先生は世界平和を実験している 作:飛鳥=R♯
「ひゃっ、もう最悪。なんで私がこんな事しなきゃいけないの!」
パタパタとハタキで棚を叩いていると、灰色の埃がぶわっと舞い上がる。運悪くコハルは直撃をくらってしまい、ぎゅっと顔をしかめた。幸いマスクを着けていたので吸い込む事はなかったものの、それなりに不快感を覚える事だろう。汚れても良いジャージ姿とはいえである。
同じくジャージ姿のラムレザルはそんなコハルの肩に手を置き、かぶりを振った。
「コハル、もしも大変だったら私が代わる。貴女はちりとりでゴミを掃き取ってくれれば良い」
「こ、これくらいできるもん! バカにしないでよね!?」
顔を赤くし、コハルはムキになって反論する。コンプレックスから生じている言動である事は考えるまででもなく、ラムレザルは大人しく引き下がり、ちりとりと箒を構える。
「わかった。それなら私はコハルを信じてゴミを掃き取る。だからコハルも私を信じて」
「き、急に何よ……やればいいんでしょやれば!」
ムキになってコハルはハタキを振るい始める。変に理屈を練るよりも、彼女自身のモチベーションを活性化させた方が早い事にラムレザルは気付きつつあった。
ふと窓の外を見ればアズサがゴミをまとめた袋を両手に持って移動している。掃除中にも関わらず銃を携行している様子は少しばかり異質だ。
「……もう、なんなのよあのテスト。無茶苦茶難しかった」
ふとコハルの呟きが聞こえたのでそちらを振り返る。まだ一日しか経っていないが、補修授業部から抜け出す為の合格テストで失敗してしまった事が相当堪えているのだろう。
だが、とラムレザルは敢えてそれを否定する。
「コハル。あのテストは大して難しくはなかった。しっかりと勉強していれば問題なく点数が取れていたはずだと思う」
これにコハルはキッと額にシワを寄せて、
「そういうラムレザルの方こそ点数ギリギリだったじゃないの! やっぱりこの前の小テストはカンニングしていたに決まってる!」
「カンニングはしていない。でも点数が酷かったのは、事実……」
「そ、それにあんな……あんなエッチな事考えてるなんて最低! 死刑だからね死刑!」
「そんなに重い罪を課せられるだなんて、思ってなかった……」
テストの合格ラインは60点。余程の事がなければまずしくじる事などない、そのはずだった。
結果は61点となんとか合格ラインに達してはいたものの、小テストで100点満点を出していた事を踏まえれば落差は凄まじいものだった。
点数発表をしている飛鳥の表情がみるみる内に青ざめていく様をハッキリと思い出せる。彼がラムレザルは余裕で合格するだろうと考えていた事は61点という数字に対して目を丸くしていた姿から明白だ。
テストの内容は決して難しくはなかった。それどころかラムレザルならば何の問題もなく満点を獲得していたであろう。だが運悪く、彼女の思考にノイズが走ってしまったのである。それはテスト中にも関わらず手を止めてしまい、まともに解答する事ができなかった。
飛鳥の片目、子供を産む方法、全く関係のない話題に意識を持っていかれるなど今までの自分であればまずありえない。そんな口惜しさにラムレザルは口をきゅっと一文字に結んだ。
「もうやだ、ここに缶詰めなんて最悪……」
コハルは泣き出しそうな表情ながらもハタキでの掃除はやめない。というよりやめてしまえばもっとネガティブになってしまうのでなんとか気を紛らわそうとしている。
補修授業部が解散する為には全員が合格しなければならない。これに準ずるならばヒフミとラムレザル以外全員が不合格、つまりは話にならない。ティーパーティーのホストであるナギサは既に準備していたのか、一週間の勉強合宿を即座に命じた。
(……まずい。あの場であんなに意気込みを語ったのに、最初のテストがあの点数は本当にまずい)
トリニティ内での補修授業部の扱いがどの様なものかなど想像するだけで少し面倒に感じる。ただでさえ成績不良者達の集まりなのだ、それが結果を出せていないという事実を残してしまえば少なくとも良い顔はされないだろう。
