先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
───およそ一〇〇年前、キヴォトスとは異なる世界での出来事。
───飛鳥=R=クロイツの全てが変わった出来事。
「モジュレーション反応確認……X2、X3、実体を得ます!」
ソレはゆっくりと彼の前に現れた。光を放ち、血肉を得て、この世の裏側から。目を持ち、耳を持ち、産声を上げた。
一目見ただけでソレが人の世に害をもたらすとわかった。研究者としての知識欲を上回る、『アレは存在してはいけない』という本能的な恐怖が襲いかかってくる。
「リンクジャンプ反応拡大、新たにX388まで定義!」
背筋を何かが這い上ってくる。突如現世へと出現しようとする生命体をXと呼称し連番せよ、そう命じてからわずか数分、一桁から一瞬にして三桁まで増加するなど尋常ではない。
「なんて事だ。ち、地球はあと一時間もすれば人間の星ではなくなる……!」
『彼女』はもがき、うめき、必死に抵抗しようとしている。『彼女』ならば耐えてくれる、そんな希望的な観測をする程彼は強い人間ではなく、既に心中では自分がどうするべきなのかは理解していた。
『生命体X』の増殖は止まる事を知らない。今軍に支援を求めたところで間に合わないだろう。
「……ジャスティスを強制制御に切り替えてくれ」
方法は一つしかない。人類を滅亡させるわけにはいかないのだ。
『彼女』を拘束し、自由を奪い、恐ろしい力を起動させる。ひょっとしたら、目の前の『生命体X』よりもよっぽど人類を滅ぼしかねない危険な力を。
「ねえ、何が起こっているの? 体が……意識が……! 何をしているの!?」
君を操って、今から大変な事をする。
そんな言葉をかけられるものだろうか。彼は歯を食い縛る。これしかない、こうするしかない。理性はずっとそう訴えている。
「座標プリセット……ゾーン8の81。対象をロックオン! ガンマレイ準備、出力オーバーロード、+40!」
「ぷ、+40ですか!? 『日本が消滅』しますよ!?」
そんな事、知っている。だからこそガンマレイを選んだのだ。
『生命体X』の発生はアジアの小さな島国、日本から引き起こされている。つまりそれは日本を生命体ごと消し飛ばしてしまえば、これ以上の被害は起こり得ない事を意味している。
やるしかない。数十億の命がひしめく世界か、およそ一億あたりの日本か……!
「発射だ。シセル」
「……わ、私には……」
彼はハッとした。冷静にやるべき事を導き出したは良いが、それがどれだけ恐ろしい決断であるか、遅れて理解したのだ。
ボタン一つで一億の人間が消し飛ぶ。それを他人に命じようとしたなど、つくづく自分は愚かだ。彼は思わず頬を緩めてしまう。
「そうだよね。すまなかった……僕が押そう」
自嘲の笑みを抑え込み、彼は発射ボタンに手をかける。
『彼女』からの声は止まない。どうなっているの、何が起きているの、答えて。
答えても事態は好転しない。決断は済ませた。ならば、人としての情を今この瞬間だけ切り落とすしかない。
「ガンマレイ、発射……っ!」
ボタンを押し込む。『彼女』が動き出し、眩い光を放つ。
一瞬にして、かつて日本と呼ばれていた島は光柱を打ち上げながら消滅した。
───かつて、堕落した人々が住む街を神は一夜にして滅ぼしたという。異なる点があるとすれば、日本に生きていた人々は堕落どころか、ただ毎日を生きていただけだという事。
氷の様に冷えていた思考が溶けていく。
彼は決断した。世界を救う為に日本を地図から消す事を。
だが、『彼女』は? 自らの意思ではなく他人に操られて日本を消し飛ばした『彼女』は?
「何をしたの!! あの光は何!?」
『彼女』が悲鳴をあげる。まともに状況を把握できないまま、空へと昇る光柱は、不気味なまでに輝かしい。
彼は自分の手を見つめる。その手がこれまで何をしてきたのかを、振り返る。
『冗談だろう? なぁ、嘘だと言ってくれ! 何故……俺をこんな風にした! いつから裏切っていたんだ!』
唯一無二の友の声が、焼きついて離れない。
『俺はずっとお前を信じて! 親友だと思っていたのに!!』
正しい選択のはずだ。愛する二人に幸せな一生を過ごしてもらう為に、必要な───
「僕は……」
だが目の前に広がるものはなんだ?
