浄火の赦し   作:もとりな

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四章 罪、そして罪

 

 

「今日もリリナさんたちはお元気でしたね」

 

「元気すぎるのも考えものだがな。まさかけん玉だけで三時間も使うことになるとは予想できなかった」

 

「あはは…」

 

 

 アドレスケレ孤児院の廊下。

 ホテルのように扉がズラッと並ぶ空間で、子供たちの楽しげな声を聞きながらマリーとサオリは談笑していた。

 会話の内容は昼食の後のリリナたちとの遊びについてだ。

 子供たちの体力は確かに侮れないが、玉を刺したり乗せたりするだけの遊びであるけん玉なら十分程度で終わるだろうと鷹を括っていたのだが……これが間違いだった。

 最初は想像した通りの遊び方をしていたのだが、時間が経つにつれてリリナたちの遊びのレベルは次第に上昇していった。あやとりと同じパターンである。玉をけんの先に乗せたり、けん玉の角に乗せたりと、物理的に可能なのか疑わしい技の数々を披露してくれた。「秘技!『うら月面〜1回転クッション、うら月面〜 さかおとし』!!」などと言いながら手足のようにけん玉を操り出した時はサオリも頭を抱えた。最終的にはサオリとマリーの方が教えを乞う立場になっていたのは言うまでもない。

 ちなみにサオリはあっさりと成功し、マリーは玉を頭にぶつけて半泣きになっていた。

 二人が今日の出来事を振り返っていると、不意にマリーが「そういえば」と呟いてサオリに問いかける。

 

 

「お仕事の方は大丈夫なのですか?かなりの期間この孤児院にいらっしゃいますが…」

 

 

 ───サオリがリリナと和解してから既に二日が経過していた。サオリの怪我は既に完治し、今では率先して孤児院の手伝いを請け負えるまでになっていた。そうなると、もうサオリがこの場所にいる理由もないわけで。

 だからこそマリーは不思議がった。この場所に馴染み始めたとはいえ、サオリにも生活がある。問題が無いならば彼女はすぐにでも仕事に復帰するのだろうと考えていた。寂しくもあるが仕方ないと割り切っていたのだが……

 マリーからの当然とも言える問いに、サオリは僅かに眉を顰めて「実は」と短く前置きをして話始める。

 

 

「雇い主から既に連絡は来ている」

 

「そうなのですか?では──」

 

「だが、それは私を呼び戻すのではなく…逆に『孤児院に残れ』という内容だった」

 

 

 サオリは顎に手を当てて考える。彼女も流石におかしいと感じて雇い主である幹部に連絡を入れたのだが、帰ってきた返事は『未だ捜査が難航しているため、その場での待機を願います』という淡白なものだった。 

 

 

「それは……不思議、ですね?」

 

「ああ。契約を解消したいならばその旨を連絡するだろう。だが、そうではない」

 

 

 企業側はサオリに待機命令を出すだけだ。

 普通に考えると、あちらの言う通り情報漏洩の件が解決していないため、『疑わしきは寄せ付けず』のスタンスを貫いているだけなのだろう。しかし、サオリは何か引っ掛かりを感じていた。

 

 

(普通なら進捗を報告するだろう。しかしそれも無いということは…単純に侮れている?だが、それにしては───)

 

「でも、良かったです」

 

「──良かっただと?」

 

 

 言い知れぬ違和感に考え込んでいたサオリだったが、マリーの安堵したような言葉に思わず反応してしまう。

 首を傾げるサオリに、マリーは微笑んで告げる。

 

 

「せっかく仲良くなれましたので……私としても、もう少し一緒にいたいのです。それに、リリナさんたちも寂しがってしまいますから」

 

「別にここに拘る理由はない。拠点など幾らでも用意できる」

 

「では、出て行かれるのですか?」

 

「……安全な食事と寝床が確保できるのは大きなメリットだ。離れる理由もない」

 

「ふふ」

 

 

 目を逸らして早口で述べるサオリにマリーが柔らかな笑みを溢す。何故か気恥ずかしくなったサオリが鼻を鳴らして正面を向くと───

 

 

「あれは……」

 

「世話係の方と管理人さん、ですね。何やら真剣な表情をしていらっしゃいますが……」

 

 

 サオリとマリーが見つめる先。

 廊下の突き当たりで、世話係の一人と管理人の少女が物々しげな雰囲気を漂わせて会話をしていた。子供の目がある場所であのような雰囲気を出すのは珍しいことだ。

 不思議に思っていると、管理人の少女がこちらに気づいた。

 彼女は一瞬だけ悩ましげな表情を作ると、二人に近づいて、声を顰めて話しかける。

 

 

 

「お二人とも、申し訳ありませんが少しお時間をいただけますでしょうか?」

 

「は、はい。私は構いませんよ?」

 

「私も問題無いが……ここでは出来ない話か?」

 

 

 サオリがなんとはなしに問いかけると、管理人の少女が頷く。

 

 

「はい。ですので私の部屋にご案内いたします」

 

 

 

〜〜〜

 

 

 管理人の少女の部屋は随分と狭かった。

 いや、『狭いように感じる』と言う方が正しいだろうか?

