Almost broken―――壊れかけ――― 作:全智一皆
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法国最強、《絶死絶命》アンティリーネは、自らの師である彼を相手にして、全力を出さなかった事など一度もない。
最強である筈の彼女が、たったの一度もだ。
にも関わらず―――彼女は未だ、一度足りとも彼に勝てた事がない。
「のびてる暇はないぞ、さっさと構えろ」
「わっ…分かって、るわよ…」
乾いた地面から立ち上がり、震える足をどうにか抑え込んで、手放した鎌を構え対峙する。
たった一本の刀を持った、たったそれだけの武器しか持っていない男に、最強は敗北していた。
木刀でも竹刀でもなく、真剣。岩はおろか天すら割り、地面すらも切り裂いてしまう最高にして最鋭の刃を持った一振りの剣。
《神刀・天地曇》。この世界にたった一本しか存在せず、彼だけが唯一として扱う武器。
彼はこれ以外は使えない。武技も魔法も、何一つとして使えない。
身体能力を強化するでもなく、魔法を使って攻めるでもなく、ただ剣と己の力のみで、彼は勝利を掴んでいる。
諦観の目が最強を貫き、面倒臭そうにしながら男は剣を向け―――その瞬間、世界が傾いた。
「っ!」
「漸くマトモに躱せたな」
後ろに下がらず、上へ飛ばず。しかし横にも行かず。
彼女は自らの意思―――というよりは、直感的に導き出された答えに従う様に、己の体勢を自らで崩し、自分の首筋へと振り下ろされた冷たい一太刀を紙一重で躱した。
が、否。それは躱したというよりは、“躱せた”と言うべき瞬間だった。
本能で体を動かし、偶然的に回避する事が出来た、それだけの事というのが正しい表現だろう。
これだ。この速さが、この剣速を繰り出す膂力が、素の力であると言うのだから、この人は本当に恐ろしい。
アンティリーネは、そう思わざる得なかった。
剣は止まらない。彼女もまた、鎌と体を動かす。
風に舞う桜の様に、晴れた空で散る綺麗な火花。それは虚しく消え、しかし何度も咲き誇る。
刃と刃の交差。鋭い鉄塊同士の殴り合いは、それだけで木々の葉を揺らし続ける。
剣は空を裂き、何度も何度も最強の肉を微かに削ぐ。
頬の肉を。腕の肉を。足の肉を。額の肉を。或いは、彼女の服を。
殺気が籠もった冷たい刃は、彼女を殺してしまわない様に加減の効いた力で振り下ろされる。
だが、油断など出来ない。出来よう筈もない。
少しでも気を抜けば、抜いてしまえば―――自分の首が飛ぶ。
そんな、明確かつ絶対的な“死”のイメージが、常に彼女の頭を過ぎるのだ。
「くっ…! 『超回避』!」
「無駄」
縦一閃に振り下ろされた太刀を、武技によって回避する。
が、彼はそれを、武技を使用した絶対の回避をも、無駄であると僅かな言葉で一蹴した。
―――その刹那、剣が閃く。
横腹に稲妻に打たれたかの様な激痛が奔ると共に、鮮血が地面を彩る。
それは、彼女が一太刀を回避したその一瞬の内の出来事だむま。
既に振り下ろされた太刀は、しかし、まだ終わりではないという意思を示すかの如く、彼女へと牙を向いた。
まるで、最初から彼女の体が其処へ移動して一太刀を躱す事を分かっていた様に、急所に向かって襲い掛かってきたのだ。
武技による攻撃の回避。それは確かに絶対なのだろうが―――
「肉体が追い付けない速さで剣を振るえば、何の問題もない」
「簡単な様に言うわ…!」
うんざりする様に、毒づく。
武技によって強化された肉体ですら、追い付けない速度での斬撃。
ただの人間である彼は、それを平然と放ってくるのだ。
これで、まだ一度も剣の力を使っていないというのだ。それが何と恐ろしいことか。
「しかし、一撃は躱せる様になったな。良い成長じゃないか」
「伊達に何度も斬りつけられてないから…」
「果たして、そうやって誇っていいもんかね…まぁ良いや。じゃ、これからは連撃に変えようか」
「は?」
呆けた声が漏れた次の瞬間―――目に映る景色が真っ白に染まって、消え失せた。
抜刀。そのたった一つの動作から繰り出されるのは、もはや幾百にも達する無数の太刀筋。
太刀筋の一つすら目に映る事も叶わない程の、神速。
鞘に刃を納め、抜いて、我武者羅に刀を振るう。たったそれだけの剣技は、しかし何を取っても一切の無駄がなく、洗練された技だ。
絶句する。それ以上の反応が、彼女には出来なかった。
―――自分は、死んだ。確実に、あの無限とも呼べる太刀筋の嵐に飲み込まれ、この五体を細切れにされて死んだ。
そう“錯覚”してしまう程の、強固な“死”のイメージが彼女を凍らせた。
或いは―――彼女の意識を、それが断ち切ったと言うべきか。
強固な死のイメージによって意識を斬り捨てられた彼女は、糸の切れた人形の様に、或いは事切れる様に地に伏した。
「おいおい、一発目で気絶するなよ。はぁ…仕方ない」
先に言っておくが、彼は鬼ではない。
その修行の内容こそ過酷で、死が常に纏わり付く残酷なものだが、言ってしまえばそれだけだ。
良く出来れば褒めるし、悪い所があれば指摘する。典型的な師として、彼は在っている。
決して、倒れた彼女を引っ叩いて起こすなどという事はしない。
無闇に女の肌に傷を付けるなんて事はしない。
「ふっ―――」
高らかに、神刀が振り翳される。
殺意もなく、敵意もない。その体を断ち切るという意思も込められない一太刀は、それ故に動かぬ彼女の奥底の意識を叩き起こした。
「っ!?」
降ろされた瞼を引っ張り上げ、意識を醒ます。
天へと振り翳されている刀へと目をくれる事もなく。
それをする事すらも無駄であると判断して、彼女はこれまでの人生で最も洗練された動きで、一瞬にして大きく距離を取った。
加速して止まぬ鼓動。体を流れる全ての血すらもが、その一瞬で神速へと達した弊害だ。
「今のっ…」
「驚いたか。まぁ、あれだ。無想の一太刀というやつだ」
あっけらかんと、簡単に言ってる師に、彼女は化け物を見る様な目をせざるを得なかった。
何も感じなかった。殺意も敵意も意思すらも、その剣には宿っていなかった。
まるで、其処に有る筈なのに認識出来ない何かの様な剣。
生物の表層意識では認識する事すら出来なかった、『無』を身に纏った太刀が自分を襲おうとしていた。
それが、彼女の深層意識を覚醒させ、突き動かしたのだ。
無想の一太刀。何も想わず、何も込めず、その刃に『無』を身に纏わせて振り下ろす剣筋。
周囲に溶け込む事もなく、そこに刀として有るにも関わらず『無いもの』となって、生物の認識を潜り抜けて襲い掛かる不可視にして不可避の技。
彼が、ただそれを使おうと剣を振り上げただけだったから良かったものの。
もし、それを振り下ろしたのなら―――錯覚でもなんでもなく、彼女は確実に首を跳ねられていた。
「さて、起きた事だし、連撃行くぞ」
「やっぱり貴方は鬼だわ! 人でなし!」
「ちゃんと人間だわ。自分の都合しか考えてない、立派な人間だよ」
再び―――太刀筋の嵐が、彼女に襲い掛かった。