先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
などと言い訳をする暇があったらどんどん書きます!
「さぁ食べたまえ。君が所望したストロベリーソースを添えたパンケーキだ。こんな時間に食べるには少々カロリーは高いかもしれんが……激務を思えば褒美としては心許ないか」
コトリ、とヒナの前に置かれたのは分厚いパンケーキが二枚、それとトッピングのバニラアイスに加えて果実のソースが入った小さなカップを載せた皿だ。深夜とでも呼ぶべき時間帯にしては重厚すぎる、罪深い食べ物である。
じっとヒナは真向かいに座るスレイヤーへと視線を移す。彼も同じものを注文しているが、周囲を取り巻く環境を含めて異様に似合っている。
スレイヤーに案内されたカフェの店内は洋風、クラシック音楽が微かに流れてくるのが聞こえて、自然と背筋を正してしまいそうになる。あまり感情が表情に出ないヒナでも、少しばかり緊張する。
「うん? 私の顔に何かついているかな?」
スレイヤーのすらっとした佇まいは貴族のそれに近い。頭からつま先まで整えられた風体に立派に蓄えられた髭、そして自信に溢れた面持ち……大人という言葉に最も相応しいだろう。
と、おもむろにスレイヤーは懐から携帯端末を取り出すと真剣極まる表情でカメラアプリを起動してパンケーキの撮影を始める。そこには先程までの精悍さとは打って変わってある種の茶目っ気が現れていた。
「すまないがもう少しだけ待ってくれ。この構図で……よし、撮れた。どうかな? よく撮れているだろう?」
そういって差し出してきた端末にはパンケーキの写真が映っている。丁寧な構図のおかげで手を伸ばせば実際に掴み取れてしまいそうな感覚に陥りかける。ヒナは上出来だと首肯で返答した。
さながら機械に慣れない祖父に手ほどきをしてやる孫の様なやり取りであるが、背景には思わぬ真相が隠れている。具体的に言えば撮影した写真の使い道で。
「有名なインフルエンサー、『エリ=ヴ=マープス』の正体が貴方の様な大人だとは誰も思わないでしょうね。ついでに私がついてきているっていうところも」
「人間誰しも他人に隠しておきたい事の一つや二つはある。それにあの名義は私だけでなく君のものでもあるんだよ」
最近になって突如現れ、キヴォトスの名所や穴場についてを投稿する謎のアカウント『エリ=ヴ=マープス』、その正体は得体の知れない謎の男スレイヤーなのである。実際に顔を見ればそれらしい雰囲気に満ちているのだが、どういうわけか誰も裏の顔に気付く事はない。これもまた彼が持つ不思議な魅力のなせる技なのだろうか。
ヒナは眉をひそめる。アカウントはスレイヤーが登録したものであり、自分での投稿などしていない。ただ彼の後についていき、甘いものを食べているだけに過ぎない。
言葉にせずともそんな感情が浮き出ていたのだろう。スレイヤーはかぶりを振って、
「まさかここにいるのが偶然だと言いたいのかね? それは違う。我々二人は互いに秘密を共有する者同士……つまりは一心同体の様なものなのだよ。私は君の秘密を知る、君は私の秘密を知る。どうだね?」
「……それってあれみたいね、共犯者」
「まぁ、間違ってはいないかもしれん。さぁ食べなさい。私の無駄話に付き合わせてしまったね」
スレイヤーに促されるままパンケーキをナイフで切り分け、フルーツソースに浸して口へ運ぶ。しっとりとしている生地は口の中でゆったりと溶けていき、激務の疲れが瞬く間に弾けていく。多幸感が押し寄せてくるのに合わせて無意識に口元が綻んだ。
無言でナイフが進む。それなりに大きいはずのパンケーキはみるみる内にヒナの胃の中へと消えていきつつあった。
「ふむ、美味だとは知っているがまさか言葉も発さぬ程だとは思わなんだ」
「……っ、ええと」
「構わんよ。むしろ冷血、冷酷、非道と噂されるあの空崎ヒナが、甘味を前にしてほくそ笑むというのは人間味を感じさせる良いエピソードだ。恥じる事はない。むしろ押し出したまえよ……ああいや、君なりのメリハリなのか」
「別にそういうわけじゃない。単に、必要がないだけよ」
ヒナとは対照的にゆったりとしたナイフ捌きでパンケーキを食べていたスレイヤーはこの返答に眉をひそめ、
「それはあれかね、風紀委員長としての矜持やプライドだとか、そういった類のものかね?」
「いいえ、それもまた違う。ただ、私の話なんて皆にしたところでどうでもよい事というだけよ」
「同じ事を飛鳥=R=クロイツにも話すつもりかね?」
