突撃、雪平先生の絵画教室。
彰人と話をしてから、私が最初にしたのは雪平先生へのアポとニーゴの皆に『1週間、作業を休ませて』という連絡だった。
雪平先生に電話をした結果、絵を見て欲しいという話題で粘って「1週間後ならば時間を作れます」という言葉を引き出したからこその『1週間』という期間。
突然だったこともあって瑞希から深夜の鬼電があったり、翌日には美術準備室でまふゆから鳩尾目掛けて頭突きを食らったりと散々な目に遭ったが、何とか事情を説明して1週間が過ぎた。
正直、時間が足りないかもと途中で思ったのだが、何とか満足のいく作品を完成させた私は宮益坂を歩いていた。
土曜日の夕方ということもあって少し人が多いのだが、何故か私よりも覚悟を決めて歩いている人はいないだろうという謎の自信がある。
最近の瑞希にカミングアウトする時よりは血の気は引いていないが、心臓の煩さはそれに匹敵していると思う。
深呼吸も焼け石に水にしかならず、教室の前まで歩く今の気分は囚人のソレに近いように感じた。
(自信作はできた。なら、いつまでも怖気付いてないで胸を張らなきゃ)
ほんの少し前まではほぼ毎日来ていた扉なのに、久しぶりに見るせいか伸ばした手が重い。
扉の重さなんて変わらないし、唯一の変化は己の気持ちのみ。それだけ教室に向く負の感情が強いのだと否が応でも自覚して、苦笑が零れた。
「失礼します」
その声は雪平先生に向けた言葉でもあったし、自分に気合いを入れる為のモノでもある。
ゆっくりと扉を開いた先には1部分しかついていない部屋の電灯と、その下で本を読んでいた雪平先生の姿が見えた。
こちらに気を遣ってくれているのか、視線は未だに本に注がれている。意を決した私が目の前まで近づいてやっと、雪平先生の視線は本からこちらに向けられた。
「お久しぶりです、東雲さん」
「雪平先生、お久しぶりです」
「……今日は絵を見て欲しいとのことですが、それはどちらに?」
「これです」
手に持っていた袋から布に巻いて保護した絵を取り出し、布を剥ぎ取った絵を雪平先生に手渡す。
先生は両手で絵を受け取ると、小さな声で唸った。
私がただ絵の評価をしてほしくて時間を取ったわけではないことぐらい、先生も予想で来ているのだろう。
いつも以上に難しい顔のまま、雪平先生は私の絵を見ていた。
──私は最初の動機こそ『
であるならば、雪平先生に示す答えも言葉ではなく絵であるべきだ。少なくとも私はそう考えて絵を描き、雪平先生に見て欲しいとアポを取った。
(今回の絵は私なりに答えを出したっていう意味で、結構冒険して描いたつもりだけど……そこがどう見えるかよね)
私の絵は基本的に雪平先生の教えを忠実に守っている保守的な絵だ。そこにどういう立場なのかで絵に乗せる気持ちを変えている。
練習の時やコンクールの時に乗っているのは『想像上にいる東雲絵名』だ。
元々、私は絵名のために絵を描き始めたこともあり、最初は聞いた話や見た話から東雲絵名という人物を想像して、どういう絵を描くのか考えながら描くことが多かった。最近ではほぼ無意識だったものの、その癖はかなり根強い。
バイトの時はバイト先の相手に合わせて。ニーゴの時は奏達の気持ちを。
私の絵には創作活動をする系統な人間として、致命的なぐらい
……エゴがないというのは言い過ぎだとしても、エゴを『東雲絵名』という檻の中に縛り付けていたのは間違いない。
それを私に自覚させて、向き合ってきて欲しいという願いと応援を込めた結果が、雪平先生の「教室に来なくていい」発言だったと解釈した。
恐らく先生の中の基準で私は、技術的な側面を磨くだけで劇的に成長するラインを超えてしまったのだろう。私はそういう風に受け取った。
──とはいえ、この考察が間違っている可能性もある。
だからこそ雪平先生の言葉を待っているのだが、雪平先生はじっと絵を見ているだけだ。
ごちゃごちゃしている、とも受け取られそうなぐらい多くの色を使った背景は、水彩画らしさを全面的に出しているのでパレットの様に見えるように工夫している。
ただこれだと視線が散らばってしまうので、メインである少女の絵はほぼ白でまとめた。
大きな卵から抜け出して、殻を頭に被ったままどこかに向かおうと歩く少女と、シャボン玉だけは白と黒のみで描くことで光っているようにも見える、シンプルだけど目立っている絵に仕上がったと思う。
……私はそう思うだけで、雪平先生に伝わるかはまた別の問題だが。
「……」
「先生、どうでしょうか?」
5分、いや、10分は経ったのだろうか。
雪平先生のことを待つのが正解なのかもしれないが、何も話してくれない雪平先生に我慢できなくて問いかけてしまった。
ダメならダメだと、違うのなら違うとハッキリ言って欲しい。それならまだ反省して、次に挑める。
言われないのが1番進めないのだ。なら、進めるように崖にでもなんでも突き落としてほしい。
そんな気持ちを込めて声を出し、先生の目を見つめたつもりだ。
伝わったのかはわからない。だけど、先生の鋭い目はいつもよりも優しく緩んだ。
「──どうやら、きちんと掴んできたようですね」
「と、いうことは」
「ええ、話をしましょうか。時間をいただいても?」
「大丈夫です。この後の予定はないので」
「ありがとうございます」
こちらにどうぞ、と椅子を引かれた場所に導かれるままに私は座る。
