先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
かつて、飛鳥=R=クロイツが突然連邦生徒会長の推薦を受け、シャーレの先生へと任命された日。キヴォトスを治めていた連邦生徒会長の失踪を受け、大規模な暴動が引き起こされた。
その際にキヴォトスでも屈指の収容所である連邦矯正局より、七人の生徒が脱走した。暴力に対して著しくハードルが低い学園都市において、『閉じ込めておかなければならない』と見なされた問題児というわけである。あまりの危険性にその生徒達は『七囚人』と呼ばれ、脱走して以降どの学校も消息を掴めずにいた。
そんな七囚人の一人、狐坂ワカモ。『厄災の狐』の二つ名を持つ、暴力の化身。飛鳥が先生となったその日に大暴れしていた生徒である。まだ法術を使用できない状態ながらも飛鳥は早瀬ユウカ、羽川カスミ、火宮チナツ、守月スズミの四人を指揮してなんとかワカモが扇動した暴動を抑え込み、占拠されかけていたシャーレを奪還する事に成功したのである―――
※
『飛鳥先生、シャーレの奪還を確認しました。地下にある部屋で合流しましょう。お渡ししたいものがあります』
「……あの、戦車やら何やらで、市街地が凄まじい状態になっていたんですけど、これが普通なんですか?」
『いいえ、今回は非常事態であったと言っておきます。ご協力、心から感謝します』
連邦生徒会行政官、七神リンとの会話をそこで終えて、飛鳥はシャーレの建物をじっと見上げた。ビル一棟が丸ごと連邦生徒会が管理する組織の施設だとは聞いていたものの、実物を目にすると壮観である。周囲をぐるりと見渡せば凄まじい戦闘の跡が広がっており、戦車の残骸まで転がっている始末だが。
この世界は、何処なのか。
飛鳥はいつも通りに掌を空へと向けるが、法術が発動する気配はまるでない。先程も生徒達を指揮しながら試したものの、その際にも法力が応える様子はなかった。
(目が覚めるとここにいて、先生になっていた。続けざまに暴動の鎮圧も命じられて……なんていうか、急転直下とはまさにこの事だな、うん)
考えても埒が明かないので、飛鳥はリンから言われた様にシャーレの地下へと向かうべく建物へと足を踏み入れる事にした。
暴動鎮圧と護衛を兼任してくれた生徒達には引き続き建物周囲の安全確保を頼み、人の気配が感じられない純白のビルへと入っていく。長い間使われていなかった様で、入って早々に物々しいロビーが広がっていた。リンは『連邦生徒会長の不在によりキヴォトスは大混乱に陥っている』と漏らしていたが、シャーレと呼ばれる施設はその間用なしだったのだろう。
ロビーに掲示されていたフロア表示を確認してから地下へ向かう道すがらも生活感というものは感じられず、ここに立ち入った唯一の人間が飛鳥なのではないかという疑問が湧いてしまう。
「……本当に誰もいないのか」
廊下を歩きながら漏れ出た呟きはゆっくりと反響していく。ティル・ナ・ノーグの内部でもここまで寂しい空気は存在しないだろう。
階段を踏みしめ、足音を響かせながら飛鳥は無言でリンとの合流場所へと向かった。部屋があるとの事だが、それなりに大きなビルの地下に何があるというのだろうか。考えつくのは研究所の類いだが、まさか初対面に近い飛鳥をそんな場所へすぐに案内するとは考えがたい。
何故法術が使えないのか、一体これからどうしていくべきなのか、疑問ばかりが頭を埋め尽くしていく中で飛鳥はようやく地下の部屋に到着した。自動ドアが開き、大きなオフィスが姿を現わした。
(研究所、と呼んで良いのだろうか。少なくとも何かしら重要な部屋みたいだ)
オフィスは二階建てに近い構造で、入口は二階に位置している。スロープを伝って降りていくと一階部分には壁に埋め込まれた液晶画面やデスクトップ端末を備えたデスクなどが見える。何より飛鳥の目を引いたのは、中心部に置かれている装置だった。
一階へと降り、飛鳥は装置へと歩いて行くとまじまじと観察する。煙突の先の様に突き出た、何らかの噴出口を思わせる外観である。
「これは……?」
リンが渡したいものとは少なくともこの不思議な装置ではあるまい。となればリン本人がこの場にやってくるまで待つべきなのだろうと思い立ち、それまでは下手に動かず待つべきだろうと飛鳥は装置に背を向けた。デスクの椅子に座り込み、一息つきたいという気持ちの方が強く、この瞬間だけは興味を勝ったのである。
が、振り返ったところで飛鳥は驚きのあまりヒュッと普段ならば絶対に出ない声を漏らしてしまった。自分以外誰もいない、そう思い込んでいた空間にいつの間にか、狐の仮面をつけた少女が佇んでいたのである。仮面の主が何者であるのかを彼は知っていたが故に息を呑んでいた。
(この少女は、確か狐坂ワカモ……この暴動を扇動していた張本人だ。何故ここにいるんだ? まさか、忍び込んでいた……?)
