事態は既に、動き始めて。
寝違いのような、鈍い痛みを感じて目が覚めた。
「痛っ……うーわ、やっちゃった」
修学旅行中は強制的に長時間布団に縫い付けられたせいか、家に帰ってからのリズムが崩壊してしまったらしい。
1時間粘ってみても寝付けなくて、眠くなるまで絵を描こうとしたら……そのまま眠ってしまったようだ。全身痛くて気が滅入ってしまいそう。
嫌な予感がして手鏡で顔を確認すれば、予想通り。頬には紙を枕にして眠った代償が刻まれている。
暫くすれば元通りになるだろうけれど、こんな顔で部屋を出たら恥ずかしいのは間違いない。
修学旅行の後は学校が休みでよかった。
最終手段・マスクがあるとはいえ、恥ずかしい顔で外には出たくないのが乙女心なのだ。
顔の跡が薄くなるまで部屋の中で籠城している私の耳に届いたのは、扉を叩く音だった。
首を傾げつつも扉を開くと、珍しくお母さんが立っている。
「おはよう、お母さん。どうしたの?」
「おはよう。今から出かけるから、声をかけようと思って」
「ってことは家には私だけなんだ……わかった。出かける時は戸締りとか、ちゃんとしておくね」
「よろしくね」
お母さんの用事はそれだけだったようで、話しはすぐに終わった。
(……お母さんの反応的に、もう跡は目立ってないよね?)
もしくは優しいからスルーしてくれたか、だけど。
化粧したらなんとかなるだろうと思う程度にはなってると思いたいので、私は化粧をしてからお土産を手に立つ。
(学校は学校がある日でいいし、南雲先生へのお土産もバイトの時か学校でいいから……行くとしたら絵画教室かな)
行き先は決まったし、必要な分だけお土産を持って出かけよう。
戸締りは忘れないように、私は意気揚々と家を出た。
(はぁ……さっむ。外出たの後悔しそう)
寒さに気持ちでは負けないように宮益坂を抜け、絵画教室に無事に到着。
ちょっと心臓に悪いイベントもあったけど、お土産も配れた。
(雪平先生ってば、急に絵を見るって言うんだもん。ビックリするよね)
大体、絵画教室に寄ると「絵を描いていったらどうですか?」と言われるのだ。
断れるはずもなく今日も絵を描いて、こう言われた。
『東雲さん、何かありましたか?』
絵を見ただけでこれである。心臓が飛び出るかと思った。
その後に『薄くなっているような気がします』と言われて悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。
(言えたらいいんだけど……どうにもなぁ)
先生の追求も乗り越えて外に脱出してから、溜め息を漏らす。
「──絵名ちゃん!」
「ひゃっ!? って、なんだ。二葉か」
完全に油断していたせいで、変な声が出てしまった。
二葉という知っている相手であっても、急に声をかけられるのは心臓に悪い。
今日は心臓強化キャンペーンでもやっているのだろうか。
驚かされ過ぎて辛い。本当にやめて欲しかった。
「二葉、おはよう。息切れしてるけど大丈夫?」
「はぁ、ふぅ……絵名ちゃんの姿が見えたから、追いかけて来ちゃった」
息を切らしてしまうほど、慌てて追いかけてくる二葉に笑ってしまった。
「そんなに慌てて来なくても良いのに」
「最近の絵名ちゃんは大変っぽいから、あんまり時間を取らせるのも悪いなぁって思って」
「大変って何が?」
首は絞まってないので、そっち方面の話ではないはず。
首を傾げる私に、二葉はさらりと言った。
「昨日、宵崎さんって人と会ったんだ。絵名ちゃんと一緒のサークルで活動してる人なんだよね?」
「えっ、奏と会ったの?」
「うん。ちょっと心配になることがあったから、時間をもらって話したんだ」
「……そう、なんだ」
初対面の二葉に心配されるということは、奏もかなり追い込まれているのだろう。
本当に、行方を晦ませた奴はややこしいことばかりしてくれる。
「今の絵名ちゃんが何に悩んでるのかはわからないけど、私に何か手伝えることはないかな?」
「ありがとう、二葉。気持ちは嬉しいけど、今はまだ、もうちょっと自分で頑張る時間だから」
「……そっか、頑張ってね、絵名ちゃん。私、応援してるよ!」
二葉はこの後も絵を描くらしく、手を振りながら教室に戻っていく。
私はその後ろ姿を見送ってから、足早に人影の少ないところへと移動した。
家に帰ってからセカイに行けば良いのに、奏のことを聞いてから胸騒ぎがするのだ。
何もなかったという言葉が聞きたくてスマホを取り出した瞬間、黄色いホログラムがスマホから飛び出した。
『絵名ちゃん!』
「へ? レン!?」
まさかセカイに行く前に向こう側から飛び出てくるとは思わなくて、大きな声を出してしまった。
周囲を見渡して誰もいないことを確認してから、スマホに視線を戻す。
「外で声をかけるなんて、どうしたの?」
『その、奏ちゃんの様子がおかしいから、相談したくて』
「……様子がおかしいって、何があったの?」
叫ばないように小声で尋ねると、レンは恐る恐る頷く。
『ルカさんに見ておいた方がいいって言われて、奏ちゃんの様子を見に行ってたんだ』
「ルカが……?」
『うん。奏ちゃん、今もお父さんのお見舞いに行ってるみたいなんだけど……ずっと曲を再生させながら『起きて、起きて』って言ってるんだ。声をかけても反応がなくて』
ルカが動いているのも驚きだが、奏の方も想像以上に重症らしい。
呑気に修学旅行に行ってる暇はなかったのか。
いや、二葉の話的には昨日まではまだ平気だったようだし、奴の仕掛けが早まったのだ。
(時間はないだろうと思ってたけど、それにしても急過ぎるって!)
