「結局、買ってしまった……」
首元にぶら下がったロケット。シエンの誕生月に由来する瑠璃をあしらい、質素なカソックに彩りを添えている。
勧められた2つのうち、結局シエンはロケットの方を選んだ。可愛らしいピンブローチはシエンには少し気後れしてしまうもので、代わりにロケットの中には3人で撮った写真を入れることにした。
細い金の鎖を指先で摘むと、振り子のようにロケットが揺れる。
首に絡まる首飾りが、自身がシスターフッドに帰属させているような気がして、心地良かった。
「あの……、すいません。この時間って懺悔室やっていますか?」
静かな聖堂に見慣れない来客。稀にやってくる懺悔室の利用者、有り体に言えばお悩み相談を受けたい生徒だった。
「構いませんよ。神の家は悩める者にその扉を大きく開けているものですから」
懺悔室の対応はシエンにとって好きな業務の一つだ。何よりも、自身の過ちを認め、告白する勇気を持った誰かを好ましく思う。
人が一人座れるだけのスペースしかない箱の中にシエンが入る。眼の前にある窓の向こうを隠す厚い布の向こうには、シルエットだけが見える相談者が座っていた。
「今日はどのようなことを話したいのでしょうか?」
「その……、友達と喧嘩をしてしまって……」
しばしの沈黙の後、相談者はゆっくりと話し始めた。
「その友達と仲の悪い子とも、私は友達だったんです」
相談者が言うには、喧嘩をした友達が嫌っている生徒とも長い付き合いなのだという。彼女はそれを言い出せず、ある日一緒にいるところを見つかってしまう。
弁明しようとさても友人は聞き入れてはくれず、半ば喧嘩別れのようになってしまった。
「私は友達に不誠実だったのでしょうか?」
すがるように言葉を投げかける相談者。シエンは少しだけ考える素振りを見せる。はて、この相談者に送るべき言葉は。それをシエンは記憶する教典から考えている。
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかしわたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
シエンは教典の言葉を引用する。
「友人が嫌う人とも仲良くしようとする貴女の行動は、とても褒められるべきものです」
その上で、
「今回、その友人と仲違いをしてしまったのは不幸なすれ違い。胸を張ってください。貴女の行動、優しさは友人にも伝わります。今は苦難のとき、諦めてはいけません。望みを捨てぬ者こそ、救われるのです」
ゆっくりと語るシエンの言葉を相談者は静かに聞き入れていた。
「貴女の友人も、貴女の気持ちを理解してくれます。貴女の友人を信じなさい」
やがて、窓の向こうから鼻をすする音とともに、涙声が聞こえた。
「ずっ、ずいばせん神父様。で、でも、私ずっと不安で……」
「いえいえ……、構いませんよ。この懺悔室で起きたことは私とあなただけの秘密です。好きなだけ涙を流しなさい。そして、ここを出たのなら笑って友人たちに会いに行くと良いでしょう」
「はい!」
嬉しそうに話す相談者。相談も終わり、二人は、懺悔室を後にする。
大聖堂を後にする相談者を見送る中、振り返る彼女と目が合う。
「今日は相談に乗っていただき、ありがとうございました」
「また、悩みがあればいらっしゃってください」
「友達と仲直りが出来たら、その時は報告に来ます」
相談にやってきた時は沈んでいた表情はなくなり、肩の荷が降りたよにその顔には朗らかな微笑みがあった。
大聖堂から去る生徒の背を眺めながら、シエンは苦笑する。
―友人が嫌う人とも仲良くしようとする貴女の行動は、とても褒められるべきものです
自分の言葉の白々しさを改めて考えて、シエンは自嘲する。
彼女に起きた問題は仕方のないことだ。友人に秘密を抱え、それを言い出せずに破綻した。そこに悪意はなかった。だからこそ、彼女はやり直すことを許される。
では、自分は?