これにはヒナも思わず顔を赤くし、言葉に出さずともスレイヤーに咎める様な視線を送りつける。こんな状況で彼の名を引き合いに出されるなど不意打ちも良いところである。
「すまない、からかうつもりはない。しかしだね……私に言わせてみれば、その杞憂は不要だよ。むしろ誰もが君のプライベートというものに強い興味を持っているはずだ」
「……そうかしら」
「そうだとも」
ヒナの脳裏を飛鳥の喜ばしげな表情がよぎる。クッキーについて軽い助言を行った時、ほんの少しだけ自分がスイーツに詳しいのだと漏らした時の、あの表情が。
アビドスでの一件から続くそれなりの仲であるが、プライベートで飛鳥と対話した事などあまりない。それでも仕事を通してかなり会話をしたし、示し合わずとも息を合わせられもしている。ならば十分な親交を深めていると言ってよいと、そう思っていたのだが……スレイヤーの表情を見るに不正解な様だ。
「もっと自分に自信を持ちたまえ。それこそこの店に先生を招待すれば良い。きっと彼も甘味を求めているだろうからね。そこから咲く話題の花というものもある」
「私とだなんて……きっとつまらないわ。飛鳥先生はいつも他の明るい生徒達と一緒にいるし」
「そんな事はない。君がどれだけ魅力的な人間なのか、彼もよく知っている」
スレイヤーが語れば、ヒナはスルスルと応えてしまう。この長身の男が放つ魔法の様な魅力に彼女自身も少なからず影響は受けていた。
出会ったのは風紀委員としての仕事がひと段落し、不意に夜の散歩へ出た時の事である。気まぐれでヒナは深夜でも営業しているドーナツ店に足を運び、そこで優雅にコーヒーを飲むスレイヤーを見つけた。話を聞いてみればキヴォトスの外からやってきた、隠居の身なのだという。
奇妙極まる人間だ。どういうわけか蝙蝠へと変身して空を飛べる、カギをかけた密室にも関わらず忍び込める。まさに怪人とでも呼ぶべき人物なのだが、そんなスレイヤーと密かに交流している理由は……他人だからだ。謎多き男スレイヤーは風紀委員長の空崎ヒナではなく、ただのヒナとして会話ができる唯一の相手と言っても良い。飛鳥でさえも、仕事上の関係性を拭いきれないのだ。
そういうわけで時折スレイヤーと会っては夜に出かける事が、ヒナの新しい趣味となっていた。
「しかし、飛鳥=R=クロイツとはそこまで君にとって重要な人物なのかね? 話を聞いている限りではかなりビジネスライクに見えるが」
「重要というか、凄い人。私はゲヘナの面倒を見るので精いっぱいなのに、先生はトリニティやミレニアム、大勢の生徒を助けている。少なくとも私はそんな大人を今まで見た事がない。だから……凄い人」
「なるほど。君個人の目から見て彼を称賛していると……どうやら前には進めているらしい」
「? 何か言ったかしら」
「ん? いや、何も。随分と勤勉な男なのだと思ってね。しかし、それだけ多忙を極めているのであれば時には生徒からの労いも必要ではないかね? 君の方から何かしてやれないのか」
「労い……」
「それが大袈裟なものでも、些細なものでも、贈り物は相手に想いが伝わる。真に彼へと親愛の情を抱いているというのならば、何かしらの形で伝えるべきだろう」
口元に手を添えて考え込む。先生への感謝を伝える。けれどどんな方法で、どういう風にそうするべきなのか。
贈り物など滅多にした事がない。果たして、他人に喜んでもらえる様な何かを用意できるのだろうか、などと考えながらヒナは俯きがちだった視線をふとスレイヤーへと向け、そこに浮かぶ笑みを見た。答えは既にわかっている。そんな笑みと眼差しに照れ臭さを感じながら、
「……スレイヤー」
「何かね」
「どんなプレゼントが良いのか、一緒に考えてくれないかしら」
「―――もちろん。乙女の頼みとあらば、断る道理などない。今日はもう遅い、また次の機会があったらその時にでも話し合おう。今はこのスイーツに集中しようじゃないか」
こくりと頷き返すと、ヒナはパンケーキに改めて視線を落とし、黙々と食べ始める。表情に現れる事こそなかったが、その内心では飛鳥に対するサプライズをどの様なものにしていこうかという意欲に満ち始めていた。
※
夜が更けている。窓の外を見れば街灯や建物の明かりが灯ってこそいるが、いくらキヴォトスといえど日が沈めば喧騒も多少は収まる。この時間帯での時間は滅多な事がなければ起きない……はずである。
だが今の飛鳥にとって不安はそこにはない。目下最大の不安は補修授業部が無事に合格できるのか、という問題にある。
(一回目のテストは間違いなく不合格になる。そうなれば残り二回のテストで合格しなければならないが……僕にできるのか?)
