陽の光の届かない暗い部屋。中央の円形テーブルを囲う人影が複数あった。
定期的に行われているゲマトリアの定例会。
ホストの役割を任されがちな黒服が首を傾げた。
「それで? 件の襲撃は結局、どうなったのでしょうか?」
それは数日前、キヴォトスでも指折りの勢力を持つ、トリニティ総合学園とゲヘナ学園の和平合意、エデン条約を頓挫させるため、アリウス分校を用いて襲撃した件のことだった。
「ええ! それはもう、万事が上手く行きましたわ」
ベアトリーチェの笑い声。それは酷く上機嫌な声色で。言葉にはしないものの、他のゲマトリアは不快そうに横目で見ていた。
「けれど、シャーレの先生が生存していることは不愉快でしかたがない」
上機嫌から打って変わり、不快を隠さない声色。その責めるような口調は、先程から無言を貫いていたジャラルに向けられている。
「先程から黙ったままで……、いい加減なんとか言ったらどうなんです?」
「……貴様との契約ならば果たしただろう?」
「あれで務めを果たしたなどと……、よく言えましたね」
ジャラルの返答に顔をしかめたベアトリーチェ。
ジャラルは疲れたようにため息をつく。
「貴様は私に、シャーレの先生を抑えろと言った。殺害を求めていたのなら、そう伝えるべきだった」
「シャーレの先生が生き残っているのなら、また私の邪魔をするために立ち向かってくるのは明白。契約を守ったと言えて?」
互いの鋭い視線がぶつかる。剣呑な雰囲気が暗い部屋を漂う。
「ベアトリーチェさんの言い分も理解できますが、ジャラルが契約違反の懲罰を受けていない以上、契約の『神秘』は契約が遂行されたと判断したのでしょう」
放って置いても解決しないと見かねた黒服が一つの事実を指摘する。
「そういうこった!」
「契約は絶対。なら、貴女はジャラルに課す契約の内容をよく推敲するべきだった。高い授業料になりましたね」
デカルコマニーの相槌に、マエストロがベアトリーチェの瑕疵を端的に言い表す。
「人ごとと思って好き勝手に! まあ、構いません。既に状況は私の望んだ通りに進み、あとはブルーブラッドを用いて『崇高』をこの手にするのみ……」
興奮を抑えられない様子のベアトリーチェから、時々漏れ出た笑い語を聞かされるゲマトリアの面々。
「……ジャラル?」
鬱陶しいベアトリーチェを思考の隅に置き、先ほどから俯いたままのジャラルに声をかける黒服。
「……気にするな」
黒服に一度だけ視線を寄越すジャラル。簡素な言葉には思い詰めた声色があった。
「あの器を維持するべきか、私には分からないんだ」
「それは……」
言葉の意味を察して、黒服はそれ以上何も言えなかった。
もとは『神秘』の研究のために生み出した器だった。那須シエンと名付け、運用した。それでも目的は達成することができず、自暴自棄となった時に安らぎを得た。
それはシスターフッドでの穏やかな時間であり、サクラコとの交わりであった。
言ってしまえば、ジャラルは惜しいのだ。自分の手で壊しておきながら、失ってしまったモノを完全に手放すことを恐れている。
●
太陽が地平線の向こうに姿を消し、月光が淡い光を零す時間。トリニティの一角、シスターフッドの本拠地である大聖堂の裏側に小さな庭園がある。
簡素な作りの庭園であり、時々昼食を広げるために生徒が足を運ぶような場所だった。
鈴虫が音色を響かせる中、小さなベンチの横でこれから花を咲かせようとするラベンダーが月光に照らされている。
「……もう、ラベンダーが咲く頃なんですね」
そんなことに、今更気がついた。俯いたまま視線を外したサクラコは、ラベンダーを見つけた。
それは春の頃、シエンと庭いじりをしていた時に植えたものだった。
夏が楽しみだ。そう笑いあったのはそう遠くないことのはずなのに。
あの時、彼はどんな顔をしていただろうか。私はどんな顔をしていただろうか。
あのときは、二人でこのベンチに座っていた。けれど、今サクラコの隣にあるのは物言わぬランタンが一つあるだけ。ガラスの中で小さな火が煌煌とあるだけ。
「シエンくん……」
思わずその名前をつぶやいた。
―サクラコさん!
声が聞こえた気がして、振り返った。
けれど、やはり、そこには誰かがいるはずもなく。
何も無い闇が広がって、夜空の向こうにあった月は次第に厚い雲に隠されていく。
スカートを握る手に力が籠もる。
明日、シスターフッドはアリウスの本拠地と推察されるカタコンベに突入する計画となっている。先生はそこにはアリウスを操るベアトリーチェ、ひいてはそのベアトリーチェに協力するシエンがいるはずと、サクラコに伝えた。
けれど、もう一度シエンと会って、どうすれば良いのか。サクラコは答えを出せないでいる。
「シエンくん……、どうして私たちを捨てたのですか?」
今までの言葉は嘘だったのか。笑い顔も、親切な振る舞いも、私たちを騙すための演技だったのか。
サクラコには分からない。
スカートに握る手に固いものが当たる。
それは紙で出来た小さな箱。
あの日、シエンがサクラコに押し付けて、そのままとなった煙草の箱だった。
残り少ないそれを、サクラコは一つ取り出した。
独特の香り。それはサクラコには好ましくはないものでも、唯一残されたシエンとの繋がりだった。
使ったことはなくとも、使い方くらいサクラコも知っていた。
煙草の先を口につけ、ランタンを開いて、先を火に当てる。少しだけ息を吸えば、紙に火が付く小さな音がして、口の中に苦味が広がる。
淡い呼吸で少しずつ吸い込んでいけば、肺の中を温かい空気が満たす。
胸の中が重いものに染まっていく感覚。
それがサクラコには、失ってしまったシエンが自分の中に戻ってくるような気がした。
「スゥー……、っ! ゲホッ! ゲホッ!」
吐き出すタイミングが分からなくて、大きくむせた。
それでも指で挟んだ煙草は落とさない。また、失ってしまうような気がして、手の中の煙草は形を歪める。
もう一度、煙草を口にして、そしてもう一度。
あっという間に煙草は短くなって、吸えなくなる。自然と燃え尽きて、小さくなった煙草を見つめるサクラコ。
「こんなに美味しくないもの、どうしてシエンくんは吸ってたのでしょうか?」
自然と笑みがこぼれた。どうしてなのか、サクラコには分からない。
会いたいと思った。
トリニティの裏切り者とか、シエンの正体だとか、重要なことはもっとあるはずなのに。それよりも、シエンがどうして煙草を好き好んで吸っていたのかを、聞いてみたいとサクラコは思った。
ならば、準備をしなくては。
泣き腫らして、化粧の崩れてしまった顔を見せるわけにはいかない。
一番綺麗な自分でもう一度会って。難しいことは、それから考えたならいい。
ランタンを手に取り、サクラコは大聖堂に戻る。
もう一度会うため。会って、話して、そしてもう一度笑うために。