初めから、裏切りがあった。初めから破綻することが分かっていながら、シエンはシスターフッド、サクラコたちと関係を結んだ。
彼女たちを良い顔をしながら、その裏ではゲマトリアとしての活動を続けていた。
そんなことを、いつ崩れるかわからない不安定な立場を、それでもシエンは歩んでいた。
これが裏切りでなくて、悪意でないというのなら、何だというのか。
そうして自身の悪行を再確認するたび、シエンは胸が苦しくなる感覚を覚える。
罪悪感を覚える。そんな資格すらないというのに。
刺されるような胸の内を抑え、せめて赦しを、乞うために手を合わせようとして、その時だった。
沈黙を破るように着信音が鳴る。シエンがカソックの内側から取り出したのは携帯電話。そこに表示された名前はただ一文字、『B』とだけ。
同じゲマトリアに籍を置くベアトリーチェからの連絡だった。
その名前を確認してシエンの表情は苦々しく歪み、良い知らせでないことを伝えている。
渋々という動作で電話を操作すると、電話口の向こうで女性の声がした。
「ジャラル、準備が整いました。調印式の真っ最中を狙ってアリウスの子らを差し向けます。貴方には彼女らが下手を打たないよう、先生の対処を任せます」
声の主は要件だけを伝えると、シエンの返答を待つことなく一方的に通話を切った。
無機質な電子音が電話から流れ、シエンに有無を言わせない重圧を示している。
「……クソっ!」
あまり見せない苛立ったシエンの声。乱暴に近くにあった長椅子に座り込むと、気がつけばシエンは懐から取り出したタバコに火をつけていた。
「どうする? ベアトリーチェと交わした契約は今更どうにも出来ない。だが、やつの言いなりになれば……」
焦りからか、思考が言葉として表出していた。
思いつく限りの未来を予想して、そのどれにおいてもシエンが望む結果は得られそうにない。
苛立ちを抑えようと深く息を吐いて、肺に溜め込んでいた紫煙が部屋を満たしていく。
「……シエンくん?」
驚いて声に振り向く。目を丸くしたサクラコと目が合った。
考え事に夢中だったからか。それともこんな時間には誰も来ないという油断か。
扉が開いたことに、サクラコが来ていることにも、シエンは気がついていなかった。
サクラコは目を丸くする。彼女は明日の調印式に向けて、シエンと調整しておきたかった事を相談しようとしていた。
軽く扉をノックしても返事がなかった。
きっと読書でもしているのだろうと思った。前にもそんな事があった。今回もそうだと思った。
けれど眼の前にあったのは、タバコを吸っているシエンという、予想もしていなかった光景だ。
思ってもみなかった光景に固まるサクラコ。何かの間違いだと思う一方で、鼻腔をくすぐるタバコの香りが、それが現実だとサクラコに突きつけている。
不愉快な匂い。思わず鼻を空いた手で塞ぐ。
「シエン、……くん? その手に持っているのは一体……」
「サクラコさんっ! いや、これは、違うんです」
何に言い訳をしているのだろう。話しているシエン自身も良く分からない。なんの意味があるのか分からない弁明をする。
どうやれば、この場をやり過ごせるか。自分のことで頭がいっぱいになっていた。
けれど、そんな思考も目に映る光景に静止する。
「また、隠し事なんですか……?」
まるで、頭を殴られたような衝撃だった。寂しそうな表情に、悔しさや怒り、複雑な色が混ざり合い溢れ出てしまったものが頬を伝ってサクラコのスカプラリオを濡らしていく。
「ちが……、私はそんなつもりだったわけじゃ……」
涙を流す少女に、少年が勝てる道理はない。
自分のせいだとしても、彼女にそんな表情をさせたくはなかった。どうにかしなければと、歩きだそうとして、けれどできなかった。
「―っ! 熱い……」
サクラコに向けて伸ばそうとした手に、燃えるタバコの灰が落ち、その熱がシエンの手を炙った。
色の黒い肌が赤く染まる。
「っ! すぐに冷やさないと」
シエンが傷ついたことに、サクラコは反射的にその手を取ろうとして。触れ合いそうになった手を、しかしシエンは伸ばしていた手を引いていた。
どうしてそうしたのか、シエン自身理解していなかった。無意識の行動だった。
きっと触れたくなかったからだ。
タバコの灰で彼女を穢したくなかった。
これから彼女を、シスターフッドを、トリニティを裏切ることになる自分に、汚い自分をサクラコに触れられたくなかった。
「……必要ない。自分でどうにかできる」
触れようとしていた手を握り、懐にしまっていたタバコの箱をサクラコに預けた。
その一連の動作を、サクラコは見逃していた。眼の前にいたはずのシエンの姿を見失い、気がつけば背後を歩いていた。
