οὐκ οἶδα,
οἷον δὴ τὸ πρᾶγμα δικαίως ἔχει τὸ μὲν τοιοῦτον ὥστε
ἀποκτείναντα τιμωρεῖσθαι, ὃν ἄν τις ἀξιῶν κτεῖναι τυγχάνῃ,
τὸν δὲ τοιοῦτον ποιοῦντα ἐκποιεῖν, καὶ τοῦτον ἐκεῖνον τὸν ἄλλον, ὡς εἶπες, ποιεῖν;
ἢ οὐκ ἄλλως;
深い藍色の瞳が、太陽に照らされて細められている。
宝石のように輝くキバヤシの目を眺めながら、トキは思う。
果たしてこの人物は、いったい何者なのだろうか。のぞき込むたびに景色の変わる万華鏡のような彼女の印象に、トキは人知れず興味を抱いていた。
リオが笑いちらかした翌日は、雲一つない晴天だった。
冷房の効いた校舎からでてしばらく歩いてみれば、うららかとも言い難い暑さが、トキとキバヤシを襲った。
トキの横を、ゆっくりとした歩幅で歩くキバヤシが、物憂げな雰囲気をたたえながらつぶやいた。
「いろいろとすまないな、トキくん」
その謝罪が何に向けられているものなのか、トキにはわからなかった。キバヤシの荷物を持たせていることか、はたまた午前中、ずっと歩き回っているせいなのか。
あるいは、今日の間ずっとトキによって行われている、甲斐甲斐しい奉仕のせいかもしれない。たしかに、リオのように仕えられ慣れていないと、居心地の悪さを感じてもおかしくはない。
なんにせよ、キバヤシが気を遣おうとしていることだけが、トキにはわかった。
「問題ありません。これも任務ですので」
本心を隠してそういえば、キバヤシはバツが悪そうに言う。
「しかし…トキくんにとっては退屈だろう。取材の間だけでも、どこかで休んでいてくれて構わないよ」
トキは少しムッとする。
「私はリオ様専属の、C&Cのエージェントです。子供ではありません」
「う……」
「取材の補佐も、リオ様の命令とあらば完ぺきにこなします。それに、もてなすべき要人を差し置いて休むなど、C&Cの名を穢す行為です」
トキのキッパリとした返事に、キバヤシは観念したようにため息をこぼした。
そう、トキは別に善意でキバヤシに付いて回っているわけではない。全てはリオに命じられた、任務なのだ。
キバヤシがミレニアム学園にやってきた目的は、リオに調査資料を渡すだけではなかった。
話を聞けば、キバヤシはこれから数日間をかけて、各部活を取材に巡るとのことで、トキはその取材の補佐をし、滞在期間中はキバヤシの身の回りの世話をするよう、リオに命じられていた。
リオは今ごろ、キバヤシの調査資料を裏付け、活用するために手をまわしているだろう。トキを手持無沙汰にさせるよりはという意図を、キバヤシに伝えていた。
キバヤシは最初それを断ろうとしたが、例の記事を書いたことを盾にされては頷くほかなかったようで、しぶしぶと言った様子ながらトキを受け入れていた。
「……リオめ、相変わらず私の都合はお構いなしか。わがままなところも昔のままとはな」
ぶつぶつと愚痴を言うキバヤシの言葉を拾い、トキは思わず聞き返す。
「リオ様が、わがままですか?」
「でなければ、いちいち私の服装になんか口出しするか? 私の印象がどうなろうと、私の勝手だろうに。トキくんの前でどうかは知らないが、リオは昔から、私を振り回しすぎだ。なにをしても怒らないとでも思ってるんじゃないか、まったく…」
トキは無表情でキバヤシの愚痴を聞き流しながら、なんとも言えない気持ちになった。
リオは、合理的であることをモットーとする人間だ。ミレニアム学園の利益を至上命題として、最適な選択を取り続ける機械のように、常に冷静に問題を対処し続けてきた。トキはリオがわがままを言う姿など見たこともなかったし、想像もしたことがない。
だからこそ、リオがキバヤシに付きつけた要求もまた、合理的な理由からだとトキは思い込んでいた。色付き眼鏡は不審者が過ぎるとか、連邦生徒会の制服はここでは目立つとか、すごくそれっぽかったからだ。
