人とは忘れる生き物である。早く3歳よりそれは起こる。誰しもが赤ん坊だった頃があるだろう。しかし、その頃を覚えてはいない。初めて2足で歩き、初めて言葉を発した、記憶に残るべき瞬間を忘れている。
3歳まで人は甘やかされ続ける。ゆえに、その後の人格形成に影響を及ばさないように、忘れてしまうらしいのだが、それならば赤子の魂百までとはどこから来た言葉なのだろうか。
ともかく、人は忘れやすい。それは単純に忘れてしまうだけではなく、意図的に忘れるものもあるのだろう。ストレス等から逃れる為の自己防衛機能の1つだと言えよう。
今の俺がまさしくそうである。記憶が段階的に、戻るのだ。ルルール湖を見て、初めて水の上を歩くという技術を思い出した。水中での戦い方を含む、水遁術の全てが、頭の中に記憶として再生される。
若干、頭が痛い。大量に思い出すと不味そうである。やはり、この中忍試験は慣らしとして見ておいた方が良さそうである。
まあ、焦ることはないだろう。善は急げとはいうが、俺がこの世界で行うこと、転生者同士の殺し合いは、悪そのものに違いない。この世界でも、殺人はそうそう許されないであろうし、少し考える必要がある。このゲームに勝つ為には、先に目的を達成しなければならないが、今、己に出来ることを1つ1つ認識していったほうがよさそうだ。
(急がば回れ、だな。もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋……そういえば、ここは湖か。琵琶湖じゃあないが、それぐらい大きい気がするな)
そうこう考えているうちに、試験官らしき人物が、集まっている受験生の前に、水面の上を歩き、現れた。今、俺もルルール湖の上に立ってはいるのだが、他人が歩いているのを見ると、やはり違和感がある。世界が違うのだなと実感する。
「それでは、点呼を取る。呼ばれた者は明瞭に返答すること」
そういって、試験官が、名簿に目を落とした。次々と名を呼んでゆく。そしてとある名前を2回ほど呼んで、顔をあげた。
「75番、薬師カブト? 薬師カブトはおらんのか? む? 小隊1つ分丸々おらんではないか」
初めて聞いた名前だが、その人物は連絡も無しに消えたようだ。もしかすると、2次を辞退したのかも知れないが、連絡がないのは不味い。事故か事件の可能性があるからだ。
2次の試験官は、「困ったな」と呟き、頭をかいた。他の試験官と少しだけ話し込み、「75番、76番、77番は試験放棄とみなし、失格とする」と宣言した。
個人的にはこのまま、一部の為に時間を割くかと思っていたので意外な対応であった。確かに、約束を守れない者が中忍になれるかと聞かれれば失格が妥当ではあると思う。しかし、決断が早い。思ったより、ドライなようだ。そちらの方が好ましいが、さて、今回は昔のクイズ番組のような大逆転が起こらぬ試験だろうか。説明が始まった。
「中忍選抜試験予選2次は、サバイバルだ。戦場は、ルルール湖全域。ルルール湖より出るのは禁止となっている。見ての通り、ルルール湖は霧が濃い。この中で、諸君らに、この水風船をつけて戦ってもらう」
試験官が、見本とばかりに、渦巻き模様の入った手のひらに納まるサイズの水風船を見せる。
「水風船は全て同じ模様、同じ規格で作られている。水風船をつける場所はどこでもいい。ただし、見える場所にすること。この水風船は、特別製で破れにくくなってはいるが、それだけだ。少し丈夫なもの程度と考えてもらいたい。つまり、自滅もあり得るので、気をつけることだ」
「合格条件は、明日の朝の時点で、割れていない水風船を所持したまま、ルルール湖中央に浮かぶ浮島に来ることだ。尚、朝になったことは鐘の音で合図する。その前に、浮島に来ても意味はないから注意することだ。質問は?」
「3人全員が水風船を所持する必要は?」
