──4──
目を開くと、そこには木製のイーゼルに立て掛けられたスケッチブックがあった。
周囲をぐるりと見渡してみても、そこには荊でできた壁があるだけで出口も入り口もない。
スケッチブック以外、何もない。
(──あぁ。これ、最近よく見る夢ね)
ピンときた感覚が正しければ、下を見ればまたいつもの
(やっぱり。相変わらず趣味が悪いことで)
足元を見れば『お前を食べてやるぞ』と言わんばかりに、パクパクと開閉している大きな口があった。
獣だとか、見たことのない怪物の口のようなものだったら良かったのに、人間の口だとわかる造形をしているせいで、不気味さが増している。
これが私だけの夢であるのなら、私の精神状態を心配されそうな悪夢だった。
(いつも通りなら、ここからスケッチブックに近づかないといけないのよね……)
そうしなければフラグを回収していないゲームのように、この不気味過ぎる空間に閉じ込められてしまう。
溜め息を吐いて覚悟を決めた私は、口の上に張られているであろう見えない床の上をゆっくりと歩いた。
(ほんと、嫌になるな)
もう何度も繰り返した夢であり、口の中に落ちないと理解していても……怖いものは怖い。
恐怖心を叱りつけながらも透明な床を進んで、やっとスケッチブックの前に立つ。
いつも通りであれば、次は奴の反応がわかるはず。
さて、今日はなんと言ってくるのか。スケッチブックを睨みつけながらその言葉を待った。
【──怖がらないで。あまりにもキラキラしてたから欲張ってしまったけれど、その分サービスしてあげたでしょう?】
それはまるで、わがままな子供を嗜めるような声だった。
……いや、声と言っても良いのだろうか。
聞いているというよりも頭に直接、言葉を叩き込んでくるような変な感覚のせいで、断言が難しい。
【どれだけ強がったって所詮は人間、欲は消えないものなんだ。お金が欲しいの? 地位や名誉、愛でも何でもいいよ。ほら──何が欲しい? 描いてごらんよ】
どうせお前も求めるんだから、諦めてしまえ──と。
下にある口は歪んだ笑みのようなものを作り、脳を揺さぶるような不気味な笑い音を出した。
「はっ。そっちも慌ててるくせに、随分と余裕を演じるのが上手ね」
こっちだって、得体の知れない奴が直接夢に干渉してくるぐらい、慌てているのは知っているのだ。
セカイにスケッチブックを預けてから少しずつ増えて、今ではほぼ毎日見せてくるこの夢。
どうやら奴はスケッチブックに絵を描かない私のことが、とても気に入らないらしい。
願いを描けと、早く使えとあの手この手で私を唆してくる。
だから私はそんな手段は無意味だと、いつも趣味の悪い夢を見せてくる仕返しのつもりで笑い飛ばしてやった。
ただ、いつもと違っていたのは。
【あっそ。もういいよ、こっちにも考えがあるから──】
「──絵名っ!」
衝撃。
衝撃?
何かに押されて地面に倒れた……と思ったら、何故か私は部屋のベッドではなく、セカイの床に倒れていた。
一体、どういうことだろうか?