その前提を疑いながらもう一度、トキはキバヤシを眺めてみた。
キバヤシはトレードマークである色付き眼鏡を没収されていた。
さらにいえば、リオとおそろいのジャケットを羽織らされていた。
こうして眺めてみれば、リオとキバヤシの髪の色や雰囲気が相まって、二人はなんだか姉妹のようだった。
キバヤシは自身の格好に思うところがあるのか、不満そうに口をとがらせている。
「太陽は眩しいし、胸周りが大きすぎて前を留めると不格好だし……リオのやつ、嫌味か?」
「…それは私にはわかりかねます」
トキは改めて、キバヤシの発言について考える。
もしこれがリオの非合理な…いわゆる、わがままによる行動なのだとしたら、それはいったいどういう意図なのだろう。もしかすれば、トキと同じ気持ちだったのかもしれない。
色付き眼鏡がないほうが、キバヤシの綺麗な藍色の瞳がよく見える。暗いレンズ越しに見られるよりは、こちらのほうがよほどいい。
黒いジャケットは、キバヤシのすらりとした体躯によく似合う。それに、おそろいということで自分の関係者だと示せるのも、なんだか気分がいい。
隣を歩く人間は、様になっていてくれたほうが嬉しいものだ。あと不審者だと思わなくて済む。
それにしても…と、トキは思う。
リオのわがままを知っていながら受け入れたというならば、キバヤシは大抵の頼み事は断らないのではないだろうか。押せば何でもしてくれるのではないだろうか。邪な思考が、トキの脳裏をよぎる。
トキはリオのことがすこし羨ましく思った。
キバヤシには、トキとおそろいのメイド服も、着てほしかったのだ。
間違いなく似合うだろう。それに、普段他のC&Cメンバーと動く機会のないトキとしては、お揃いの服で出歩くというのは憧れもある。なんなら今からC&Cに入ってくれないだろうか。履歴書をこちらで出す程度ならば、トキはやるつもりだった。
そんなトキの心情をキバヤシが知る由もなく、じっと見つめられたことでなにかを勘違いしたのか、キバヤシは気まずそうに言った。
「すまない。君の前でリオの愚痴など言うべきではなかったな」
まさか頭の中でメイド服を着せていたなどと言えるはずもなく、トキはシレッと、さもそれが正解であったかのように装うべく口を開く。
「リオ様より、キバヤシ様は“友人”と伺っております。愚痴の一つや二つ、あって当然かと」
そうトキが言えば、キバヤシはうんうんと悩んで、なにかをぶつぶつと言いはじめる。
「……やはり、申し訳なくなってきたぞ。私だけならともかく、トキくんまで巻き込むことは無いだろうに」
「巻き込む、ですか?」
「取材だよ。トキくん、退屈だろう。今回は特に専門的な話だし、そもそも私の雑誌は一般ウケしないしな……」
いいながらしょぼくれるキバヤシを眺めながら、自覚はあったのかと、トキは驚いた。
『月刊MMR』については、読んでこそいないが、トキもリオの部屋で見かけたことがある。その内容が、いわゆるオカルト系ゴシップ雑誌に分類されることはトキも知るところだ。
キバヤシの言うように、トキはそういったオカルトに興味がない。
昨日のリオとキバヤシの会話も、場の緊張があったとはいえ、話の内容はほとんど理解できなかった。
だからこそ、今回の取材内容についてもまた、トキは興味がない。
“
やれ水晶の偶像だの、中空多面体だの、謎のレンズだの…そんなこと調べて何の得があるのか、トキにはわからない。まだ百科事典を眺めていたほうが有意義に思える。
しかしその事実は、今が退屈であるという事実には、繋がらなかった。
「正直に言えば、オカルトに興味はありません。ですが…この時間は存外楽しく思っています」
「そう言ってくれるなら、すこしは気が楽になるが…」
「世辞ではありませんよ」
「…そ、そうかい?」
トキの言葉を疑いながらも、なんとも嬉しそうに笑うキバヤシ。