勉強合宿によって軌道を修正しテストに合格しなければならない。それはコハル達だけではなく、ラムレザルも同様である。第一回テストでド派手な失敗を犯してしまったのだから、気を引き締める必要がある。
(……いや、でも)
しかし、とかぶりを振る。仕方のない事だった。テストに挑んでいる時のラムレザルは冷静ではなく、それ故に集中できなかったのである。
目玉について、飛鳥から細かい説明を受けたのでもう二度と心を乱される事はないだろう。次回こそは100点を取る。そしてコハルの学力を上昇させる。
「ラムレザル、下江さん。何か手伝える事はあるかな? 一応男手としてカウントしてもらって構わないよ」
パタパタとゴミを集めていたところで件の人物がやってくる。飛鳥だ。記憶が正しければヒフミに同行し、掃除を手伝っていたはずなのだが何故ここにいるのか。
勉強合宿の場所として選ばれた別館をハナコの提案で掃除し始めて数時間、五人の生徒が皆どこかしらを清掃しているというのに飛鳥は見るからに手持ち無沙汰といった様子だ。
「……多分、ここなら力作業はないから心配ない」
「えっ、そ、それはその」
ラムレザルはぽつりと飛鳥に言い放つ。恐らく一人やってきた理由は掃除に必要な筋力が彼に備わっていないからだろう。彼が肉体労働というものにまるで向いていない事はハッキリしている。大方、ヒフミを手伝おうとして痛い目を見たに違いない。
飛鳥は見透かされたと気付くと顔を赤くし、口をモゴモゴとさせた。法術の天才、地上最強の魔法使いと言えど苦手な事がある。咎めるわけもなく、ラムレザルは自分の箒とちりとりを持って彼の元に歩み寄る。
「これを貴方に託す。ごみを掃き取って捨てるだけ、とてもシンプル」
「本当に助かるよ、ラムレザル……」
飛鳥は面目なさげな表情を浮かべながら掃除用具を受け取り、
「阿慈谷さんの手伝いをしてもらえると嬉しい。僕が抜けて今頃一人だと思うから……学習用教室で掃除をしているはず」
「わかった。飛鳥先生はしっかりコハルの手伝いをしてあげて欲しい」
「え!? 私が手伝ってもらう側なの!? なんで!」
「身長に関しては先生の方が高い。コハルだと棚の上まで手が伸びない」
シンプルに理由を説明すると、コハルはうまく言い返せない様ではたきを握りしめ、不服そうに頬を膨らませた。が、すぐにムキになって掃除へと打ち込み始める。飛鳥に手伝ってもらわなくてもできるという意思が背中からも溢れ出ているが、やはり高いところにまでは手が届いていなかった。
見ての通りだから頼む、と視線で飛鳥に訴えかけると、彼はコクリと頷いて箒を手にコハルのサポートをするべく動き出す。その様子を見届けてからラムレザルはヒフミが一人掃除しているはずの教室へと向かった。
〇
「ヒフミ、手伝いに来たよ」
「あっ、ラムレザルちゃん!」
教室に顔を出すと、掃除を終えたらしいヒフミがひとまとめにしていた机を元の位置に並べようと右へ左へと動き回っていた。とてもではないが一人でこなす量ではない。ラムレザルはさっさと教室に入るなり、適当な机を両手で持ち上げていた。
「これを均等に並べればいいの?」
「は、はい。それで大丈夫です。飛鳥先生は……?」
「今コハルと掃き掃除をしてる」
「よ、良かったです……机を持とうとしてひっくり返っていたので。お怪我はなかったみたいなんですけど、見ていて本当に不安でした」
予想通りだったが勿論それを咎めるわけではない。適材適所という言葉がある様に、人間誰しもできる事とできない事がある。飛鳥は肉体労働が苦手だが、その分頭脳労働において誰よりも秀でている。時が来れば、その時に実力を発揮してもらえば良いのだ。
二人がかりで運んでいるおかげか、みるみる内に机の配置は見覚えのある形にまとまっていく。ヒフミ一人ではここまで円滑に事は運んでいなかっただろう。
机を粗方並べ終えたところで、ヒフミはほっと息をつき、
「ありがとうございます、ラムレザルちゃん」
