「──────できない」
そして、サオリの言葉は終わった。
自分が背負ってしまった罪の全てを洗いざらい吐き出した、嘘偽りの無い告解。
業火の唸る部屋に、確かな沈黙が落ちる。
子供たちが遊んでいた形跡など、もはや見る影も無い。
存在するのは建物が崩壊する煩わしい音と鬱陶しい炎の温度。
そして喉を枯らし、息を荒げて伝え切った少女と、その少女の目の前で静謐を崩さない修道女だけだった。
何も言うことは無い。
サオリが叫んだことは、今のサオリを形成する全てなのだから。
これ以上、何も言うことは無い。
そして。
そんなサオリの全てを受け止めたマリーは。
全ての悩める人間たちの告解を受け止め、導くシスターマリーは。
──そっと、ほんの僅かに息を吐いた。
煙の中へ溶けて消えてしまった空気の揺らぎに、一体どのような感情が込められていたのか。
それを知る者はマリー以外にはいない。
けれど、僅かな間の後、再びサオリを見つめる目には、確かな覚悟が宿っていた。
「汝、錠前サオリ」
先程から変わらない、シスターマリーの平坦な声音。
そこから発せられる『導き』に、サオリは少しだけ息を呑んで、
「それでも……それでも、自分自身を赦しなさい」
「───あぁ」
何も伝わっていなかったのだと、理解した。
少しだけ期待していた。
この少女なら、
最期にサオリを理解して、この虚しい胸の中に、少しだけ安らかな気持ちを落としてくれるのではないかと。
期待していた。
けれど、それは思い違いだった。
目の前のシスターは、伊落マリーという少女は、結局のところ性善説に囚われて本物のサオリを見失ってしまったのだ。
だからもう、サオリを縛る者は、女々しい心に寄り添う存在はいない。
もう思い残すことは、ない。
「……シスターマリー。早くここから──」
出ていけ。
自らの心が虚しさの中で霞んで消えてしまう前に、目の前の愚かしくも優しい少女を逃そうとして。
サオリは気づく。
「シスターマリー…?」
「……」
マリーは泣いていた。
その涙は、熱された空間の中でも蒸発することなく、美しきシスターの頬の上を静かに伝う。
赤く光る死の輝きが迫る中で、その光を呑み込むように反射する雫に、サオリの言葉が詰まる。
「汝……いえ、サオリさん。貴女が自分を赦せない理由が、漸くわかりました」
少しだけ震える声を必死に隠し、あくまで気丈に振る舞うマリー。
唐突に訪れたシスターの変化にサオリは動揺する。
サオリが自分を赦せない理由など、さっき語り終えたばかりだ。それなのに、何故彼女は『それは関係ない』と言わんばかりに語り出すのだろうか。
混乱するサオリだったが、そんな彼女の様子を見てもマリーは話を辞めようとはしない。
流れる涙をそのままにして喋り続ける。
「サオリさん。貴女は、他の方……いえ、貴女と親しい方から自分がどう思われているのかご存知ですか?」
「な、何を……」
それは唐突な問いだった。
サオリも当然のように首を傾げる。
けれど、そんな動作の中に何故か怯えるような感情が混ざっていて。
「思えば、おかしかったのです。貴女が語った自己否定は、全てが貴女自身の主観から述べた話でしかない」
「主、観?」
「はい」
サオリを『無価値』『疫病神』と罵ったのはサオリ自身だ。
全てを吐き出した告解の中でも、サオリを貶すのはサオリだけだった。
錠前サオリという少女は今、とてつもない自己嫌悪の渦中にいる。そんな状態の彼女が、自分を肯定できる筈がない。
ならば、サオリの周囲の人間はどうだったのだろう。
自らの罪に苦しむ少女を見て、『無価値』と『疫病神』と罵ったのか?そんなことはあり得ない。
マリーの前にいるのは普通の少女だ。
特別なことは何もない、友達思いで、ちょっと自罰的すぎるきらいのあるだけの、普通の少女。
そんなサオリは、きっと誰かに支えられながら戦ってきたのだろう。
時には友人を支え、時には支えられる。
そんな優しい輪の中で過ごせたからこそ、サオリは劣悪な環境でも潰えない確かな倫理観を持った少女になったのだ。
ならば、きっと。
サオリと共に歩んできた少女たちは。
「サオリさん。貴女は、貴女と共に歩んできた友人たちの『好きなもの』を否定したことがありましたか?」