だがトキとしては、ただ事実を述べているだけだ。トキは取材の間、キバヤシに感心していたのだ。オカルトはよくわからないが、キバヤシの取材を眺めるのが、楽しかったのだ。
トキはキバヤシに偏見を持っていた。
あんなうさんくさい雑誌を書いているのだから、それはもう奇天烈な人物なのだろうと偏見を持っていた。しかしその認識は、次々に覆されていったのだ。
第一に、キバヤシは頭がよかった。
キバヤシは、最先端を行くミレニアム学園のなかでも、広範な分野の専門知識に踏み込めるだけの、深い造詣を持っていた。取材対象とキバヤシが、トキにはまるでわからない科学理論をこねくりまわし、超常現象の話で盛り上がっている光景を、トキは今日だけでなんども目にした。
なぜそんなに物事に詳しいのだろうか。
トキがそう尋ねてみたところ、キバヤシは「下調べを欠かさないだけだ」と言っていた。
トキがその姿勢に感心し、拍手をした。
それで嬉しくなってしまったのか、キバヤシはすこし照れながら、「実は私はIQが170あるんだ」とつけくわえた。
申し訳ないが、それがどのくらいすごいことなのかは、トキにはわからなかった。
第二に、キバヤシは人徳があった。
知識があるのは先述のとおりだが、キバヤシは取材対象に真摯だった。どんなに奇妙に思える研究内容や理論でも、キバヤシは真剣に向き合って議論に付き合うし、態度には礼が滲んでいる。神秘的な容姿と落ち着いた雰囲気も相まって、キバヤシはまたたくまに打ち解けていた。
技術屋に限らず、人は自分の話を聞いてくれる人が好きだ。
キバヤシの真摯な姿勢と高い能力をふまえれば、キバヤシが気に入られるのは、トキには不思議ではないように思えた。
その姿を見ていると、トキは取材内容が果てしなくどうでもいいオカルトだということを忘れそうになる。
(…なぜこれほど優秀な方が、あんな雑誌を)
これはもしかすれば、失礼な考え方かもしれない。
だが、トキはどうしてもそう思ってしまう。
キバヤシは能力が高く、思慮深く、見目も性格も良い人物だ。あえて雑な言い方をするならば、いわゆる完ぺきな人物に見えた。人を惹きつけるのも無理はない。
トキ自身も例外ではなく、出会ってからのわずかな時間で、こうして好感を持てている。取材を通じてみえたキバヤシは、トキにそう思わせるほど優秀だった。
だがしかし、ここで思い返されることがある。
キバヤシは『月刊MMR』などというオカルト雑誌の編集者だ。
“荒唐無稽な妄言をまきちらす陰謀論者”であり、“隙あらば世界滅亡を唱える滅亡論者”だ。
関わりあいたくない手合いなのだ本来は。
まったくもって極端な人物像に、トキはやはり混乱してしまう。
近づきたくなる一面もあれば、敬遠したくなる一面もある。いったいどちらがキバヤシの本当の顔なのだろうか。トキには、キバヤシという人物が理解できなかった。
理解できないという言葉に、トキの頭の中にリオが思い浮かんだ。
もしかすると、常人に理解できるものではないという意味では、天才と変人は同じかもしれない。
黙々とキバヤシの横を歩きながら、そんなことをトキは考えていた。
「何度足をはこんでも、あそこは遠いな。トキくん、疲れてないかい?」
ふと、キバヤシが声をかけてくる。
ずっと考え込んでいたせいで、どうやら誤解させてしまったらしい。
「これでもC&Cの一員ですので」
トキはいつもと変わらぬ無表情のまま、キバヤシに答えた。
正直に言うならば、疲れはある。
朝から半日も動きっぱなしということもあるが、どちらかというと考えすぎで疲れている。キバヤシの人物像もあるが、興味のない取材内容を大量に覚えるのは、はっきり言って負担だ。
だが任務中に弱音を吐くなど、C&Cのエージェントとしてあるまじきことだ。
故に、トキは無表情の下に、その答えを隠した。しかし、キバヤシはそんなトキの嘘を見抜いているようだった。
「…あそこで少し休んでいいかな。どうやら私ももう“おじさん”のようでね。足が疲れてしまった」
「おじさん、ですか?」
キバヤシが何を言っているのか、トキにはわからなかった。
