先生は世界平和を実験している   作:飛鳥=R♯

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さぁ始まりますよVol.2が



Chapter4『Ke ĝi estas malsama―チガウトイウコト』Vol.2
Remalfermi-サイカイ


「━━━あの未来を止めろ、か」

 

 不思議な男だった。

 一見軽薄に見えて、そこはかとなく老人の様なおかしな落ち着きを秘めた瞳に百合園セイアは純粋にそんな感想を抱いてしまう。

 荒唐無稽な彼の提案だが、それでも思わず意味のないモチベーションを抱いてしまう程度には、心動かされるものがあったのは確かだ。

 

「未来は確定しているよアクセル=ロウ。変えられはしない。誰も知らないだけで、明日に起こる事象など決まりきっている」

 

 それはアクセルが去り際に放った『未来は決まっていない』という言葉に対するセイアのアンサーだった。言う相手がいないのであれば単なる独り言に過ぎないが、彼女は口に出して自分自身に言い聞かせていた。

 夢の中に長い間篭り過ぎて、人の持つ温かみに心が揺らぐ。今までの彼女であれば馴染みのない情動と言えた。

 

「……証明してあげようアクセル。未来は変わらない。私の目で、見届けよう」

 

 現実に目を向け、観測する。夢の中では特にやる事などはない。眠りこけても良いが、あの不思議な男にしっかりと逃れられようのない事実を叩き付ける為にもセイアは、意識の外に寄りかかった。

 本当は、少しだけ期待している。アクセル=ロウが自分に『否』と断言する事を。自分一人の抱えた絶望など、案外跳ね除けられてしまう事を。

 

 

「皆おはよう。ラムレザルは無事に回復したので、また勉強を再開しようか。目指せ全員合格だ」

「できるかー!!」

 

 補習授業部の合宿二日目。一日目にして怒涛の展開ばかりが続いたが、合宿そのものは七日間ある。つまりまだまだ始まったばかりというわけなのだが、明るく振る舞おうとした飛鳥に浴びせられたのはコハルの怒号である。

 さて、一体何があったのかと飛鳥は五人の生徒を観察する。

 気まずそうなヒフミ。

 困った顔のハナコ。

 いつも通りあまり感情を顔に出さないアズサ。

 いつも通り以下略のラムレザル。

 そして、今にも泣き出しそうなコハルだ。

 なるほど、と飛鳥は頷いた。

 

「……下江さん、君の気持ちはよくわかる。確かにラムレザルはまだ本調子ではないけれど、本人の了承は得てここに出席しているから心配しないでほしい」

「そっちじゃない! いや、心配って言えば心配だけど、そっちじゃない!! ヒフミから聞いたんだから……私達、合格しないと退学だって! 先生も知ってるんでしょ!?」

 

 これに飛鳥は目を丸くし、それから思わずヒフミに視線を投げかける。

 生徒達に退学の話がバレていた事にも驚いたが、よもやそれが彼女からのものだとは更に意外だ。

 何故、彼女がそんな内容を知っているのか。確かに補習場業部の部長を務めてはいるが、よもや退学の話まで知っていようとは。

 ヒフミの様子を伺うと、申し訳なさそうに視線を伏せている。彼女の事である。発覚した直後に、沢山仲間達に謝罪したのだろう。

 

(……ああ、いや。桐藤さんは僕以外にも監視者を用意していたという事か)

 

 ナギサの事である。確かに裏切り者を探せなどという依頼を飛鳥一人に任せる程甘くはない。というより、生徒達を監視する飛鳥を更に別の者に任せていたと考えるべきだろう。

 まさかそれが裏切り者の一人として疑いをかけているヒフミだとは、少し飛鳥も予想外だった。そこまでか、と口中でぼやく程に。

 チラリとハナコに視線を向ける。彼女もコクリと頷き、これ以上隠すのは難しいと訴えかけていた。

 

 考えたところで仕方がない。知ってしまった以上は、明らかにせねばその方が不誠実というものである。

 

