君は私の泣くための瞳
君の口に微笑みを見つける
君の肩が私を支えてくれる
君の腕が私を安心させる
--Victor Hugo あなたの友情
――鳴らすか、鳴らすまいか。
いったいどれほどの時間、寒空の下で指を宙に彷徨わせただろうか。
キヴォトスの中心部。D.U.の住宅街。どこか異国情緒のある門構えをした家の前で、インターフォンに指を向けたまま、リオは樹林と記された表札を眺めている。
まるで不審者だ。しかし幸か不幸か今日は平日で、雨だった。人通りはまばらで、街が静かだった。リオはそれを小さな幸運だと思っていたが、絵面がより一層気味悪くなっているのには気がついていない。
間抜けな空き巣か、幽霊か。もう少しキヴォトスがひ弱な場所だったら、リオはヴァルキューレ警察学校のお世話になっていたかもしれない。そのくらい長く、リオはキバヤシの家の前で立ちすくんでいた。
話は、アリスを巡る戦いの翌日へとさかのぼる。
セミナーの会長室に謝罪文を兼ねた辞表(と、リオは思っているだけの紙切れ)を置いてきた後、リオはミレニアムの自宅を片付けて、がらんどうになった家を出た。
リオはもう、二度とミレニアムに帰るつもりはなかった。
一人の少女を殺そうとした。
ミレニアムを滅亡の危機に晒した。
リオの選択は滅亡を回避するどころか、滅亡を呼び寄せるものだった。
ビッグシスターと恐れられながらも、ミレニアムのためにより良い選択を考えて続け、強権を振るってきた結果がこれとは、なんとも滑稽な話だ。
(私の選択が…いいえ、存在が過ちだった)
自分のしてきたことには何の価値もなかったと、リオは本気で思っていた。
なぜそんな人間がミレニアムに居続けられようか。人望もなく、破滅を呼び寄せる人間が、なぜセミナーの会長などという座に座り続けられようか。
(どのみち、私を惜しむ人などいない)
嫌われ者だという自覚くらい、リオにもある。
理屈として正しい選択を選び、感情や道徳を軽んじて、煙たがられる。リオの対人関係はその繰り返しだった。ヒマリのように嫌悪する者も、別に珍しくはない。
今回の事件も同じことだ。倫理に反する選択をし、多くの部活がそれに抗い、セミナーの幹部も敵に付いた。やはり自分は誰にも受け入れられないのだと、リオはそう思った。
過ちを犯し、害をなし、誰からも嫌われ憎まれている。
リオが導きだした責任の取り方は、一切を捨てて自分が消えることだった。一秒でも早くここを立ち去ることが、唯一の正しい選択に思えた。
(本当に独りになるのは、久しぶりね)
改めて、リオは孤独を味わっていた。
いつからか、キバヤシが友人として通ってくれていた。キバヤシが来なくなってからは、トキが傍にいた。リオの人間関係で自分を嫌うことが無かったのは、あの二人だけだ。
リオは二人に会いたかった。けれど、それはもう叶わないことだ。トキを人殺しにつきあわせ、キバヤシの手を振り払った。他ならぬリオ自身の選択が、二人を傷つけた。その事実がリオの心を沈ませて、向き合う気力を奪っていた。
そうして二人を失えば、この広いキヴォトスの中で、少し周りを見渡せばうじゃうじゃと人がいる世界で、リオは本当に独りぼっちだった。
ふと、決着の後に“先生”が問いかけた言葉が脳裏に浮かぶ。
“君には手を差し伸べてくれた人がいたんじゃないかな”
その言葉をきっかけにして、リオのまぶたの裏にぼろぼろのキバヤシが浮かんでしまう。
“私を……独りに…しないで……くれ……”
その姿を振り払うように、リオは首を振った。