困惑して首を傾げる私の胸元から、声が聞こえてくる。
「絵名、意識はある? わたしの声、ちゃんと聞こえてる?」
視線をセカイの何もない灰色っぽい空から胸元へと向けると、リンが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「ごめん。どういう状況なの、これ」
今日は作業を早く終えて、早朝から絵を描く為に早めにベッドに入ったはずだ。
それなのに目を開けたらセカイにいるし、リンが私の上に乗っているのである。
この場にいるのが私でなくても、頭の中がクエスチョンマークで支配される状況だろう。
「やっぱり、絵名は覚えてないんだね」
「やっぱりって?」
「絵名、1人でセカイに来て、預けてくれてたスケッチブックの所まで行こうとしてたんだよ」
「私が1人で……?」
まるで……というか夢遊病だとしか思えない説明に、私は言葉を失った。
こっちが悪夢を見ている間に、私の体は勝手にセカイに来て、スケッチブックがある場所に向かっていたようだ。
どこに隠されているのか知らないのに、真っ直ぐそちらに向かっていたのだから……私の体を動かしていた犯人は明らかで。
リンが体を張って止めてくれなければ、今頃私の手の中にスケッチブックが戻ってきていただろう。
「ありがとう、リン。ここに来るまで全く意識がなかったから、助かったわ」
「それ、本当に大丈夫なの? 何かわたしにもできることはない?」
じっと上から見つめてくるリンの顔は真剣そのものだ。
本当に心配してくれているのがわかるからこそ、すごく言い難い。
だが、見つめ合っているうちに私の方が限界が来てしまい、根を上げてしまった。
「ごめん、まずは私の上から降りてくれたら嬉しいかも」
「……あっ」
「本当にごめんね」
できればそんな指摘をしたくなかったが、苦しさという限界の前には無力だった。
リンが馬乗りの状態から床への正座へと姿勢を変える。
私もリンに合わせて正座をし、お互いに無言という気まずい時間を過ごす。
瑞希あたりから「初対面のお見合いか何か?」と煽られそうなぐらい見つめ合っていると、ふと、私の頭の中に悪い考えが湧き出てくる。
「リン、お願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「何?」
「ちょっと聞いて欲しいことがあって。様子が変になったら、逃げるなりしてほしいの」
「? わかった」
不思議そうにしつつも、同意してくれたリンに胸を撫で下ろす。
前まではあんな呪物に皆を巻き込みたくないからと、自主的に言っていなかったから……気がつくのが遅れたのか。
瑞希と話していた時の違和感や悪夢で聞いた最後の発言から、確かめたいことができたのだ。
リンはスケッチブックに関わった時の私の変貌を思い出したのか、どこか硬い表情をしている。
それでも何も言わずに協力してくれるのだから、こういう時にリンがそばに居てくれてありがたい。
(さてと……リンの同意も得られたし。最近の違和感の正体が何なのか、確かめてみましょうか)
奴の考えとやらはどんなものなのか、自分自身で実験してみようじゃないか。
「リンは知ってると思うけど、あのスケッ──ッッ!?」
単語を言い始めた瞬間にはもう、私の体に異変が起きていた。
(や、ば……本当に『喋れない呪い』じゃん)
首は締め付けられていないはずなのに、呼吸するのも難しいぐらい息が詰まる。
水の中というよりは、気管が狭まっている感覚に近いかもしれない。
そうやって冷静な部分が状況を分析しているが、体は死んでしまう! と悲鳴をあげている。酸素を求めている。
『リンに伝えようとする気持ち』をやめなければ、絵を描く前に命を奪われてしまいそうだ。
「絵名!?」
「ゲホッ、ゴホッ……だい、じょうぶ。試したいことはわかったから」
どうやら奴は本気で私を逃すつもりはないようで、とうとう物理的に禁じてきたらしい。
或いは他人も巻き込むことを検討し始めた私への牽制なのかもしれないけれど……どちらにしても規制されている事実は変わらない。
心配そうなリンを手で制して、呼吸を整えつつ声を絞り出した。
「リン、紙を取ってきてもらえない?」
「……わかった」
言葉にするのは難しいのはわかった。
ならば、できる範囲を探ってみるしかない。
「ノートを持ってきたよ。これでいい?」
