「………?」
サオリは、気がつけば何処かに立っていた。
頬に感じていた熱と、包むような声はもう聞こえない。
それを何故か、寂しく思った。
首も腕も動かせない。
まるで周囲の闇と同化してしまったかのようだ。
不自由だ。けれど安心する。
そんな不思議な感覚に身を委ねていると。
『サッちゃん、あやとりって知ってる?』
懐かしい声が聞こえてきた。
懐かしくて懐かしくて……涙が溢れてしまいそうになる声が。
声の方を向きたいけど、体が動かなくてもどかしい。
声の方に手を伸ばしたいけど、その手が何処にも見当たらない。
そうやって試行錯誤してると、もう一つ声が聞こえてきた。
『あやとり?言葉は知ってるけど…』
それは、サオリ自身が一番憎んだ声だった。
いつも欲をかいて、間違った選択をし続ける、大嫌いな声。
彼女が知るそれよりも幾らか若い声に、サオリの心が乱される……ことは無かった。
サオリは、この会話を知っていた。
確か、『姫』と呼ばれた大事な存在と出会って間もない頃。
こっそりと逢っていた二人の間で交わされた、温かい思い出。
『えっとね……ここをこうして……』
『……?……!?すごい、ハシゴになっちゃった…』
『ふふ、凄いでしょ?』
驚く声と、揶揄うような声。
二つの声は、互いの立場も状況も、時間さえも忘れて夢中で楽しんでいた。
けれど、やがてお別れの時間が来てしまったらしい。
声たちは、名残惜しむように語り合う。
『アツコ、また来るから。その時はヨンダンハシゴ?絶対マスターしておくね!』
『うん、楽しみに待ってるね。それと……』
『?』
あまり抑揚が無かった声に……コロリと笑うような気配が乗った。
『大好きだよ、サッちゃん』
〜〜〜
『うわぁーーーん!!サオリ姉さぁーーーん!!』
『こら、泣いちゃダメだよヒヨリ』
また、別の声が聞こえる。
それはサオリの隣にあった声の中で、一番騒がしくて…一番元気をもらえた声。
そして、また聞き覚えのある会話だった。
『でもぉ……せっかく結んでくれたのに……』
『髪なんてまた結び直せばいいの!ちょっと貸して!』
『はいぃ……』
『えーっと……はい、OK。鏡……は無いからそこの水溜り覗いて?』
うんうん唸って悩んでいた聞き覚えのある声は、少し弾んだ様子でもう一つの声に笑いかける。
『あ……これって……』
『ヒヨリはたぶんサイドテールが似合うから、そんな感じで結んでみたんだけど……どうかな?』
驚く声と緊張する声。
釣られるようにしてサオリも緊張していると、間もなくして、前者の声が華やぐような雰囲気を見せた。
『えへへ……前に雑誌で見た『もでる』さんみたいですね……。へへ、サオリ姉さん』
『ん?』
呼びかけに答えた声に、ヒヨリと呼ばれた声は、
『ありがとうございます……大好きです』
〜〜〜
『み、ミサキ…大丈夫?』
『平気……サオリ姉さんが頑張ってるんだもん。私も頑張る』
『私は狭いところ平気だから、別に頑張ってはいないよ…?』
声が聞こえる。
それはサオリをいつも安堵させてくれる声だった。声の主が生きてると実感する。それだけで十分だと思える声だ。
二つの声は、ピッタリとくっついているようだった。
ミサキと呼ばれた声は、震えるようにもう一つの声に話しかける。
その様子に、サオリは少しだけ笑ってしまった。
『姉さんは、どうして狭いところ大丈夫なの…?』
『う、うーん。単純に体質の問題だと思うけど、強いて言うなら……』
困ったように喋る声は、少し言葉を区切ると、その声に喜色を浮かばせる。
『ミサキが狭いところで怖くなった時に、一番に助けに行けるように……だと思うよ』
その真っ直ぐな答えに、わずかに驚くような気配がして。
『……ありがとう、サオリ姉さん。だ、大好き…』
〜〜〜
『こんなところにいたのか、アズサ』
『サオリ』
『明日の作戦は極めて重要だ。すぐに寝ろ』
声が聞こえる。
それはサオリの隣にあったはずの声。力強く羽ばたいて、何処かへと飛んで行ってしまった声だ。
『すぐに寝ろ』と、そう言いながら……冷たい声は、もう一つの声の隣に腰を下ろした。
沈黙が落ちた。
どちらも声は発さない。
けれど、気配だけは確かに存在していて。
『アズサ』
不意に、一方が声をかける。
その声は迷うように、一瞬だけ押し黙ると、
『お前は、お前の正しさに従え』
『……わかった』
命令とも願いともつかない言葉を漏らす。
そんな声に静かに、それでもハッキリと頷いた気配を見せたもう一方の声は、『サオリ』と呼ぶと───確かに微笑んだ。
『サオリに拾われて良かった。ありがとう、大好きだ』
〜〜〜
『サオリは優しすぎるよ。もう少し自分を労って?』『り、リーダー……私のパン、食べますか?えへへ……日頃の感謝です。リーダーはいつも頑張ってくれてるので……』『リーダー、そんなに過保護にならなくても大丈夫。……けど、ありがとう。一応感謝はしておく』『サオリ、これは何て読むんだ?……なるほど、ありがとう。やはりサオリは優しい』『サオリ、この本一緒に読まない?サオリと勉強するのは楽しいから』『り、リーダーを傷つける敵は、私が全部撃ち抜きますから……えへへ』『…リーダーのそういう所は、まぁ嫌いじゃないけど』『一緒に武器の整備をしよう。サオリがいてくれた方が安心する』『ねぇ、サッちゃん……ふふ、ごめん。反応が可愛いから、つい』『うわぁーーーん!リーダーとお揃いの髪留めですーーー!う、嬉しくて涙が…えへへ』『こっちに来て、リーダー。うん……隣にいてくれるだけでいいから』『ただの風邪だ、大したことは……まったく。サオリは心配性だ。ふふ』