あんな風に追い詰めたのは、ほかならないリオ自身だ。いったいどうして、自分が会いに行けようか。恥というものがないのだろうか。しかし、だが、けれども、とはいえ……。
そうしてリオは三日三晩悩み抜き、D.U.の雨空の下に立ちすくむことになった。
そして話は冒頭へと立ち戻る。
――鳴らすか、鳴らすまいか。
震える指先を見つめながら、リオはキバヤシの姿を思い浮かべる。この期に及んでリオに寄り添い続けた、ただ一人の友人のことを。命を賭してまでリオを苦痛から救おうとした、親愛なる友のことを。
(ルリだけは……私を拒まないはず)
リオはそう願いながら、インターフォンに指先を押し付けた。
(ぽーん)と、間抜けな音がする。
しかし、応答はなかった。
リオの顔に影が差す。キバヤシが家にいることは、リオにはわかっている。キバヤシの病状が気になって、病院の記録を(不正に)調べたところ、担ぎ込まれてから一日もたたずに出て行ったと記録があったからだ。居るには、居るはずなのだ。
たとえ無視をされたのだとしても、それでもリオは諦めたくなかった。
眠っているか、聞こえていないのだろう。自分をそう誤魔化して意を決した。
リオはチャイムを連打した。
(ぽーんぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽーん)と、間抜けな音が響き渡る。
その瞬間、何故だかわからないが、リオは身震いした。
悪寒が身体を駆け巡り、何やら不吉な予感がした。きっと雨のせいだろうと、リオは自分を誤魔化した。
(バンッ!)と、勢いよく扉が開け放たれた。
そして現れたキバヤシは、ひどく血走った眼をしながら、何故か愛銃を担いでいた。
リオはその姿を不思議に思ったが、まずは要件を伝えなければいけないと、疑問をしまい込んで言い放った。
「ルリ、行く当てがないわ。しばらく泊めてちょうだい」
キバヤシはたっぷりと沈黙し、目をぎゅっとつぶり、何かをこらえるように数回深呼吸をして、それからようやっと返事をした。
「ああ……そう……まあ……上がっていくといい」
そう言うキバヤシの顔には、コイツどんな面の皮の厚さをしてやがるんだとありありと書いてあった。
――――これは、リオの知る由のない話だ
「落ち着いてください! あなたはまだ―――」
「だまれっ! 私に触るんじゃない、寝てなどいられるかっ!」
「ちょっと、どこにいくんですか!!」
「もう一度だけいうぞ、私に触るんじゃないっ!! 連邦生徒会から抗議文を送られたくなければ、さっさと私の荷物をよこせ!!」
「だめですよ! 傷が―――ああもう、誰か先生を呼んできて!! はやく!!」
廊下を行く白衣の人々が、荷物を抱えて突然に飛び出してきた重病人に、何事かと目を向ける。その視線の先には、漆黒のヘイローと切りそろえられた暗い髪を持つ少女がいた。
体の隅から隅まで包帯にまかれ、病院着のまま目を真っ赤に泣きはらし、痛みに呻きながら、その少女は病院を後にした。
少女はその足でセミナーへと向かった。
そこでは幹部を筆頭にてんやわんやの大騒動が巻き起こっていた。もう嫌な予感がしていた少女だが、それでも確かめずにはいられなかった。少女は指示を出し続ける幹部の一人に詰め寄った。
「キ、キバヤシさん……? ど、どうしたんですかその身体」
「リオはどこだ」
「そ、そんなことを言われても」
「どこなんだと聞いている!」
つかみかかる少女の力は、語気に反して酷く弱々しかった。どちらかといえば、そうしなければ立っていられないというような様子だった。その様子に耐えかねて、幹部は叫び返した。