立場上飛鳥は補習授業部の顧問として、ヒフミ達生徒が自主的に行う勉強の手伝いをする事になっている。最終的には彼女達が自分で学力を高め、自力で合格する以外に道はない。
できる事は全て尽くすつもりであるが、飛鳥にはそれ以上の干渉は不可能なのだ。
「……先生?」
少々不安に思いながら外を眺めていると、肩を小突かれる。振り返れば今日の当番であるカズサがムッと顔をしかめている。何かあったのだろうか。
「杏山さん?」
「どうかした? 手、止まってる」
言われて手元を見れば連邦生徒会に提出する予定の報告書が書きかけのままで放置されていた。一〇分程そうしていたと気付いた飛鳥はハッとしてすぐに遅れを取り戻そうと手を動かし始めるが、カズサの怪訝な顔は収まりそうにない。
ゲヘナから戻ってからというものカズサは自ら口を開く様子もなく、じっと飛鳥を観察してくる。何かあったのかと尋ねても「別に」と一言が返ってくるので、これはあまり踏み込むものではないとすぐに理解できた。
同じ様な傾向の生徒に黒見セリカがいる。真っ直ぐに感情を伝えられず、つい激情の形で出力してしまう彼女とカズサは似ている。つまり下手にその裏の本音を掘り出そうものならば間違いなく盛大な抵抗を受けるのである。
「……あのさ。どこ行ってたわけ今日」
「えっ?」
「夕方に帰ってきたじゃん。何処で何してたの」
尋問じみた空気が室内を包み始める。嘘を言えば速攻で見抜かれるであろう事は間違いないだろう。少しばかり口をもごもごとさせた後に、飛鳥は、
「ゲヘナに行っていたんだ。幾つか連絡しなければいけない事があって」
「電話とかメッセージで済むのに?」
「……いや、その実際は渡したいものがあって」
「作ってたクッキー?」
完全に話を先読みされ、飛鳥は絶句する。誰かに向けて作っているなど一言も言っていなかったはずなのだが、どうやってカズサは知ったというのか。
ラムレザルとイチカの二人と一緒に話していた内容、きっとそれに違いなかった。
「隠していたつもりはないんだ。ただあくまでアドバイスが欲しかったというだけで……きっと杏山さんなら的確に教えてくれると思って」
「砂糖、少なかったでしょ?」
「え?」
「何か違う何か違うってずっとぼやいてたじゃない。あれ、先生砂糖勝手に減らしてたんだよ。ほらこれ」
そう言ってカズサは座って椅子から立ち上がると、懐から小さな包みを飛鳥の前に置いた。その中身は今日ヒナに渡したものとまったく同じである。誰が作ったのかについては聞くまでもなく、飛鳥は袋を開けてクッキーを一枚齧った。
ちょうどよい甘さだった。飛鳥が求めていたクッキーの味そのものである。
「これは……」
「ちょっと私の方でも作ってみた。ホントごめん、もっと早い内に作り方からアドバイスするべきだった。だってさ、普通思わないじゃんレシピ見ながら作ってるのに砂糖の量減らすとか」
「……正直、あんなに砂糖を入れるとは思っていなくて面喰っていた。多分僕はその段階で無意識にやっていたんだろう」
「やめて。そういうの結構食べてる私には耳が痛いから……っ。とにかく、原因はわかったから今度はちゃんと作った方が良いよ。相手もそっちの方がうれしいだろうし」
カズサの気遣いに飛鳥は感極まる思いだった。こちらの都合で付き合ってもらっていたというのに彼女はわざわざ自分でクッキーを作り、直接的なアドバイスまで与えてくれた。そこまでする理由などないはずなのに。
「ありがとう杏山さん。君には迷惑ばかりかけているね……」
「それはこっちのセリフ。あのね、このクッキーはなんていうか、差し入れでもあるから。仕事頑張ってねっていう……だから全然気にしなくていいし、バクバク食べちゃって」