「ここで吸うべきじゃなかったな。捨てておいてほしい」
それは決別の意味を含んでいた。
サクラコの返答を聞くことなく、シエンはそのまま大聖堂を去る。その姿がサクラコには、もう戻ってこないような気がした。
「―待って、シエンくん。待って……」
呼び止めようとして、それ以上言葉が出てこない。自分はなんて言葉をかけたらいいのだろうか。自問しても答えは出てこない。
虚空に手を伸ばしてたまま、サクラコは動けない。歩き去っていくシエンの後ろ姿を眺めるまま、遠くなっていく。
あとに残されたのはサクラコと、タバコの残り香だけだった。
●
トリニティ学区の中でもとりわけ古い建物がある。古い時代には学び舎として使われていた古聖堂。
その前を、トリニティ総合学園とゲヘナ学園の旗を持った生徒たちが整列している。
並んだ旗の数々。交わらないそれは2校の歴史と対立を表しているかのようだった。
トリニティの代表であるティーパーティー。ゲヘナの代表であるパンデモニウム・ソサエティ。
調印式に参加するために参上した各校の代表たちは、聖堂の中央で用意された調印書に粛々と署名を進めていく。
そんな彼らの様子眺める関係生徒たち。
その中にシエンもいた。普段着る黒のカソックではなく、式典用の白いカソックに袖を通し、遠くから調印式の様子を、眺めている。
長い歴史において対立を続けてきた2校の和解だというのに、それを見るシエンの表情は硬く、喜びの色は見当たらない。
同じようにサクラコも取り繕ってはいるものの、時々仮面が崩れては不安そうな眼差しをシエンに向けていた。
見られていることにシエンは気がついている。けれど意図的にそれを無視する。サクラコも普段とは様子の違うシエンに余計に不安を募らせるばかりだ。
あれから、シエンとサクラコは言葉を交わしていない。聞きたいことはたくさんあった。けれど、どう言葉にすれば良いかサクラコには分からなかった。
あの日渡されたタバコも、今もポケットの中のままだ。それをどうすればいいのかサクラコには分からない。時間は止まったまま。
そうサクラコが考えごとにふけっていると、式典に動きがあった。
調印式の次第も終わりを迎え、あとは代表者たちがエデン条約の締結を宣言するのみ。それをもってこの調印式は意味を持つ。
彼女らの言葉を今かと厳かに待つ生徒たち。
その外で動き回る気配にサクラコは気がついた。
誰だろうか。ここに来た生徒たちの目的は調印式の観覧のはずだ。だというのに、式典の中心から離れた周囲を動き回るいくつもの気配。
「何をしているのでしょうか?」
サクラコの呟きを聞いたシエンも、その気配に気がついた。シエンにはその不可解な行動の、それが意図するところを察した。
「サクラコさん! 今すぐここから離れないと」
「シエンくん? それは一体……」
「いいから早く!」
唐突に慌てだしたシエンに驚くサクラコ。固まったままの彼女を連れて行こうと手をつかんだ。
それと同時、窓の外から音がした。
空を切る荒々しい音。その方に目を向けてみれば、こちらに向かって来ているのは柱のような白い筒。その尾からは爆発を伴った火を吹き出している。
巡航ミサイルだった。
そして閃光。衝撃とともに耳をつんざく爆音。
白黒と乱れる視界の中、サクラコが最後に見たのは自分に覆い被さるシエンの必死な顔だった。
●
トリニティとゲヘナの和平条約を結ぶための調印式。ゲマトリアのベアトリーチェはそんな喜ばしい日を襲撃の日に取り決めた。
「先生、早くこちらに」
そんなことを知らない生徒たちは、突然の襲撃の中でも各々やるべきことをこなしていた。
ゲヘナ学園風紀委員である空崎ヒナは合流することの出来たシャーレ先生を安全な場所に避難させようと誘導していた。
周囲からは爆発音や銃撃音が耐えることなく続いている。こんな襲撃を成した下手人が誰なのか、ヒナには分からなかったが、今やるべきことだけははっきりとしていた。
キヴォトスの外からやってきた大人である先生は、そのあちこちを爆炎の煤で汚しながら、ヒナについていく。
「ヒナ、他の風紀委員の子たちとは連絡はとれた?」
「だめ。連絡を取ろうにも通信自体が出来なくなっている」
「そっか、なら一先ずは皆と合流しないとだね。その後は態勢を整えて、対応しないと―」
「そういう訳にはいかないんですよ、先生?」
ヒナと先生の会話を少年の声が遮った。
振り向けば、頭と腕から血を流した少年が、瓦礫の上から二人を見下ろしている。
自身を見る少年に、先生は心当たりがあった。
「君は確か……。そうだ、シスターフッドの那須シエン君だ。酷い怪我だ、早く応急処置をしないと……」
「先生、待って。様子がおかしい」