再び意思を宿した蒼い瞳。朝日を浴びる海のような輝きを秘めるそれに捉えられたサオリは、気圧されるように一歩後ろへと下がる。
だが、マリーはそれを許さない。同じように一歩詰め寄って、今度はマリーの方からサオリに顔を近づける。
心を見透かすような表情に、サオリは狼狽えながらも答える。
「そんなこと、するわけがない。私はアツコたちのために生きて来たんだ。無論、命に関わるようなことを別だが……それでも、彼女たちが『好き』な物を否定することなど、絶対にない」
動揺は隠しきれていなかったが、それでも確かな決意を含んだ肯定だった。
ヒヨリは雑誌集めが好きだ。種々様々な雑誌を毎日拾っては、それらを楽しそうに読んでいる。サオリはそんな彼女の表情が好きだったし、その趣味を否定しようだなんて考えもしなかった。
ヒヨリ以外にも、アツコは花が好きだし、本人は隠しているがミサキの可愛い物好きも知っていた。アズサは…思えば昔から子供が壁に描いた鳥の絵など変なものが好きだった。どうやら今もペロロ様なるグッズにハマっているらしい。
とにかく、家族にはそれぞれ好きな物、趣味があり、サオリはそれを肯定的に思っていた。否定することなど有り得ない。むしろ彼女たちの趣味を少しでも理解しようと、雑誌を読んだり花の勉強をしたりしていたくらいだ。
それがどうしたのかと困惑するサオリに……マリーは安堵したように笑みを浮かべた。
「その言葉を聞けて良かったです。孤独に自らを責める貴女を見るのは辛かった。だから、ようやく安心できました」
「ま、待て……お前は、一体何を言っている?」
まるで……そう、まるで
弛緩した空気に動揺するサオリに笑みを返したマリーは、再び手を顔の前で組み合わせて祈りのポーズを作り、厳かな───けれど慈しむような響きを声に乗せて、サオリへと届ける。
「汝、錠前サオリ。汝への沙汰に少しだけ補足を致します。汝は────」
マリーは頑なな雰囲気を一転、抑揚のある、まるで普段サオリと雑談をする時のような声音で再び道を示す。
未だに混乱から抜け切らないサオリに、マリーが付け加えたのは、これまたシンプルで明快。わかりやすい一言だった。
「汝は、
「…………」
少しだけ誇らしげにマリーは語る。揶揄うように笑う様は、まるで「してやったり」とでも言っているかのようだった。
───サオリは、サオリ自身が思うサオリを赦すことができない。
可能性から見れば、自分というのは酷く身勝手で醜い存在だから。そして、サオリがマリーに言った「お前は私を知らないから」という言い分は正しかった。サオリの溢れるような告解を聞いて、マリーは自身の認識がどれだけ甘かったのかを理解できたのだ。
けれど同時にマリーは、サオリが、サオリという少女を自分の物差しでしか測っていないことも理解した。
確かにサオリの言い分は正しいのかもしれない。
けれど、「貴女が見た私は幻。もしくは貴女の目が節穴というだけで、実際は私が見た私だけが真実です」と主張して譲らないのは……少しズルい。
いや、とてもズルい。
だって、その言い分だとマリーは反論できないのだから。
どれだけサオリを好きだと言っても、優しいのだと主張しても、マリーは彼女の過去を実際に見たわけでは無いのだから、幻だと否定されてしまう。否定されて、先程されかけたように、伝わらなかったと諦められてしまう。
なんてズルいのだろうか。
これではマリーに勝ちの目は無い。
無いから……マリーは、自分以外に頼ることにした。
「少し悲しいですが、サオリさんに私の声が届かないことは理解しました。貴女の仰る通り、私は貴女のことを知らなかったのですから」
そこで区切ると「ふぅ」とマリーは息を吐く。
「ですが、貴女が最も大切に想う人物の意見ならばどうでしょう?」
「私が最も、大切に想う?」
「ミサキさん、ヒヨリさん、アツコさん。そしてアズサさん」
マリーが列挙した名前に……家族の名前に、サオリが目を開く。
「サオリさん。貴女は、共に歩んで来た友人たちの『好き』を否定することは無いと言いました」
それは、先程サオリが確かに胸を張って言ったことで、絶対に否定などは出来ないし、させない。