「事実だよ。もしもあと二回のテストに合格できなければ、皆は退学になる」

「……ほ、ホント? ホントなの!?」

「桐藤さんは本気だよ。僕も何度か撤回する様に頼んだけれど、聞く耳は持たなかった」

 

 それを聞いたコハルはへなへなとその場で脱力し、呆然とした表情で天を見上げた。

 彼女の学力を考えれば無理もない。四人の中で一番自信がない事はよく知っている。となれば、告げられた事実に絶望するのは当然だろう。

 だが飛鳥はそこで申し訳ないという気持ちを押し除けて、間髪入れずに、

 

「黙っていた事に関しては申し訳ないと思う。けれど元より合格しなければならない……そこに違いはないんじゃないかな」

「……で、でも」

「それとも、不合格になっても良かったというのかい?」

 

 口を尖らせるコハルに対して敢えて鋭い言い方で返す。

 隠していた身分の人間が何を偉そうに言うのか。当然の疑問ながら、飛鳥は敢えてそう対応する。

 コハルはビクッと震え、もじもじとし始めた。返す言葉が見つからないのだ。

 

(……これじゃまるで、僕が一種のハラスメントを強いているみたいじゃないか)

 

 飛鳥とて、罪悪感を覚えないわけではない、コハルに対して正論で言い返せばどんな反応が返ってくるか想像はついている。

 

「いや、不合格になるわけにはいかない」

 

 と、澱んだ空気をアズサの言葉が切り裂いた。全員が振り向けば、毅然とした面持ちで、

 

「どの道私達はテストに合格しなくちゃいけない。先生の言う通り、最終的な目的に変わりはない」

「……まぁ、アズサちゃんの言う事が答えになると思いますよ私も。元々勉強する以外に道はないわけですし」

 

 アズサに同調してハナコも頷き返す。その素振りから見るに、彼女は知らなかったフリで通す様だ。

 

「コハル。確かに退学の件は驚いたと思う。でも、私達は昨日皆で頑張ろうと改めて団結したばかりだよ。頑張ろう」

 

 ラムレザルも二人に同調し、コハルに励ましの気持ちを込めて拳をぎゅっと握った。

 少し飛鳥は安堵していた。不合格ならば退学など、大抵はコハルと同じ様に打ちひしがれてしまうものだが、彼女達は強い心を持ってくれている。

 

「……わ、わかった! わかったわよ! やればいいんでしょ、やれば!!」

 

 少し遅れて、コハルも顔を赤くして叫び返した。ここまで来れば彼女としても腹を括るしかない。何より自分の立場がどんなものであるのかはコハル自身がよく理解しているのだ。

 そして最後に残ったのは、視線を伏せていたヒフミである。口をモゴモゴとさせながら彼女は仲間達へと向き合い、

 

「あの、皆さんに隠していた事は改めて謝ります。本当にごめんなさい。でも……皆で合格したいという気持ちは本当です! 約束もしたんですから!」

 

 怖がりながらもハッキリとそう言い切ったヒフミを否定する者はおらず、全員が決意した様にしっかりと頷いてみせる。どうやら飛鳥が思っている以上に彼女達は絆を芽生えさせている様だ。

 

「……まとまったところ申し訳ないんだけど、ラムレザルが言う団結したっていうのは一体いつ頃の話なのかな?」

 

 暗に『夜出歩いた?』という飛鳥の問いかけに答える者もまたおらず、全員が一様に視線を彷徨わせるのだった。

 

 

「それはそれとして、貴方には聞きたい事がある」

「もちろん、今後の話をしよう。入って」

 

 当然と言うべきか、その日の夜にラムレザルは生徒達から少し離れた飛鳥の部屋にやってきた。

 飛鳥はすぐに彼女を部屋に招くと、何処か適当な場所に座る様に促す。ラムレザルはベッドの端にちょこんと座り、いつも通りの真顔でじっと見つめてくる。

 

「……君の言いたい事はよくわかる」

「どうして退学の件を共有してくれなかったのか、それを教えて欲しい。私がコハル達をサポートする為にトリニティに入学したなら、目的と敗北条件は把握しておかなければならない」

「まず、共有しなかった理由について。もしも君がその事を知ったら、きっと強く意識してしまうと思ったからだ」

 