「ない。所持している者のみが予選2次合格となる。風船を失った者は、退場する必要はないが、考える必要はあるな」
成る程。要は、朝まで己の水風船を守りきりさえすればよいだけだ。失っても、規格は全て同じであるから、奪えばよい。復活のチャンスがあるわけだ。
ただ、本選でのライバルを減らすため、ここで数を減らしておくのも皆、考えるであろうし、予備の水風船を欲しがる者もいるだろう。
確か、合格組は10組だったな。1組抜けて、9組。基本スリーマンセルなので、27名か。つまり全体で27個の水風船が必要とされるわけだ。
「それでは、今から水風船を配る。3人組が9組。では1組につき、水風船を2個配る。誰が持とうと自由だが、必ず見える位置につけるように。故意に見えぬ位置につけた場合、失格の可能性があるから注意しろ」
「!? 3個じゃないの?」
隣にいたアヤメがそう叫んだ。しかし、それは甘い考えだ。何しろ3個配れば全員が何もしなければ全員合格となってしまう。まあ、何もしないというのが人間の性格としてはありえない話ではあるのだが、可能性はある。つまり、この時点で水風船の数を3分の2に絞ることによって、合格者を3分の2以下に絞ったのだ。
(しかし、それでも、だ。1人が我慢すれば2人は合格できる。まだ、甘いとは思うが……割れやすい水風船というところがミソか? もし、交戦することになったばあい、相手にそのつもりがなくとも事故で割れてしまう場合がある。すると、だ)
水風船そのものの、絶対数が減る。18個存在するわけであるが、8個割れてしまえば、10個しかない。これでは、小隊全員合格が3組のみ。
「では、10分後、鐘を鳴らす。鐘が鳴った瞬間より、試験開始とする」
試験官がそう言った端から、他の忍者たちはルルール湖の中へと消えてゆく。霧が濃いので、すぐにその姿は輪郭だけとなり、その輪郭は霧の中へと消え去ってしまった。
「キリヤ」
「なんだ?」
テツがこちらを見ている。何かを言おうと言葉を続けようとしていたが、それを見て察したので、印を組む。試験官が此方を見てはいたが、攻撃するタイプの術ではないので大丈夫だろう。
”水遁・応霧返しの術(おうむがえしのじゅつ)”
正直言って、霧というのは、俺の、いや霧ヶ峰キリヤのホームグラウンドだ。伊達に名前に霧が二つも入っていない。水の国の気候を利用した戦い方を得意とする一族の出だ。この術を使うには、霧隠れの術などを用いてから発動するのだが、最初から霧が出ているので、条件は満たしている。
「……良し、完了した」
頭の中に、霧の情報が入ってくる。それは単なる位置情報だ。この湖全域に広がる霧がどう広がっているか、どの霧がどう動いたか、という情報が瞬時に返ってくる術である。霧の中に敵がいる限り、敵の位置情報は筒抜けというわけだ。
(移動しているのが、24……いや26?)
試験官も監視の為、湖の中にいるのだろうか。仲間のアヤメ、テツ、そして俺はカウントしていないため、24以上いてはおかしい。近くの試験官に聞いたが、試験官は中には入っておらず、湖の外周で待機しているようだ。そのため、一般人も入り込まない。ルルール湖を確保するために、本日の早朝より彼らが出張っていたらしいので、一般人が残っていた可能性は低いだろう。再度、術で確認すれば24に戻っている。
(潜ったのか?)
見過ごしたくはないが、時間がない。後で考えるとして、位置取りを済まさなくてはならない。位置情報を元に、俺たちは霧の中へと入ってゆく。
「他のグループとの距離も離れている場所でひとまず待機する。いいか?」
「いいよ」
「この試験、キリヤの術のおかげで楽に終わりそうね」
楽に終わればいいのだが。また湖に潜ったのか、1つ消えた反応を感知しながら、俺は霧のスクリーンでおぼろげに映る、太陽を見上げた。太陽の位置からして、まだまだ夜は先だ。
――長い試験になりそうだ。