確かに、君はそこに居たんだ。
僕の記憶の中だけじゃなくて。
御伽話でも、空想でもなくて。
ほら、やっと逢いに来れたよ。
ほら、こっちを振り向いてよ。
───お願い、行かないでよ。
あぁ、その尻尾、柔らかそう。
あぁ、その耳、あったかそう。
あぁ。
あぁ。
その、
とっても、人懐っこそう。
「おーい、人間さまー?余の声聞こえてる?」
「ちょっあやめ!無理に起こそうとしないの!」
───声が聞こえる。しかしそれは、あの子のものでは無い。頭を打ち付けた影響か、なんだか反響しているようにも聞こえる。すこぶる気分が悪い。
僕の意識はまだ、微睡みの中で船を漕いでいる。うつらうつらと、進んでは止まり、止まっては進んでいる。目的地は何処か、それは僕でさえ知り得ない。
あの子に拒絶された。
僕にとってそれは、あまりにも大きすぎる痛みだった。やるせない感覚が、全身を蝕んで腐らせていくような、そんな痛み。
嫌気が差してしまう。
夢の中でさえあの子の姿を幻視してしまうほど、諦めが悪い自分に。
「───だってこの人間様、すごく辛そうなんだもん」
微かに捉えたその言葉に、だらしなく安心してしまう自分に。
僕は、どうしようもない大バカ野郎だ。
一度はあの子を捨て、二度にすいせいさんを捨て...そして今になって、そのどちらにも恋い焦がれてしまっている。
(こんな人間が、誰かに求めてもらえるわけないか)
自嘲、諦観、悲愴、空虚、淡い鈍色が混じりあったような感情に飲まれながら、僕はもう一度船を漕ぎ出した。
暗雲立ち込めるその先に、何かが待っていると信じて。
「あ...また寝ちゃった」
「そういうの、見ただけで分かるもんなんだねぇ...」
和紙の貼られた丸窓から、うっすらと陽光が差し込む。畳の上に敷いた布団で寝顔を晒している彼を眺めながら、ウチは苦笑を浮かべた。
カミとヒトが共に棲まう、俗世からはかけ離れた幻想の地───名をカクリヨと呼ぶ。
ウチ...大神ミオは、そんなカクリヨでのんびりと惰性に生きる、一柱のカミです。そこで彼の蕩けた頬をつついて遊んでいるのが、百鬼あやめ。よくウチとこの神社でたむろしてる、平たく言えば遊び相手みたいな子です。
「えへへ、人間さま〜?起きないの〜?」
(...あ〜も〜、自分で目を覚ますまでは寝かせておいてあげたいのに...)
まぁ、そんな自由気ままで脳天気なところもまた、不思議と可憐さを思わせるあやめの魅力なのかもしれない。
「んん〜...風が涼しくて気持ちいいねぇ...」
「だねぇ〜...ふぁ〜...」
丸窓から室内に抜けてくる金風が心地よい。夏が徐々に深けて、秋口の澄んだ空気が美味しくなってきた今日この頃。ウチはそのあまりのお散歩日和に、思わずあやめを誘って人里に出掛けてしまっていた。
(にしてもこの子...見た目からして、カクリヨの人間じゃなさそうだよね)
洋服からなる正装に身を包んだ、この土地には似つかわしくない服装。その様から、ウチのカミとしての勘が訴えかけていた───彼はマヨイビトの類であると。
マヨイビト───漢字に戻して迷い人。カクリヨではないあちら側の世界、いわゆるウツシヨから、そのいずこかに起る境界を潜り抜けてやって来てしまった人間を指す。本来ならば
おそらく、彼もその一人であるはず。ウチの勘はなかなか外れないのだ。
「やっぱり、ミオちゃんもそう思うんだぁ」
「えっ...ウチが何考えてるか分かったの?」
「えへ、何となくだけどね〜!ミオちゃん、顔に出やすいし!」
「えぇ...?ほんと、隅に置けないなぁ...」
何も考えないで呑気にふわふわしていそうなものだけれども、全くもって油断ならない。たぶん、他人の思考や感情を汲み取るのに長けているのだろう。あやめはそれを善行に赴かせているのだから、感心な事だ。
「うぅっ...うっ...ぁぁ...」
(...また、泣いてる)
ちょうど民家の様子を見て回って、いつも通り里の皆と顔を合わせ終えてきたところだった。神社の神域と人里の安息地とを結ぶ、長い長い石階段の中間。そこに彼がいた。
「ん〜...やっぱり余、心配だよ...」
「ウチもそれは同感...でも、ひとまずはこの子を休ませてあげないと」
一体どれほどの高さから転げ落ちたのか、全身が痣と切り傷でいっぱいだった。空気が薄いのもあって気を失っていたから、大慌てで神社に担ぎ入れて応急処置を済ませた...のだけれど、そのあまりに凄惨な姿には、ウチも流石に心を痛めた。
(この子が涙を流す理由は何...?体の痛み?いや...きっとそんな単純な話じゃない...)