キバヤシは女性だし、まだ若い。
おじさんとは正反対の存在だろうに、あんまりにその言葉を楽しそうに言うものだから、混乱してしまう。
「ふふ…なんでもないさ。それよりほら、座ろう」
そう言うと、キバヤシは木陰にあるベンチに腰掛ける。
トキはキバヤシの傍に控えるように立つ。従者として、自然なことだ。だがキバヤシは、そんなトキを見つめながら、ぽんぽんと隣を叩いて座るようにうながした。
トキが困惑しながら眺めても、キバヤシはただ微笑んでいる。
それがどうにも、意地でも座らせるという面構えに見えたので、トキは根負けして座ることにした。
(…不思議な方ですね)
木漏れ日と穏やかな風を肌に感じながら、トキはキバヤシについて考える。
色付き眼鏡がトレードマークの、何を考えているのかわからない、近寄りがたいオカルト雑誌編集者。
かと思えば、綺麗な藍色の瞳をした、人を暖かな気持ちにさせる、聡明ながら可愛らしい女性。
キバヤシの持つ二面性は、いったい何なのだろうか。
昔からつきあいがあるリオとは違い、トキにわかるのは表層的なことばかりだ。
トキはキバヤシのことを何も知らない。
経歴も、本心も、正体も……何も。
「……気になります」
気がつけば、トキの口からはそんな言葉がこぼれてしまっていた。
キバヤシが不思議そうに、トキを眺めてくる。
「リオと私の関係のことかい?」
どうやら都合よく勘違いをしてくれたらしいので、トキはすました顔で答える。
「はい。リオ様がご友人だと称する方は、今までおりませんでしたので」
その言葉を聞いて、キバヤシは小し喜びをにじませながら笑った。
そしてすこし考えた後に、キバヤシは言った。
「…つまはじきもの同士の腐れ縁だよ」
「それは、どういう意味なのでしょうか」
「この短い休憩のあいだには、言い表しきれない仲……ということさ」
問いをはぐらかすように、キバヤシは鞄から水を取り出して、言葉と一緒に飲み干した。
トキの疑問がキバヤシの白いのどに呑み込まれていくのを、トキはじっと見つめていた
「……? ああ、なるほど。トキくんも飲むかい?」
やはり勘違いをしたのか、キバヤシは飲みかけの水を差しだしてくる。
トキはしばらく飲み口をながめ、キバヤシの顔をみて、また飲み口をながめた。
もっと聞き出したいことはある。
あるが……
「……いただきます」
トキはとりあえず、それを受けとることにした。
ここはまるで迷路のようだ。
キバヤシの後を歩きながら、トキは思う。
ミレニアム学園の敷地内に、こんな奥まった場所があったとは、トキは知らなかった。まるで人の営みから逃れるように、隠れるように、入り組んだ路地がどこまでも続いている。
しかし、キバヤシの足取りに迷いはない。通いなれた道であるように、後ろに続くトキのことをたびたび確認しながら、するすると先に進んでいく。トキはこの奇妙な雰囲気にのまれながらも、何とかその背中を負い続けた。
歩き、歩いて、歩き続け……
とうとう二人は、まるで秘匿されているように建てられた、“特異現象捜査部”へとたどり着いた。
重苦しい扉の前にキバヤシが立ち、(こんこんこん)と、数度扉を叩く。
……扉の向こう側から、何やら慌ただしく動き回る音がする。
トキは思わず、ごくりと唾をのんだ。
そして部屋の中からあらわれたのは……
「お待ちしておりました、キバヤシさん。お久しぶりでございます」
満面の笑みを浮かべた、車いすに乗った少女だった。
トキは思わず面を食らってしまう。
トキは、彼女を知っていたのだ。
ミレニアム学園において、リオに並び立つほどの天才と称されている超一流のハッカーであり、トキの知る中でリオが唯一意見を交わすことのある人物。
「久しいね、ヒマリくん。元気そうで何よりだ」
そう、ヒマリという人物だ。
トキは呆然と、ヒマリを見ていた。
気を抜けば口が開いてしまいそうだった。というか少し開いていた気がする。トキは、目の前の人物の名前を知りながらも、誰なのかが理解できなかったのだ。
