夏の、茹だるような暑さが一面に立ち込める。
陽炎か、はたまた蜃気楼か。空間が果てしない熱によって歪められ、ぼんやりと揺れる。
世間では誰もが忌み嫌う、そんな季節の訪れ。
冷蔵庫で冷やしたジュースや、かき氷やアイス。それらが物恋しくなる、そんな季節の訪れ。
───僕は、夏が好きだ。
ずっと、ずうっと昔。記憶も曖昧になってしまうほどに遠い過去。
いつだったかはよく覚えていない。
思い返すだけで汗ばむくらいだから、きっと夏だったのだろう。
その程度の覚えだと言うのに、今でもたった一つだけ頭に残っているのは。
そこに僕の大好きだった「誰か」が居たこと。
...そして、その人が誰だったか思い出せないこと。
それでも毎年夏がやって来ると。
僕はどうにもこうにも夕暮れに黄昏れて、「誰か」に思いを馳せてしまう。
(きっと、そうとう惚れ込んでたんだろうなぁ...)
どんな形であれ、その人のことを深く想うことで。
今となっては顔も思い出せない「誰か」と心の内側で繋がれる気がするから。
(...また今年も、花火の季節がやって来た)
僕は、夏が好きだ。
名も顔も遠い過去に揉まれて消えた「誰か」を思い返せる、この季節が大好きだ。
夏祭りから二人で抜け出して、小高い丘の上に登る。
「ほら、ここならよく見えるよ!───花火!!」
お目当ては、その夏祭りのクライマックスで打ち上げられる花火だった。
「...おぉ〜!すごい!こんな場所、よく見つけたね!」
腕を引いて連れてきた彼女が、天晴と言わんばかりに驚きの声を上げる。どこかその顔が寂しそうに見えたのは、自分の気のせいだと思いこんでいた。
お互いに笑顔を見せ合いながら、息を切らし、肩を上下させつつ原っぱに座る。
「見てみて!下の方、お祭りやってるのが見える!」
僕が自分で散策して見つけたものすごく急な階段。そこを登りきった先にこのスポットはあった。
何の目的で作られた場所なのか、どうして草むらに隠れるように作られていたのか。全く分かりはしなかったけれど、今はこうして彼女の笑顔が見られるだけで、僕はどうしようもなく頬が緩んでしまうのだった。
「綺麗だねぇ...あっ、始まった始まった!!」
「うわぁ〜...!たーまやー!!」
祭りの喧騒から一歩引いたこの場所。あちらこちらに置かれた提灯や行灯の儚げな灯りを上から眺め、上空では色鮮やかな花々が一斉に開花する。
まさに幻想的だった。
「...かーぎやー!!...ふふっ...」
まるで僕に対抗するかのように、彼女が負けじと声を張り上げる。言い終わった後、僕らはまたお互いを見て、そして柔らかく微笑んだ。
彼女の笑い声がひどく切なく聞こえたのは、自分の気のせいだと思いこんでいた。
───花火は、一瞬だった。刹那の間に夜空を彩り、やがて散っていったいくつもの花弁たち。
きっと一生涯忘れられることはないだろう。あの花火はそれほどまでに美しく、儚く、だからこそ僕の記憶に色濃く刻まれたはずだろう。そう思っていた。
───僕の隣に、彼女は居なかった。
それどころか僕は、その異変に気づくことさえなかった。
「あー、綺麗だったぁ!...よーし、またお祭り行くかー!」
そう元気よく言い放って、たった一人。急な階段を駆け下りていた。
目指す先はただひとつ、未だ人々の興奮冷めぬ、夏祭りの会場。
鬱蒼とした草をかき分けて進む僕のあの小さな右手に、彼女の温かな手が添えられることは終ぞなかった。
彼女は、忽然と姿を消してしまった。
それは彼女の肉体だけに限った話ではない。
僕の記憶の中からも、まるで彼女だけが切り取られ、代わりに上から何かが貼り付けられているかのように。彼女は消えて失くなってしまっていたのだった。
靄がかかるというより、薄く途切れるような。
雲隠れするんじゃなくて、最初から居なかったかのような。
心の中に自分でも分からない小さな穴が空いて。そこから彼女が次々と零れ落ちていく───
違和感に気付いたのは、僕が大人になってからだった。
成り行きでアイドルのマネージャーになり、3年ほどの月日が経ってから。
それもそのはず、そのアイドルは現在の日本において人気絶頂の最中にある人だったから。僕の生活も多忙を極め、「誰か」になんて考える暇もなかった。
きっかけは偶然。休暇の際、気まぐれで神社に訪れてみた時のこと。
そこは数十年も前に神主が役目を降り、今となっては廃れてしまった小さな稲荷神社。
普段神社を参拝する時と同じように賽銭を入れて本坪鈴を鳴らし、静かに手を合わせて神様に日頃の感謝を述べる。
