされちゃたまんねぇよ。喧嘩はすっけどな」
「そういえばセミナー襲撃の際に起きた破損の幾つかはC&Cが補ったと聞いたけれど、もしや君が?」
「あの
ネルという少女は見かけや言動によらず、生真面目な一面がある様だ。思えば飛鳥と戦う事になった際も戦意を失った相手をそれ以上追い詰める事はしなかった。
認識を改める必要があるな、と飛鳥が考えていたところで、妙な熱視線を感じた。バーメイドの少女からのものであると気付き、そちらへと目を向けると、ほんのりと顔を赤くして彼女は飛鳥の持つコーラのビンをじっと凝視している。
「……じゅるり」
自分も飲みたい、そんな気持ちがありありと顔に表れている。バーメイドの少女は何処か様子がおかしい。部屋にやってきた際にはアルバイトと名乗っていたが、どうにも拭いきれない違和感がある。
「ええと」
「ハッ!? す、すみません、失礼しました。あんまりに美味しそうに飲むものですから……! 一口くらい貰えないかなとこう、よだれが!」
「コーラ、好きなのかい」
「いえ、というよりあんまり飲んだ事ないものでどんな味なのかな~なんて……えへへへ、び、貧乏でして」
貧乏だと呟く瞬間の声色だけは、僅かではあるが低い声色になっている事を飛鳥は見逃さなかった。仕舞い込んでいた財布を再び取り出すと、コーラの瓶をもう一本頼める代金をカウンターへとそっと置く。その模様を横から見ていたネルから「へっ」と好ましげな反応が返ってくる。
「もう一本コーラを頼みたい。君の分だ」
「え、ええ!? い、良いんですか?」
「色々教えてくれたお礼だよ。他の子には内緒にして」
「あ、ありがとうございます! お、お願いなんですけど……厚かましいと思うんですけど、もう三本いただけたりしませんかね……? 友達も一緒に働いているものでして」
「凄い。奢ってもらう数を増やそうとする人、初めて見た」
カリンが驚きを超えて尊敬に近い呟きを漏らす。飛鳥はこれにも頬を緩めて、紙幣を一枚手渡す。コーラ四本分どころか、十分なおつりが返ってくる程である。これには少女もハッとした表情で、手をわなわなとさせる。
「い、良いんですかこんなにいただいて!? 実は交換条件とかあったりしませんか、あわわわわ……」
「何もないよ。これはあくまでお礼として受け取って欲しい。そうだな……チップという奴だよ。仕事に対する僕からの謝礼であって、業務上での些細な出来事でしかない。友達にもよろしくと伝えてあげて欲しい」
「あ、ありがとうございます! わぁい……こんなにチップもらっちゃいましたあ……」
ふにゃふにゃとした上機嫌な笑顔を浮かべて少女は紙幣を懐に隠すと、しゃがみ込んで冷蔵庫の中身を漁り始めた。貧乏という言葉に偽りはないのだろう、小声で「あっコーラ以外にすれば良かったかも……高い奴……」と囁いているのが聞こえてくる。
そこで飛鳥は先生としてやらねばならない事があると理解し、少し身を乗り出した。
「……君、名前は?」
「わ、私ですか? 私はヒ……シオリと言います、はいぃ」
「もしも困った時や、誰かに頼りたい時があったらシャーレに来て欲しい。僕にできる事は微々たるものかもしれないけれど……ちょっとした援助くらいなら問題ないから」
「ほ、本当ですか? ご飯食べたいなあとか思ったら、連絡しても良いんですか?」
「僕の財布が擦り切れる様なレベルでなければ、だけど」
「わぁい……その時はよろしくお願いします。えへへへ」
「おいおい、そんな事ばっかしてたらシャーレがパンクしちまうんじゃねえか」
そう指摘してきたのはネルである。首を動かせば、口の端をニヤリと歪めている。彼女に試されているのだとすぐに察した飛鳥は、毅然とした口調で返す。
「僕は先生だ。生徒の為にいる。これだけは、胸を張って言える事だよ」
「あたしはてっきり、てめぇがもっと融通の効かねえ奴だと思ってたぜ。あれだろ、犬とか猫とか雨降ってる時にちゃんと拾ってきちまうタイプだろ」
「なーんか聞いてる感じ、ご主人様とリーダーって似てるかも」
ビンを片手に余裕綽々で話していたネルは横からアスナが投げかけた野次に顔を赤くした。すぐに口をぎゅっと引き締め、