叫びたくなる気持ちを堪えて、引き続き小声での会話を続行する。
「奏は今も病院?」
『うん、まだ移動してないと思う』
「わかった。奏が病院から移動したら知らせてくれる? 私も病院に行くから」
『う、うん。行ってくるね!』
まだ、冷静さを装えているだろうか。
体の芯が一気に冷え込んでいるのを感じながら、私は病院に向かって駆け出す。
瑞希は、今日の朝から学校だって言ってたからダメ。
まふゆも塾の最中なので、そこから抜け出してもらうには距離があり過ぎる。やっぱり近いのは私だ。
(……どうしよう。間に合わなかったらどうしよう。何かあったら私のせいだ。どうしよう、どうしようっ!!)
まだだろうってどこか、心の中で思っていたせいだ。
帰ってきた直後にはないだろうって、勝手に決めつけて油断していたせいかもしれない。
(瑞希とまふゆに頼りたいけど、2人は距離があるし)
2人とも呼び出したら出て来てくれるだろうが、病院から1番近いのは私だ。
スケッチブックのことを言いたくても言えないし、杞憂であることを祈って急ぐしかない。
決断すれば早速行動だ。周りの視線を無視して私は駆け出した。
が。
「──はぁ、ひゅっ。はっ、げほっ」
……普段はそこまで運動してないのが祟り、病院まで走るのは難しかった。
最近酷使している喉も痛いし、違う意味で病院に行くことになりそうだ。
無理しない程度に歩いて病院に向かっていると、今度は頭の中に嫌なことばかり思い浮かんでくる。
(病院ってことは、奏のお父さんの様子が急変したのかな)
絶対に奴のせいだ。奏が苦しんでるのは奴のせいで……私の、せいだ。
修学旅行中のリンやまふゆの気遣いが、奴を刺激してしまったのかもしれない。
(……って、私のバカ! 今、人のせいにしようとしたでしょ。悪いのは全部私なのに!)
皆、訳のわからないものに巻き込まれて、巻き込んでる側である私は何も言わないのだ。
一方的に相手を振り回してるのは私なのに、八つ当たりしそうになった自分が恐ろしい。
『絵名ちゃん、絵名ちゃん。今、大丈夫?』
「……うん、ちょっと待ってね」
奏の方に何かあったのか、レンが声をかけてきた。
私は小走りで人の少なそうなところにまで移動し、スマホを取り出した。
「奏、病院から移動したの?」
『うん。今まで作った曲を流し終わった後に、すごく怖い顔で出て行っちゃった』
「そっか……家に帰りそう?」
できれば家に帰ってくれると、こちらも安心できるのだが。
『出て行った後の道は家の方向じゃなかったから、違うと思う』
淡い希望に縋った安心は、レンの言葉によって消え去った。
やはり、そう簡単にはいかないか。
次点でCDショップとかに行ってくれたらありがたいけど、あまりにも楽観的過ぎる希望だ。
「どの方向の道に行ったかわかる?」
『えっと、ぼくが見たのは──』
レンが奏のスマホから覗き見た景色を伝えてくれる。
「──その道だと、駅に行くつもりなのかな」
建物の特徴と記憶を頼りに導き出した道の先にあるのは、あまりよろしくない答えだった。
『駅って……奏ちゃん、大丈夫かな。フラフラしてたし怖い顔だったよ。そんな状態なのに、遠出するつもりなのかな?』
「……大丈夫じゃないから、駅に行くつもりなんだろうね」
ここから駅までショートカットで行ける道はある。
急げば奏に追いつけるかもしれない。
「レン、まだまだ頼りたいんだけどいけそう?」
『うん。ぼくにできることなら頑張るよ』
「ありがとう。じゃあ、頼みたいことがあるんだけど……」
最低限、知らなくてはいけないのが奏が電車に乗るつもりなのかってことと、乗る場合ならば奏が向かう先と降りる駅だ。
それさえレンに確認してもらえたら、十分追いつける可能性がある。
……乗らない場合のことは、あまり考えたくない。
「どう? できそう?」
『奏ちゃんがどの電車に乗るのか見ればいいんだよね? やってみる』
「お願いね。もし違ったら、大きな声で奏を呼んであげて」
『呼ぶの? わかった』
この後の奏の動き次第ではレンの責任は重大なのだが……そこまでは言わないでおこう。
重要な仕事を任せているからこそ、レンに変なプレッシャーをかけたくない。
レンが奏の動向を探っている間に、私も早足で駅に向かう。
最高なのは電車に乗ろうとした奏とバッタリ出会うこと。次点で時間差があっても奏が電車に乗ってくれるだけでいい。
乗らなかった場合が、1番最悪なのだから。
『絵名ちゃん、奏ちゃんが電車に乗ったよ』
駅に辿り着いてからレンの声が聞こえてくる。
電車に乗った。その言葉だけで直近の最悪は防げたらしく、私はホッと息を吐く。
とはいえ、まだ油断はできない。
レンから電車の情報を聞き、奏とは1本ズレてしまったものの、同じ方向の電車へと乗り込んだ。
「ありがとう、レン。おかげで電車に乗れたよ……まだまだ頼ることになっちゃうんだけど、奏が降りる駅がわかったらよろしくね」
『うん! わかった、行ってくるね』
現状は最高には届かずとも、最低とも言えない状況だ。
電車に乗り込んで空いた席に座った私は、落ち着かない体を押さえつけ、不安を押し出すように溜め息を吐き出した。
えななんの想定していた最低は奏さんが走ってくる電車に向かって……ってヤツですね。とりあえずそこは乗り越えました。
ここから先は連戦、決戦まで一直線です。どうぞ、よろしくお願いします。