「うん、これならきっとこれまでよりも良いお菓子を彼女に渡せると思う。僕も杏山さんと同じ様に、労いの気持ちを込めてお菓子を作っているんだ。色々考えた末に、これが一番かなと思って」
「ふ、ふぅん? そうなんだ。相手はどんな人なわけ」
そこでカズサはおもむろにパーカーのフードを被り、顔を隠してもじもじとし始める。飛鳥はその挙動に困惑しながらも、話を続ける。
「いつも頑張っている子だよ。よく仕事を手伝ってあげているんだ」
「へぇ……ふぅん、じゃあアレ? 普通に生徒なわけ?」
「妙に含みのある言い方だけど、そうだよ」
「いやぁ、全然なんでもないよ。そっかそっか、ありがと。私そろそろ帰るから」
何か不用意な発言でもしてしまったのか、カズサはフードを被ったままでそそくさと部屋から出るべく歩き出してしまう。驚いて飛鳥が呼び止めようと立ち上がったところで、
「あのさ、前に地下鉄で話した事覚えてる?」
「それはもちろん」
唐突な質問だったが、飛鳥はこれに頷き返す。
まだカズサと知り合ったばかりの時、故あって夜更かししていた彼女を飛鳥は地下鉄に乗って寮まで送り届けた。最初は嫌がっていたカズサだったのだが、途中からちょっとした談笑をする程度には心を開いてくれた。あの夜以降だろう、気さくに話せる関係になったのは。
その際に交わした会話は……
「僕が大変な目に遭ったら助けてくれる、だったね?」
「そうそれ。あの時先生ってば船漕いでてさ、私ホントにびっくりしたもん。なんか放っておいたら大変な事になりそうだなって……だから、何かあったらちゃんと言ってよね。じゃっ」
飛鳥が応えると、カズサは納得した様子でそそくさと出て行ってしまった。取り残された飛鳥はと言えば面食らった表情でしばらくその場に立ち尽くしていた。
セリカの経験を活かしたとしても今の発言が何を意味するのか完全に理解できていない。カズサが向けてくれているのは好意なのか、それとも別の感情……? 少なくとも嫌われていないのは確かだが、明言されぬままに返ってしまった以上確かめる術はない。ため息交じりに椅子へと戻ると腰を下ろし、飛鳥は天井を仰ぐ。どうにもまだコミュニケーションにおいて完全とは言い難い。
自嘲気味に笑いながら、飛鳥は室内の一角に視線を向けて呟いた。
「……見苦しいところをお見せしたかもしれませんね」
「いいや、君が感情豊かになっていて……いいや、あるべき形を取り戻してくれて私は喜ばしいよ。まぁレディに対する態度にはもう少し経験が必要かと思うがね」
そこには影がある。小さな、小さな影が。そこからゆったりと男が一人抜け出てくる。長身にスーツをまとい、髭を蓄えた壮年の男だ。突然の登場にも関わらず飛鳥は姿勢を正すと、男に正対する。
「お久しぶりです。最後にお会いしたのは六年程前だったでしょうか」
「あの時の君はもっと年老いていた。男子三日会わざればなんとやらというが、若返るというのはかつてないな。どの様な奇術を用いたのかね」
「簡単な話で、無理矢理若返っただけです。おかげで何度か記憶のオーバーフローを起こして、肉体どころか精神が崩壊しかけましたが」
飛鳥が苦笑いすると、男は渋い表情で懐からパイプを取り出す。「良いかね?」という視線に頷き返すと、小さな小さな灯りがつき、紫煙に続いて室内を煙たい香りが漂う。
「この街で難点があるとすれば、禁煙エリアが多すぎる事だ。吸うなと言われればそれを破るのは少し面倒だ。見ての通り紳士なのでね」
「僕達の世界とはまるで違う。明らかに違う進化を遂げている。異種である貴方から見て、どうでしょうか」
「どうもこうもない。異なる世界と言えどもそこに人が住み社会が築かれているのならば、厳密に言えば同じものだよ。まぁ、銃を手にそこら中を駆け回るのは少しばかり物騒だがね?」
男はパイプを片手に窓際まで歩いていき、夜の街を見つめる。