何故日本が滅びた? 何故『彼女』が日本を滅ぼした? 何故自分が日本を滅ぼす決断をした?
「私は……私は何を撃ったのっ!?」
「僕は……何を、したんだ?」
※
「何故船が動いている!? ケイオスとは、どういう事だ!」
サオリの声を背中に受けながら、飛鳥はパネルに垂れ流される『LOVE YOU』の一文に歯噛みする。
コユキを捕え、ワカモを止めた。事態は確かに収集したと思っていた。ケイオスがそれを許すはずはないと予想はしていたが、よもや船全体に干渉するなど予想外だった。
(船がどうにかなる前に、という口振りを信じるならこの細工は時限式だ。となると何処かのタイミングで仕掛けを施した事に……だがそんな事、どうやって───)
そこで飛鳥は自分の胸に手を置き、ギュッと服の生地を鷲掴みにする。疑問は数秒で解消されたのだ。
ワカモを拘束するべく発動した法術をケイオスはハッキングし、飛鳥は軽々と一蹴された。あの瞬間に彼は船の航行システムに細工したとしか考えられない。
ケイオスが妨害に来ると見越して飛鳥が準備していた、その先まで見据えて彼は自分を囮にする事で時限爆弾を隠し通したのだ。また一手先を行かれてしまった事に不甲斐なさを感じつつ、飛鳥は頭を振って現状を確認する。
(速度がどんどん上がっている。このままでは港に激突するが……操舵システムはどうだ? いやダメだ、こちらからの操作を一切受け付けない。まさに暴走状態だ)
港にどれだけの人間がいるかなど考えるまでもない。重量数十万トン、全長数百メートルの質量爆弾が叩きつけられようものなら、壊滅的な被害は避けられないだろう。何より船内にいる生徒達にまで甚大な規模の衝撃が予想される。
急がなければならない。額に汗を滲ませながら飛鳥は生徒達へと振り返る。
「皆、説明している時間がないので要点だけ話そう。船が乗っ取られた。こちらからは一切干渉できない。このまま進めばゴールデンフリース号は前方の港に激突する」
『!?』
ワカモも、アスナも、サオリ達もこれには驚愕に目を見開いた。事態が解決したと思いきや、よもや絶体絶命のピンチが舞い込んできたなど誰が予想できようか。
幸いなのは、驚きの後に全員が素早く表情を引き締めて飛鳥の次の言葉を待つ姿勢に移った事である。流石はキヴォトスの生徒、非常事態にありながら『今何ができるか』へと意識を移したのだ。
「どうするのご主人様……?」
「乗っ取り自体はハッキングによるものだから、ハッキングをし返す事で操舵自体は取り戻せる。問題はどれくらいの時間がかかるか」
飛鳥は懐に入れたままだったシッテムの箱を取り出す。中にいるアロナは法術に関する膨大な数式を理解し、解き明かせる優秀なOSだ。ケイオスがメチャクチャにした航行システムに潜り込み、操舵を取り返せるはずである。が……果たして必要な時間はどの程度なのか、やはりそこが問題である。
船の速度は継続的に増している。主導権を取り戻したとしても、それまでに取り返しのつかない速度になっていた場合はお手上げである。
船には基本的にブレーキというものがない。車の様に止まりたい時に止まれるわけではなく、エンジンを切ってそれ以上加速できなくしたところで後ろに進む事で更なる減速を測るという形になる。
(たとえエンジンを停止したとして……その時点で港との距離がギリギリだったらお手上げだ。ともかく今はシステムを復旧させないといけない)
悩んでいる時間はもう残されてはいない。意を決して飛鳥はシッテムの箱をパネルに向け、アロナにハッキングを頼み込もうとする。
「───うおおおおおおッ! 池倉マリナ突撃ぃぃぃぃぃッ! 決戦の場所はここかぁ!!!」
耳をつんざく勇ましい掛け声と共に、操舵室の扉を蹴り破って来たのはマリナである。ネルからワカモが操舵室に向かったという話だけを聞かされていたせいだろう。臨戦態勢で飛び込んできたは良いものの、彼女を迎え入れたのはサオリ達の銃口だった。
「ギャッ!? どういう状況なんだこれは!」
「池倉さん、来てくれたのは良いけど今は少し忙しくて」
「あ!? 活躍の場はないと!? じゃ、じゃあこのやかましい奴を連れてきた苦労が水の泡ではないか!?」
