浮上したザイレムは高度10000mを低速で巡航する。
比較的端の方に設けられた格納庫で、621は眼下に広がる雲海を眺めていた。
妙に懐かしい。記憶を失った自分にしては、奇妙な感覚だった。
しかし、ACのコックピットとはまた別の、自らがいるべき場所に戻ってきた感覚が確かにあるのだ。
「ツーリスト、ちょっといいかい?」
その背中に声をかけるものがいた。飼い主を失った621が身を寄せる相手。「
その外見は確かに若く、色あせない栗色の髪をまとめ、眼鏡をかけている。
しかしレンズの裏では、「
「計画について先に話しておこう」
カーラは話し始めた。
「あんたが捕まってる間に、アーキバスはバスキュラープラントを完成させた」
「完成? 着手したのではなく、終えていたのか?」
「そうさ。コーラルは大気圏外まで吸い出され、連中が全てを手にするのも時間の問題だろうね」
数瞬の沈黙の後、カーラは再び口を開いた。
「手遅れになる前にコーラルを焼き払う必要がある」
621はうなずいて、同意を示す。
「もちろん、ただプラントまで歩いてってマッチを灯すわけにもいかない。そう、もっと大きなやつが必要だ。もっとずっと大きなやつが」
な? 分かるかい? カーラが意識して声のトーンを上げるのを、621も感じた。
「ザイレムはプラントに到達する移動手段ってだけじゃない」
カーラは意味ありげに621を見やった。
「巨大な火薬庫なのさ──コーラルを根絶するだけの量がある。終わらせるよ、ツーリスト」
「ああ」
去っていくカーラを621は見送る。途端に視界が紅く染まった。思わずといった感じのため息と共に。
《それが……観測者たちの計画……?》
黙り込むエアに対し、621も言葉を発せない。
以前ザイレムで流れた沈黙とは正反対に、両者の間では緊迫した空気が漂っていた。
エアの声音が、変わった。
《企業はコーラルを貪ることしか考えず》
コーラルには似つかわしくない、冷たい、中央氷原の吹雪のように突き刺すような声。
《観測者たちはコーラルを恐れ、ただ根絶やしにしようとしている》
再び沈黙が流れた後。エアは静かに、されど力の籠った声で、言った。
《私は……私は人とコーラルが共存できる可能性を信じます》
レイヴン。621の拾った名を、エアは呼ぶ。いつもと変わらず。
《あなたにお願いしたいことがあります》
621もそれに応じた。
「わかった。言ってみてほしい」
端的に表すと、彼女は依頼を持ってきた。ひとりのルビコニアン、エアとして。コーラルを焼かせないため、これから行われるアーキバスの襲撃に乗じてカーラを殺せ、と。
《……ウォルターの遺志に背きカーラを討つ、あなたの気持ちは分かっているつもりです。それでも……私にチャンスをください》
ある程度予想のついた願いを聞かされ、しかしさざ波も立たない己の内心を、621は不思議に感じていた。
《ウォルターの猟犬ではなく……ひとりの独立傭兵、レイヴンとして》
実のところ、答えは随分と前に決まっていた。下水に半ば浸かりながら、火を点けろと言われた瞬間、621は動力源を手に入れたのだ。
戦場でしか生きられない621に、生きろ、と背中を押す言葉をもらったのである。
こいつはロケットエンジンだ。軌道に乗るまで燃焼を続け、駄目そうなら自爆する。今更止めることなどできない。621は自殺しようなどと考える性質ではなかった。
そしてそのことはエアもよく知っていた。それだけの付き合いが、二者にはあった。最後に見据える方向が違っただけで。
「断る」
だから621がそう言っても、エアが取り乱したり、声を荒げたりすることはなかった。
ただ静かに、つとめて冷静に。彼女はこう返した。
《レイヴン。あなたの考えは分かりました》
それでも、冷たく、寂しいため息が飛び出した。
《残念です》
それを聞いて、621は彼女の声を初めて聞いたときのことを思い出した。現実で会うよりも前のことだ。
奇妙な夢だった。実際に戦ったときよりもずっと強い、封鎖機構の特務無人兵器と戦ったのだ。
621は幾度となく敗れ、その度に《残念です》と脳内で囁かれた。
それも今となっては、ひとつの良い思い出に過ぎない。
「世話になったな、エア」
さよならは言わない。彼女の願いを断ったところで、意志そのものが折れる訳ではないのだ。実体こそないが、エアが強かな心の持ち主であることを、621は身をもって知っていた。
口で言って変わらないなら、別の方法に頼るだけだ。もっとも、傭兵に関しては基本話が通じない。だから、肉体言語、ということになる。
きっとエアは、ザイレムの前に立ちはだかることだろう。621には確信があった。
どんな形になるだろうか、自分はどう戦うか……621は考えにふけっていき、大音量のサイレンで現実に引き戻された。
広域放送が入った。
『お客様がお見えだ、ツーリスト。ブリーフィングルームまで来なくていい、機体に乗りな。そっちで説明するよ』
空飛ぶ異物に気付いたアーキバスによる、総攻撃が開始されたのである。