「そんなの私達だって知りたいですよ! リオ会長、居なくなっちゃったんですから!!」
その言葉を聞いた途端、少女の目から光が消えた。
少女の身体からふっと力が抜け、糸が切れた人形のようにその場にへたり込み、平たんな声を漏らした。
「そうか」
「キ、キバヤシさん……?」
「もういい、帰る」
「ちょ、ちょっとキバヤシさん! 病院に行ったほうがいいですって! キバヤシさん!!」
少女はその足で、自宅へと戻ろうと電車に乗った。
少女は電車の中で涙ぐんでいた。ひどく不審そうな目が向けられる。病院着で、ぼろぼろで、人目もはばからずに涙ぐんでいる。はっきり言って、その光景は怖かった。
だから誰も声をかけなかった。気味悪そうに眺めるか、写真を撮ってひそひそと囁くくらいはしたのかもしれない。けれど、それだけだった。
少女が家に着くころには、夜になっていた。
玄関の扉が、ひどく重かった。それでもようやっとのことで開けると、リビングにはまだ明かりがついていた。どうやら同居人たちがまだ起きているらしい。けれど少女は、それに混じりたくなかった。
でも、少女はそのうちの一人と出くわしてしまった。
「うわ……何があったの、キバヤシ」
「なにもない」
「…何もないわけないでしょ。そんな恰好で、そんな顔して」
「なにもなかった。君の言うとおりだったよ」
「意味がわからないんだけど……ちょっと待って。みんな呼んでくるから」
「放っておいてくれ。いま私に構おうものなら、二度と君たちと口をきかない」
少女はそう言い残すと、荷物を引きずって自分の部屋へと入っていった。その場に残された同居人は、その姿を心配そうに眺めていた。
(ガシャン!)と、何かが割れる音が少女の部屋の中から響いた。
同居人は驚いて、部屋へと駆け込んだ。
手あたり次第に、少女は部屋の物を壊していた。愛銃を壁に投げつけて、お気に入りだと言っていたマグカップを叩き割り、自分が丹精をこめて書いていた雑誌を破いていた。
何もかもを傷つけながら、少女は叫んでいた。
まるでそうしなければ身体が弾けてしまうかのように、意味のないことを叫んでいた。それは子供が癇癪を起しているようでもあり、耐えがたい慟哭のようでもあった。
「――キバヤシッ!」
いつのまにか、同居人たちが集まっていた。そのうちの一人が、暴れる少女を抑えようとする。
「よせ、何をしてるんだ!!」
「離せっ!」
「やめろっ! おいキバヤシ、説明をしろ! 何があった!」
「うるさい放っておけっ! 私に構うなっ! 独りにしろっ!」
力任せに同居人を振り払うと、少女は叫んだ。
「くそっ!! くそっ!! ちくしょうっ!! くそったれ! 結局何も変えられやしない、この役立たずのろくでなしめ!! くそっ…ちくしょう……うぅ……」
暴れることに疲れ果てて、少女はうずくまって泣きだした。
少女はそのままひたすらに泣いていた。弱り切った身体が耐えかねて、こと切れるように眠るまで、同居人たちは少女をなだめすかさなければならなかった。
目が覚めてから、少女は筆を執っていた。
遺書でも書いているような、鬼気迫る様子だった。何があったのか、ぶちまけてやらないと気が済まない。何もかもを吐き出してしまわないと終われない。そんな様子だった。飲み食いもせずに、少女はそれをかき上げた。
原稿をひっつかむと、少女はそのまま連邦生徒会の文化室へと向かった。
普段からは想像もできない、ひどい見た目だった。泣きはらした目と深い隈。整えもしていない髪と、包帯塗れの身体。文化室の室長は、ぎょっとした顔で少女を出迎えた。