 椅子に腰かけ、飛鳥は呟く。ラムレザルは首を傾げ、

 

「どういう意味?」

「ヴァレンタインである君は、役目や責任というものに強い感情を持っている。簡単に言えば真面目過ぎるんだ。そんな君に『皆を退学から救ってほしい』だなんて頼めば、きっと君はその通りに生徒達と接しただろう」

「それは当然の事だと思う。退学だなんて、あってはいけない事だから」

「……でも僕は、君に学生でいて欲しかった。新しい体験をしてみて欲しかったんだ」

 

 それはラムレザルがこの世界において生徒だからである。彼女が戦う者ではなく、キヴォトスに存在する一人の生徒だからこそ、尊重しようと飛鳥は考えたのだ。

 

「だとすれば、それは凄く言葉足らず」

「まったくもって、君の言う通りだ。僕は良かれと思って行う事になるといつも言葉が足りない」

「……けど、貴方の伝わりづらい気持ちは理解できた。今後は一層、コハル達のサポートをしていく」

 

 ラムレザルからの、一応の許しを得たという事で良いのだろう。ほっと胸を撫で下ろしつつ、今度は飛鳥が彼女に対して質問をする番が回ってきていた。

 

「ラムレザル、それじゃあ僕からも聞きたい事がある。君を襲った謎の生徒について……」

「あれは、私と同じヴァレンタインだと思う」

 

 よどみのない返事だった。飛鳥は椅子の背もたれに体を預け、思案する。

 飛鳥の知るヴァレンタインは全部で四人いる。

 ラムレザルと彼女の妹にあたるエルフェルト、飛鳥が作り出したジャック・オー。そして……『慈悲なき啓示』が人類に放った、いわば序章とでも言うべき存在。初代『ヴァレンタイン』。

 

「けれど、彼女はフレデリックが倒したはずだ。何故……」

「貴方がこれまで見てきた中で、消えたはずの存在が蘇る事はなかったはず。でも私が感じたあの『ざらつき』は、言語化できないけれどハッキリと彼女が同類であると示している」

「間違いなく、ケイオスが関わっている。けれど一体どうやって?」

 

 蘇ったヴァレンタイン。そしてその背後で糸を引くケイオス。

 敵は猜疑心に囚われたナギサだけではない。キヴォトスを混沌に陥れようとする存在もまた水面下で動き始めている。

 エデン条約調印、それまでに動きを掴めるのか……。

 

「ん、客が来ている」

 

 飛鳥が深く考え込み始めていたところで、ラムレザルが声をあげた。それと同時にドアがコンコン、とノックされた。

 今朝の出来事について、恐らく生徒の誰かが話しに来たのだろう。恐らく退学事情を知っているヒフミだろうが……そう思いながら飛鳥はドアまで歩いていき、特に誰が外にいるのかを考えず迎え入れた。

 

「誰かな?」

「はい♪ 浦和ハナコです」

 

 水着姿のハナコが立っている。

 

「うん、おやすみ」

 

 飛鳥は速攻でドアを閉めていた。

 

「そんなぁ~。先生、遊びに来たんですよ? 開けてくださいっ」

「いやだ。大体、遊びに来るのにどうして水着である必要が?」

「うふふ、これはパジャマなんですよパジャマ。ご存じないんですか? 人によってはパンツ一枚で寝るんです。それに比べたら水着でも何らおかしくはないと思いますっ」

「どちらにしてもお引き取り願おう。切実に、本当に」

「良いんですかー? お力になりますよ、これからの……お・は・な・し・に」

 

 ドアに背中を預け絶対に入れまいとしていたが、その言葉には反応せざるを得ない。何しろハナコの持つ頭脳にいち早く気付き、仲間に引き入れたのは飛鳥自身なのだから。

 数秒程考えた後に、諦めてドアを開ける。するとまるで液体か何かの様にハナコはぬるりと開かれた隙間から室内に入り込み、あまりにも常識はずれな姿を露わにした。

 