 面積自体はマリーとサオリの部屋よりも広いくらいなのだが、書類が大量に収められた棚が所狭しと並んでおり、実際の面積よりも遥かに狭く感じられた。それでも『綺麗』や『丁寧』といった感想が浮かぶあたり、主の性格がよく現れた部屋と言える。

 管理人の少女は部屋の中心にあるテーブルを挟むようにして配置されたソファの一方に腰掛けた。

 マリーとサオリは反対側に座る。

 

 

「お時間を取らせてしまい申し訳ありません。これは本来なら私たち孤児院だけで解決するべき問題なのですが……シスターフッドであるマリーさんと、ブラックマーケットについて詳しいサオリさんにも協力を仰いだ方が良いと判断しましたので、お呼びしました」

 

「わ、わかりました。お力添えができるよう努力します」

 

「特段この街に精通しているというわけでもないが……知っていることは話そう」

 

「ありがとうございます」

 

 

 捲し立てるように話す姿に、マリーとサオリは少したじろぎつつも肯定の意を返す。どうやら重大な案件らしく、管理人の少女は珍しく焦っていた。

 だが、自身の態度に気づくと「失礼しました」と一度深呼吸をして落ち着き、ゆっくりと話し出した。

 

 

「先程、以前述べていた企業からの襲撃がありました」

 

「な…」

 

「そ、そんな!?大丈夫だったのですか!?」

 

 

 衝撃的な情報に驚く二人。

 マリーに至っては無意識にソファから立ち上がっていた。

 しかしそんな様子を見た管理人の少女は「あぁ、すみません」と落ち着いた声で言うと、申し訳なさそうに苦笑いをした。

 

 

「心配してくださりありがとうございます。ですが、襲撃自体はよくある事なのでお気になさらないでください」

 

「そ、そう仰られましても…」

 

「本当に大丈夫ですから。実はお二人がここで生活している間も、四回ほど襲撃があったのですよ?」

 

「そうなのか?全く気が付かなかったが…」

 

「内密に処理しましたので。場所とタイミングさえ分かれば撃退はそれほど難しくはありませんから」

 

「では、今回も?」

 

 

 マリーの問いに管理人の少女が頷く。そして真剣な表情を作ると、今回の問題点を話し出す。

 

 

「今までは撃退するので手一杯でした。犯人がどの子を・・・・狙っているのかも分からず仕舞い……しかし、今回は実行犯が襲撃してくる地点を明確に予測できましたので、普段よりも激しい攻撃を行うことに成功しました」

 

「そこで犯人を捕えることができた、ということか?」

 

「いえ、力及ばず取り逃してしまいました。しかし……犯人グループはこれを落として行きました」

 

 

 そう言って管理人の少女は白い布を取り出して、中に包まれた者を見せる。

 それは黒く、平たい長方形の形をしていた。そして何より、マリーたちも良く見るアイテムだった。その名前は、

 

 

「これは……スマートフォンですか?」

 

「このデザインはブラックマーケットで流通している物だな。見た目はシンプルだが、GPSを誤魔化す機能や遠隔操作で内部データを消去できる機能が搭載されている。裏の者が使いたがる設計だ」

 

 

 冷静に分析するサオリに管理人の少女が頷く。

 実はサオリもこれと同様の物を所持していた。今の雇い主である幹部から受け取っていたのだ。

 主に使い捨ての傭兵や実動部隊に渡される代物で、連絡は主にこれで行われる。捕虜となった時などに企業側がすぐに切り捨てられるような機能が盛りだくさんの、スマートな見た目に反して物騒な機械である。

 

 

「これも例に漏れずすぐにデータが消去されたのですが……この孤児院にはデータ解析に長けた者がいまして。一部を復元することに成功したのです」

 

「データ解析……さっき廊下で会話していた世話係か。本当に様々な人材がいるな、ここは。一企業であれば相手取れるのではないか?」

 

「そうも行きません。企業が相手となればこちらが攻勢に出る必要もあり、そうなれば孤児院の警備が手薄になってしまいますから」

 

 

 不可能とは言わない辺り空恐ろしい。

 サオリとしては彼女たちの実力も気になるが、今はそれよりも判明した事実の方が大事だ。

 

 

「それで、何がわかったんだ?」

 

「私たちを襲った企業の名前です。最近になってブラックマーケットにやってきた食品メーカーで、名前は『株式会社クエタ&クエクト』」

 

「あ、私も聞いたことがあります。確か以前に発売された冷凍食品がヒット───さ、サオリさん?どうされたのですか?」

 

「……いや、なんでも無い。ただ──」

 

 

 企業の名前を聞いて思い出したように説明するマリーだったが、隣のサオリが唯ならぬ殺気を滲ませたことで中断する。管理人の少女も驚いたようで、思わずと言った方に腰の拳銃に手を伸ばしていた。

 しかし、当の本人にそれを咎める理由も、余裕も無かった。

 管理人の少女の口から出た企業、『クエタ&クエクト』。

 それは───

 

 

「どうやら雇い主と話をする必要があるらしい」

 

 

 彼女の雇い主である幹部が勤めている企業だった。

 

 

〜〜〜

 

 

 『株式会社 クエタ&クエクト』。

 「Q(クエタ)からq(クエクト)まで、幅広い食品を全ての人に」を経営理念とした会社であり、その理念の通り冷凍食品を軸として、様々な食品を提供している。「新しいSI単位が出来たら社名を変更するんじゃないか」とSNSでネタにされがちな企業でもあった。

 しかし、この企業も例に漏れずブラックマーケットの恩恵をしっかりと受けている。

 主な目的は粉飾決算の隠蔽。

 この企業は以前発売した新作の冷凍食品がヒットしたことで利益を上げているように思われているが、それは書類上の話である。他の事業に手を出しすぎた上に、そのどれもが芳しい成果を出せなかったために、実際は多額の負債を抱えていた。

 「このままでは信用に関わる」と慌てたクエタ&クエクトは粉飾決算を行った。しかも大量に架空の在庫をでっち上げたり、費用を資金として報告したりと割とやりたい放題にやっている。

