ビルの屋上から見る夏夜の街は煌びやかだった。
もう二十二時を回ろうかという時間だが、街に佇むビル群から光が消える様子はない。
『綺麗』『美しい』と表現して差し支えない光景だが、あの光の中で交わされるやり取りはそんな言葉とは似ても似つかないものだ。
ここはブラックマーケット。
欲望と暴力が渦巻く、社会に適合できなかった者たちの掃き溜め。
悪の巣窟。
廃れた居住区では騙された住民の頭が借金取りに踏みつけられ、商業区では年端も行かない子供たちがスリや万引きを行い、工業区からは明らかに異常な量の排気ガスが辺りに撒き散らされている。
汗が滲む体を労るように吹く涼やかな風を感じながら、錠前サオリは考える。
彼女らもこの摩天楼の中に紛れているのだろうか。
目を瞑り、全てを敵にしても守りたかった少女たちのことを想う。
別れたのはそれなりに前の話だというのに、当たり前のように彼女たちの顔が浮かんできて、サオリの口元に少しだけ笑みが浮かんだ。
───虚妄のサンクトゥムから一ヶ月の時が経過していた。
軍隊規模の戦闘力が必要な敵が多数出現し、このキヴォトスを滅亡の一歩手前まで追いやった惨劇。
あらゆる物が瓦礫と化し、全ての抵抗は退けられ、あの時確かに人々は絶望の淵に追いやられていたはずだ。
正しく絶体絶命であり、奇跡でも起きなければ覆せないような状況で………奇跡は起きた。
犬猿の中でありながら同じ船に乗り込んだ者たちがいた。
たった数人で強大な敵を退けた者たちがいた。
過去の因縁を切り捨て、他者の手を取った者がいた。
強者に膝を屈しない勇敢な弱者がいた。
そして───
あまねく奇跡は逆境を覆す灯となり、ついに空より侵略してきた『色』を打ち払った。
サオリは空で具体的に何が起きたのかを知らない。
それでも。
暗雲が晴れ、確かに青を取り戻した空を見て。
あの日、一人の少女が青春を叫んだ時と同じ色の空を見て。
奇跡は起きたんだ、と確信した。
こうして終幕を迎えた虚妄のサンクトゥムであったが、事後処理も中々に大変であった。
高層ビルも小さな民家も諸々同等の瓦礫に成り下がり、生徒アンドロイド犬猫鳥熊あらゆる生物が決して無視できない怪我を負ったのだ。それらを賄うための技術も費用もバカにならない。
本来ならばたった1ヶ月で元のキヴォトスの形まで復興するなど夢物語に等しいのだが……サオリの眼下に広がる夜景は、悲劇の前と何ら変わらない様相を呈していた。
これは別に奇跡などという話ではなく、むしろ真逆の『大人のご都合』という側面が大きい。
先程も述べた通り、ここブラックマーケットは悪の温床である。
それこそ薄いベールの一枚をタマネギの皮のように剥いでしまえばまえばあっさりと露呈してしまう悪事が山のようにあるのだ。
そんな状況で突如現れた怪物が暴れ出し、悪徳企業の秘密金庫から違法オークション用の倉庫まであらゆるものを破壊して回ったのだから後ろ暗い事情を抱えた大人たちは大層慌てた。
改竄された申告書やロンダリングの履歴などなど、ヴァルキューレなどの手に渡れば人生が終わりかねない証拠の数々の回収や処分を迅速に行うために、ブラックマーケットの復興だけは、報道機関や連邦生徒会を押さえつけつつ急ピッチで進められたのだった。
あれだけの奇跡を目の当たりにしてもなお、私欲を優先する者たちは絶えないのだ。
そのことに対して、サオリ自身思うところはある。
───だが、そんな私欲に塗れた場所に私は生かされている。
それもまた事実。
そうすることでしか生きることができない自分に呆れ果てて……サオリの端正な顔が僅かに歪む。
「景色をお楽しみのところ申し訳ありませんが……仕事を依頼してもよろしいでしょうか、錠前様?」
夜風に青みがかった髪をたなびかせるサオリに、背後から声をかける者がいた。
顔だけ振り向くと、そこには腹の出た『如何にも』といった風体のアンドロイドがいた。アンドロイドはに軽薄な……そして貼り付けたような笑みを浮かべている。
数年ほど前にトリニティ近辺で食品関連の事業を起こし、紆余曲折あってここブラックマーケットの一部に根を張ることに成功した上場企業に勤める幹部の一人であり、今のサオリの雇い主だ。
現在のキヴォトスではどんな企業であれここブラックマーケットに関わらず成長するのは不可能。
酷い話にも聞こえるが、不正して得る利益と清廉潔白な商売で得る利益とでは比べるまでもなく前者の方が大きく、企業同士での競争が激しいキヴォトスではブラックマーケットの恩恵にあやかるのは商売における最低条件とも言える。
よってここに捜査の手を伸ばすということは多くの企業が何らかの罰則を受けるということであり、キヴォトスの物価が操作不能な変動を見せるということであり……ヴァルキューレなども迂闊に手を出すことができないのが現状だ。
そのため、ここブラックマーケットではヴァルキューレ等の公的警察組織の庇護を得ることは難しく、企業は非公式…つまりはグレーゾーンの傭兵組織を使っての自衛を求められる。
そしてそんな傭兵の一人がサオリだった。
現状を頭の中で整理しながら、サオリは雇い主に返事を返す。
「今の私の飼い主はお前だ。与えられた役目は果たそう」
「ふふふ、快諾していただきありがとうございます。それでは、我が社の資料を盗もうとする不届者の排除を───」
マスクをはめ、依頼内容を聞きながら屋上の出入り口に歩いき……ふと後ろを振り向く。
そこには闇の中で輝く上等で醜い光を浴びながら、サオリは思う。
───きっと私は悪なのだろう。
ベアトリーチェの傀儡としてトリニティを襲撃し、こうして今も犯罪紛いの傭兵稼業に精を出している。
生まれた時から何も変わっていない。
自分サオリが悪というのは純然たる事実でしかないのだ。
猟犬としての楔を引き抜かれて、強大な敵を退けても、サオリには『悪』以外の自分を想像できなかった。
自分探しの旅などと銘打った現状も、サオリに別の解答をもたらしてはくれない。
悪で在る限り、サオリは赦されないという以外の解答は。
ならば、悪以外の何者にもなれないサオリは結局───
「どうかしましたか?」
「……いや、なんでもない」
首を傾げる雇い主の言葉を否定しつつ、出入り口の扉からビルの中へ戻る。
扉が閉まる直前、隙間から見えた夜の灯りは……思い悩むサオリ自身の心を嘲笑っているようで。
「………」
誰もいなくなった屋上の闇を縫うように、ビル風が静かに吹いていた。