「ば、馬鹿! 何言ってんだ、あたしはそんな」
「この前私、アカネちゃんと見たんだよ。雨の日に我らのリーダーが捨て猫を拾って『どうしたお前、捨てられちまったのか?』なんて話しかけてるとこ〜!!」
「あの時の部長は大変凛々しく思いました。そうですね、アスナ先輩の言う通りご主人様と部長は似ています。困っている誰かを放っておけないのですね」
「や、やめ、おいやめろ! 何話してんだおい!」
冷やかし───と表現するべきかどうかはあやふやだが───を受けてネルは顔を真っ赤にしながらハッとして飛鳥へと視線を戻す。どう返答すれば良いのか、それがまたわからなくなり彼は口を閉ざしていた。
飛鳥とネルの関係を一言で表すならば、ギクシャクである。一度敵対関係になったものの、まともに戦いはせずに有耶無耶にしてしまいそれきりで、ネル側からすればさぞ不完全燃焼であろう。誠実とは言い難かった対応への埋め合わせをできないものかと飛鳥自身考えに考え抜き、未だに解答を出せずにいた。
「んだよ、笑うんじゃねえぞ」
「まさか。むしろ、君が真面目で筋の通った人間である事がわかったよ。僕の友人にも似た様な性格の人物がいてね……信用に値できる」
「おーおー、頼りにしてくれ。てめぇみたいなモヤシ、放っておいたらすぐクシャクシャになっちまうだろうからな……あ?」
と、そこでネルはギュッと額に皺を寄せ、椅子から立ち上がる。
「おい、あれ見えるか?」
おもむろにネルが指差した先、多くの筐体とそれに向き合う生徒達、全員がバニー衣装を身につけており中には個性的なコーディネートを施している者もいる。その中に、見覚えのある桃色の後頭部が混じっている。
「……黒崎さんだ」
飛鳥はネルと同じく席を立つと、思わず床を蹴って走り出していた。
「あ、おい!」
背後からかけられた静止の声も聞かずに人混みへと身を投じる。我ながら気が急いていると感じながらも、飛鳥はコユキらしき後ろ姿を追いかけていた。
コユキの失踪は、飛鳥にとっては遂にこの時が来たという感覚だった。ケイオスがキヴォトスの裏で暗躍している組織、ゲマトリアの顔見知りであるというのならば、黒服と同様に生徒達へ接触し、利用しようとする可能性は十分にあった。よりにもよって特異な能力を持つコユキである事が、飛鳥の胸に僅かな焦燥感を与えてしまうのだ。
人混みを掻き分けながら進もうとするが、飛鳥の細い腕では押しのける事など敵わず、道を開けて欲しいと呼びかけてもか細い声に従う者などおらず、それどころか邪魔だと思われてしまい逆に飛鳥は突き飛ばされて尻餅をつく始末だ。
「あうっ……」
「あっ! おのれ貴様、よくも飛鳥先生を突き飛ばしたな!? 粛清だぞ貴様、粛清!!」
まるでこの瞬間を待っていたかの様に、誰よりも先に飛鳥の前へと躍り出てきたのはマリナだった。目を引く金色のバニーガールは颯爽と現われると、飛鳥を突き飛ばした生徒がいるであろう方向に顔を向けながら、めいっぱい胸を張り、
「ええいどけ! どかんか! どけどけ有象無象共が、シャーレの飛鳥先生が通るぞー!」
「い、池倉さん」
「こういう荒事は私の得意分野だ。こう見えて保安委員長だからな、さぁどけどけ! 粛清するぞそこの貴様!」
耳障りな電子音が霞む程の大声をあげながら、マリナは人混みを無理矢理かき分けていく。レッドウィンターという環境下であるからこそと言う他にないその荒々しさと頼もしさに、飛鳥は腰を抜かした姿勢のままでただ感激してしまっていた。強引さを極めてるという他にない。
追いついてきたネルは前へと突き進んでいくマリナの後ろ姿を見つめながら、困惑の表情を浮かべていた。
「なぁ、アイツどこまで行くつもりなんだ……?」
マリナは人混みをかき分けている。かき分けているが、間違いなくコユキらしき人物がいた辺りを突き抜けて前進している。何処を目指しているのか全くわからない程に前進している。
「そらどけどけ! どけどけ! どけどけ!」
「……もしかして池倉さん、よくわからないままとりあえず僕を助けに来てくれたのかな」
「よくわかんねぇのにあんだけ自信満々でいられんの、おかしくねぇか」