 そしてその粉飾が隠しきれなくなり、ついにはブラックマーケットを頼ることとなったのだ。

 

 そんな企業の不正の証拠がたっぷりと詰まったビルの執務室で、サオリは雇い主であるクエタ&クエクトの幹部と対峙していた。

 幹部の執務室は比較的広く、後ろの窓からはブラックマーケットが一望できるようになっていた。内部に物は少なく、精々本棚とデスクがあるくらいだった。

 シンプルなデスクの上は綺麗に整理され、多肉の観葉植物が幾つか置いてある。そして端の方にはアンティークが極まったような黒電話が置いてある。

 サオリは険しい表情で幹部のデスクにドンと両手を叩きつける。

 

 

「どういうことか説明して貰おう」

 

「説明とは?」

 

「とぼけるな」

 

 

 デスクにゆったりと腰掛けて飄々とした態度を崩さない幹部に、苛立ちを隠せないサオリが詰め寄る。

 

 

「アドレスケレ孤児院を襲撃したのはお前の手下だろう?」

 

「いいえ、違いますよ」

 

「まだ嘘を──」

 

「彼女たちは手下ではなく私の大切な部下。お間違え無きよう」

 

「……認めたな」

 

 

 あっさりと。

 拍子抜けするほどにあっさりと、幹部は自らの罪を認めた。

 幹部はサオリの言葉に頷くと、「ですが」と前置きして大仰に両手を広げて見せる。そして、

 

 

「それの何が悪いのでしょうか?」

 

「……なんだと?」

 

 

 信じられないことを言ってのけた。

 思わず固まってしまったサオリを気に留めることもなく、芝居がかった口調で幹部が続ける。

 

 

「ああ、失礼致しました。確かに私共がやったことは世間一般では悪事とされる行為でしょう。しかし、ここはブラックマーケットです」

 

「それの何が──」

 

「ブラックマーケットは特殊な治外法権。それは錠前様もご存知かと思いますが。加えて貴女は我々が決算書の偽造を……不正をしていると知りながら雇われた。違いますか?」

 

「……」

 

 

 サオリは黙らざるを得なかった。

 そもそもクエタ&クエクトは不正を隠蔽するためにブラックマーケットにビルを建設したのだ。そんな場所に勤める者たちが犯罪の証拠を消すために行動を起こすのは、ある意味当然のことである。サオリもその片棒を担ぐ形になっているのだから、文句を言う筋合いは無い。それが幹部の意見なのだろう。

 目の前のアンドロイドを照らす白い光が、やけに黒ずんで見えるのはサオリの錯覚だろうか。

 

 

「だが、相手は子供だぞ…年端も行かない、まだ遊び盛りの子供だ」

 

 

 サオリの声は何処か懇願しているようにも思えた。相手の返答を何となく予想できているが、それでも信じたくない、言ってほしくないと駄々を捏ねているようにも聞こえる。

 そして、一企業の信頼を預かる幹部はそんな駄々を認めない。

 

 

「それが何か?」

 

 

 返ってきた、当然の答え。

 何となくわかっていた返事に、サオリはデスクの上で拳を握りしめる。

 何も言い返せない子供に、幹部は呆れたように溜息を吐いて続ける。

 

 

「そもそも雇われ傭兵の貴女に何かを言う権利はありません。加えて先程も言った通り、貴女は我々の犯罪を容認した上で加担したのですよ?共犯者様」

 

「……」

 

「だというのにその被害者面は何ですか?まるで正義のヒーローのような態度を取って。まさか粉飾決算は良いが殺害はダメとでも仰るつもりで?犯罪に優劣は……まぁ有りはしますが、この場面でそれは通用しないでしょう」

 

「……れ」

 

「本当に呆れ返ってしまいますよ。ですが、今日までの働きは賞賛に値します。貴女は強かった。この数ヶ月、貴女のおかげで私共は競合他社の武力に怯えることなく……安心してアドレスケレ孤児院を襲うことができたのですから」

 

「…まれ」

 

「そういう意味では確かに貴女は私共の一番の味方でした。ふふふ、もうわかっているのではありませんか?今こうして孤児院が危機に瀕しているのも、幼い子供の命が狙われているのも、全ての要因は貴女───」

 

「黙れッ!!」

 

 

 それはサオリの精神を掻き乱すための言葉であり、単なる事実でもあった。

 ここにマリーがいたならば、「そんなことはありません」と力強く断言してくれたのだろう。だが、ここにいるのはサオリと敵対者のアンドロイドだけであり、彼女にとっての救いは何処にも存在しなかった。

 つまるところ…今この場に、サオリの味方はいない。

 自らが過去に傷つけてしまった少女を、無自覚の内に命の危険に晒していた。しかもそれに自分も加担していた。

 酷く自罰的な錠前サオリという少女にとって、それは耐え難い苦痛だ。誰からの励ましを得られることもなく、そんな痛みを無視できるほどに彼女は強くなかった。

 ここにはマリーも、管理人の少女も、リリナも、アリウススクワッドの仲間たちもいない。

 孤独な少女が、残酷な現実に耐えることはできない。

 今にもヒビ割れて……いや、既にヒビ割れてしまったサオリは、しばらくの沈黙の後、何かを噛み殺すような表情を作ると、低い声で幹部に問いかける。

 

 

「二つ、質問がある」

 

「ふむ、いいでしょう。貴女には助けられた。それくらいの要求であれば承諾します」

 

 