「おい……お前、どうしたんだ。いったいなにがあった」
「なにも。原稿はこれ、編集データはこっちだ。今日中に出してくれ」
「あ、ああ。それはいいが……お前、ひどい顔だぞ。悪いことはいわない、しばらく休んだほうがいい」
「……そうするよ」
そうして少女は、連邦生徒会に入ってから初めて連休を取った。
少女はそのまま、怪我人を見舞いに行った。けれど相手は目を覚ましていなかった。痣だらけの痛々しい身体のまま、ずっと眠っていた。神秘を宿した頑強な身体だというのに、怪我人はまるで起きるのを拒むかのように眠っていた。
少女は医者の胸ぐらをつかみあげて尋ねた。
「どういうことだ? ちゃんと治療したのか、それともお前がヤブなのか」
「ぐ、ぐえっ……し、知らない! たしかに傷はひどかったが、あんたほどじゃなかった! あの子はとっくに目覚めてたっておかしくないんだ! わ、わたしにだってわからないことはある!」
「そうかい。ははっ、そうか、そうか」
「は…放してくれ……」
「ああ……悪かったよ。あんたのせいじゃないもんな。そうとも、あんたのせいじゃない……」
そう言い残すと、少女はふらりと病室を後にした。
少女はある部室の前へと訪れた。
その部屋の中からは、再会を喜ぶ声が響いていた。その幸せな結末を望んでいたはずなのに、少女はひどく哀しい気持ちになった。
「……羨ましさか、これは」
そんな感情が湧くことに耐え切れず、少女はその場を後にした。
少女は迷路のような路地を進み、奥まった場所にある部屋を訪れた。車いすに乗った少女が顔を青ざめさせながら出迎えた。向けられる心配を無視しながら、少女はひとしきり事の顛末を聞き出すと、思いつめた顔で切り出した。
「頼みたいことがある」
「それはもちろん、何でもお受けいたします。ですが今はそれよりも、自分のお体を大切になさってください」
「私のことはどうでもいい。トキくんが目覚めたら、特異現象捜査部で面倒を見てやってくれ。私はもう、疲れたんだ」
「お、おまちください。キバヤシさん、いかないでくださいっ! キバヤシさん!!」
少女の耳には、その悲鳴のような声は届かなかった。
少女は橋の上に立っていた。
手には黒いファイルが携えられている。その中にまとめられている紙束は、少女がいままでに危険を冒して集めてきた資料だった。少女はなかば身を乗り出すようにして、それを捨てるか、捨てまいか、風に任せるか、任せまいかを考えていた。
ふと、少女の目に涙が浮かんだ。
わなわなと唇を震わせて、みっともなく顔をゆがめて、そのままくずれ落ちるように地面にへたり込んだ。少女はそのファイルを抱えて泣き崩れた。少女はそれを捨てたくなかった。誰かと会えなくなったとき、縋るものがどれだけ大切なのかを、少女は知っていた。
身投げではないかと心配した通行人に声をかけられるまで、少女はそうしていた。
ふらふらとした足取りで、少女は家にたどり着いた。心配する同居人たちには目もくれず、荒れ果てた部屋のベットに倒れこんだ。ただ寝転んで、鳴り続ける携帯の電源を落として、ぼうっとしていた。少女はこれ以上なにも、考えたくなかった。
「……またか」
ぽつりと少女が声をこぼした。
「結局なにも変えられずに、打ちのめされただけか
ユメを亡くし、リオを失くし、独りになっただけか
命がけで戦って! 凍え死にかけながら辿りついて!
それで手を払いのけられて! 挙句の果てに独りぼっちか!
ずいぶんな仕打ちじゃないか!! はははっ!