最悪な状況であった。飛鳥自身には戦う力など皆無、護衛である生徒達も屋外にいる。だというのに目の前には暴動を起こし、大暴れしていた生徒がいる。彼女の手には銃剣が装着されたライフルが携えられていて、いつでも飛鳥の命を奪える準備は整っている。大声をあげて助けを求めたところで、その瞬間に命運は決する。
飛鳥は言葉もなく、じっと立ち尽くす。今できる最善の行動は無抵抗であると示す他になかった
「……あなたは」
仮面の越しにワカモの呟きが漏れ、次の瞬間少女は眼前へと瞬間移動かと見紛う速度で接近していた。これに思わず飛鳥はたたらを踏んでその場に尻餅をついてしまっていた。
臀部の痛みに顔をしかめながら、自分が置かれている状況が危機的なものであると遅れて思い出し、
ハッと顔をあげればワカモはじっと飛鳥を見下ろし、仮面の奥でらんらんと金色の目を光らせていた。
ワカモの手が、ゆっくりと飛鳥へと伸びていく。何もかもを引き裂いてしまえそうな、凶暴な指が―――
※
「―――何故、このタイミングで彼女がここに?」
動揺が口を突いて出てくる。事態が収束に向かおうかというこのタイミングを見計らったかの様な登場に歯噛みしながらも、飛鳥はすぐさまこれよりカジノを舞台に引き起こされるであろう騒動を見越し、生徒達へと振り返る。
七囚人の一人、ワカモの実力はよく知っている。故にこの状況を打開するには持てる力の限りを尽くす他にない。
「皆、ケイオスの確保は一旦見送る。もしも本当に狐坂さんがここにいるのならば、今すぐに取り押さえる必要がある。銃器の方は僕が抑えよう」
飛鳥の判断は速い。指示を飛ばしながらも既にその手には『本』を出現させ、いつでも法術を使用できる状態へと移行している。これにネルは眉を釣り上げ、目を細めて訝しんだ。
「あ、なんだよ魔法使うのか、あたしにはやらなかったのによ」
「可能ならば使いたくはないんだ。ただ、狐坂さんを相手するならばこうでもしないと事態が悪化してしまう。全力で当たる必要がある」
「……まぁ、『厄災の狐』なんて呼ばれてる奴なら仕方ねぇか? 任せて良いのか」
「問題ない。僕の合図があるまで、待機していて欲しい」
爆発が起きたカジノ入口からは既に銃声が聞こえてきている。一つ二つどころではない、銃撃戦が繰り広げられているのだ。このまま放っておけばどれだけの被害になるかなど想像し難い。できる限り早々にシージャック犯達を撃退し、取り押さなければならないのだ。
飛鳥の指示に対して最初こそネルは不服げであったが、すぐに仲間達に視線で指示をして動き出した。流石キヴォトスのカジノと言うべきか銃器の携行が許されていたおかげで、C&Cは素早く戦闘に備えて各々の得物を構え始めた。
ただ一人、手錠で拘束されたままのコユキだけは目まぐるしく変わる状況に翻弄されている様で目を泳がせていた。誰かに助けを求めたくてもネル達は剣呑とした雰囲気を纏い始め、飛鳥も真剣そのものな表情を浮かべているおかげで声をかける事さえ叶わない。勿論、それに飛鳥も気付いていた。
「黒崎さん」
「は、はい!」
「これから戦闘が起きる。忙しなくなるだろうから、できれば僕のそばを離れないで。怪我をして欲しくはない」
「わかりました! はい!」
そそくさとコユキが傍らへと駆け寄ってきたを確認して、飛鳥は『本』を広げる。肉体を取り囲む様に無数の情報が映像となって浮かび上がり、敵対者の全貌を開示し始めた。
カジノ入口をカメラが映しているかの様な映像が視界に滑り込んでくる。ヘルメットを被った少女達を率いて、銃剣が取り付けられたライフルを手に妖狐の仮面をつけたリーダーらしき人物の姿がそこにあった。
「首謀者は狐坂さんで間違いない。気を引き締めて当たろう。美甘さんと一之瀬さんは二人組になって応戦、角楯さんは前線に立つ二人の援護を。室笠さんは……いや、君も援護に」
「あ? てめぇ、一人で大丈夫なのかよ。アカネはそばに置いとけよ」
「そうです。私達の仕事はご主人様の護衛、それを放棄するわけには……」