 溢れ出しそうになる黒い感情を必死の思いで飲み込むサオリの要求を、幹部がにこやかに受け入れた。あまりにも対照的な二人の表情と雰囲気が生んだ気味の悪い違和感が部屋中を蝕んでいく。

 

 

「何が……誰が狙いだ?あそこを襲うならば、ターゲットとなる子供がいるはずだ。お前の弱みを握る存在が」

 

「そうですねぇ……まぁすぐにでも消えることでしょうし、構いませんか」

 

 

 いちいちサオリの神経を逆撫でするようなことを吐き出しながら、幹部はあくまで笑みを崩さずに答える。ツーっと無機質な指で机のホコリを緩慢になぞり取る様が余計にサオリの癪に障った。だが、癇癪を起こすよりも、まずは情報を聞き出さなくてはならない。

 

 

「知っての通り、私共は決算書の値を改竄して利益を水増ししてきました。しかし、それでは書類上の記録とやがて齟齬が生まれてしまいます。書類にも改竄できる物とそうでない物がありますから」

 

「しかし、改竄できない物を燃やすわけには行かない。だからこそ、ブラックマーケットに一定の期間保管して、監査の目をかわしつつ、粉飾分を取り戻した後にひっそりと本社に返すという手法を取った。粉飾分さえ取り戻せれば架空の在庫を本物にすることもできますから」

 

「それが上の立てた計画だったのですが……ある日、事件が起きた」

 

 

 それまで柔和かつ饒舌に語っていた幹部だったが、いきなり声のトーンを落とし、よよよ…と悲しげな表情をモニターに映す。大袈裟に首を振る姿からは、幹部の発言が本心だとはとても思えなかった。

 サオリの中で不快感が増していくが、幹部はそれを知ってか知らずか……いや、知った上で続ける。

 

 

「その日はブラックマーケットからトリニティ本社に秘匿すべき書類を受け取りに来る日でした。しかし、路地裏で取引をしていた使いの者たちは……突如として爆破に巻き込まれた」

 

「……まさか」

 

 

 サオリの額を汗が伝う。

 トリニティ、書類、路地裏、爆破。

 それは、聞いたことがある単語だった。

 そう例えば、つい最近の話。

 誰かの過去と、似ているような。

 

 

「慌てた社員たちは、書類をその場に置いて逃げることしか出来ませんでした。無理もありません、誰だって命が一番大事なのですから。何より、幸いなことに書類は誰の目にも触れなかった。───ある少女を除いて」

 

 

 驚愕、困惑、後悔、憤怒、絶望、自己嫌悪、殺意、悲哀、諦観、焦燥、恐怖、否定、悲観、悔恨、悲嘆、怖気、失意、自失。

 

 この世界のあらゆる負の感情がサオリの心を侵食していく。

 取り返しのつかない真実が、取り返しのつかない後悔が、サオリの大事な感情を殺していく。

 

 彼女の過去を奪っても、まだ足りなかった。

 

 彼女の今を傷つけても、まだ足りなかった。

 

 

「相手はおそらく書類を読んだ所で何もできない少女でした。しかし、それでも可能性の芽だ。滅びの芽だ。摘まないわけには行かない。必死に殺そうと追いかけたのですが……まさかあのような妖怪屋敷に拾われるとは。あ、あぁ!そうだ、思い出しました。アリウススクワッドの頭目、錠前サオリに全ての幸福を壊された彼女の名前は───」

 

 

 サオリが彼女の家を壊した。サオリが犯罪組織と彼女の接点を作った。サオリが彼女を狙うその組織の手助けをした。サオリが彼女の手を振り払った。サオリが、サオリが、サオリが、サオリが。

 

 彼女を取り囲む全ての『悪』は、全てサオリが齎した物だった。

 別に、なんということはない。

 簡単なことだった。

 サオリは悪人などではなく───

 

 

「───リリナ、でしたね」

 

「……あぁ」

 

 

 リリナという一人の少女を脅かす、ただの疫病神だった。

 

 リリナを追いかけているのが、別の組織なら。

 この組織が子供を追いかけている理由が、サオリとは全く関係がなかったら。

 彼女はここまで絶望することはなかった。

 子供を狙う卑劣な犯罪者に怒りを燃やし、自らの過ちを繰り返さないためにも戦っていただろう。

 しかし、現実は彼女に逃げ道など用意してくれなかった。

 

 サオリは、サオリが全てを奪った少女を殺す手助けをしていたのだ。

 

 知らなかった、などという事実は何の慰めにもならなかった。

 生気が抜け、顔面蒼白となった彼女を見て、幹部は満足そうに頷く。

 サオリは最早、それに対して何の感情も抱くことはなかった。

 ただただ、機械的に質問する。

 ───その質問が終わったら、目の前の存在に銃口を向けると決意して。

 

 

「なぜ、私をアドレスケレ孤児院に留めた?」

 

「ふむ?」

 

 

 虚な瞳をしたサオリの問いかけに、幹部は考えるような仕草をした。

 彼女はこの雇い主の命令によって孤児院に留まっていた。しかし、全てが判明した今、あの指示の内容…「情報漏洩」は虚偽だったのだとわかる。

 おそらく最初の戦闘でサオリの潜伏先がバレたのも自作自演だったのだろう。そして、敢えてアドレスケレ孤児院の庭に突き落とした。

 それはサオリにもわかる。

 だが、その目的が謎だった。

 幹部の狙いはリリナを殺すことであり、サオリを彼女が暮らす孤児院に接触させた意味がわからなかった。

 

 ──どうして自分と孤児院の繋がりを作ったのだろう。

 ──どうして自分とリリナを出会わせたのだろう。

 ──そんなことをしなければ、こんなに苦しくはなかったのに。

 