いっそ死んでやろうか! そしたら少しは私の気も晴れる……
そうすれば、私はこれ以上みじめさを感じなくても済むだろうさ
ふふ……ははは! ははははは!!! あはははははっ!!」
少女はそのまま、狂ったように笑っていた。
少女の心は、すでにずたずたに引き裂かれていた。
少女はただ、友達にそばにいてほしかった。そのために、自分の全てを投げ出してきた。けれども少女は、何もできなかった。
悲しい未来を知っていたところで、それを変えようとしたところで、たった二人の友達は、少女の知る未来の通りに、どちらもいなくなってしまった。
自分をひとしきり嗤ったところで、なにも起こるはずもない。
部屋の中に響いた静寂で、立ち直ったはずの少女の心が、またひしゃげた。
「私を独りにしないでくれ……ユメ……リオ……」
少女がこれ以上傷つくことなどないと思っていたのは、ただの錯覚だった。
底まで落ちたと思ったら、底が抜けてまた落ちた。
喪失感が頭の中に充満して、何もかもが嫌になっていた。
少女はそれから三日、何もできなかった。唯一できたことと言えば、同居人に心配をかけることか、目を覚まさない怪我人の見舞いに行くことだけだった。
少女が見舞いに行ったのは、純粋に怪我人のことが心配だったのもあるが、ここにいれば消えたはずの友人が戻ってくるかもしれないと望んでのことだった。けれど何時間待っても、友人は訪れなかった。怪我人も又、目を覚まさなかった。
少女は造花を置いて、病室を去った。
寝ていても、起きていても、少女は苦痛を感じていた。いつ何をしていても誰かに、自分に責められている気がした。どうしようもなく苦しくて、仕方がなかった。
少女はもう、死んでしまいたかった。
愛銃を咥えて口の中から撃ちぬけば、どれだけ身体が丈夫だろうと吹っ飛ばせるんじゃないか。そんなことばかり考えていた。もう、何もかもが嫌だった。
「ユメに会いたい……」
窓を打ち付ける雨の音を聞きながら、少女は死体のようにベッドで寝転んでいた。
(ぽーん)と、チャイムが鳴った。
少女はそれに出るつもりがなかった。
時刻はちょうど昼頃だ。同居人たちはちょうど出払っているようで、応対するには少女が出るしかない。けれど、この家が少女のものだと知っている人間などほとんどいない。企業のセールスか、最新鋭の警備システムを恐れないコソ泥か。そのどちらかだろうと思った。
少女はただ黙って、無視を決め込んだ。
(ぽーぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽーん)と、チャイムを乱打された。
――少女はキレた。
少女は怒りのままに、4ゲージはあろう大口径の愛銃をひっつかむと、ものの数秒もかからずに弾丸を撃てる状態にした。少女は自分の中の何かが壊れているとわかっていたが、それを止めるほどの大切なものが、少女の中には残っていなかった。
「どんな奴か知らないが、一発ぶち込んでやる」
少女は呟く。その声音は、本気だった。常ならばしょうもない悪戯だと、少女も流せたかもしれない。
手に取った愛銃は、かつて少女が二度と人に向けまいと固く誓ったものだ。
しかし今、少女はひどく荒れていた。それはもう、怒り狂っていた。
「お前がどうなろうが、私がどうなろうが、もう知ったことか」
ずかずかと家の中を突き進み、歯を怒りで食いしばり、目を血走らせながら、少女は玄関の扉に手をかけた。
「あの世で間の悪い自分を恨むんだな」
人生をぶち壊す祝砲をあげるつもりで、少女は愛銃を片手に扉を開けた。
――――話は冒頭に差し戻る。
「ルリ、行く当てがないわ。しばらく泊めてちょうだい」
コイツいったいどんな面の皮の厚さをしてやがるんだ。
そう思いながら、キバヤシは言った。
「ああ……そう……まあ……上がっていくといい」
哀しいことに、キバヤシはリオに甘かった。
ホットココアのいい匂いがする。
台所で静かにお湯を注ぐキバヤシを、リオはテーブルから眺めていた。