「もうっ。廊下で一人立っているのは恥ずかしいんです。それとも、先生は生徒が羞恥に立ち尽くす姿がお望みなんですか?」

「いや、別にそんな趣味はないよ。大体、さっきパジャマだと言い出したのは君じゃないか……」

「ふふふ、先生は本当に良い反応を返してくれて嬉しいです。流石ですね。あ、ラムレザルちゃんも来ていたんですね。やはり密会……」

 

 間違いなく話が進まない。というよりわざと遅延させている節がある。どうしたものかと飛鳥は困り顔を浮かべながら、

 

「ラムレザル、浦和さんは一応色々な事情を知っている。僕の協力者だ」

「状況は把握した。把握したけれど、少し許容するのに時間がかかりそう」

「あらあら、大丈夫ですかラムレザルちゃん。ここは私が熱い抱擁をしても良いのですが……と、冗談はここまでにしておきましょうか。ね、飛鳥先生」

「最初からそうして欲しいよ……」

 

 やれやれ、と飛鳥はかぶりを振ってハナコから視線を逸らす。冗談と言うには心臓が悪い。そんな冗談ばかりを好むのだから彼女という生徒はすこぶる相性が悪いのだ。

 ニコニコと微笑みながらハナコはラムレザルの隣に腰かけた。

 

「それで浦和さん。わざわざここに来た理由は……」

「ええ、状況がかなりややこしくなってきていますから、ご提案をさせていただこうと思いまして。ラムレザルちゃんの襲撃犯、ご存知なんですよね?」

「……」

 

 やはり厄介だ。ハナコは。

 飛鳥はどう伝えたものか、とこめかみに手を当てる。ただでさえナギサに説明するのには骨が折れたというのに。

 と、そこで再びドアがノックされる。今度は誰だ、と飛鳥はドアは開けずに廊下にいる何者かへ声をかける事にした。

 

「誰かな」

「あ、私です。ヒフミです」

「……先客がいるんだけど、大丈夫かい?」

「大丈夫……だと思います」

 

 恐らく退学に関する話だろう。どの道廊下に立たせているわけにも、帰らせるわけにもいかない。

 飛鳥はドアを開け、ヒフミを迎え入れる。すると彼女は水着姿で待ち構えていたハナコの姿を見るや否やギョッとし、すかさず飛鳥の背中に飛び込んでいた。

 

「え、ええっ、ええ!? な、なんでハナコちゃんが水着姿なんですか!? 先生!?」

「どうして僕のせいだと思うんだい……」

「あら、もしかしてご存知ないんですか先生。『飛鳥=R=クロイツは変態的嗜好を持つ大人だ』なんて話がまことしやかに囁かれているんですよ? ゲヘナの生徒の足を舐めようとしたとか……ふふふ」

「―――事実ではあるだけに困るな」

「え?」

「……皆、四人もここにいるからには話し合いたいんだけど」

 

 混乱は必至な状況をラムレザルの声が抑え込む。飛鳥はヒフミに適当な場所へ座る様に視線で訴えかけながら、元いた椅子まで戻り再び腰かける。ラムレザルとハナコの間に、彼女は収まった。

 

「さて、じゃあ阿慈谷さん。ここに来たという事は君が持っている情報を共有する為、だね?」

「……あの」

 

 ヒフミはラムレザルとハナコの顔をちらりと窺っている。聞かれたくない話なのだろう。

 

「大丈夫だ。二人共大体の事は理解している」

「そ、それじゃあ……私、ナギサ様から皆さんがもしもテストに合格できなかったら退学だと言われたんです。先生も同じ事を言われたん、ですよね?」

「言われたよ。何度も撤回を求めようとしたけれど、ダメだった」

「……先生でも、ですか。それじゃあ、本当に……」

 

 ヒフミの視線が泳ぐ。その反応に飛鳥は今朝の事を思い出す。

 間違いなく、ヒフミはナギサが用意したもう一人の監視者だ。補習授業部の部長という立場を任せる事で、裏切り者が誰かを探ろうとしている。

 そこで更に飛鳥はハナコがニコニコと微笑んでいると気付き、先程呟いていた『ご提案』が何かを察した。

 