 サオリからの最後の質問に、幹部は初めて生の感情を───生気が抜けたサオリですらゾッとするような、醜悪な笑みを浮かべた。

 

 

「その意味は、今からわかりますよ」

 

「何──」

 

 

 ──を。

 そう問おうとした時、サオリのスマートフォンに連絡が入った。業務用の簡素な物ではない。しっかりと使い込まれた、彼女自身の個人的な持ち物だ。そのスマートフォンに連絡が、通話が来た。

 聞くな。

 そう胸中の声が叫ぶ。

 しかし、彼女は震える手で画面をタップし、通話に出た。

 

 

『サオリさん!』

 

 

 冷たく四角い板の向こうから聞こえるのは、ここ数日で聴き慣れたシスターの声だった。しかし、彼女の声は、今までに聞いたことが無いほどに焦っていた。

 抜け落ちた感情の隅で何かが動くのを感じたサオリは、切羽詰まった声に耳を傾けて。

 

 

『た、たくさんの人が襲ってきて、あ、あの、こ、孤児院に火が…!建物が、燃えて…!』

 

 

 今度こそ、心から絶望した。

 

 

 

〜〜〜

 

 

 

「行きましたか」

 

 

 何かの連絡を受けて、サオリは幹部の執務室から出て行った。一人残された幹部は、想定通りの結果が出たことに安堵して、満足そうに頷く。

 そしてデスクの黒電話から受話器を取り、何処かへと連絡を取った。

 

 

「首尾は?」

 

『順調です。監視カメラには孤児院へと真っ直ぐに向かう錠前サオリの姿がハッキリと写っています。あとはこれの時刻データを改竄し──』

 

「錠前サオリが孤児院に着いたタイミングで発火したように見せかける。ええ、完璧です」

 

 

 幹部がサオリを孤児院と接触させた理由はただ一つ。

 彼女に罪の全てを擦りつけるためだった。

 

 ──幹部は最初からサオリにリリナを殺害させるために雇っていた。

 音に聞く錠前サオリ。

 トリニティを混乱に陥れ、重要人物の悉くを殺害しようとした極悪人。

 彼女をアドレスケレ孤児院に送り込めば、こちらが何も言わずとも、あの事件の関係者であるリリナを殺してくれるだろうと考えていた。

 しかし……勧誘に応じて現れたサオリを見て、幹部は拍子抜けした。

 

『錠前サオリだ。しばらくはここで世話になる。殺し以外は何でも命令してくれ』

 

 彼女は、想像していた何倍も『普通』だった。

 幹部は成長途中とは言え一企業の中でもかなり上の立場にいる存在だ。

 それなりに人を見る目はある。一度見ればそれがどのような人物かは大方予想が着いた。

 そんな幹部の目から見てもサオリは普通だった。とても殺しなど行えない、普通の感性を持った普通の少女。

 噂とあまにも違う錠前サオリに、幹部は「これでは子供を殺せるはずない」と溜め息を吐いたが、特に問題視はしていなかった。

 それならそれでやりようはあるのだ。

 ブラックマーケットでは稀な、普通の感性を持った善良な人間。

 そういった人間は得てして共感性が高く、弱者を見捨てられない。

 加えてサオリはトリニティに爆弾を落とすという大罪を犯した人間だ。普通の感性を持っているならば、そのことに対して負い目を、莫大な罪悪感を抱えているはず。

 そして、それは正しかった。

 

 

(一度それとなくエデン条約調印式での事件の話題を振ったことがありましたが……まさかあそこまで素直に辛そうな顔をするとは。単純すぎて吹き出しそうになってしまいました)

 

 

 当時のことを思い出してニヤニヤと腐った笑みを浮かべる幹部。

 善良な人間が普通の精神状態で『自らが原因となって追い詰められた子供』に出会ったらどうなるか?

 答えは、今まさに目の前の監視カメラの映像の中にあった。

 

 

「ふふふ、必死に走っていますねぇ。それも今にも泣きそうな顔で。頑張ってください」

 

『あの……幹部殿』

 

「なんでしょうか?」

 

 

 電話越しからの声に笑みを貼り付けたまま答える幹部。

 電話の声は困惑したように問いかけてくる。

 

 

『ずっとこうなると予測していたのですか?錠前サオリが孤児院の子供に肩入れし、彼女を犯人に仕立て上げるための映像が撮れる、と』

 

「経営幹部の基本は人身掌握と行動予測。人の行動をコントロールできなければ、上に立つことなど出来ません。君も幹部を目指すならば身につけなさい」

 

『はっ。肝に銘じます』

 

「……ふむ、そうですね」

 

 

 生真面目な幹部候補の返事を聞くと、幹部は椅子に座り直してから問う。

 

 

「君はこの後、どのような展開になるのか予測できますか?」

 

『予測……それはこの事件の結末を考えろ、ということでしょうか?』

 

「ええ。君も将来は我が社を支える幹部となる。丁度いい実例があるのだから、今のうちに先見の明を鍛えておきなさい」

 

『なるほど、わかりました』

 

 

 行われている会話は至って真面目だ。

 会社内ではよくある、上司から部下への指導。

 しかし、その中身は人を人とも考えていない、極めて醜悪な物だった。

 幹部候補が電話越しに悩む気配を見せると、ハッキリとした声で喋り出す。

 

 

『まず、目標が焼死することはあり得ない。アレらはヘイローを持った特別性の人間。十中八九、全員無事に脱出するでしょう』

 

「ならばどうしますか?」

 