やはりこの友人は、いつでもリオのことを受け入れてくれる。その事実をかみしめるように、リオはキバヤシの姿を眺めていた。
「熱いぞ」
「ええ」
差し出されたそれを呑むと、リオの舌の上にほのかな甘さと温かさが舌の上に広がった。
リオの口から、静かに息が漏れる。心の中に降り積もった責任と共に、冷たさが体の中から抜け出していくようだ。リオはようやっと、肩の力が少し抜けたように感じた。
キバヤシはリオの向かいに座ると、こめかみに指をあてながらつぶやいた。
「なぜ……トキくんの見舞いにこなかったんだ」
リオは、なぜそんなわかりきったことを聞くのかが分からなかった。
「自由になってほしかっただけよ。私の強いる独善から、残酷な選択から。人殺しの片棒まで担がされかけたのだから、トキも私の顔など二度と見たくないでしょう」
キバヤシの顔は引きつっていた。
その顔はまるで、言いたいことは死ぬほどあるが、せっかく訪れた友人に罵声を浴びせたくないと、必死になって堪えているようだった。
リオの顔に疑問符が浮かぶ。
知らないのだ。キバヤシがどれだけリオがやってくることを願っていたのかも、トキとキバヤシを捨て去ってしまったと思い込み、キバヤシの心が滅茶苦茶になったことを、リオは知らないのだ。
キバヤシはそれを理解しているがゆえに、勉めて柔らかく言った。
「これは心からの助言だが、それでも一度くらい、顔をだしたほうがいいんじゃないか。トキくんだって、リオに会いたいと願うはずだ」
リオは呆れたようにキバヤシに言い放つ。
「何をあり得ないことを言っているの……。今回の事件で、トキは私に愛想をつかした……ビッグシスターでない私に、C&Cのエージェントであるトキが、会いたいなどと思うわけないでしょう」
キバヤシの眉間のしわが深くなったことに、リオは気がつかなかった。淡々と、リオは言葉を続ける。
「そもそも見舞いに行く資格など、私にあるはずないでしょう。ミレニアムの中で私に会えば、利用されていたという言い訳が使えなくなる。トキが肩身の狭い思いをすることになるかもしれないのよ」
「そうかもしれんが、ひどくさみしい思いをさせると考えないのか」
「……トキなら大丈夫よ。私のことなんて、すぐに忘れてくれる」
キバヤシの歯ぎしりの音が、リオには聞こえていなかった。
しかしそれでも、哀しいことに、キバヤシはリオに甘かった。
「はぁ……しかたない。なら、引き続き私が代わりに見舞いに行く。どうせ言っても聞かないだろうからな」
「悪いわね」
「貸しひとつだぞ」
「貴方への貸しから相殺しておくわ」
「……そういうところだぞ、リオ」
「…?」
リオに疑問符が浮かんでいるのを見て、キバヤシは頭が痛くなってきた。
さておき、まだ心配事があるとキバヤシが話を向ける。
「セミナーにはもう戻らないのか。引継ぎはどうなってる」
「優秀な人員は集めてあるし、引継ぎとしてではないけれど、資料も残してある。私がいなくてもセミナーは回るわ」
「そういう問題じゃないと思うが……」
「私にはもう、ミレニアムの会長でいる資格がない。独善で世界を滅ぼしかけた人間が、ミレニアムの未来に関わるなんて、合理的でないでしょう?」
キバヤシはもう、流石にこらえられなかったようだった。
「リオ。独りで納得するのはいいが、周りに一言かけてくれ。本当に、頼むから、周りに相談してくれ。頼む。本当に。私の心臓に悪すぎる」
「…?」
それでもリオに疑問符が浮かんでいるのを見て、キバヤシは心の中で泣きそうになった。
しかし哀しいことに、キバヤシはリオに甘かった。
深いため息の後、キバヤシは言う
「まあいい。お小言くらい、吞み込んでやるさ。こうしてまた会えたんだ……」
キバヤシはリオに笑いかける。
そんなキバヤシを見て、リオはつらそうに言葉をこぼした。
「……貴方の手を振りほどいたことは、悪かったと思っているわ」
「ああ……そういえば、なぜ受け入れてくれなかったんだ。私はたいそう傷ついたぞ」
「どう転んでも悔いが残る問いに巻き込みたくなかったの。うまくいく保証も、どこにもなかったから」
