何とか完結させますので、どうか気長に待っていただけるとありがたいです。
霞がかった意識が、少しずつ、少しずつ、鮮明さを帯びてゆく。
まだ脳裏がチカチカする。まばゆく燃えているみたいだ。ほんのりとめまいもする。
「...うぅん...この、場所は...?」
拝殿の中へ引き込まれたときのあの肌寒さが身体を伝う。だけど決して、突き刺すような痛みも、強張るような鋭さもありはしない。
冷たいのに、どこか暖かい。ひんやりしているのに、心はじんわりと温まる。
砂利道を踏みしめてここに立っているだけで、胸に絶え間なく注がれる心地よさ。体内を脈打つそれに意識を向けることで、僕はやっと落ち着きを取り戻した。
「...ここも、神社だ」
黒く染まっていた視界が開かれる。目の前に現れたのは、もう一つの神社だった。
「でも、そんなにボロボロじゃない...きっとまだ使われてるんだ」
この場所へと僕を誘った、脆弱な境界線でもある廃れた神社。作りは似ているけれど、こっちのお社には幾分か穏やかさがあった。
「後ろに生えているのは...なにかの木かな、立派な大樹だなぁ」
その神社を見下ろすように、支えるように聳えているのが、大きく頑丈な太い木。末広がりに枝を伸ばし、数え切れないほどの紅い葉を付けている。
「この時期に紅葉...?不思議だけど、何だか神社を守ってるみたい」
天に陽射しを遮るものは何一つとてない。だから、僕には柔らかな明かりが差し込んでいるけれど、一方でこの神社にだけは唯一影が落ちていた。
───夏には似つかわしくない、紅く染まった葉のベールによって。
夏場の木々のイメージといえば、紫幹翠葉。暗褐色の幹、みずみずしく青々とした葉...そんな、生命力を滾らせている情景が目に浮かぶはず。
「もしかして...今、夏じゃない?」
そう考え、しかしすぐに頭を振った。なぜかって、周りの木々を一目見てしまえば容易に理解できる。
「...そんなわけないよね。だって、他の木の葉は緑だもん」
───真っ赤な葉を大事そうに抱えているのは、神社に被さる大樹、一本だけだった。
まるでその空間だけ、時が止まってしまったかのようだ。枯れ落ちることもなく、青色に衣を変えることもなく、今に至るまでずっと...紅いままだったかのよう。
「ん...涼しい。気持ちいいなぁ」
怪訝な表情で大樹を見つめていたけれど、横から流れてきたそよ風に、僕は考えるのをやめた。ぐちゃぐちゃに絡まっていた考えが、このふんわりとした風に連れて行かれてしまったみたいだ。
「...山の上だったんだ、ここ。風通しが良いのも納得だね」
風が吹き去っていく方向に目を向けると、眼下には桃源郷のような景観が広がっていた。人里らしき場所が点在していて、そこには古風な家屋が並んでいて。
浴衣や甚平を着た人々の姿も、ぼんやりとだが見えた。自分以外にも人が近くにいることを知り、僕は胸を撫で下ろす。
「もっと向こうには別の山があって...雲海かな、あれは」
さらに遠くには、もういくつかの山々。その間を悠々と流れる、白妙の綿雲たち。
───見惚れてしまうほどに、絶景だった。
きっと、この場所は元いた世界と違うのかも知れない。だけど、そんなちっぽけなことなんて気にも留められないくらい、この景色は綺麗だった。ずっと見ていられた。
舗装なんてされていない、まっさらな土の道を行き交う人たち。途切れることなく、ゆったりゆったりと進み続ける雲の群れ。
「...時間を忘れちゃいそう」
───いつかの夏祭りに、あの子と見た花火。その時と、どこか通ずる感覚があるように思えた。
(...あの子は、今どこにいるのかな)
元気ハツラツで、底抜けに優しくて、呆れるほどにお人好しで...だからこそ僕の初恋の人となった、あの白い狐の少女。
(この世界に、いるのかな)
”神様”の因果によって降り立った、ノスタルジックな別世界。きっと、彼女がいるとするならば。
(元気に、してるかな)
知らぬ間に、僕の前から消えてしまったあの子が、いるとするならば。
それは───
───トン、トン...トン......