二者面談のような空気だ。覚悟してきたはずなのに、恐怖というか、背中に棒を突っ込まれたように強制的に背筋が伸びた。
「東雲さんは今まで私が教えたことを忠実に学び、実践してきているように見えました。そして、私が教室に来なくてもいいと言うまで、同じように技術を吸収しようとしていたと思います」
「私自身、まだまだ足りないところが多いですし、先生の言う通りの日々を過ごしていましたね」
「……本当ならもっと話をした方が良かったのかもしれません。そこはすみませんでした。ただ、私は基礎が身について余裕が出ている今が1番、伝えるのに良いタイミングだと判断しました。その点は結果的には間違っていなかったと思います」
恐らく、雪平先生がしたかったのは絵に関する私の欠点を自覚させることだろう。
大人になればなるほど、自分の欠点を指摘してくれる人は貴重になり、自覚して改めるのが難しくなる人もいるらしいし、実際に子供の立場でも自分の悪いところを見るのは苦しい。
説明不足だとは思うが、それは身近にもある事例だ。私の近くにいる芸術家とは大体口では語らない生き物だということを理解した上で今では仕方がないと納得済みだ。
「画家としてか、サークル活動か。あるいは別の何かなのかは私もわかりませんが、東雲さんは絵に関することで生きていくことになりそうだと、私は思っています」
「私も、そうありたいと思っています」
「……絵であれどんなことであれ。本気で突き進んでいると、自分のマイナス面と向き合う時が必ず来ます。それに向き合える人とそうでない人とでは明確な差となって、東雲さんに襲い掛かってくるでしょう。なのにそれを自覚できなさそうなのはあまりにも危ういと、そう思ったのです」
説明もまともにせずにあの手を取ったのはよろしくなかったと反省していると、雪平先生の謝罪もセットで説明された言葉は、私の記憶に強く残った。
出禁にでもされなければ、私も自分のマイナス面のことなんて深く考えもしなかっただろう。
恐らく考えたとしても、海の浅瀬で遊ぶように、表面上のことだけで満足していたに違いない。
それに──彰人とあんな話をすることもなかっただろうし、外から機会を作ってもらわないと進めなかったのも事実。
先生に文句を言うのは個人的に違うだろうと、自然とそう思った。
「東雲さんが掴んだものが何なのかは深くは聞きません。ただ、それも武器にして進んでくれることを祈っています」
「はい、ありがとうございました」
「あぁ、後は1つ。これからも絵画教室に来ても良いのですが……教室で技術的なことばかりに目を向けず、別の方向にアンテナを伸ばしてくださいね」
「あっ、はい」
先生的にも中学時代はほぼ毎日来たり、今でも時間を見つけては教室に行く私を来過ぎだと判断していたのだろうか。
やんわりと来る頻度を下げるように言われて、私はコクコクと首を縦に振ることしかできなかった。
☆★☆
──何はともあれ。
無事に雪平先生から絵画教室の出禁を解除してもらい、安心したまま帰り道を歩いていた。
(自覚していないマイナス面か)
ニーゴやセカイの皆からよく自己評価が低いやら鈍感やら度々言われている私だが、私のマイナス面はそれらも繋がっているものなのだろう。
『東雲絵名』を意識し過ぎている。
私の知らない絵名は、私が絵を描かなければいけないと思った原点といってもいい。
断片的な情報から空想された過去の絵名は、最初は私が『東雲絵名』として生きるための指針となった。
だけど、それは年を経つごとに……東雲絵名としての私が確立されていくごとに、変形していった。
そうして、いつしか奪われてしまった絵名の記憶は私の原点でありながらも、妄執と言い換えてもいい想像で作られた檻になってしまったのだ。
私はそれに気が付いていなかったのだが、先生からしたら私の精神的な欠点が絵を通じて見えていたのだろう。
それが『絵の味』だとして好意的に解釈されているうちはいい。コンクールの時の様に己の縛りが武器になることもある。
問題は私の場合、それがほぼ無自覚だったということだ。
隠せている、誤魔化せていると思っていて、絵にそこまで出ている自覚もなかったからこそ、先生は強硬手段に出た。
(そのせいで色んな人に動いて貰ったし、皆にお礼しないとなぁ……って、うわ。いつの間にか遠回りしちゃってる!?)
色々と考え事をしているせいか、いつもとは違う道を通っていることに気が付いてしまった。
何ということでしょう。まふゆに普段、ぼんやりしていると言っている私が、まふゆに注意できないことをしてしまっているなんて。
もしかしたらまふゆは普段、滅茶苦茶気を張り詰めていて考え過ぎているせいでぼんやりしていることがあるのかもしれない。
今度からはもう少し優しくしよう。そんなことを考えながら公園の前を通り過ぎると、予想外の所から声が聞こえてきた。
「──あれ、絵名?」
公園の方から私の名前が聞こえる。
慌てて振り向くと、夜でも目立つ白い髪が目に入った。
「え、何で奏がこんなところに……?」
ほぼ家から出てこないイメージがある我らがニーゴのリーダー、宵崎奏。
そんな彼女が公園のベンチにちょこんと座ったまま、こちらに顔を向けていた。
落ち込んでいる時は夕焼けをぼんやり眺めたり、黄昏たくなりますよね。
奏さんもそういう気分だったのでしょうか……?