「あれ、これってこの前プレゼントした新しいノートじゃない。それじゃなくても、紙切れとかでいいのに」
「……ううん、これにして。今やってることは、絵名には大切なことなんでしょう?」
「リン……ありがとう、使わせてもらうね」
リンには何も伝えられていないのに、リンのために用意したものまで差し出してくれるとは思ってもみなかった。
これはますます失敗できない。
(なら、最初に書くのはスケッチブックの最大のヒントよね)
あの【あなた次第です〜】とかこちらを尊重してる風を装って、お腹がペコペコ過ぎて早く描けーと詐欺をしてくる呪物が相手なので、できる限り原文をそのまま残したい……のだが。
「いたっ……」
「絵名、大丈夫?」
「ごめん、鉛筆飛ばしちゃって」
「平気だから気にしないで」
書き写そうとした瞬間、手に電流を流されたような痛みが走り、鉛筆を投げてしまった。
リンが拾って手渡してくれたのが非常に申し訳なく思う。朝になったらお礼を準備しようと今決めた。
(……とりあえず、原文はダメ判定ね)
こうなったら何処まで行けるのか、総当たりしてみるしかない。
「リン、さっきみたいに鉛筆を飛ばしちゃうかもしれないから、距離感には注意してね」
「わかった。絵名も気をつけてね」
リンは察してくれているのか、私の奇行にツッコむことなく見守ってくれている。
(さて、どう書き込もうかな)
とりあえず今、思い浮かぶ大事な要素は《記憶は消されたわけではなくて、今の段階ではスケッチブックに
後は全部描き切ったらアウト、ということだろう。それだけは最低でも書き残さないとまずい。
鉛筆を紙に伸ばしては投げ飛ばし、書こうとしては転がして、リンに迷惑をかけながら格闘すること幾分か。
「はぁ、はぁ……何とか最低ラインを書けたわね」
「半分もページ、埋まってないけどね」
「うっ、これでも真面目にやってたんだけど」
「それはわかってる」
リンに多大な迷惑をかけて書き残せた成果は2つのみ。
1つは『収集』という文字を二重丸で主張させたこと。
後1つは1から4の数字を書いて、それぞれに矢印を引いた簡単な表だ。
1には黒丸を、2と3は今のところは白丸。4だけは人の顔っぽい何かにバツ印をつけている。
本当はハートにバツ印とかドクロにしたかったのだが、そこまで露骨なのは許されなかった。
「絵名、今日はもう戻った方がいいんじゃない?」
「え?」
「まだ学校がある日でしょ。時間、近づいてると思うけど」
「あっ」
スマホで時間を確認すると、確かにそろそろ切り上げて準備した方がいい時間になっていた。
しかし、ここでやめるのも中途半端で気持ち悪い。
「あの調子だと時間がかかりそうだし、空いてる時間で少しずつ進めたら?」
「……そうするのがよさそうね。リン、また付き合ってくれる?」
「はぁ……仕方がないから、付き合ってあげる」
リンに止められてやっと気持ちに区切りをつけられた私はズルい人間だ。
私に甘いところがあるのを良いことに、更に彼女の好意に甘える行動に出た。
「ねぇ、リン。このノート、普段はリンが持っててよ」
「わたしが?」
「それと、私が明らかにおかしくなった時だけに、皆に見せて欲しいな」
「そもそもおかしくなってほしくないんだけど」
「……うん、ごめんね」
理不尽というか、意味もわからないお願いをしている自覚はある。
だけど、リンは嫌そうな顔を見せるものの、否定はせずに尋ねてきた。
「それは避けられないことなの?」
「どうだろ。でも、保険はあった方がいいでしょ」
「…………そんな顔じゃなかったら、密告してたのに」
「ごめん。ありがとね、リン」
「別に。そう言うなら心配になるようなことはしないで」
「努力はしてみる」
「……しないって言って欲しいんだけど」
しないと断言すらできない自分が本当に申し訳ないけれど、リンにとんでもない我儘を押し付けて。
この日から、私とリンで2人きりの秘密の作業が始まった。
スケッチブック君「警戒させちゃうだろうし、最初は少しだけのつもりだったの。だけど、綺麗だったから全部取っちゃった。本当にごめんね。色々とサービスしたから許して! そして絵も描いちゃお! …………は? 許してくれないの? お腹が空きすぎてキレそうなんだけど??」
大体こんな感じです。
スケッチブック君、最初にえななんを警戒させちゃったのが致命的でした。これは自業自得ですね。
次回は『この祭に 夕闇色も』のイベストです。