───カランカラン
すると突然、僕の脳内に先ほど鳴らした鈴の音が反響して。
あの失われたはずの「誰か」が、この心をよぎったのだ。
...真っ白い、狐の姿。
自分を「神様なんだぞー!」なんて言って、無邪気に笑っていた、あの朗らかな少女。
小さくて繊細な五芒星が描かれた、僕も大好きだったふわふわの尻尾。
零れ落ちていた記憶の欠片がかき集められて、呼び起こされるような感覚。
まだ表情はノイズが走るように不鮮明だけれど。
彼女がほんの少しだけ、僕の中で蘇った気がした。
───僕が本当に気まぐれで訪れたその神社が、彼女と最後の花火を見たあの場所に建立していたと知ったのは、もう少し後の話だ。
今日も今日とて、僕はとあるアイドルの現場同行をこなしていく。おそらく今日一日つきっきりの大仕事になるだろう。
なんてったって今日の予定はカツカツ。雑誌の撮影にボイストレーニング、ダンスレッスンも控えている。
「ほら!気合い入れてください、すいせいさん!!」
「分かってるって!もう!どんだけ急かすのさ!?」
「ここまで言わないと貴方はちゃんと動いてくれないでしょう!」
「んな心外な!?」
そう...今や日本国民で知らぬ人はいないであろうその人は、星街すいせいさん。類まれなる歌唱力と鍛え上げられた踊り、そして生まれながらにしての美貌。それらをもってしてここまでのし上がってきた逸材だ。
そんな彼女を、僕はもう6年ほどマネージャーとして支えてきている。
いつからかこんなインファイトが成せるようにはなってしまったけれど、彼女が世間へ打ち出した楽曲がヒットすれば大喜びしたし、アルバムがオリコンランキング1位を達成したときは無意識にガッツポーズをしていたし。
彼女がライブで感動的な演技を見せてくれたときなんて、もう目の前が見えなくなるくらい泣き腫らしていたし。
「...ほーら、すいせいさん!時間ですよ!」
「わ、分かったってば!はいはいっ!!」
彼女の成功を自分のことのように喜べること、失敗を乗り越えて彼女が大舞台へ立てること、それに絶え間ない達成感を得られること。
僕は、こうして彼女の隣にさり気なくいられることが嬉しいのだろう。
「...ふぅ...」
だけど、そう思えていたのは今から3年ほど前まで。もちろんこの仕事にやりがいを感じているし、やめるつもりは毛頭ない。
けど、それでも。どうしてもあの「誰か」のことが忘れられなくて。一度思い出したら、揺蕩う思いが巡りに巡って煮えきらなくて。
だから今日...あの神社に。僕に「誰か」を思い出させるきっかけを与えてくれた、あの神社に。
もう一度足を運んでみようと思い立ったのだ。
「...大体2時間、ね...すいせいさんもハードなレッスン受けてるなぁ...」
雑誌の撮影は普段通り完璧に終え、その次のボイストレーニングでも納得の行く結果が出せたのか満足顔で帰ってきたすいせいさん。
車での移動中に僕が作ってきたお弁当を食べ、最後にダンスレッスンへ意気揚々と向かっていった。
「すい!ちゃん!はぁ〜...今日もかわいい〜!!!」なんて叫びながら教室へ突撃していくすいせいさんを見て、僕は止めるか迷ったけれど、彼女の好きなようにさせてあげることにした。
苦笑しつつ、すいせいさんがのびのび楽しめるなら本望かな、なんて考えながら。
「さて...行きますか」
いくらマネージャーと言えど、ダンスレッスンにまで着いて行くことはできない。つまりこの2時間は僕の自由な時間。
真夏の青空をゆったりと見上げ、向こうの方に背伸びした入道雲を見つける。
「...雨、降るのかな」
朝からバタバタしていたせいで、天気予報なんて見れていない。だけどあの様子だ、きっとじきに土砂降りの大雨が降る。
真夏の匂いを乗せた涼しい風が吹く。街路樹に止まったいくつものセミが、一層うるさく鳴き始めた。
「...すぐに済ませて、戻ってこよう」
一人、熱を帯びたアスファルトの道路に呟き、僕は足を動かした。
他のスタッフたちには用事があると一言伝えて出てきているから、変に心配されることもない。
(にしても、東京の一角にあんな神社があるなんて驚きだなぁ)
人通りや自動車の交通、立ち並ぶビル街、あちこちから轟く騒音。大都会の代名詞とも言えるそんな忙しなさに身を投じながら、驚嘆の息を漏らす。
言わずと知れた町並み。テレビにしろインターネットにしろ、全員が一度は見たことがあるだろう。有名どころを挙げるとすれば、渋谷のスクランブル交差点なんかがわかりやすいと思う。