『ふむ…あぁ、なるほど。それで大規模な襲撃を行ったのですね。目標を困難に乗じて確実に仕留めることができるように』

 

「素晴らしい。及第点です」

 

『そうなのですか?至らなかった点をご教授いただければ幸いです』

 

 

 驚いたような声を上げる電話越しの声に、「勉強熱心でよろしい」と幹部は人差し指を立てる。誰も見てはいなかったが、これは人に教える際の幹部の癖のような物だ。

 幹部はそのまま、誇るでもなく、威張るでもなく、ただ淡々と回答を渡す。

 

 

「あの孤児院にいる人間はおそらく火災の際の訓練も行っているでしょう。そして、そこで襲撃が来ることも予測しているはずです」

 

『では、目標を仕留めることは出来ないと?』

 

「いえ。部隊数にして三十……孤児院に所属するのは粒揃いの傭兵たちですが、この戦力ならば恐らく大丈夫でしょう。その後は目標を処理し、調印式襲撃の指名手配犯『錠前サオリ』の犯行として片付けられて終わりです」

 

 

 大衆の心理とは実に単純だ。

 かつて大罪を犯した者が現場にいて、無辜の民の命が失われたならば、まず間違いなくその人物を犯人だと判断する。

 襲撃した人物たちについては錠前サオリの手下だと誤解するだろう。そのためにも、実動部隊には今度こそこちらの犯行であると示す品を持たせておらず、依頼主も分からないように複数の箇所を経由して指示を出している。

 孤児院の者が証言しても「錠前サオリに洗脳されている。可哀想だ」と憐れむだろう。一般人は極悪人であるサオリが実は善良だなどど思いもしない。

 表向きは善良な企業であるクエタ&クエクトが全て仕込んだことだと訴えれば陰謀論者と疑われるだろう。こちらの犯行を示す資料は世に出ないように管理されている。

 その後はヴァルキューレが捜査を開始するかもしれないが、どの道こちらの不正を示す証拠リリナは抹消済みで、解析されたスマートフォンのデータは火の中。仮に孤児院の者が摘発しても証拠不十分で棄却されるのがオチだ。

 動画サイトの片隅で陰謀論として数万再生を稼ぐのが精々、と言ったところか。

 

 

『では、何が問題なのですか?』

 

 

 説明を聞いて更に疑問を深める声に、幹部は僅かに眉間に皺を寄せた。そしてまたしても机をなぞり……指についた埃をウェットティッシュで拭き取る。

 

 

「……今のは全て、火災後の襲撃が成功したという前提の話です」

 

『仰る通りです。しかし、今回の襲撃は成功する確率が高いのですよね?』

 

「はい。ですが……突出した『個』がいれば、その前提は覆されます」

 

『突出した『個』ですか?』

 

「錠前サオリは強い。彼女は一人であの部隊を半壊させる武力を誇っている」

 

 

 それが幹部の唯一の計算外だった。

 幹部はその場にいなかったため些細は不明だが、調印式の日は複数人での襲撃だったと聞いている。それも軍隊規模の、だ。その大半は複製ミメシスによる模造品でしかないが……それを幹部が知る術は無い。

 とにかく、幹部はサオリの本質は指揮能力であり、直接的な戦闘力は大した物ではないと踏んでいたのだ。

 しかし、試しに通常の傭兵と同様の仕事を与えてみると、その評価は一瞬で覆った。

 

 

(他の傭兵と比べても半分近い期間で任務を遂行。加えて彼女の情報を持たない相手は成す術なく全滅。あの時は流石に冷や汗をかきました)

 

 

 いつでも飄々とした態度を崩さない自身が僅かに顔を顰めるレベルの強さ。ゲヘナ学園の風紀委員長ほどでは無いにしろ、それと近い物を持ち合わせるイレギュラー。

 それが錠前サオリという少女に対して幹部が下した評価だった。

 幹部とて兵力を無限に投入できるわけではない。

 今アドレスケレ孤児院を襲撃している部隊が限界だった。

 

 

『そ、それでは……今回の襲撃は失敗するのでは?』

 

「安心してください。そうならないようにするために、錠前サオリの心を粉々に砕いたのです。おそらく彼女は自己嫌悪と罪悪感で動けない。仮に戦えたとしても戦力にならない。精神や士気が戦闘に対して及ぼす影響は計り知れませんから」

 

 

 安堵するように息を吐く幹部候補に、「ですが」と前置きして、幹部は剣呑な雰囲気を漂わせて断言する。

 

 

「もし錠前サオリの精神が回復するような事態になれば、我々も覚悟を決めなくてはなりません」

 

『覚悟、ですか……』

 

「ええ。もともと我々はそれほど有利な状況ではない、というのもありますから」

 

『それは理解しています。実力者たちが蔓延る拠点を襲撃するのに、これほどの戦力しか用意できないとは……』

 

「なるべく足がつく戦力を使いたくはないですから、それに関しては目を瞑るべきでしょう」

 

 

 アドレスケレ孤児院には実力ある傭兵が多数在籍している。

 三十に及ぶ部隊、人数にして百人近い戦力を利用しても、錠前サオリの行動一つで崩れ去る。それは錠前サオリというカードが圧倒的なのではなく、単純に孤児院側の十数人の戦力が百の力と殆ど拮抗しているからだ。

 だからこそ、投入された戦力はギリギリ。クエタ&クエクト側も余裕というわけではないのだ。

 

 

「だからこそ……本作戦が崩れたならば、ヴァルキューレに目をつけられる覚悟で対処しなくてはならない」

 

『クエタ&クエクト社直属の傭兵部隊と……『トリガメリク』の投入ですか。なるべく避けたい事態ですね』

 