キバヤシが鞄からごそごそと、古めかしい幾何学的な柄の工芸品をとりだした。
「はい、お土産。新入部員が入ったと聞いたからね。アビドスの古物商で見つけたんだ」
「まあ……! 素敵なものをありがとうございます。あいにくエイミは、今日は部活に来れないとのことですが…」
「それは残念だが、私が急に押しかけたんだ。仕方がないさ。顔合わせはまたの機会にでもするとしよう」
「キバヤシさんは、しばらく滞在されるのですよね。でしたら、明日にでも一緒に食事に行きましょう。ふふっ。エイミもきっとよろこびます」
トキは無言で自分のほほをつねった。
普通に痛かった。
どうやら、これは夢でも幻覚でもないらしい。
(誰でしょうか、この方は…)
目を輝かせて喜びながら、キバヤシにうやうやしく礼を言う目の前の少女は誰だ。
贈り物を大切そうに抱えて、にこにことキバヤシと歓談する目の前の少女は誰だ。
もし動物だったのなら、尻尾がちぎれんばかりに喜んでいる目の前の少女は誰だ。
というか、あんな何の実用性もない物をもらってなにが嬉しいのだ。トキならば、市販のサプリメントでも貰ったほうがまだ嬉しい。
トキの思考が斜め上に飛んでいく。
だが、それもまた仕方のないことだ。
目の前の少女の姿に、リオに対する邪険な態度と、キバヤシに対する丁重な態度が、蜃気楼のように重なって、トキの頭のなかで大事故を引き起こしていたのだから。
トキにとって、ヒマリはリオに突っかかってくる陰険な人物だった。
“全知”と称されるほど聡明で、優秀なハッカーでもあるヒマリは、ミレニアム学園のなかでは、リオにとって唯一肩を並べられる人物だ。
だからこそ、リオはたびたびヒマリと会談をすることがある。重大な事態や、頼みごとについて、リオが意見を聞くことがあるのだ。誰ひとり信用しない“ビッグシスター”とささやかれる、あの、リオがだ。
しかしながら、トキのなかの印象は悪い。
なぜならば、ヒマリはリオを上品かつ口汚く罵ってくる人物だからだ。
変な表現だと、トキ自身も思う。だが、トキにはそうとしかいい表せない。
ヒマリは、普段は丁寧な口調であるにもかかわらず、リオを例える語句だけが、何故か“汚水”だの“下水”だの“どぶ川”だの…なんというか汚いものばかりなのだ。お上品に口汚く罵ってくるのだ。なぜかは知らない。むしろトキが知りたい。
リオに対するスタンスは、それはもうつっけんどんなものだ。何を頼まれても断ってやる。そう言いたげな雰囲気すらにじみ出ていた。
リオはそれを受け流しているが、内心のほどは定かではない。
通話をする前にも後にもため息を吐いているところを見るに、多大な苦手意識がありそうだった。
なので、トキの中のヒマリは、リオを困らせる陰険な人物なのだ。
トキは再び疑問を繰り返す。
(いや…誰ですか…この方は)
本当に同一人物なのか、アレとコレが。
だとするなら、その差はいったい何だというのか。考えても考えてもわからない。トキの頭のなかで、大事故が起きていた。
そんなふうにトキが呆けていると、二人はいつのまにか挨拶を終えていた。
「ヒマリくん、中に入ってもいいかい?」
「ええ、もちろんです。すこし散らかってはいますが、気になさらないでいただけると……」
「私の執筆部屋より散らかっていたら大したものさ。じゃあ、ちょっと失礼するよ」
「ふふっ。ありがとうございます」
そう言うと、キバヤシはヒマリの車いすをそっと押しながら部室の中へと入っていく。ヒマリは嬉しそうに笑いながら、それを楽しんでいるようだった。
トキは慌てて思考を切り上げて、二人の後に続いて部屋に入った。
部屋のなかを見て、トキは思ったよりも掃除をされている印象を受けた。
恐らくだが、ヒマリは突然のキバヤシ来訪のしらせを受けて、今日の間、慌ててずっと掃除をしていたのだろう。素人目にも高度なものとわかる機材の上に、ぽつんと置かれたハンディモップは、なんだか前衛芸術のようだった。