何かが気掛かりで、喉につっかえるこの居心地の悪い感覚。引っかかったそばから感情がほつれて、塊となって...やがてそれは、ひとつの奇妙な答えを象った。
なぜかは分からない。根拠なんて無い、しかしながら古来より外れたことの無い、ウチの深層で行われる占い───カミとしての勘。
それが、告げていた。
どこかが、似ている。
ウチとあやめと───そして彼は。
共に、
かつて旧友が胡坐をかいて、のんべんだらりと...これまた惰性に生きていたこの地。ウチにとっては欠けがえのない、然して欠けてしまった、縁のある場所。
───白上神社の一室で、ウチは人知れず、身震いした。
フブキがウチとあやめの前から姿を消して、果たしてどれだけの時間が過ぎたのだろうか。おおよそ百年...あるいはそれ以上に長い悠久の時をフブキ居らずで生きてきたのかと思うと、今更ながらに恐怖と寂寥を覚える。
もう、顔すら思い出せなくなってしまった。
名も体も、記憶から掠れて凪いでしまった。
それでも、確かに
──────.......。
考えないようにしていた。
ずっと、遠ざけて、後回しにして、目を背け続けていた。
一つ。
カクリヨに限らず、この
神々はこれを───信仰と呼び、自身が神として顕現するためのエネルギーの源泉としている。
二つ。
カクリヨに限らず、この大和国に棲まう神々が他の何よりも恐れている、とあるもの。人々が自らへの信仰に興醒めし、食傷した果に辿り着く末路。
神々はこれを───
ならば、フブキは。
フブキは、今どこに居るのか。
────────────.............。
後者を...廃尊という、運命を...更に終わりなく延ばした、そのずっと先に。
きっと、居るのだろう。
向こうへ、行ってしまったのだろう。
ウチと、あやめを置いて。
───フブキの口癖は、なんだったか。
ウチとゲームをする時も、あやめと稽古を摂る時も、人里の子供たちに鬼ごっこを仕掛けられる時も、ご年配の方に手を差し出す時も。いつ何時でも、末尾は違えど、必ずいの一番に放っていた十八番のようなセリフ。
...あぁ、そうだった。
私は神様なんだから、ミオには負けないよーだ!あっ、まぁ...ミオも神様なんだけどね...えへへ...。
私は神様!いくらあやめちゃんが強くたって、そう簡単には行かないもんね!
こらぁ!私は神様なんだぞー!不敬だ不敬だぁー!!捕まえてやるー!!
私は神様なんですから、困っている方にお手をお貸しするのは当然です!
ぽつりぽつりと、遥か彼方からの想い出が浮かび、やがてそれらは鮮明な色と音をもってしてウチの記憶の戸を叩く。
そうだ、そうだった。フブキという、ウチが最も心を通わせたその一柱は。自分がカミであることに、何よりの誇りとプライドを持っていた。
だからこそ、どんな時も強い信念を持ち併せ、その得意の朗らかさをも駆使し、カミとして信仰されるに値する恩寵をもたらし続けてきた。
のに。
それなのに。
どうして。
「───ミオちゃん!ミオちゃんってば!!」
強く肩を叩かれる感触と急速に蘇る五感、それらと共に、ウチは意識を取り戻した。
「あっ...ごめんごめん、ちょっと考え事しちゃってた...」
「考え事っていうか寝てなかった?」
「...えぇっと...じゃあほんのちょっと寝てたかも...?」
「もう!じゃあってなに余ー!!」
「あっ、あは...ははは...」
不思議な時間だった。
例えるならば、揺り篭で眠らされているかのような。切なさと儚さが入り交じった記憶の狭間で、ウチはどっちつかずな感情に導かれるまま、旧友の面影を想起していた。
そしてその現実離れした体験が、再びウチの心に不可解な疑念を植え付ける。
(...
なぜ、このタイミングなのか。
なぜ、マヨイビトが目の前に現れた、今。この時なのか。
(この子は...何者なの...?)
度重なる形容しがたい現象に見舞われた末に、ウチはただただ怯えることしか出来なかった。
禁忌と希求は紙一重。