「今この場では僕を守る事よりも、敵を抑える事に集中して欲しい。大丈夫、一瞬で済ませよう」
この返答に対して、異を唱える生徒はいなかった。というのもつい先程までどちらかといえば頼り甲斐があるとは言えなかった飛鳥が今この瞬間は表情を引き締め、司令塔としての役割に徹する冷徹な存在へと切り替わっていたのだ。スイッチを切り替えたかが如き転調に、アスナは心底楽しげに笑みを浮かべていた。
「じゃあご主人様、お願いね!」
「任された」
直後、C&Cは飛鳥の下を離れてワカモを撃退するべく駆け出す。彼女達が先生を信じている証左というべきその動きを見届けながら、飛鳥は両腕を伸ばし更に掌を広げる。
「う、うわわわわぁ、なんですか先生これ!? あ、この前のハッキングってこうやっていたんですかぁ!?」
「大体そういう事になる。黒崎さん、少し静かに。集中したい」
これまで飛鳥は法力を用いて砂漠を海の様に歪め、風を自由に操り嵐を作り出し、そして無から有を生成してみせた。今回もそれに倣いつつ、しかし高度な干渉に挑もうとしている。世界の理を歪める力の対象をカジノという閉鎖空間にのみ絞り、シージャック犯の武装のみを破壊しようと言うのだ。尋常ならざる法力の出力調整と精度が必要となり、とてもではないが99秒という限られた時間制限の中で達成できるものではない。
「―――よし」
だがそれは、マスターオブソーサリーに対しては何の障害にもならない。あらゆる物理的干渉を弾く『絶対防壁』さえも打ち砕ける算段を整え、実行してみせる男にとっては児戯にも等しい。既に標的である銃器への照準は定められている。
普段の戦闘ならば、これほどの正確な法術の行使には莫大な集中力が必要となる。銃撃戦の最中で行うのは至難の業だが、僅かながら猶予のある今だからこそ行える無理と言えよう。
全ての算段が十秒程で整った。後は実行するのみ……というところで、飛鳥は指先がピリリと痺れるのを感じた。次第にそれは肘の辺りまで上り詰めてくる。何者かが同じ法術を用いて、彼に妨害を仕掛けてきている。飛鳥=クロイツ以外にそれを行える人物は、ただ一人である。
通信回線が無理矢理に開かれ、忍び笑いと共に聞き慣れた声が流れ込んでくる。「駄目か」と口中で毒づきながら飛鳥は声に耳を傾けた。
『やあ飛鳥君』
ケイオスだ。飛鳥が発動した法術に横から割り込み、自分のものとしてハッキングを仕掛けてきている。両腕を襲う痛み混じりの痺れは、気を許せば意識を飛ばしかねない。少しでも弱みを見せまいと試みながら傍らのコユキを横目に、
「どうも。予想通り仕掛けてきましたね」
『予想通り? これでもかってくらいプロテクト仕掛けていたのは君じゃないか……』
「正直、予想としてはあまり当たって欲しくない部類でした。これでもかというプロテクトを仕掛けていたので」
アビドス砂漠で車を走らせながら、ケイオスは飛鳥に挑発混じりで『本の著者である自分ならば法術を使える』と言い切った。それを聞き、飛鳥が何の対策も施さなかったという事はない。彼の考えられる限りでの防護を『本』に築き、法術に対して一切の介入を許さない構えを取っていた。
だが今、ケイオスは飛鳥が作り上げた壁を全てすり抜けて『本』から溢れる法力を自らのものとしていた。声色こそ平静であろうと努めているが、内心では防護が突破された事への動揺から心臓が早鐘を打っている。
『僕としてはこういう事はあんまりしたくないんだよね。ズルいし。けれどシナリオが狂ってしまった以上はアドリブに走るしかないんだ、心苦しいよ』
「シナリオが狂った? つまり狐坂さんは貴方の差し金ではない?」
『そうだよ。君の教え子のおかげで大ピンチだったところを彼女が飛び入り参戦してくれた。即興劇に早変わりさ。予定を大幅に変更せざるを得ないけれど、これから君には色々やってもらおうかなって』
腕の痺れが強まる。ケイオスは断続的な干渉により、飛鳥の肉体と精神に対して多大な負荷をかけている。少しでも気を緩めてしまえばその時には意識が飛びかねない。