陰の王、人であり人でないもの、異種。
それが、スレイヤーという男の姿である。
「……随分と駆け回っている様子を見るに、君の言う『贖罪』は終わったのかね? それともシャーレの先生という使命もまたその内の一つか」
飛鳥とスレイヤーが最後に顔を会わせたのは、何処とも知れぬ異次元である。
赤い楽士、イノとその背後で暗躍する終戦管理局を巡った騒動の最中、二人はおよそ百年ぶりに邂逅を果たした。
スレイヤーは隠居した身で。飛鳥は未だ全人類の敵として。
―――眼に見えぬ絶望と戦い、未だ来たらぬ希望を求め、世界の全てを敵に回すのはつらかろう。
―――私に変わる事は許されん。たとえ貴種が人狩りを止めようと、これだけは変えられぬ。
―――贖罪に生きる、か。
それはフレデリック=バルサラとアリアに対する贖罪。
それは世界に対する贖罪。
「贖えるようなものは、罪とは言いません」
ゆったりとした声色で呟く。かつて飛鳥=R=クロイツは、否、『あの男』は同じ言葉を発した。百年をかけて世界と友人を救うべく、泥をかぶりながら。
「そういう意味では僕の贖罪は終わっていない。ただ、眼前に救いを求める誰かがいれば見過ごす事はできません。手を差し伸べたい、それだけの事です」
「なるほど。根治とまではいかないが、少しは前進できているようだ。素晴らしい。生徒達にも慕われている様じゃないか」
「達というのは……杏山さんだけでなく空崎さんにも、という事ですか?」
飛鳥は既にスレイヤーがゲヘナに居を構えているだけでなく、ヒナと関わりを持っている事に気付いていた。人間関係以外何でも察しが良いと評されるだけの事はある。
スレイヤーはかぶりを振って、
「君が思っている以上に彼女は純真で無垢な存在だ。あまり放っておくべきではない。とまぁ、これ以上は助言の域を超えてしまうので控えるがね」
「……貴方にしては抽象的な発言だ」
「当然だよ。人の想いというものは具体的に言葉とするには少々危険だ。いずれわかるとも」
紫煙が漂う。スレイヤーが振り返る。
「本題に入ろう。今日は君がヒナ君と話していた内容で聞きたい事がある。そう、エデン条約についてだ」
「……ゲヘナとトリニティ、因縁深い二大校が手を取り合い、新たな機構を設立する」
「夢のある話だ。禍根を断ち切ろうという意思を持つ者達がいるというのは希望が持てる。だがそれは裏を返せば、禍根をどちらかが滅びるまで続けたがる者達の存在も肯定してしまう。賊が入り込む隙間も少なからず生まれるだろう。私が注目しているのは君の動向だ」
エデン条約。今キヴォトスにおいて最も危険なモノ。
長い間険悪な関係にあった二大校が協力体制を築き、互いに干渉しあえる様に『
手を取り合い、共に一歩を。聞こえは良いが、裏を返せば一度でもラインを踏み越えれば今度こそ後戻りのできない全面戦争が待ち受けている。
では飛鳥は? シャーレの飛鳥先生はどちらの学校に与するのか。
「僕はどちらの味方でもありません。シャーレはキヴォトスに生きる全ての生徒を、平等に支援する為にある」
「今現在トリニティで取り扱っている案件も、その平等の意識からかね?」
「……貴方ならば、話してもいいでしょう」
飛鳥はスレイヤーからの問いを投げかける様な視線に手を合わせて、答えた。
「トリニティから受けた依頼はエデン条約の締結に関わる重要なものです……補修授業部の中に、条約締結を阻もうとする裏切り者がいる、と」
「ほぉ……良いのかね? 仮にも今のところ私はゲヘナの生徒に肩入れしている現状だ。敵に塩を送りかねない情報だ」
「いいえ、貴方は決して僕の敵にはならない」
「何故?」
「そうする理由がない。必要がない。何故なら貴方は僕達人間の敵でもなければ、味方でもないからだ」