やかましい奴、それが誰を指しているのか飛鳥はすぐに理解してマリナへと振り返る。彼女が片腕で抱えているのは、ぐったりと伸びているコユキだ。飛鳥がアスナにそうされた様に凄まじいスピードで振り回されながら操舵室までやってきたのだ。恐らくネルの采配によるものなのだろう。
これに飛鳥は目を見開き、そしてコユキへと駆け寄る。
「黒崎さん、僕の声は聞こえているかい」
「う、うえ、はい、聞こえてます飛鳥先生……うぷっ」
「君の力を借りたい。いや、君が必要なんだ!」
「ッ!! ホントですか!?」
ぐったりと伸びていたコユキはガバッと飛鳥へ顔を向けるなり手足をバタバタさせ始める。あまりにもその勢いがもの凄いのでマリナが思わず手を離すと、彼女は手足を細かく動かしながら駆け寄ってくる。
目がキラキラしている。なんでもやる、という気持ちが言葉になっていなくともわかりやすい。
「何すればいいんですか! 私頑張ります!」
「船の航行システムがハッキングされてしまったんだ。黒崎さんなら解けるはず……お願いできるかな」
「はい! もうまっかせてくださいよ!」
幸運という他になかった。飛鳥が指差した先のパネルへとコユキは駆け足で向かっていくと、じっと丸い目でケイオスが弄り回した結果混沌としている画面を見つめた後に彼女はニンマリと笑い、
「はっちゃっっっっっっ!」
カタカタとパネルに何らかの文字列を打った。たったそれだけで、固く閉ざされていた門が開かれる様に乱雑だったパネルが復旧していく。ケイオスが飛鳥を利用して行った細工、その全てがコユキ一人によって崩壊されていた。
これにはそうする様に頼み込んだ飛鳥さえも感心を超えて畏怖さえ抱いた。コユキは考え込む様子さえなく、さながら答えを覗き見ていたスピードでセキュリティを復旧してみせた。
「にははは、ちょろいちょろい! どうです先生!」
「いや、本当に……凄い。君を連れてきた池倉さんに感謝しなくては」
「ふはははは! もっと褒めていいぞ先生! ふははは───なあ何かまだ様子のおかしいものがないか? なんかものすごい事書いてあるぞ」
船のシステムを奪還したと喜ぶのも束の間、顔面をひきつらせながらマリナが一つのパネルを指差す。飛鳥達は視線で追いかけ、そして己の目を疑った。
ピカピカと赤く点滅するパネルにはこう表示されている。『砲塔展開開始』、そして前方の港を映しながら『目標確認』とも。続いて操舵室から見下ろす位置にあるメインデッキから巨大な大砲がせり出し始めている。
ケイオスは操舵室だけでなく火器管制関連にも仕掛けを施していた様だ。不気味に明滅するパネルはこれからどんな大惨事が引き起こされるのかを表す、不吉な印に見える。
「あっ」
ポツリと声をあげたのはワカモである。明らかに何かをしでかしてしまったと気付いた時の声色に今度は彼女へと全員の視線が向かう。
ワカモは飛鳥からの視線に目を泳がせ、
「あ、あの、私、邪魔者が割って入るのがいやでしたのでその……船に備え付けられた迎撃用の武装へ弾を込めておく様に指示しておりました。ですので、あの」
「……つまりこの船に積まれている武装全てが発射可能状態という事かな」
「はっはっは! 心配するな先生、電子制御ならさっきみたいにそこにいる黒崎コユキに任せておけば……」
「あれっ、操舵室からの火器管制システムへの干渉打ち切られてます。には、にははは……ここからじゃ止められないです」
「え? じゃあ、どうするんだこれ」
沈黙。滝の様に汗を流し、涙目で震えるワカモを責める空気ではない。飛鳥はアスナやサオリ達と顔を見合わせた。
もしも砲塔やら何やらを止めなければ、幾つもの武装が火を吹いて港を攻撃する事になる。
「せ、先生。とりあえず船のエンジン?を切ってみたんですけど、全然速度が下がらないっていうか……このままだとすっごくまずいかも」
コユキからの報告に飛鳥の背中を嫌な汗が伝わる。船そのものもなんとか減速まではできたとしても既に相当な速度で進んでいる。これを止めない限りは、主砲を封じたところで事態は解決しきれない。
今から、飛鳥はどちらかを選ばなければならない。
今まさに放たれんとする主砲か、前進を続ける船体か。
懐には一枚の薄い板の感覚が確かにある。『大人のカード』、ケイオス曰く、自分を打ち倒す事ができる手段の一つ……果たして実用に足るかどうかよりも、今は目の前の問題をどう対処するべきかなのだ。
(どっちだ……どっちを、止めればいい?)