故に飛鳥も力を込めてケイオスへと同じ攻撃を仕掛ける。法術の出力を上昇させ、負荷を強めた。
『あはは、飛鳥君、この前の師弟対決よりも上達したかな? さっきのプロテクトと言い、しっかり反省を活かしているのをビンビン感じるね。でも……』
つまみをグイと回したかの様にケイオスから飛鳥へと向けられている力が増加する。これに耐えきれなかった飛鳥の左腕が突然弾かれ、腕がちぎれ飛びかねない衝撃に呻き声が漏れた。
「あ、飛鳥先生……!?」
コユキが戸惑いの声をあげる。彼女からすれば、飛鳥がひとりでに会話を始めたと思いきや何者かに襲われているかの様な動きを見せている。状況が把握できていないが故の混乱を宥めてやりたいが、意識を目の前の攻防に割かなければギリギリで保っている状態を維持する事さえ叶わない。唇を噛みしめながら飛鳥は激痛に苛まれる左腕に鞭を打ってケイオスへと再び挑む。
勝てるビジョンが思い浮かばない。法術を操る魔法使いとしてのレベルは飛鳥よりもケイオスが圧倒的に上である。故あって生まれた一〇〇年の経験差にしても、相手は埋めるだけでなく容易に上回る事さえできてしあう。だからこそ、そもそも干渉自体を阻んでいたはずだった。法力を自身と『本』にのみ注ぎ込める様に限定し、防護まで築いていた。だというのに乗り越えられてしまっている。
「ぐっ……!」
『飛鳥君、自分を卑下する事はないからね。君の護りは素晴らしいものであったし、元の世界でも突破できる存在なんて滅多にいないだろう。でも僕は例外だ』
「その気になれば貴方はこんな事をしなくても、僕を打倒できる。敢えてこんな方法を取っている理由は……」
『僕が脚本家だから。僕はハッキリ言って神秘や恐怖、ひいては崇高なんてものに興味はないんだ。必要なのはリアリティに、剣と盾のぶつかり合い。剣が一方的に盾を崩すのは面白くないし、盾に剣が全く通用しないなんて言うのもつまらない。程良くかき回したいんだ、わかる?』
「そういうスタンスは、『舐めプ』と呼ばれるそうですよ」
『知ってる知ってる。今日は見逃してやろう、あの崖から落ちて無事では済むまい……ふふふ、嫌いじゃないよ』
苦し紛れに皮肉を混ぜたところで形勢は変わらない。ケイオスが饒舌になるにつれて、飛鳥の全身にのしかかる負荷は次第に圧力となっていき、膝がガクガクと震え始める。あらゆる方向から押しつぶされている錯覚に襲われながら、飛鳥はそれでも必死に耐えようとする。
「何故、真綿で首を絞める様に攻めるのですか。貴方の力ならば、一息で僕を気絶させるくらい容易いのに。前回がそうだった」
『そりゃあこのまま君が負けたらつまらないからさ。あの時とは少し状況が違う。ほら飛鳥君頑張って……まだ君には隠し玉がある、そうでしょ?』
「隠し球……?」
ケイオスの言葉に眉をひそめる。一体何を指してそう呼んでいるのかが飛鳥にはわからず、オウム返しをしてしまう。飛鳥が介入を想定して仕込んでおいた防護は既に破られており、打つ手など皆無に等しい。コユキの事かと考えたが、法術を使えない彼女にこの場で何かできるとは考えられない。
飛鳥が思案するあまり口をつぐんでいると、ケイオスはため息をついた。大きく、心から残念だと言わんばかりに。
『ねぇ、まさかとは思うけど君は使っていないのかい、大人のカードをさ』
「大人の、カード?」
『ああ、その反応は当たりみたいだね。残念だよ飛鳥君、君ならとっくの昔にアレがどんなものであるのか知っているものだとばかり。ごめんね、僕が発破をかけるタイミングが少し速かったみたいだ』
「あのカードに何があるというんですか?」
『何もかもだよ。君が一人の大人であるという事をこの世界に知らしめる為のね。まぁ、端的に言えば……君はこのままだと負ける。僕だけじゃない、キヴォトスという世界に負けてしまう』
負ける? あのクレジットカード一枚が一体何であるかを知らないという、それだけで?