スレイヤーは目を細めたが、飛鳥の発言を否定する事はなかった。ゆっくりと頷くと紫煙を吐き出す。それはある種の肯定を示している。
「やれやれ、それではまるで私が冷血漢の様じゃないか」
「冷血というより、冷静なんでしょう。命というものを俯瞰的に覗き込む貴方からすれば、僕達人間の人生なんて大したものではない。けれど、このキヴォトスは少し違う。貴方程の人物から見ても異質さに気付いているはず……僕達の歴史よりも、魅力的に見えるのでは?」
「私は人の在り方に貴賤を問いはしない。等しく、面白い。だが、君の問いかけには頷いておこう。なかなかどうしてこの世界は『人間』の在り方が異なっている。果たしてどの様な時を過ごしているのか、この目で確かめてみたい。まぁ結論から述べれば、好きに話してくれたまえ。私にとっては些細な娯楽に過ぎん」
にやりと微笑んだスレイヤーに飛鳥は頷き返し、
「トリニティの生徒会、ティーパーティーのホストを務める桐藤ナギサさんは僕にこう言いました。『補修授業部』の生徒達には裏切り者が必ずいる、と。僕に見つけ出して欲しいそうです」
「この事を誰かに話したかね?」
「いいえ、危険な話題ですので。あの部内の生徒にも勿論知らせていません」
「ヴァレンタインにも、かね?」
そこまで知っているか、と飛鳥はかぶりを振る。果たしてこの男に知らぬ事はあるのだろうか。歩く百科事典の如き人物に。
「成果はどうかね?」
「はい、裏切り者の正体は判明済みです」
「おお……流石だ。いつ、追及するのかね?」
「それなんですが、裏切り者はあの部活にはいません」
「何?」
「では一体誰がそうなのか―――」
飛鳥は持論を展開する。トリニティに潜む、エデン条約締結を拒む者の正体を。
スレイヤーはパイプを片手にじっと耳を傾け、飛鳥が話し終えたというタイミングで小さく拍手をする。
「見事だ。探偵に転向すべきではないかと心から思うよ。告発のタイミングはいつにするつもりなのかね?」
「まだ時期を見ています。今の段階では言い逃れの余地ができてしまう。相手が動かざるを得ない、その時を狙うつもりです」
「それは構わんが、良いのかね? もしも予定通りに事が運べば、君は大切な友人と刃を交える事態になるが」
スレイヤーの言葉に対して飛鳥は一度瞼を閉じ、そしてゆったりと開いて決意を秘めた眼差しを覗かせる。
「それが彼の、友人の望みならば僕は否定しません。やるべき事をやるまでです」
「なるほど、承知した。ゲヘナの動向に関しては私の方で調べておこう。何か騒ぎがあれば知らせる。君は、自分の生徒に集中したまえ」
紫煙を吐き切ったスレイヤーは踵を返し、部屋の隅へと歩いていく。出現した時と同じ様にあそこから消えるのだろう。さながら玄関を出入りするかの如く。
と、足が止まる。振り返らぬままで彼は、
「最後の質問だ。君は平等を謳っているが……その時が来たとして、裏切り者を裁くのかね? それとも憎しみを助長し、平和を乱す者を守るのかね?」
「……僕は先生です。それなら、最後まで平等にその生徒の味方でありたい」
返答に迷いはない。狐坂ワカモの一件を経ている飛鳥はスレイヤーの問いかけに惑う事などありえない。
うむ、とスレイヤーは満足げに唸り、
「ならば闇の中から君の奮闘を期待する。あまり私を戦力として数えてくれるなよ。さらばだ」
音もなく、スレイヤーの気配は消え去る。部屋の隅に目を向けるとただ影が残されていた。
今のスレイヤーは土師孝也さんが演じられていますが、私の中ではスレイヤーの声は完全に家弓家正さんで出力されています。というのもどちらかと言えばこのお話でのスレイヤーは老人としての側面をかなり押し出しているのです。
そう言うならばスレイヤー祖父とヒナ孫、そんなレベルです。