そうして、マリナは前進を続けて……姿が見えなくなった。彼女が海を割ったモーセの如く作り出した道は幸いにも残っているが、当の本人は一体何処まで向かうのかは誰にも―――下手をすればマリナ自身にも―――わからない。
頼りがいのある活躍に続いての予想外な退場に飛鳥とネルは互いに顔を見合わせてしまう。呆れながらもネルは飛鳥の手を取り立ち上がらせ、
「あのチビはまださっき見た辺りにいるはずだ。行くぞ」
飛鳥の手を握ったままでネルはマリナが作った道を進み始める。少し強めに、けれど飛鳥が痛いと思わない程度の力加減だ。それが彼女の根が優しい事を証明している。
「てめぇな、弱っちいのに前出るんじゃねぇよ。怪我したって知らねぇぞ」
「ご、ごめん……」
「そんなにしおらしくなるなよな……?」
粗暴な口ぶりではあるが、ネルは飛鳥の手をしっかりと握り締めたままである。絶対に離す事はないであろう。
こんな風に誰かと手を繋ぐ事を、飛鳥はキヴォトスに訪れてから何度か体験した。少なくとも一〇〇年以上に渡る人生で他人の体温を肌越しに感じるなど滅多にない、貴重な経験であると言えよう。
飛鳥=R=クロイツという人間は一言で言うならば不干渉である。言葉を交わす程度はするが、決して自分以外の人間と親交を深める事を好む人間だとは言い難い。飛鳥本人はそれを『辻褄合わせ』と呼称した事がある。
別段、他人を嫌っていたわけではない。周囲との軋轢を望んでいるた事もない。ただ、いつも自分の在り方というものを俯瞰的に見てしまっていた。自分をもう一人作らなければ、自分を理解できない程度には。
それを踏まえればキヴォトスは、先生という役割は、飛鳥が否が応でも自分の身一つで向かい合わなければならない状況だ。おかげで多くの人間と自ずと関わっている。
「美甘さん、ありがとう」
口を突いて出た言葉は、感謝だった。突然の発言にネルもきょとんとしながら振り返る。
「あ?」
「僕一人だと、多分今頃皺まみれになって床を転がっていたと思う。手を引いてくれてありがとう」
「何改まってんだ? 目の前で死なれちゃ寝覚めが悪ぃだけだよ」
「……優しいんだね、君は」
「んだよ、気持ち悪ぃ奴。ん? おい、見えてきたぜ、あのチビだ」
飛鳥はすぐに意識を切り替えた。感傷的な自己を頭の片隅に押しやり、この船へやってきた目的を再び思い起こす。かき分けられた人混みの奥、スロットマシンらしきものに向かい合っている、コユキの姿がハッキリと見えた。バニーガール姿にカーディガンを羽織り、笑みを浮かべながら遊んでいる。見る限りではケイオスに何もされていない様だった。
ネルと共に歩調を早めていき、飛鳥はコユキの元へと走って行く。そして肩へと手を伸ばし―――
「黒崎さ……」
「ん!? なんだ貴様!」
横からサッと割って入ってきたバニーガールの指が飛鳥の腕を掴み、軽く捻りあげる。ギリギリと締め付けられる音と刺す様な痛みに飛鳥は視界が明滅し、「ぎゃっ」と短く悲鳴を上げた。
「そりゃこっちの台詞だてめぇ!」
返す刀でネルは凄まじい速度でバニーガールの脇腹に蹴りを浴びせる。足裏が叩きつけられる歪な音と共に飛鳥の腕にかけられていた圧力が一瞬で離れ、バニーガールは衝撃で数メートルは吹き飛ばされてしまっていた。
これにはゲームを遊んでいたコユキもギョッとし、何事か振り返る。背後に立っていた人物が飛鳥だと気付くや否や、その表情は明るくなった。
「あ!? 飛鳥先生! 先生先生、来てくれたんですね!?」
椅子から弾かれる様に立ち上がり、コユキは飛鳥へと抱きつこうとする。しかしそれを阻むかの様に何人ものバニーガールが二人の間に立つと、携行しているライフルの銃口を飛鳥へと突きつけた。
慣れたつもりでも、脈絡もなく飛び出した銃器に飛鳥は面食らった。コユキに触れようとしただけで暴力を振るわれただけでなく、指一本で頭蓋の中身をぶちまけられかねない凶器を差し向けられるなど、想定外だったのだ。
「貴様! この方はAランクのお客様だ、手を触れるな!」
「え……?」
「Aだかなんだか知らねぇが、そっちから仕掛けてきながらどういう態度なんだよてめぇらはよ!」