「それはあたしらがやるぜ」
声に飛鳥達は振り返る。そこには、今まさに戦いを終えてきたという様子でネル達C&Cのメンバーがいた。カジノは無事に制圧し終えたのだろう。
「とりあえず発射させなきゃいいんだろ? ならぶっ壊しゃあ良い。船にいる連中の力も借りればなんとかなる。あとは……エンジン吹っ飛ばしてこの船沈めちまえばいいんじゃねえか」
ネルはキッパリと言い切った。それは乗船した直後に話していた内容がある意味的中してしまうという意味だ。
「ふ、吹っ飛ばすですかリーダー。あの、ご主人様にそれはNGだというお話はされたかと思うのですが」
「うっせぇ。今この状況でやれる事があるとしたらそれくらいだろーが。救命ボートは確保してある。モヤシ達はそいつで逃げりゃあいい。他に良い案があるなら教えろ」
ネルの判断は速い。伊達にC&Cのリーダーではない。事実、決断としては的確である。彼女の戦闘力を用いれば、砲台を一気に破壊して発射不可能にし、更に船を沈めてしまえば人的被害は最小限に留められる。一石二鳥という奴だ。
普通ならばできないが、キヴォトスの生徒達であれば実現は不可能ではないだろう。
だが飛鳥の脳裏によぎったのは、一〇〇年前に自分が犯した過ちの光景だった。
───私は……私は何を撃ったの!?
「……砲台は任せる。船は僕が止めよう」
「はぁ!?」
「飛鳥先生!?」
突然の提案に、飛鳥以外の全員が驚きと困惑の視線を向け、何故かと訴えかけてくる。ネルが提示した案は正しいが、まだ加えられる部分がある。法術という超常の力を持つ飛鳥ならば、歯止めの効かない船を止められる可能性がある。
「……一体何をどうするつもりだ。まさか魔法でも使うのか?」
「その、まさかだよ」
飛鳥は胸から『本』を取り出す。ケイオスの妨害を怖れ、しばらくの間使っていなかった法術の出番は今である。
サオリは怪訝な顔つきで『本』を見つめる。彼女はまだ飛鳥がどんな力を持っているのか知らないので、突然の事に驚いただろう。
だがサオリ達四人以外は、飛鳥がこれから挑もうとしている大きな壁を理解していた。法術を使い、巨大な船体を力づくで止めようという大それた挑戦を。
「……やれんのか?」
ネルが問いかける。思えばワカモが乱入してきた際に飛鳥は自信を持って自分がやる、などと言っておきながらケイオスに押し切られた挙句、彼女に助けてもらっていた。
だが、今回は違う。飛鳥は正面からネルを見つめ返すと、ゆっくりと頷いた。
「やれる。いや、やるさ」
飛鳥は目に見えて変化していた。頼りなさげだった双眸はまっすぐとネルを射抜き、そこに確かな意思を感じさせる。船に乗ってからの短い時間で、彼の精神は目覚ましい成長を遂げていたのだ。
「そこまで言うなら任せる。しくじるんじゃねえぞ。アカネ、カリン、そんでアスナ。あたしらは大砲止めに行くとするか」
「なんというべきか、我々はどうしてもこういったやり方になってしまうのですね……爆薬の準備をしておきます。ご主人様、無事を祈っております」
「良い事だと思う。だって、私達の専売特許みたいなものだし」
C&Cのメンバー達はリーダーに続き、操舵室を飛び出していく。最後に残ったアスナはグッと拳を握り、
「ご主人様! ファイトね!」
これまでと変わらない元気な声で飛び跳ねながら仲間達の後を追いかける。
残された時間は少ないが、飛鳥は室内に残っている生徒へと振り返り、その中でもすっかり意気消沈した様子のワカモに注目した。主砲を発射できる状態にしていた事を引け目に感じているのか、視線を伏せていた。
「狐坂さんも皆についていって欲しい。戦力は多ければ多い程良いし、君の実力ならきっと美甘さん達の力になれる」
「えっ……私、ですか? でも、私は」
ワカモの動揺は、こんな状況下になってしまった原因が自分にあるという事への負い目からだ。その上で味方としてネル達の側に立って良いものかと疑問に思う理由もわかる。だが飛鳥は敢えて、ワカモにそうして欲しいのだ。