「―――ラムレザル。先に謝っておく。僕が今から阿慈谷さんに話す事は、また君に伝えていなかった事だからね」

「構わない。黙っている事に理由があるのは理解したから」

「え……? 先生、それはどういう」

「阿慈谷さん。桐藤さんに、『裏切り者』を探せと……そう言われたんだろう?」

 

 ヒフミの表情が凍りつく。愛想笑いさえできずに、額に汗がじわりと滲んでいた。

 ラムレザルは驚いた様子もなく、むしろ何かに納得した様子で目を見開く。何故飛鳥が生徒でいて欲しいと思ったのか、その具体的な理由が明らかになったからだ。

 

「やっぱり、先生にも……」

「うん。でも安心して欲しい。裏切り者は君達の中にはいない」

「実は私、本当に裏切り者がいるかどうかわから―――ええぇ!?」

 

 ヒフミの反応は非常にわかりやすく、ある種話し甲斐がある。いわゆる良い聞き手という奴だ。スムーズな説明ができるだろう。

 飛鳥はラムレザルにおおまかな状況を理解してもらうべく、改めてナギサからの依頼内容を打ち明けた。

 

―――補習授業部の正体は、エデン条約締結を妨害しようと画策する『裏切り者』を見つける事。

―――全員何かしらの疑いを持たれている事。

―――だが、飛鳥は既に裏切り者が補習授業部にはいないと気付いている事。

―――そしてナギサは、そんな飛鳥の言葉に耳を貸さない事。

 

「そ、それって、それって……私達、ものすごくまずい状況にありませんか!?」

「……ヒフミ達の疑いを晴らすピースは揃っているのに、解決案が見つかっていない事になる」

「はい♪ 本当に面倒な事になっていますね、先生?」

「ああ、とても困っている」

 

 適当な紙切れにサラサラと現状を書き記していく。一つ一つ書き残す度に、自分達がまさに針の筵であるという自覚が湧いてきていた。

 

「僕達の目標は全部で三つ。

 ①テストに合格する

 ②ナギサからの誤解を解く

 ③裏切り者を止める

 幸い、③を達成すれば同時に②も終わる。でも……大前提としてテストに合格しなきゃいけない。そして今非常に厄介に感じているのが、桐藤さんだ」

「私達を疑っているという事は、テストに合格させるつもりなんてさらさらないという意味。何せトリニティの長です。手段を択ばず妨害する可能性は高いですねー……」

「―――敵が、多すぎる」

「あわわわわ、あわわわ、どうしてこんな事に……」

 

 四人で紙を見下ろし、口をつぐむ。

 今補習授業部の前に立ちふさがっているのは恐ろしく高く、分厚い壁だ。しかもその壁は明確な敵意を持っている。

 

「テストを自力で合格する事は視野に入れつつ、裏切り者を捕えて誤解を解く。それ以外に道はない、けど」

「けど、なんですか先生……?」

「裏切り者は、少しばかり大物だ。これをどうするべきか、そこを考えていかなければ」

 

 プールサイドに立つ、ふわふわとした少女の姿を思い浮かべる。推理に対して『まさか』と自分自身で否定したくなるが、事実は揺るがない。

 含みのある言葉に首を傾げるヒフミに、飛鳥は意を決してこう言い放つ。

 

「裏切り者の正体は聖園ミカ。僕らは……よりにもよってトリニティの幹部を敵に回しているんだ」

 

 

「―――世界平和、ですか」

 

 紅茶の水面に移り込む表情は苦々しい。ナギサは険のある自分自身の顔に、内心では少し驚いていた。

 いつの間に、こんなにも険しい面持ちになってしまっていたのか。否、これはトリニティの全てが双肩にかかっている証拠。むしろあるべき姿なのかもしれない。

 

「彼の言葉に嘘はないよ。そう、世界平和。飛鳥君は本気で実現させようとしている」

 

 ハッピーケイオスの言葉にナギサはティーカップから顔を上げる。

 飛鳥が腰かけていた椅子に、今は青肌の怪人がいる。悪趣味なサングラスの向こうでは怪しい輝きを放つ双眸が揺れていた。

 