そして、だからこそ。
「でしたら……彼女たちに『好かれる』サオリさんを否定したらダメじゃないですか」
この意見もまた、絶対に否定などは出来ないし、させない。
年端も行かない子供を諭すように述べられた正論に、サオリは呆気に取られていたが……すぐに我に帰る。
「そ、そんなのは屁理屈だ!くだらない言葉遊びがしたいなら、何処かに行って───」
「これが屁理屈になるのであれば、サオリさんの意見もまた屁理屈です。自分の考える自分が正しくて、私はどうあっても間違いだなんて、そんなのおかしいです」
「それは───」
「私の見て来たサオリさんは幻だから、でしょうか?でも私は知りました。言葉だけですが、それでも貴女の抱える罪禍を知り───それでも貴女は優しくて強い方なのだと、肯定します」
「……実際に見てない、お前に」
「ですから」
サオリは、自分が赦されることを許さない。
だからこそ、ムキになっている。
ここで赦されて良い存在ではない、自分を赦すなどという、甘ったれた事を認めていいはずがない。
そんな固定観念に囚われて動けなくなっている。
だから今も必死に、自分を否定する材料を探しているのだろう。
ならば。
「サオリさんと共に歩んで来たアリウススクワッドの皆様。彼女たちが肯定するサオリさんであれば、貴女は赦すことができるのではないでしょうか」
「……」
マリーは、サオリを肯定する材料を精一杯探すまでだ。
力強く言いのけるマリーに、サオリは黙る。
目を左右に泳がせ、体を落ち着きなく揺らし、暫くしてから漸く喋り出す。
「だが……私は、アツコたちが私をどう思っていたかなど、わから───」
「嘘はいけません」
少しだけ冷たくなった声に押し黙ってしまったサオリを見て、マリーは困ったように笑う。
そして「こほん」と咳払いをして───サオリの頬に優しく手を伸ばした。
頬に灯った熱。それは周囲を焦がす灼熱すらも凌駕するほどに熱く、けれどもサオリの凍った心をゆっくりと溶かしていくように温かく感じられた。
マリーの突飛な行動と心の奥に芽生えた安堵感の正体を掴みあぐねるサオリに、マリーが囁く。
「目を瞑ってください」
サオリは、特に抵抗することもなく、言われた通りに目を瞑った。何故かはわからない。けれど、彼女の中で、そうしたいという感情が高らかに主張していたのは確かだった。
「………」
瞼の裏の世界は、当然ながら暗闇だった。
深い深い暗闇。かつて友人たちと共に彷徨った、そしてその時の何倍も熱い暗闇。
感じるのは周辺を隈なく包む炎の熱と、建物が焼け落ちる音。
そして、頬に確かに触れている、誰かの温かい慈しみの温度だけだ。
闇の中で反芻するのは己の罪悪。
数えきれない罪の数々が暗闇の中からサオリの足を、手を掴んで引きずり込もうとする。
泣きたくなるような恐怖と後悔に耐えきれず、目を開けようとするが───
「貴女の紡いだ絆を、振り返りましょう」
柔らかな声が聞こえて、やめる。
暗闇の世界を保ち続ける。
不思議なことに、サオリを追い詰める恐怖はいなくなっていた。
「想像してください。貴女の大切な人々の顔を」
暗闇に朧げな輪郭たちが浮かんで来る。
それは泣きたくなるほどに懐かしくて、命に代えても守りたかった少女たちの輪郭。
「呼び起こしてください。貴女の隣にあった
声が聞こえた。
それは騒がしい声。
くだらない雑談やちょっとした喧嘩。
いつかの思い出たちが、ボヤけた輪郭たちが、少しづつカタチを取り戻し始める。
「思い出してください。貴女と家族の居た場所を」
冷たい風が吹いた。
そこは何処までも暗く、冷たく、希望なんて甘い物が介在する余地の無い場所。
理不尽な大人たちの叱責と、蔑むような視線の中心で。
それでも笑っている少女たちがいた。
思い出していく。
熱を、光を、言葉を、匂いを、心を、触感を、幸福を、不幸を、笑顔を。
思い出していく。
もはや頬の熱と誰かの声以外に何も聞こえなくなった闇の中に、サオリは堕ちていく。
深い海の底に沈むように、ゆっくり、ゆっくりと堕ちていく。
辛いばかりだった過去に確かな温もりを覚えながら、深く深くまで。
堕ちて、堕ちて、堕ちて─────