「今、僕が一番喜ぶ事があるとすればそれは君の助けだ。だから……頼みたい」
ワカモは顔をほんのりと赤くした。先程までの萎びた様子があっという間に息をひそめ、彼女はにっこりと笑みを浮かべると、全身から活力を漲らせる。力強い姿はひとまず今だけだがワカモの気持ちは楽になっている証拠だ。
「で、では私、あなた様の為に行って参ります!」
「くれぐれも無理だけはしない様に。池倉さんもついていってもらえないだろうか」
「え、ええ!? あのイカレた女とか! うぐぐぐぐ、先生の命令ならば仕方ないか……おい待てイカレ女!」
ワカモは颯爽と駆け出していき、要請に対して渋々ながらもマリナはその後に続いた。
これで操舵室にはコユキとサオリ達のみが残り、飛鳥はまずコユキに対し、
「黒崎さんはここで船の様子を見ていてほしい。もしも危ないと思ったらすぐに逃げる様に」
「はい! やれるだけやってみます」
「よし。サオリさん達は……できれば無線を使って船員達に万が一を考えて避難の準備を促してもらえないだろうか。本来ならばここまで頼るべきでない事は承知なんだけど」
「……」
リーダーであるサオリが口を開く前に、一言も言葉を発していなかった少女、『姫』が一歩踏み出して飛鳥の前に立つと、両手で何らかのジェスチャーを見せてくる。手話の様だった。
手話について勉強はしたものの、その内容を完全に理解できる程ではない飛鳥がどういう事かと姫の仲間に視線を投げかける。応えたのは、姫の次に口を開かないミサキだった。
「乗りかかった船だから、最後まで手伝うって言ってる。正直今この船から避難なんてそうそうできないだろうし、やるだけやってみる。そうだよね、リーダー?」
ミサキの問いかけにサオリは頷き返し、早くも踵を返して操舵室を出ようとしていた。その背中にどんな言葉をかけたら良いかと考えていると、
「……魔法とやらがどんなものかはわからないが、今は私達にできる事をするだけだ。行くぞ皆」
「い、今のはリーダーなりの激励ですよ先生。多分、えへへ……それでは」
四人もまた操舵室を出ていく。これで船を止める為の算段は決まった。残るは作戦の中核と言っても良い飛鳥の頑張り次第というわけである。
「では始めよう。船を、止める」
一体どんな事をするのかとコユキの興味津々な視線を受けつつ、飛鳥は『本』を広げると法術を起動した。
船体を止める事自体はそこまで難しくはない。問題は99秒という限られた時間の中で、本来よりも法力が制限されているというコンディションの飛鳥がどこまで行けるのかという部分である。
「黒崎さん、さっき言った様に危なくなったらすぐに逃げるんだ。それじゃ」
一息で飛鳥はテレポートし、操舵室から船首へと跳躍する。メインデッキの主砲は今まさに発射しようかという態勢にあり、ごくりと唾をのみながら彼は船を減速する為に有効な魔法を頭の中でリストアップする。
(……できれば船体に傷はつけたくない。自然な減速を試みるしかないか)
飛鳥の手に光と共に杖が現れる。一部の魔法を行使する上で欠かせないものであるそれは、船首へと突き立てられると眩い光を放ち始めた。
ギギギギ、と金属が軋む音に続いて船が進むスピードが僅かにではあるが低下する。杖を基点として船全体の速度を操る事で大幅な減速を試みているのだ。しかし予想とは異なりその度合いは控えめで、とてもではないが前方に迫る港までに停止する様子は見られない。これに飛鳥は眉をひそめた。
「やはり、足りないか……?」
本来の世界では、飛鳥の魔法はその気になれば世の理を歪め、惑星さえも容易く消滅させられる凄まじい力を有している。しかしながらバックヤードの存在しない世界に法力を引き込むという危険極まりない方法を用いている今の飛鳥では、その文字通り底のない力は半分程の力も出せないのだ。