「良い演説だと思うよ、アレは。でも時に正しい考えを持っているはずの人間が間違った方向に走る事もある」

「曖昧な表現はやめて、もう少しわかりやすく話はできませんか?」

「ああ、結論と結果を求めるのは悪い癖だ。推理だとか推察っていうのは論理的に演繹的に―――まぁ要するに順序立てなきゃ。前提が揺らいじゃ、その後は全部無茶苦茶だ」

 

 ケイオスという男の言葉を鵜呑みにしてはいけない。ナギサはそう自分に言い聞かせ続けている。

 誰かを疑え、誰かを信じるな。そんな都合の良い言葉が人を惑わせ、凶行へと導く。トリニティでは日常茶飯事だ。

 

「……もう一度聞きましょう。貴方は飛鳥=R=クロイツの知人で、彼がかつて行った凶行を知っていると?」

「そうだよ。飛鳥君は、まぁ簡単に言うとナチュラルボーンクレイジーだ。常人と感性が違うんだ。だからそう、良かれと思って彼は誰かを惑わせ、あらぬ疑いを呼ぶ。その結果が……戦争だ。君はよく知ってるはずだ、そういう人間が如何に危険かを」

「―――」

「信じるか信じないかは君次第だよ。でも忘れないでね? 百合園セイアは既に『やられた』。また誰か狙われる。裏切り者はいつだって君の首を狙っているんだ。得体の知れない、怪しい大人までいるのにね」

 

 あの男。飛鳥は裏ではそう呼ばれている。

 何を考えているのかわからない。騒ぎばかりを引き起こす。災いを引き起こす、台風の目。

 もしも、裏切り者の背後で本当に彼が糸を引いているのだとしたら……?

 

「あ、ナギちゃん。まだいたんだ」

 

 ナギサは突然名前を呼ばれ、ビクッと体を震わせた。

 一瞬の内にケイオスの姿は椅子から消えている。最初から何処にもいなかったかの様に。

 声と共にテーブルまで近付いてきているのは、ミカだった。平静を保つべくナギサは紅茶で喉を潤し、声色を整えようとする。

 

「ミカさん、どうかしましたか……?」

「どうかって、ナギちゃん最近ずっと考え事してるみたいだからさ。ちょっと心配しちゃって」

「ああ―――何せ、エデン条約が控えています。私としても、今後の展望に思いを巡らせていました」

「そ、そっか……でも、でもさ、今度授業ない日に何処か遊びに行ったりしない? 気持ちを入れ替えて、なんて?」

「いいえ、必要ありません」

 

 ナギサはピシャリと言い切った。自分でも少し怖いと感じる程度には低い声色で、とてもではないが友人に対して向けるものではない。

 ミカの表情が固まる。冷たい態度を取ってしまったと後から気付き、ナギサは慌てて口元を綻ばせた。

 

「どうしてもやらなければいけない事があります。すべて片付いてからにしましょう。それまでは、お気持ちだけでもいただいておきますね」

「あ、あはは、うん、そうだね。そうだよ! 気持ちだけ、気持ちだけ、ね! じゃあそろそろ私行くね、無理しすぎないでね!」

 

 ミカは足早にテーブルを離れると部屋から出ていく。扉が勢い良くバタンと閉まり、ナギサの耳にその音はじんわりと広がった。

 

「そう、急がなきゃいけないよ。君の大事な友達が……百合園セイアと同じ事にならない様にね?」

 

 背後からの声に振り返り、勢いのあまりティーカップが床に落ちて砕け散る。

 そこには誰もいない。幻聴なのか、それともあの怪人が本当に立っていたのか、確かめる術はない。

 お気に入りのティーカップが粉々になって散らばっている事に言葉を失い、ナギサは椅子に座り込むと天井をじっと見上げた。 

 

『信じる事が難しいのは知っている。でも、心が見えないからこそでもあるんだ。だから桐藤さん、まずは僕を……信じてくれないかな』

「……信じられるものなら、そうしたいですよ」

 

 その呟きを拾い上げる者は、誰一人としていなかった。

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