「...!」
惚けていた僕の耳に、誰かの足音が谺した。
不思議な感じがした。瞳に飛び込んでくるあの風景があまりにも色鮮やかで、それ以外、何も考えられずにいたというのに。
この瞬間だけは。冴えたこの耳が、小さくか細い足音を捉えていた...いや、聞き逃してはいけない気がした。
迷いも、憂いも、惑いも、全て投げ打って。僕は咄嗟に振り向いた。
信憑性も、根拠も、何一つとしてない僕の予感。あえて悪く言うのならば、願望、欲望。
───そこに、貴女が居てほしいという、自分勝手な理想。
「君っ...はっ...!」
ここに来た時には気づかなかった、下まで続く長い長い石階段。
ちょうど、この神社まで登りきったのだろうか...あの時と全く同じ、薄まった輪郭が、そこに立っていた。
耳をぴょこんと生やし、毛並みの整った尻尾を揺らし───しかし未だ表情を見せてはくれぬ、その白い狐の少女が。
「...!...待って、行かないで!」
しかし、彼女は僕を見た途端。狐の象徴であるはずの可愛らしい耳も尻尾も、悲しそうにたらんと下げ、僕にくるりと背を向けて。
───そして、駆け出してしまった。
その様子は、まるで僕から逃げたいとでも言おうとしているかのようだった。
悲愴感を纏いながら先ほど登ったはずの石階段を下っていく姿は、僕の心を嫌というほど抉った。拒絶されているようで、辛かった。
「僕を...置いて行かないで...っ!」
だから、彼女を見失わぬように、僕も走った。震える足に無理やり力を込めて、地面を強く蹴った。
階段を下り始める。彼女は、まだ少し先にいる。
「どう、して...!!」
なぜ、なぜなのか。そう叫びたいほどに痛い思いを、僕は押し殺す。
一段、一段。時に飛ばして二段ずつ。
「止まって...止まって、よ...っ!」
息が上がる。足が痛くなる。肺が、胸が、張り裂けそうなほどに苦しくなる。
───僕の心が、苦しくなる。
冷たく涼しい空気を切り裂き、僕は彼女の背に追いつかんとする。階段を降りて、駆けて、下って。
(身体が、もたない...貴女に、逢いに来たのに...っ!)
”神様”は、僕の願いを聞き入れてくれたのではなかったか。
それとも、単なる悪戯に過ぎなかったのか。
神は賽を振らない。
これが定められた運命だとするのなら、僕はこれを生き地獄とでも呼んでやる。
(...頭が...痛い...っ!)
酸欠。身体が限界だと訴えている。視界が白く濁っていく。
(でも、まだ...諦めちゃ...)
それでも、積年の思いとやらは自分が思った以上に我儘だったようで。僕はどれだけ肉体が悲鳴をあげようと、足を止めなかった。
もう一度、貴女に逢いたいから。逢って、話がしたいから。
───忘れていて、ごめんねと、言いたいから。
「あぁっ...!!」
しかし、現実とはひどく残酷で、ひどく無情なもので。
僕は足がもつれた拍子に階段から転げ落ち、数十段下にあった踊り場に身体を打ち付けて止まっていた。
足音は、もうしなかった。
身体中に鈍い痛みが広がる。生暖かい何かが顔を滴っていく。
「...うっ、うぅ...うあぁ...!」
感情が溢れだす。止めどなく、滝のように。
「あぁっ...うあぁっ...!!」
涙がこぼれ落ちる。止めどなく、滝のように。
怪我をしてしまったからではない。負った傷が痛いからでもない。
───彼女に、嫌われてしまったのではないかと。もう、昔のようには戻れないのではないかと。
そんな悲痛な答えが、頭を過ぎってしまったから。
大人になってなお青く澄んだ心の内側が、初恋のあの子に抱いた初々しい恋情が、全て踏みにじられてしまった気がしたから。
だから、泣いた。
自分で止めることは、叶わなかった。
無理をしてまで走り続けた僕の身体に、淡い熱がほとばしる。顔も、顔を覆う両腕も、全部が眼から流れ出る滂沱の涙に濡れて。
冷たい現実に触れてしまった、僕の温い恋心は───やがて、露に濡れた。
「───ん!?おーいミオちゃん!人!人が倒れてる余ー!?」
最後の石段を飛び越えて、私は一つ息をつき、呼吸を整える。
後ろは意地でも振り向かずに、走り続ける。
(あの子の泣いてる声...ごめん、ごめんね...)
咽び泣く声一つとっただけで、私はあの少年を色濃く思い起こしてしまう。
───力を失くした神様である私を...誰にも見えないはずの私を、見つけてくれたあの子を。
カクリヨへ連れてきた彼を陰からそっと覗いてみようと、そこまでに留めるはずだったのに。白上神社の砂利道に立つ彼を見たら、逸る気持ちに我慢ができなくなってしまって。
気が付けば私は、階段を最後の一段まで登りきり、彼に近づこうとしてしまっていた。
なんて言えばいいかな、「久しぶり」かな、「ありがとう」かな、などと呑気に考えながら。
でも、いざ彼を前にしたら突然、心に晴れない迷いと明確な恐怖が生まれてしまって。
───彼と関われば最後...もう、後戻りできなくなってしまう、と。
結局、その迷いに打ち勝つことができないまま、私は彼から逃げてしまった。
きっと、この選択は悪手であっただろう。彼を深く傷つけてしまっただろう。
自分の───神様としての白上の在り方を守るために、大切な彼の想いを犠牲にした私は、大馬鹿者だ。
だから、今はこれを、私にできる精一杯の謝罪として受け取ってはくれぬだろうか。
───ごめんね。
───今度は、君の方から迎えに来てくれると、嬉しいな。
交わらない二つの想いは、すれ違っていく。