「お安い御用。私は力仕事でも戦闘でもなんでもできるから、困った事があれば言って欲しい」
「さ、流石に戦闘まではお願いしませんよ!? 今みたいな仕事だけで十分ですから……」
「わかった。それでも呼んでね」
ヒフミの何処か弱々しい仕草をラムレザルは細かく観察していた。見たところ補習授業部でも一番おとなしい性格である彼女は、部全体をいつも気にしている。言うならば部隊長と言ったところだ。であれば部の構成員として可能な限り支えてやる必要がある。
ラムレザルがびしっと気持ちを表情に表していると、ヒフミは困った顔を浮かべながら、
「……あの、前にトリニティに編入したのは飛鳥先生に勧められたからだと聞きました。それまでは何処の学校にいたんですか?」
「私は、学校には行っていないよ」
ヒフミ達には『飛鳥の手でトリニティへと編入した』とまでしか説明していない。それ以前にはそもそも学生でもなく、さらに言うならば人間でもない。そうした情報は隠しておくつもりだったのだが、思わずラムレザルはハッキリと口にしてしまっていた。
気が緩んでいたのか、それともヒフミに対して誠実でありたいと思ってか。言葉にしてしまった後から考えようにも答えは出てこない。
ヒフミは思わぬ返答にギョッとして、
「え!? 行ってないって、小学校にも中学校にも、ですか!?」
「うん。私は生まれた時から勉強する必要がなかった。何かをそれ以上学ぶ事なんてないと思ってた」
ズラリと机を並べていきながら、ぽつりぽつりとラムレザルは己の出生を語る。一ミリのズレもなく続く列は、ヴァレンタインとしての整いすぎた人格を象徴しているかの様だ。
「でも友達に会えて知らない事、知るべき事が沢山あると教えてもらえた。そして飛鳥先生に誘ってもらって、ここにいる」
「知らない事って……?」
「不必要で、不純で、不可解なものばかり。でも……きっとそれを大切だと思えるもの、と私は考えてる」
うまく言葉にはできない。まだ生まれたばかりと言っても良いラムレザルには、大切な友人との交流で芽生える感情に身を震わせる事はできてもはっきりと表現できない。言語化できないからこそ良いものに違いない、そう確信してはいる。
「じゃ、じゃあ海なんてどうでしょうか!」
ヒフミがそう言いだした。机から視線を外し、彼女に顔を向ける。
「海?」
「そうです。海で遊ぶんです! スイカ割りをしたり、焼きそばを食べたり!」
「……それは、初めて聞く」
「学生の夏ってそういうものなんですよ……! 一度きりしかない夏、もう戻ってこない夏……きっとラムレザルちゃんの知らない事って、学生としての楽しみだと思います」
「―――学生としての」
『だから先生として提案してみるんだ。学校に、興味はないかなと』
飛鳥の言葉を思い出す。含みのある言動に首を傾げたが、ヒフミの提案によってその意味がようやく理解できた。
補習授業部の助けになる事、そして……学生として楽しむ事。それが飛鳥の望みなのかもしれない。
「海、気になるかもしれない」
「本当ですか!? じゃあ、じゃあ、皆で海に行きませんか!」
「……皆で」
「二人で何の話をしてるの……? 海? 何かの作戦の話?」
興奮した様子で話すヒフミと落ち着いた様子ながらも興味津々なラムレザル。二人が海について話していたところで教室に入ってきたのは、怪訝な表情のアズサである。恐らく教室の外からでも楽し気な声が聞こえてきたのだろう。
会話の内容をラムレザルが教えようとするよりも早くヒフミはアズサに駆け寄ると、その手をぎゅっと握りしめ、
「アズサちゃん、アズサちゃんも海に行きましょう!」
「……話の流れが読めない。海?」
「ヒフミは、補習授業部の皆で海に行きたいという話をしている。私も海を見た事がないから、ついていくつもり。アズサはどう?」
ラムレザルは恐る恐るアズサへと問いかけていた。あまり会話ができておらず、せっかくの転入生同士だというのにあまり関係性は進展していない。そんな中で海に行こうと誘うなど、どんな答えが返ってくるのか不安で仕方がなかった。