飛鳥の疑問に対して、ケイオスの言葉は続く。
『君はキヴォトスについて少しは詳しくなった気持ちなんだろうけどね、まだだよ。知識だけでは勝てない。君は大人として、更に奥へと深く深く沈んでいかなければならない。代償を払い、自由を捨ててね。でなければ……君一人じゃ名もなき神々の王女にも、魔女にも、■■の■■■にも勝てない』
「……ッ!?」
『良い機会だ。君の成長を確認するつもりだったけど、シナリオは変更するとしよう。この船がどうにかなってしまう前に飛鳥君には大人の階段を登ってもらわなくちゃ。それじゃあね』
「待っ―――」
発言の真意を確かめるよりも先に飛鳥の体は宙を舞っていた。ケイオスが出力を一気に引き上げた事で流れ込んできたエネルギーにより、爆発にも等しい衝撃が襲いかかってきたのだ。防ぐ間もない一瞬の攻撃に対応できず、彼は後頭部を床に強く打ち付ける。
視界が明滅する。体の節々を襲う鈍痛と吐き気に意識さえ霞みかける。完全な敗北を喫しただけでなく、不可解な言葉まで遺されてしまった動揺は飛鳥にとてつもないダメージを与えていた。
「うわぁぁぁ!? 飛鳥先生っ、大丈夫ですか!? 飛鳥先生!」
コユキの悲鳴が聞こえてくるが、ぼんやりとした意識では応答するべく口を開く事さえできない。視界がぐにゃぐにゃと歪んでいく。
(駄目だ、このままでは狐坂さんが野放しになってしまう。彼女を……放っておく、わけには)
奥歯を噛みしめ、体力を限界まで引き絞って飛鳥は上体を起こそうとする。だがぐしゃぐしゃに揺さぶられてしまった脳はそれ以上の動作を体に命じられない。
咄嗟に飛鳥は傍らで涙目になってしゃがみ込んでいるコユキへともたれかかる。そうでもしなければ自分で自分の体を支えられない程に衰弱してしまっていた。
「先生!? 先生、私の声聞こえてます!?」
「黒崎さん、すぐに皆を……ここに、呼んで」
法術によるシージャック犯の確保は失敗した。ケイオスにより妨害を受けただけでなく、飛鳥にも相当なダメージが与えられている。もう一度大規模な法術展開を試みたとしても、その時また戦えるかどうかはギリギリのラインである。
ケイオスが残した不穏な言動についても対処しなければならない以上、作戦を切り替える必要がある。その為にはC&Cの面々を呼び戻す必要がある。ネルの提案は正解だったのだが、過ぎてしまった事を悔やんでも仕方がない。兎にも角にもコユキにもたれかかっている状態から復帰せねばなるまい。
「うわぁぁぁん! 誰か助けてぇ! 飛鳥先生が死んじゃうー!!」
コユキの甲高い悲鳴が頭に響く。あまり聞いていたくないタイプの高音だ、などと場違いな感想を抱きながら飛鳥は一刻も早く立ち上がろうと足に力を込めるが、やはり話にならない。生まれたての子鹿以前に意識を保つのがやっとというところだ。
「飛鳥先生、しっかりしてー! 死んじゃやだー!!」
「―――今、どなたが死にそうだと?」
声。コユキの悲鳴に被さってよく通る淑やかな声が聞こえてきた。C&Cの誰かではない、だが穏やかな声色から敵でもないはずだ。
「あっ、やっ、へぁ! あ、飛鳥先生起きて、起きてぇ!!」
突然コユキが喚きながら飛鳥の体を無茶苦茶に揺らす。何が起きたのかをその目で見るべく、飛鳥は首を動かして声が聞こえてきた方向へと体を向ける。少し時間が経ったおかげで視界もゆっくりと元に戻りつつあり、眼前に立つ何者かを捉えた。
「……ああ、そんな。大丈夫ですか、私の声が聞こえておりますか?」
淑やかな声である。優しく、甘い、好意を隠す事のないそれに本来ならば飛鳥は何かしら返答するべきだ。だが、ハッキリしつつある視界に映り込んでいる彼女に気付いてしまえば、言葉が出ない。
狐の面を被り、銃剣が取り付けられたライフルを携えて、カジノの入口にいたはずの狐坂ワカモはいつの間にか飛鳥の目の前にやってきていた。
「こ、狐坂、さん」
「その様に他人行儀な呼び方をなさらないで、ワカモと呼んでください。あなた様に会いたくて、こうして海上にまでやって来たのですから!」
仮面の奥で、ワカモの双眸がキラキラと輝く。狐の面の奥にどんな表情が浮かべられているのか、考えるまでもなかった。
「さ、あなた様。私と一緒に、めくるめく愛の船旅を……! うふふふふ……!」
4/8までアーク公式が公開していたエイプリルフールのアンソロジーは皆さん見ましたでしょうか。僕はケイオスがどんな事を考えているのかという描写が細かく書かれていて大変嬉しかったです。