トキの感想はともかくとして、机の傍にヒマリを送り届けると、キバヤシが話し始める。
「なかなか足を運べなくてすまなかったね。すこし個人的な事情でばたついてしまっていた」
「お気になさらないでください。外部指導員としての務めは、MMRの出版だけでも十二分に勤められておりますから」
「毎号手紙を送ってくれる読者など、そういないさ。ヒマリくんの存在は、励みになっているよ。それが志を同じくする、特異現象捜査部の部長ならなおさらだ」
「ふふっ。キバヤシさん、もっと持ち上げていただいても構いませんよ?」
楽しそうに談笑するヒマリとキバヤシをみて、関係性がようやくトキにも見えてくる。
どうやら、ヒマリはオカルトを研究する部活の部長であり、キバヤシはその外部顧問のような立ち位置にいるらしかった。
「ああ、そうだ。あとでリオから調査資料が届くはずだ。ヒマリくんの意見が聞きたいことが山ほどある」
「期待していただいて構いませんよ。ミレニアムの超天才病弱美少女ハッカーでありながらも、特異現象についても私は一流ですからね」
「その自己紹介が誇張じゃないのが、君のすごいところだといつも思うよ」
「ふふっ。もちろんです。当然ながら、あの下水道に浮かぶ泡のような女よりも、キバヤシさんのお役にたてますとも」
「君は相変わらずリオが苦手だな……」
どうやらヒマリは、リオに関してだけは、キバヤシに対しても同じ態度らしかった。
何とも言えない表情をしているキバヤシだが、ヒマリは自らの失言に気がついていないか、気にしていないのだろう。
キバヤシはリオとヒマリの間でさぞ苦労をしてきたのだろうなと、トキは思った。
「ところでキバヤシさん……」
そこでヒマリが言葉を区切り、トキに目を向けた
「そちらの方は、なぜここに?」
突然に不躾な視線と声音が向けられて、トキはむっとして眉をひそめた。
トキはその原因に、ヒマリの動機に心当たりがある。
今まで見てきたヒマリの方々への態度が、トキにヒマリを理解させた。
これはおそらく、嫉妬だ。
そして、これは本来であればトキではなく、リオへ向かうべき嫉妬だ。ヒマリはトキを通じて、リオに向かって暗い感情を投げつけてきているのだ。
関係性や態度を考慮してみれば、それは容易にわかることだった。
ヒマリがキバヤシに好意を抱いているのは、今日見ただけのトキにもわかる。
その種類が、オカルト好きが高じた尊敬か、それとも別種の個人的な感情かはトキの知るところではないが、並々ならぬものであることは確かだろう。
しかしながら、キバヤシとの距離はリオの方が近いのだ。
リオは“リオ”。ヒマリは“ヒマリくん”。呼び方一つをとってみても、キバヤシが関係性を区別しているのは明らかであり、どちらが対等に近いかも明らかだった。
故にこそ、ヒマリはリオへと嫉妬して、あんなに邪険な態度をとるのだろう。まあ、根本的に価値観が違うというのもあるかもしれないが。
なんにせよだ。
ヒマリは、“自分の大嫌いなリオ会長の専属メイド”が、“自分の大好きなキバヤシ”に、“我が物顔でついて回っている”のが気に食わないのだ。
(リオ様へのあの態度は、キバヤシ様が原因でしたか)
疑問がひとつなくなったのはいいことだが、それはそれとしてトキは苛立っていた。
むしろ、物申したいのはトキのほうだというのに、“とっとと失せろよ、部外者が”とでも言いたげな視線を、なぜ自分が投げかけられなければいけないのか。トキにはまるで理解できなかった。
トキはひたすらに苛立っていた。
常日頃から主であるリオを罵倒され、それをこらえているというのに、部屋の隅で黙って佇んでいたというのに、なぜそんな視線を向けられなければならないのか。
加えていうのならば、トキは任務によりキバヤシに付いて回っている、C&Cのエージェントだ。すなわちこの言葉は、C&Cの任務に対する妨害…ひいては侮辱といえるではないだろうか。喧嘩を売られて黙っているのは、C&Cの誇りに反する行為ではないだろうか。