もしも正しい世界でならば、ゴールデンフリース号の動きを停めるなど造作もない事であるが、出力を制限された状態ではほんの少し遅くする程度が精一杯という事である。
「……」
おもむろに、一枚のカードを取り出す。シャーレの先生となった日に手渡された、『大人のカード』を。
単なるクレジットカードだと、そう思い込んでいた。しかし実際はケイオスを打倒しうる力を秘めた『隠し玉』なのだという。そんな事がありうるのか、ケイオスの考える良からぬ策略の一種なのではないかという疑問を抱きこそすれど、同時に飛鳥は彼がそんな嘘をつくはずはないという確信もあった。
つまり、ケイオスは飛鳥がカードの使い方を知らなかったが故にゴールデンフリース号を暴走状態に陥らせたのだ。カードを使わざるを得ないシチュエーションをわざわざ作り出したのである。
『君は大人として、更に奥へと深く深く沈んでいかなければならない。代償を払い、自由を捨ててね。でなければ……君一人じゃ名もなき神々の王女にも、魔女にも、■■の■■■にも勝てない』
ケイオスは純粋な善意から、弟子のこれからを考えてこの機会を設けた。その方法はあまりにも歪んだものであるが、否定する事はできない。
飛鳥は『大人のカード』をじっと見下ろした後に、シッテムの箱を取り出す。
「アロナ、データ収集をお願いするよ。このカードがどれだけの力を持つのか、僕には想像もつかないからね」
『はい、くれぐれもお気をつけて!』
意を決し、飛鳥はカードを『本』へと近付けると、一瞬にして表紙へと取り込まれる。これでどの様な変化が訪れるのか―――
「……天秤」
「え?」
その声はくぐもっていた。そもそも何故そんなものが聞こえたのかわからず、飛鳥は声の主がいるであろう背後を振り返り、そこに先程まで影も形もなかった人影を認めた。
ぼんやりとした輪郭であるが、辛うじて男性なのはわかる。ケイオスではない、もっと別の何かだ。
突然、世界を静寂が支配する。飛鳥が視線を動かすと、自分と人影以外の全ての時が止まっている。船も、海も、何もかもが制止していた。
「我々は、天秤だ。この世界を変えうる力を持っている」
人影が何かを囁くが、その声は水中で聞いているかの様に濁っている。得体の知れない存在の異質さに戦慄しながらも、飛鳥は状況を理解するべく視線をさまよわせる。
何故人影は現れた、何故世界は時を止めた?
考え付く理由は、今しがた『本』に取り込ませたカードである。あれが何かの引き金となり、飛鳥と人影を巡り合わせたと考えるのが妥当だ。
「君は知っているのか、カードの使い方を」
何か関係があるに違いないと踏んで、飛鳥は質問を投げかけた。人影は、ゆっくりと腕―――恐らくそうなのだろう―――を伸ばし、その手に持っているものを見せつけてくる。
それは、大人のカードだった。それも飛鳥が持っているものと完全に同じだ。
「……何故、君がそれを?」
「これは、天秤だ。己を代償として、未来を得る。天秤でありながら、我々は自分がどちらに傾くべきかを、決められる」
「何が言いたいんだ。どういう意味なんだ」
「何の為に、これを使う。何の為に、代償を払う?」
人影の言葉に、飛鳥は背後の港を振り返る。船を止められなければ、あそこ目掛けて突っ込んでいく事になる。それを飛鳥は何としても避けたかった。
もしも、もしも船が港へと突っ込むか、船の武装が港を撃ったとしよう。それはシージャックを行ったワカモの罪として数えられてしまう。ケイオスの行いが原因によるものだとしても『ワカモのせい』と残される可能性がある。
彼女が心から誰かを想う気持ちに淀みがない事は十二分に知っている。であれば、そんな彼女にこれ以上罪を背負わせるわけにはいかない。
『私は何を撃ったの……っ!?』
ワカモは既に過ちを犯している。それはコユキも同じだ。だが、まだ間に合う。まだやり直せる。寄り添える。