(...あの夏祭りの日。僕がたまたま見つけた神社への階段は、背の高い雑草に覆われていた)
───まるで、誰にも見つけられることのないよう、隠されているかのように。
(休暇の日も、あの雑草たちは変わることなく生い茂っていた)
───背の高さを一切変えることなく。
(階段を登るごとになぜかほんの少しだけ、都会の喧騒が遠くへ褪せていく感じがした)
───それはまさに、現実から引き離されていくようだった。
(...そして、鳥居をくぐった時)
───幻影のような、泡沫のような、薄まった白い狐の少女の輪郭が、わずかに見えた気がした。
初め、僕は一瞬だけ現れたその輪郭に見て見ぬふりをした。廃れた神社には物の怪の類が集まると謂れがあるからだ。
きっと僕が見たものもこの世のものではないのだろう、そう考え、見なかったことにした。
───拝殿の階段に座っていた輪郭が、不意にこちらを向いて微笑んだ気がした。
知らない...いや、忘れていたはずだというのに。僕は無意識に微笑みを返してしまっていた。
それを最後に、彼女の輪郭は煙に巻かれたかの如く、消え去った。
我に返ったのは数秒後。消えた彼女を眺めていたら、どうしてか僕の身体は震えて言うことを聞かなくなっていたから。
目頭が熱いことも、頬を透明な何かが伝っていくことも、自分が嗚咽を零していたことも、全部。気づくまでに時間がかかっていた。
そのすぐに後、はっとした僕は慌てて参拝を済ませ...そして、彼女という存在を思い出した。
(...到底、偶然とは思えない)
出来すぎた話だ。何かしらの天命、"神様"から与えられた巡り合わせだと、そうとしか考えられない。
(そうさ...だから僕は、またここに来たんだよ)
あの日を振り返っている間に、僕は茫々と生えた雑草をかき分け、階段を登りきり...過去の記憶と何ら変わりのない、朽ち果てた赤い鳥居をくぐっていた。
けれども、もう。彼女の輪郭が僕の前に現れることはなかった。
(...また、逢いたいな)
心からの願いだった。彼女のほとんどを忘却の彼方へ放っていたというのに、身勝手な話だ。
それでも、どうしようとも。僕がこの思いに嘘をつくことは、できない。
拝殿へ一歩を踏み出す。木の枝々から枯れ落ち、地面に敷き詰められた葉を踏みしめる音が響く。
供える賽銭は、五円玉。ご縁がありますようにと、希いながら。
本坪鈴を振るい、小気味よい音が周囲に響き渡るのを聞き届けてから、二礼二拍手。
そして両の手を合わせて瞳を閉じながら、僕は"神様"への感謝と──ひとひらの願いを。
───また、逢えますように。
...事実は、小説よりも奇なり。
僕が捧げた祈りは、やがて少しの沈黙を越え、か細く瞬いて。
───カランカラン
”神様”に、届いた。
(...空気が冷たい...肌寒い)
視界を闇に閉ざしたまま一礼をし、瞳を開く。
(...これ、は...?)
拝殿の御扉が、ひとりでに開いていた。
普通ならば、こんなことありえない。けれども現状はもう、普通ではない。
これも、”神様”の手引きなのだろう。
(誘われている...のかな...)
冷たく...しかし一方で心地よいこの空気は、開かれた御扉の先から流れ込んでいるようだった。
(...また、あの子に逢えるなら...ほんの少しだけここから居なくなっていても、いいよね)
風が吹く。だがその風に、あの夏の匂いは薫らなかった。
御扉の奥は暗闇に包まれている。けれども、なんだかその暗闇の先の先に、光が差し込んでいるように見えたから。
(...ごめんなさい、すいせいさん...またいつか、会いましょうね)
あの子の手のひらの温もりが想起される、この右手を小さく伸ばし。
(うわあっ!?......___)
そして、引き込まれた。
小高い丘に続く階段。
その階段を覆う草花。
草原の上で佇む鳥居。
色が抜け落ちた拝殿。
固く閉ざされた御扉。
カランカラン
鈴の音と共に、二つが消え。
神社への道のりは途絶えた。
草原の上で佇む鳥居。
色が抜け落ちた拝殿。
固く閉ざされた御扉。
夏の匂いを運ぶ涼し気な風が、吹き抜ける。
空には、天高くまで伸びゆく入道雲。
天気は、大雨だった。
「───ありがとう...ごめんね」
神社における、鈴の音の謂れ。
一、魔除けの意。
一、身体が癒やしを求めている状態。
一、運気の上昇。
一、ターニングポイントとなる出会いが待つ。
一、神様からの呼び出し。