初めて会う生徒。その怪我の大きさに驚いた先生は手当てをしようとして、ヒナに止められた。彼女の重機関銃の銃口はシエンに向けられている。
「まあ、そういうことだよ」
同じ用に重機関銃を構えたシエン。ためらいの一つもなく、引き金を引いた。銃弾の奔流が先生に向けて殺到する。
銃弾は先生には当たらなかった。不可視の壁のようなものが現れ、先生を守っている。斉射が終わり、弾倉を交換しながらシエンは感じたように笑う。
「流石はシッテムの箱だ。機関銃程度では、傷もつけられないか。黒服から聞いていた通りだ」
「―黒服?」
「先生、わたしの後ろに」
ヒナの後ろに隠れながら、シエンの口から出た人物の名前に先生は不可解そうに眉をひそめた。黒服といえば、以前対立した自分とは違う大人だ。
「君は一体……?」
「そうだった。そういえば、自己紹介をしていなかった。これは大人として、礼儀を欠いていた」
構えを解き、片手に機関銃を持ったまま、シエンはおどけたように両手を広げる。その顔に張り付いた笑みは、嘲笑している。まるで気の置けない友人に語りかけるようで、
「私はゲマトリアのジャラル。『信仰』を寄す処に神秘を解き明かそうとする、貴方の敵だよ」
瞬間、ジャラルの姿が消える。話していた先生も、いつでも攻撃できるよう睨みつけていたヒナも、等しくその姿を見失っていた。
硬いものを殴りつける音がして、二人はそちらを向いた。自動的に展開されたシッテムの箱のバリアを蹴りつけ、ジャラルは機関銃の銃口を先生に突きつけている。
「特に恨みはないがベアトリーチェの仕事が終わるまで、大人しくしてもらいたい」
またしても掃射される機関銃。シッテムの箱はそれを防ぐが、目に見えてバリアが薄くなっていく。
「いい加減に……!」
我に返ったヒナは手にした機関銃を向け、ジャラルを追い払おうとするが、引き金を引く直前、またその姿が消える。
辺りを見回すと、正面にジャラルは移動していた。
「ずいぶんと手品が得意なのね」
苛立ったように声を低くするヒナ。言葉とは裏腹に、ジャラルの姿が消える事象に対応が分からず焦りが積もる。
「昔とった杵柄でね、暴力を振るうのは得意なんだ。そして、暴力といえばやはり数にモノを言わせるものだとも」
そう言うと、ジャラルはまるで指揮棒を振るうように、空いている手を振るう。
途端、周囲に黒い霧のようなものが広がり、人の形を形作っていく。現れたのはガスマスクをつけたスカプラリオの少女たち。手にはそれぞれ火器を持ち、青白い肌には生の気配はなく、まるで亡霊のようだと先生は思った。
「彼女らは過去のユスティナ聖徒。その
ジャラルの言葉の意味は分からずとも、彼女らが新たな敵であることは明らかだった。
「諸君、構え」
ジャラルの言葉とともにユスティナたちはその手に持った銃を先生に向ける。
「それでは先生。生き残ってくだされば幸いです」
百を超える銃声が辺り一帯に響き渡った。
●
目を覚ます。最初に感じたのは消毒液の匂い。
「ここは一体……。―っ、痛っ」
「サクラコ様! 目を覚ましたんですね」
隣から声がする。振り向けばマリーが心配そうにこちらを見ている。
そこでサクラコは自分が大聖堂の医務室にいることに気づく。
一体、どれくらい意識を失っていたのか。状況はどうなっているのか。一緒にいたはずのシエンはどこにいるのか。
気になることはいくつもあった。
直ぐに確かめようと立ち上がろうとして、足に走った痛みに静止する。
「ああ、サクラコ様、どうか安静に。浅くはない怪我を、されてますから……」
「一体、何が……」
「調印式の会場に巡航ミサイルが撃ち込まれたんです。犯人は、その……、アリウスを名乗っています」
「アリウス……」
その名は、トリニティに通う者なら誰もが知っている。かつてはトリニティにあって、追放された者たち。その末裔が、トリニティを攻撃したのだ。
「とにかく、皆を集めて対策を講じないと、ティーパーティーとも連携を……。マリー、シエン君を呼んでください。すぐに準備を……」
「シエンさんは……」
サクラコの言葉をマリーは遮る。あまり無いことだ。
その声は震えていて、膝の上の手は、強く握りしめられている。
どうしたのかとサクラコは思って、マリーを見て、言葉を失った。
今にも泣き出しそうになるのを耐え、サクラコに伝えなければとマリーは嗚咽を交えて、言葉にする。
「エデン条約の調印式を襲撃し、シャーレの先生を負傷させたシエンさんは、先程正式にティーパーティーより学籍を剥奪されました」
マリーは、何を言っているのだ。サクラコはその言葉の意味を飲み込めないでいた。
「ティーパーティーはシエンさんをトリニティの裏切り者として、生死を問わず指名手配すると決定を下しました」