あの時の様に、何もかも手遅れになどさせない。あの時できなかった事をするのだ。
その為に船を止めなければならない。ハッピーエンドに辿り着く為に。
「僕は狐坂さんも、他の生徒も、皆助けたい……彼女達の『世界』を守りたいんだ」
人影がコクリと頷いた、様に飛鳥には見えた。満足気に、『それでいい』と。
「天秤が思考する、いささか不可解な事である。だが天秤であろうとしていた人間の選択としては最良だ」
「君は何者なんだ。僕の事を知っているのか?」
まるで飛鳥の過去を知っているかの様な意味深な発言、異様に酷似しているもう一枚の大人のカード。疑問に思う事が無数にあり、大前提として目の前の人影が何者なのかさえ不明ときている。
だが人影は飛鳥の質問に応える様子はなく、ただかぶりを振った。
「まだ、まだだ。私はこの場に偶然迷い込んだに過ぎない。いわば夢の片隅……忘れゆく事。再びまみえる時、私は君が何者であるかを知っていたとしても、ここで会った事など忘れているだろう」
「再び……? 君は、キヴォトスの人間なのか。一体何を知っているんだ?」
「……まだ、知らなくて良い。今はカードを使い、生徒の『世界』を守れ。そうすれば、我々は自然と出会う」
人影の輪郭が更にぼやけていく。世界に溶け込んでいき、そうして遂にその姿は完全に掻き消えた。
途端に飛鳥の周囲を取り囲む環境が一斉に正常な状態へと戻っていく。波の音、船が軋む音、そしてアロナの声が彼の耳朶を叩いた。
『飛鳥先生!? 飛鳥先生!』
「っ、アロナ、今僕の目の前にいた人物は一体」
『? だ、誰もいなかったはずですが! それよりも船です。急いでください!」
何よりも優先しなくてはならない事が完全に頭から抜け落ちていた。今は謎の人影よりも、突き進む船と港をどうにかしなければならないのだ。
『本』にはカードが組み込まれたままである。先程までの異常が極まった光景を頭の隅へと押しやり、飛鳥は法力の出力を確認する。カードを使用したからなのか、今までよりも魔法の発動に必要なマナが満ち足りている。
「……天秤か」
人影が何を示唆していたのかを考察する余地は残されていない。飛鳥は『本』に命じ、重力を操る杖を強化しながら再度船体の減速を図る。すると一度目よりもハッキリと前進する速度が緩み始め、船は更なる減速を開始した。これならば制限時間99秒以内に間に合うはずだ。
ちょっとしたハプニングこそ起きたものの、なんとか最悪の事態は免れる。砲塔にしてもネル達がいれば、何の心配もないだろう。船首から、確実に船が速度を落としていく様子を確認しながら飛鳥は安堵のため息をついた。
ケイオスからの妨害はなかった。レイヴンは彼を抑え込んだか、もしくは制圧して捕らえたに違いない。
緊張の糸が解けていく。額ににじんだ汗を手で拭い、ため息をつく。心なしかいつもより息があがる……ここまで来て、飛鳥は妙だと思った。体力に自信はないが、それでも異様なまでに四肢へと力が入りづらい。
「う、ん……?」
体から力が抜け落ちていく。声も出せず、膝から崩れ落ちかける。
何かがおかしい。何かが、飛鳥から活力とでも言うべきものを奪い去っていく。
手に持っていた『本』から大人のカードが吐き出される。じっとそれを見下ろし、ようやく飛鳥は『代償』とは何を指しているのかを理解した。
(なるほど。これが、カードを使う事で発生する支払いというわけか)
思考は冷静に飛鳥自身の状況を整理しているが、肉体からは瞬く間に力が抜け落ちていく。これはまずいと思いながらも、誰かに助けを求める声を絞り出す事さえ叶わない。
なんとか体を支えようとした、その直後。飛鳥は船首から真下の海へと、真っ逆さまに落ちてしまうのだった。
うまくいけば次回でChapter3も終わり、遂にエデン条約編です。出てくる生徒の数は過去最多になりますので、精いっぱい励みたいと思います。