仮に反さなかったとしても、リオを貶されるわ、任務は邪魔されるわで、トキは大層むかついているわけであるからして、売られた喧嘩は買うべきなのである。誰が何と言おうと、そうなのである。
故に、説明をしようとキバヤシが口を開くよりも早く、トキはヒマリの前へと歩み出て、見下ろすようにしながら口を開いた。
「……セミナーの会長であるリオ様より、キバヤシ様がミレニアムサイエンススクールに滞在する間は、“私”が、“つきっきりで”、“懇切丁寧”にもてなすよう仰せつかっております」
トキはそこで言葉を区切る。
そして、キバヤシの傍にすすすっと移動して、言い放った
「つまり今の私は――キバヤシ様御付きの“専属”メイドです」
「は?」
「ヒマリくん?」
「失礼しました」
トキは無表情の下で満面の笑みを浮かべていた。
やはりこの女、打てば響く。
キバヤシの前だからと何でもないようこらえているが、ヒマリの目は先ほどよりも力強く開かれ、口元には罵声を発しまいと力が入っている。その実は相当頭にきているのは明らかだった。
トキは気分がよかった。
リオの姿を頭のなかで思い浮かべながら、ハイタッチをしていた。恐らくリオはそんなことしないとトキ自身が突っ込むのも、お構いなしだった。マウントをとるという行為は、筆舌に尽くしがたい快楽をもたらすものなのだ。
ヒマリもそんなトキの感情に気がついているのか、キバヤシから見えないようにしながら拳を握りしめていた。
しかし、このままいけば不毛な争いをキバヤシに見せることになる。ヒマリはもっともらしく咳ばらいをして、切り替えた。
「おほん。キバヤシさん。申し訳ありませんが、ふたりだけでお話しできませんか。…手紙の件についてご相談があります」
キバヤシは何かを察したのか、ちらりとトキを見てから頷いた。
「わかった。トキくん、すまないが少し席を外してくれないか」
「承知しました。……おや、キバヤシ様」
部屋を出ようとしたトキが、思い出したように振り返りキバヤシへと近づいてい、すこし緩んでいた青いネクタイを手に取った。
「少々、失礼いたします」
トキはそう告げると、一つ一つの動作を味わうように、丁寧にそれを整えていく。
見るものが見れば、その姿はまるで新婚の甘いひと時のようだというかもしれない。事実として、キバヤシが気恥ずかしそうに瞳を彷徨わせている背後では、ヒマリがすさまじく恨みのこもった視線をトキに向けていた。
トキはその視線を愉しみながら、ネクタイをぴしりと結び終えると、合図がわりにキバヤシの肩を軽くたたく。
……そして 不必要なほどキバヤシに密着し、ヒマリを流し見て、ごくわずかに口角を上げた。
「――タイが曲がっていましたよ」
「は?」
「ヒマリくん…?」
「し…失礼しました」
勝った。
トキは無表情の下で勝利の余韻を味わっていた。
この瞬間において、どちらがキバヤシと近い位置に立てるかというマウントバトルにおいて、トキは勝利したのだ。リオの無念を勝手にしょい込みつつ、C&Cの誇りもついでとばかりにベットした戦いに、見事にトキは勝利したのだ。
トキはすさまじく気分がよかった。
リオの姿を頭のなかで思い浮かべながら、盛大に祝杯をあげていた。トキとリオは肩を組んで踊っていた。リオはそんなことしないとトキ自身が突っ込むのも、お構いなしだった。
(仇は打ちました、リオ様)
別にリオは死んでもいないし頼んでもいない。そう突っ込む者は、残念ながらこの場にはいなかった。
視界の端でわなわなと震えるヒマリと、
謎の悪寒を感じて震えるキバヤシを置いて、
トキはさわやかな気持ちで部屋を後にするべく声をかける。
「それでは、どうぞごゆっくり」
そしてトキの背で扉が静かに閉まる。
トキは手ごろな場所を見繕い、物陰に入り込んだ。
そして手早くレシーバーのスイッチを入れ、
イヤホンに耳をそばだてた。
ミレニアム学園にはさらなる謎と陰謀が渦巻いていた…?
衝撃の真相を解明するべく、キバヤシは特異現象捜査部の奥地へと足を踏み入れた――!