「ええ。ですから後は……」

 

 

 幹部は椅子に深く座り直すと、深い溜息を吐いた。

 

 

「祈りましょうか。天から高みの見物をする神とやらに」

 

 

 

 

〜〜〜

 

 

 

 サオリは燃え盛る孤児院の一室で座り込んでいた。

 『お遊戯室』と名付けられたその部屋は、既に一面を燃え盛る炎が覆い隠していた。子供たちが遊んでいた遊具や絵本が燃えて灰になっていく。サオリは最早、それにすら気を留めない。ただただ、座り込んで俯いて、終わる瞬間が来るのをじっと待っていた。

 それはまるで迷子の子供……もしくは死に場所を見つけた幽鬼のようにも見える。そして、その評価はどちらも正しかった。

 

 ──サオリがアドレスケレ孤児院に着いた時、真っ先に目に入ったのは赤く燃え上がる屋敷だった。屋敷全体が火に包まれ、綺麗だった彩りの花々は赤色の中で灰になり、遠くからは戦闘の音が聞こえる。

 気がつけばサオリは孤児院へと駆け出していた。

 自分の所為でこうなった。

 自分の所為でリリナは奪われた。

 今度は、彼女の命まで奪ってしまうのか?

 そんな考えが頭をよぎった時、サオリの空っぽだった心という器が不快な熱い液体で満たされるように感じたのだ。

 息苦しい感覚を振り払うように炎の中へと飛び込み、屋敷中を小さなぱっつん頭を探して回った。愛銃を何処かに落としていたが、それにすら気が付かないほど必死になって探し……『お遊戯室』という肌が燃える部屋の中に入ってようやく、誰もいないことに気がついた。

 一瞬、もう手遅れだったのかと思ったが、すぐにそうではないと理解した。

 

 既に、全員避難した後だったのだ。

 

 その事実を認識した時、サオリの中で何か大事な物が音を立てて崩れるのを感じた。

 

 ──思えば、ずっとそうだった。

 

 アツコは、ベアトリーチェに正面から立ち向かえる強さがあった。

 ミサキは、大切な誰かを守るために地獄まで足を踏み入れる勇気があった。

 ヒヨリは、どんな時でもペースを崩さない明るさがあった。

 そしてアズサは、言うまでもない。

 誰よりも強かった彼女は、サオリの元から羽ばたいて自分の居場所を自分の手で掴んだ。

 そう、そうだった。

 彼女たちも、マリーも、リリナも。

 みんな、みんな。

 

 サオリが居なくても、一人で生きていけるのだ。

 

 なら、サオリは?

 サオリがいる意味は?

 

 サオリは強くなかった。ベアトリーチェに従うまま、誰かを傷つけるだけだった。

 サオリは臆病だった。地獄に行く勇気がなくて、ミサキにしがみついて行くなと懇願するだけだった。

 サオリは暗かった。いつだって虚しいと諦めるだけで、目の前の光に気づくことなんてなかった。

 

 少なくとも、サオリ自身はそう思っていた。

 他の誰も、そんなことを思ってなんていないというのに。

 けれど、今の彼女にそれを告げる人間はいない。

 ──いたところで、もはや届かないのかもしれないが。

 

 そしてアリウススクワッドを出て、孤児院に辿り着いて、サオリは遂に。

 無垢な少女を……殺そうとした。

 居場所を奪って殺そうとして、こうして新しく出来た居場所も燃やし尽くしてしまった。

 例えサオリ自身の意思ではなかったとしても、その罪悪感は彼女の中に楔となって一体と化している。

 

 (サオリ)はいつだって、誰の役にも立っていなかった。

 それなのに(サオリ)は一人で生きてはいけなかった。

 

 そして、いつも誰かの足を引っ張っていた。

 

 サオリの中のサオリは……無価値だった。

 

 自分探しの終着点。

 その答えが見つかったような気がした。

 

 

「………ぁ」

 

 

 吐息のような、泣き声のような、掠れた音が喉から漏れた。

 それを最後に、サオリが自身の虚しさの全てに幕を引こうとして───

 

 

「さ、サオリさん!?」

 

 

 今日まで幾度となく聞いた、誰かの声に顔を上げた。

 ボヤけた視界。

 白ばんだ炎の中から、誰かが足早にやって来る。

 煙と熱をかき分けて、息を切らしながらサオリの前に現れたのは───

 

 

「……シスターマリー」

 

「ご無事でよかったです!一人で孤児院に飛び込んだと聞いた時は肝が冷えました………早く脱出しましょう!すぐそこまで炎が迫っています!」

 

 

 ベール下でオレンジ色の髪を揺らし、蹲るサオリに手を差し伸べるマリー。サオリを探して屋敷中を駆け回ったのだろう。頬は上気し、呼吸は乱れ、額には大粒の汗をかいていた。

 会ったばかりの誰かのために、こうも一生懸命になれるとは。

 サオリは彼女の在り方を眩しく思い、その気高さを少しだけ、ほんの少しだけ羨ましく思い───

 

 

「私は、もういい…」

 

 

 差し出された手を拒否した。

 諦観以外の何も感じられない、サオリの消え入るような声に、マリーは一瞬呆気に取られ、パチクリと瞬きをして──珍しく、怒ったような顔を見せた。

 

 

「な、何を仰るのですか!?いいわけがありません!多くの方がサオリさんを必要としています!今だって!」

 

「大丈夫だ。お前たちは私がいなくても上手くやれる。保証する」

 