ネルが怒号と共に隠し持っていたサブマシンガンを構える。これにバニーガール達もサングラスの奥で敵意に満ちた目を剥き出しにし、ライフルの引き金に指をかけた。
思わぬ事態にゲームに熱中していた他の客もざわめき、そして持ち出された銃器を見て一斉に距離を取り始め、瞬く間に一台の筐体を中心に喧噪は潮が引いていく様に離れていった。
まさに一触即発の場に、ヒールの音を鳴らしながらC&Cのメンバー達は遅れて到着する。今にも銃撃戦が巻き起こってしまいそうな張り詰めた空気に、彼女達も動揺を見せた。
「リーダー? 何事ですか、一体……ッ、これはどういう状況でしょう」
「け、喧嘩……?」
「何、何何、どうしたのリーダー! どうなってんのこれ!」
「どうもこうもねぇ。このアホ共がそこのモヤシに手ぇ出しやがった。ぶっ殺すぞコラ」
「それはこちらの台詞だ。何処の馬の骨かわからんが、礼儀というものを知らないのか!」
「ちょ、ちょっと待って! あの、落ち着いてくださいよぉ!」
慌てて声をあげたのは、事態の原因と言えるコユキだった。両手を振り乱しながら飛び込んでくると、
「なんでこんな事になってるんですか!? というか、なんで飛鳥先生に暴力を振るったんですか!?」
「この船のルールです。見たところ、そこの男は低ランク! Aランクである黒崎様に触れる事すら許されません」
「だからってあんな風にしなくたって良いじゃないですかぁ!」
飛鳥は痛む腕を抑えながら、状況を理解しようと努める。コユキの口ぶりからして恐らくバニーガール達は彼女のボディガードなのだろう。バーメイドの少女、シオリ曰くゴールデンフリース号での待遇はゲームの結果によって与えられるランク次第である。であれば、Aランクに位置しているコユキは船内でも上位の扱いを受けているのだろう。そしてそんなコユキに突然やってきた飛鳥が手を触れようとしたので、ボディガード達は何かされる前に防ごうとしたのだ。
「美甘さん、待って欲しい。銃を下げて……皆も、喧嘩だけはしないで」
「ああ!? 何言ってやがる、一発ぶん殴らせろ」
「彼女達はあくまでルールに従って僕を取り押さえただけだ。ここで撃ち合いになる理由には―――」
「―――ならない。そう、ならないんだよ飛鳥君、ルールだからね。わかるかな、わかるよね」
そこで、彼は現われた。暴力沙汰だと判断し、人混みの中でクレーターの如くぽっかりと開かれた場に。
「コユキ君もその子達を怒らないであげて。何かあったら叱られるのは彼女達なんだからさ?」
「で、でも」
「飛鳥君には僕から言って聞かせるよ。彼、まだここに来て半日も経っていないしね?」
カツカツとわざとらしく足音を響かせて、ハッピーケイオスは遂にその姿を表す。ジャケットにしっかりと袖を通し、ボタンまで締めた整った姿だ。
「ほら、皆銃を下ろして。他のお客様が怖がってる。ほらほら。おっ、良いねC&Cの皆、バニー衣装似合ってるよ」
ケイオスが両手の指を立てて、お辞儀をするかの様に曲げるジェスチャーを取ると、バニーガール達は渋々と言った様子で銃を下ろす。一方でネルは燃え上がる闘志を双眸に宿らせて、今にも弾丸をそこら中に撒き散らしかねない。これには飛鳥がかぶりを振り、
「美甘さん、お願いだ。銃を下ろして」
「でもよ……」
「ここで暴力沙汰になれば、僕らは客から犯罪者になってしまう。まだ誤解だったと釈明できる余地がある今ならまだ間に合うはずだ」
飛鳥はネルが愚かな人間ではない事を既に知っている。仮にも依頼を受けて動く立場であれば、この状況で任務そのものを台無しにしかねる選択を取らないと。
懇願にも近い声色にネルは根負けして、ゆっくりと銃を下ろした。ケイオスはにっこりと笑うと飛鳥へと向き直り、
「お客様、部下に代わって謝罪します。ご無礼を働き、申し訳ございません」
「……」
「ああ、自己紹介を忘れておりました。えへんえへん。わたくし、当カジノのオーナーを務めております、ハッピーケイオスと申します」
わざとらしい咳払いと共に大仰な身振り手振りでケイオスは会釈をするのだった。
このChapterのテーマが何かと言われるとほぼ乙女ゲー的なそれになります。