アズサは突然の話題に目を丸くしながらも、
「海……に行った事はない。だから興味がない事はないけれど」
「それなら! 是非!」
「その前に、私達はテストを合格しなければならないんじゃ?」
アズサの冷静な返答に、みるみる内にヒフミは萎んでいく。これにはラムレザルも重く頷いてしまう。
これが補習従業部という部活内での会話でなければ、実現性は非常に高かっただろう。だが困った事に三人には勉強合宿の後にテストを合格するという何よりも大切な試練がある。現実は厳しい。
「そ、そうでした。そう、でしたぁ……」
「でもテストを合格すれば皆で海に行ける。それは間違いないよアズサ」
「む……確かに。最優先事項を解決すれば、娯楽に対する余裕も生まれる」
「そうです! ラムレザルちゃんの言う通り! そうと決まれば合宿を頑張りましょう……!」
咄嗟にヒフミをフォローすると、アズサも一理あると頷いてくれる。目玉について話した時もそうだったが、機械的に見えて彼女は人間味のある仕草をよく見せてくれる。ラムレザルの中での印象は少しずつ変わりつつあった。
合宿に、そしてテストに対する姿勢は前のめりながらも『海へ行く』という形で固まりつつある。この提案がコハルとハナコにも賛同してもらえれば、部内の連帯感はより強いものになるだろう。
「……あ、そういえば二人に伝えなければならないんだった。ハナコが外にあるプールを掃除するから、水着に着替える様にと」
「水着?」
「うん。掃除をするついでに……皆で遊びたいと言っていた」
思い出した様にアズサが呟いた内容にヒフミとラムレザルは顔を見合わせる。合宿とプールに何の関係があるのか、疑問を抱いてしまう。
アズサ本人はと言えば、少しワクワクしている様子だった。海にも興味を持っていたのは同じ理由なのだろう。
「それじゃあ、海を行く前の予行演習という形で……! ラムレザルちゃんは水着を持っていますか!?」
「う、うん。持ってる」
持っているかと問われれば持っている。必要な持ち物の中には書いていなかったのだが、もしもの場合に備えて入れておいたのだ。まさか実際に使うとは思いもしなかったが、備えあればなんとやらである。
「それじゃあ後でプールに集合という事で良いですか?」
「それで良いと思う。後は飛鳥先生も誘う様にと───」
そこでドタバタと足音が聞こえてくる。廊下を誰かが走り回っている様だが、何やら嫌な予感を覚えたラムレザル達がそっと覗いてみると、飛鳥が手足を滅茶苦茶に振り回しながら走ってきていた。
悲鳴を上げながら走っていたところでいよいよ息が続かなくなったのか、飛鳥は膝に手を置いてゼェゼェと肩で息をし始める。その目は助けを乞うかの様に潤んでいた。
「はっ……はっ……! 良かった、三人とも、できれば助けてっ……!!」
「飛鳥先生〜!!」
あまりにも鬼気迫る表情に何事かと目を剥いて驚いていると、後を追いかける様にしてハナコが走ってくる。いつの間にか掃除用のジャージではなく、いつかのスクール水着姿で。
プールの掃除、水着、そして飛鳥。導き出される答えからラムレザルは同情の意志を込め、全力疾走によって疲弊し切っている飛鳥へと視線を投げかけていた。
「飛鳥先生〜! 一緒にプールで遊びませんか〜!」
「いやっ、僕は、遠慮しておくよ……!」
もう一度走る力が残されていないのか、飛鳥は首を左右に振って必死に拒絶の意思を示しているが、ハナコの足は止まる様子がない。更に心底楽しげな表情が曇る様子もない。
どうするべきかとヒフミとアズサが判断を仰いでくるが、ハナコが簡単に止まってくれる人物でない事はよくわかっている。ラムレザルは、ゆっくりとかぶりを振るのだった。
「ほら飛鳥先生! こんな事かと飛鳥先生用の水着も用意していたんです。パーカースタイルとブーメランスタイルどちらが良いですか?」
「どっ、どちらも嫌だっ。誰か助け、うわっ、いやっ、アーッッッッ!?!?!?」
迫るハナコ、拒む飛鳥。
やがて別館に絹を裂く様な悲鳴が上がった。