「そんな保証、嬉しくありません!管理人さんも、リリナさんも、私も!貴女に生きていて欲しいのです!だから、早く……」

 

 

 しゃがみ込んだマリーが懇願するような表情で手を伸ばし、サオリの腕を掴もうとする。サオリは、そんなマリーの傷だらけで、それでも穢れのない救いを見て……ビクリと、怯えるように体を竦ませた。

 尋常ではないサオリの反応に、マリーは焦るような表情を収めて心配するように眉を下げた。

 

 

「サオリ、さん?貴女に一体何が───」

 

「…………私は、無価値だった」

 

「…え?」

 

 

 唐突なサオリの告白にマリーが驚いたように声を漏らした。そして、サオリは煤けて灰色になってしまった体を揺らしながら、煤けて灰色になってしまった声を燃える部屋にポツポツと落とす。

 

 

「ようやく気づいた。気づくことができた。私は、誰にも必要とされていなかった」

 

「……」

 

「むしろ逆だ。私は、私を慕ってくれる者たちに不幸を振り撒く……疫病神だったんだ」

 

 

〜〜〜

 

 

 近くで、何かが崩れる音がする。

 炎が轟々と鳴り響き、迫り来る。

 

 そんなことはない、サオリを必要としている者はたくさんいる。

 サオリと一緒にいて不幸だなんて思ったことはない。

 一緒にいれて本当に幸せだった。

 これからもたくさん話したい。

 

 そんな本心をぶつけたかった。

 何もかも吐き出して、無理矢理にでも連れて行ってしまいたかった。

 

 けど、マリーは……伝えたいことの全てを飲み込んだ。

 

 サオリに何があったのかはわからない。

 けれど、そんな薄っぺらい言葉で今の彼女を納得させられるとは到底思えなかった。

 

 マリーが何を考えているのかわからないサオリは、ただただ諦めを零す。

 

 

「だから、シスターマリー。私は、もういいんだ。不幸を振り撒くだけの存在は、こんな幸せな場所に、世界に、居てはいけないんだ」

 

 

 否定の言葉を飲み込む。

 懇願の言葉を飲み込む。

 怒りの言葉を飲み込む。

 全ての感情を飲み込んで、無理矢理に自分の胸に流し込んで、消し去る。

 

 ───そして、マリーは立ち上がった。

 

 

〜〜〜

 

 

 ボロボロで、悲しげな彼女の立ち姿を見て、サオリは薄く笑った。

 彼女の意思の籠った姿が、誰かと重なってしまった。自分の元から力強く羽ばたいて、居場所を見つけて、幸せになった誰かと、重なって見えた。

 そんな感傷を大切にしまいながら、サオリは目を瞑って最期の言葉を告げる。

 

 

「そうだ、それでいい。そのまま、もう振り返ることなく外に出ろ。そして、全て忘れろ」

 

 

 優しい優しい。

 どこまでも残酷な指示だった。

 かつてリーダーと呼ばれた少女が、最期に選んだのは、家族ではない誰かに向けた、今にも泣き出してしまいそうな指示だった。

 本当は仲間たちと会って話したかった。

 もっと一緒にいたかった。

 でも、今のサオリには、それが傲慢な事に思えて仕方がなかったのだ。

 幹部の言葉はどこまでもサオリを追い詰める狂言であり、どこまでも真っ当な正論でもあった。

 それを一度でも自分の中で肯定してしまった彼女にはもう、自分自身が温もりを求めるに値する人間ではないとしか思えない。

 人は己が想像するより何倍も脆い存在なのだ。

 

 

 ───この場面を見たならば、誰もがサオリが当たった結論と動揺の物を思い浮かべるだろう。

 全てを諦めてしまった少女に、かける言葉を失ってしまった少女が悲しみを胸に去っていく。

 そんな、後味の悪いバッドエンドを。

 

 

 けれど。

 

 

〜〜〜

 

 

 けれど。

 

 

「……」

 

 

 マリーは、諦めてなどいなかった。

 

 宝石のように美しい水色の瞳に、強い意思の光が宿る。

 

 彼女は、救いたいと思ってしまったのだ。

 

 誰よりも強くて、カッコよくて、頼りになる、類稀な才を持つサオリという人間を。

 

 誰よりも自罰的で、優しくて、可愛らしい、何処にでもいる普通の少女を。

 

 自分の力の持てる限り、その全てをかけて───救いたいと。

 

 思ってしまったのだ。

 

 

「………ふぅ」

 

 

 立ち上がったマリーは、服やベールについた汚れを払う。そしてベールの位置を調整し、髪型を綺麗にして、最低限の身だしなみを整えた。

 ここでサオリも何か様子がおかしいと気づいたようだ。

 何もかもを投げ出したかのような儚い笑みを一瞬だけ隠し、訝しむ。

 

 

「シスターマリー?」

 

「──錠前サオリ」

 

 

 帰ってきたのはサオリの名前。

 その声に宿った色は、先程とは全く違う色。冷たく、透明な色だった。

 けれど、何故だろうか。

 サオリは、そこに確かな温もりを、暖かな花の色を見た。

 

 混乱するサオリを他所に、マリーは、いや。

 シスターマリーは。

 目を瞑り、両手を組み合わせて、自身の顔の前に置いた。

 

 それはまるで神に祈っているかのようなポーズで───

 

 

「神の慈しみを信頼し……汝の罪を告げなさい」

 

 

 燃え盛る孤児院。

 

 炎が迫り、熱と煙が全てを飲み込もうとする、その中心。

 

 一人のシスターと、一人の咎人のみが入ることを許された、神聖な空間で。

 

 

 懺悔が始まる。

 

 

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