それを聞くと、キバヤシは意地悪そうに笑って席を立った。
そしてリオのもとに歩み寄ると、背中からリオを抱きしめた。
「つまり、私のことが大切だったと言いたいんだな。違うか?」
リオはその問いに答えなかった。
そのままリオは耳を赤くして、否定も肯定もしなかったので、キバヤシはくつくつと笑い出した。
「それならもっと早く言いに来てくれ。おかげで私は死ぬところだったんだぞ」
その言葉を冗談だと受け取ったのか、リオは口をとがらせる。
「気に病んでいたのよ。あなたの努力を、私は徒労にしてしまったから」
不安そうに呟くリオを安心させるように、キバヤシは優しく言った。
「今はもう、気にしてないさ」
髪をなでるキバヤシの腕を、リオはそっと触り返した。
珍しいことに、甘えたような声音でキバヤシが言った。
「そのかわり…これからは私のわがままも聞けよ」
「何を頼むつもり?」
「大したことじゃない。今はただ、私のそばにいてくれ。それだけが、私のわがままだ」
そうしてキバヤシはリオを抱きしめた。
リオは背で冷たい体温を感じながら、安心したように目を閉じた。
キバヤシの心は復讐に燃えていた。
呆れた女だ、許しておけぬ。
キバヤシはそう独り言ち、復讐を決意した。
ひとの情緒を滅茶苦茶にしてくれやがった友人に復讐しなければならない。リオが失踪などすれば、キバヤシもトキも深く傷つくのだとかけらも理解していないこの女に、人の心というものを分からせてやらねばならないと、キバヤシは決意した。
あれから数日、リオはあっという間にキバヤシの家になじんだ。
いつのまにか同居人と打ちとけ、いっとう住み心地のいい一室を占拠し、着々と機材を運び込み、リオは未来永劫居座る気まんまんの様相を呈している。
許せぬ。許しておけぬ。いや、実のところ許してはいるし傍にいてくれるのを嬉しく思う。キバヤシはリオに甘かった。
だがそれはそれとしてこのままでは溜飲が下がらぬと、角砂糖のような甘さの裏に復讐心を隠し、キバヤシはリオの尻拭いをしていた。
リオの代わりにトキの見舞いに行き、リオの伝書鳩のようにセミナーに助言をし、ヒマリに誠心誠意先の態度を詫び続けた(これはまったくの自業自得である)。
その姿は、さながら駄々をこねる子供のかわりに、親があれやこれやとしてやるようだった。キバヤシはリオに甘かった。だだ甘だったのだ。
キバヤシの今生初の連休は、こうしてリオに振り回されて終わろうとしていた。
悔しいことに、キバヤシではリオに報復などできそうになかった。だって嬉しかったから。気を抜けば涙が出そうだし、引っ付きたくもなってしまう。キバヤシはリオに甘いのだ。存外、さみしがりなのだ。
しかしこのままでは何も為せずに終わってしまうと、キバヤシは思い悩んでいた。
故に、トキが目を覚ましたことは、キバヤシにとって天啓だった。
リオをわからせつつ、トキにも報いる。そんな方法が、ここにはあると、キバヤシは素早く動き出した。
トキを慰めつつも家に招待し、同居人に決行日は出かけてもらうように頼み、リオには歓迎祝いをすると嘯いて、盛大なパーティーの準備を始めた。
リオはひたすらに甘やかしてくれるキバヤシのことをすっかりと信じ込み、何の疑問もなくパーティーを楽しみにしていた。
トキもまた、キバヤシにすっかり騙されて、出来の悪いサプライズだと思い込んでいた。
キバヤシはニコニコと上機嫌に、サプライズパーティーの準備を進めていた。
そして鳴り響いた(ぽーん)という福音のチャイム。
キバヤシは扉のロックを解除してトキを招き入れながら、手が離せないと嘯いてリオを向かわせた。
なんということはない悪戯心。
心の底からの親切心。
そうして引き起こされた再会に、
驚いて固まる二人を眺めながら、
キバヤシは幸せそうに微笑んだ。
問うてくれるなとキバヤシは言う。
友とたわいもない話をするうちに、
藍色の瞳に浮かんだ涙の理由など。
それが悲しさによるものではないことなど、
もはや、語るまでもないのだから。