『サオリ、助けてくれてありがとう』
『えへへ、ありがとうございます…サオリ姉さん』
『……ありがと、リーダー』
『サオリ、ありがとう』
〜〜〜
わかっていた。
本当はずっとわかっていた。
こんな自分に感謝してくれる仲間がいるのだと。
こんな自分を愛してくれる家族がいるのだと。
自分は確かに、誰かに好かれる存在だったのだと。
わかっていた。
けれど、私から見た私はとても醜くて。
到底、赦されないような存在で。
だから……そんな声も、聞こえない振りをしていた。
一度その声に甘えてしまえば、戻れないような気がしたから。
でも。
だけど。
みんなから見た私は、憧れた自分と少しだけ似ていた。
みんなに頼られる、そんな人間だった。
みんなが私をそんな風に見てくれているのなら。
そんな……みんなが好きだと言う自分を、赦してしまっても良いのかもしれない。
私が思う私は無理でも。
大好きなみんなが好きだと言う私なら、肯定できるのかもしれない。
『どうしたの?』
声が聞こえる。
少し若い自分の声だ。
穢れてしまう前の、ただ純粋だった頃の自分だ。
この純朴な少女は、選択を間違え続けた私がいたから、こんな有様になってしまった。
なら、送る言葉があるはずだ。
なりたかった者になれなかった自分が、何にでもなれる自分へと送る言葉が。
そうだ。
その言葉は、少し前に学んでいる。
無様でも、どうしようもなくても。
闇に溶け込んだ体を震わせるように、あの日の自分へと、今の自分が送らなければいけない言葉を。
「ごめんなさい」
届いたのだろうか、届かなかったのだろうか。
どちらでも良かった。
これは義務で、自己満足なのだから。
だから回答なんて───そう思ったけれど。
実体の無い心が、誰かに抱きしめられたような気がして。
在るはずのない瞳から、涙が溢れて。
私は。
『いいよ』
確かに、耳元で囁く赦しを聞くことができた。
〜〜〜
目を開く。
視界の中には炎しかなかった。
周囲は全て赤い光に包まれて、ここが元々どこだったのかさえ定かではない。
そんな灼熱の中で……サオリは二つの、大きすぎる熱を感じていた。
一つは頬を伝う熱。溢れて止まらないそれは、炎などと比べるのも馬鹿らしいほどの温度でサオリの頬を灼く。
もう一つは誰かの熱。サオリを優しく抱きしめて離さない、少女の熱。
声を、ごうごうと唸る炎の音に負けない真っ直ぐな声を、二つ目の熱がサオリの耳に届ける。
「汝、錠前サオリ。自分を赦しなさい」
それは、幾度となく聞いて、幾度となく否定してきた言葉。
けれど、今のサオリは、それを正面から否定することはなかった。
「汝、錠前サオリ。汝の友が愛する汝を赦しなさい」
それは、新たに与えられた道。
今のサオリには、もしかしたら歩めるのかもしれないと思える道。
静かに語りかける熱の声に、サオリは己の罪を告げる。
「私は、不相応にも家族に必要とされたいと思ってしまった」
「赦します。貴女が守り切った、その絆を以てして」
返されたのは赦しの言葉。
それに対して、サオリが否定を述べることは、もう無い。
そして淡々と、そして噛み締めるように懺悔する。
「私は、大人に言われるまま、多くの人々を傷つけてきた」
「赦します。貴女自身を突き刺す、後悔の念を知っているから」
「私は、最後まで他者に頼り切りだった。自分で掴んだ良い結果など、何もなかった」
「赦します。それでも自身で道を切り拓くことを諦めなかった、その勇気に触れたから」
「私は、ある少女の全てを奪ってしまった。それに見ない振りをした」
「赦します。ある少女が貴女に送った、確かな赦しに免じて」
「私は、ある少女を殺そうとした。その少女の全てを奪った身だというのに」
「赦します。その事実に抗おうと燃え上がる、貴女の心を感じているから」
「私は、私は……自分を赦しても良いのだろうか。こんな罪悪で塗れてしまった私を」
「赦します」
熱が、マリーがサオリの体から離れた。
彼女は涙を流すサオリを見て、優しく微笑むと───右手の指で、優しく雫を拭う。
そして、告解の終わりを紡ぐ。
「十分に苦しんだ……そんな貴女の心がわかったから、赦します。もしも、それでも赦せないのなら。共に探しましょう。共に歩みましょう。貴女が、貴女自身を赦せる方法が見つかるまで。そして───」
マリーはサオリの涙を拭い、煤けた紺色の髪を整える。自身の髪が乱れていることなど、ベールが殆ど焼け落ちていることなど、気にも溜めない。灼熱の中、マリーは───花が咲くような笑みを浮かべた。
「この世界のことを、もっと好きになれるまで」
そこでマリーは言葉を区切ると、「だから」と言って、まるで迷子の子供にそうするかのように、控えめに手を伸ばす。強引に掴める距離だったが、それでも彼女はサオリに最後の選択を委ねた。
「行きましょう、サオリさん。貴女を必要とする、全ての人が待つ場所へ」
差し伸べられた手を、サオリは見つめる。
後悔もある。
今だってこの手を取るべきじゃないと叫ぶ自分がいる。
マリーの言う通り、自分を赦す方法なんて皆目見当もつかなかった。
だから。
「見つけなければならない、か」
揺らめくオレンジ色の世界。
その中心で。
二人の少女は、確かに手を取り合った。