───ヴー...ヴー...ヴー...
不意に、こそばゆい感覚が足元を伝う。考えられるとすればスマートフォンの振動か。おかげさまですっかり目が覚めてしまった。
(くすぐったいなぁ、かゆいなぁ...もう少しだけ、寝てたいなぁ...)
睡魔が僕の肉体から手を引いてしまう前に、早いこと、この振動を止めたい。
だが僕の体は錆びついたブリキのように固まっており、うまく動かすことができない。全身にまとわりつく執拗な痛みのせいだろうか、それとも、心にのしかかる筆舌しがたい虚しさのせいだろうか。
───リーン、リーン...リリリリリ...
次いで僕の耳をくすぐるのは、秋の風物詩、虫の声。どうりで部屋を抜ける風が涼しいと思った。
(...なんだ。やっぱりもう、そんな季節だったんだね)
向こうの世界との時節の乖離が見られる。初秋...とまではいかないか。いずれにせよ、こちらの世界で残暑に苦しむことはないだろう。
夏の終わり。晩夏とか、夏の名残とか、秋の気配とか。そんな言葉で表されるくらいの季節だと思う。
...あるいは、僕がおおよそ数か月もの間、惰眠を貪っていただけという可能性も捨てきれない。
(今、何時...?ていうか日付は...?)
真偽を確かめるためにはひとまず、かの文明の利器が必要だ。軋むような痛みに歯を食いしばりながら、上半身を起こす。そしてできるかぎり慎重に、右ポケットに手を突っ込んだ。
(うぅ...体中ズキズキしてる...)
痛みを伴わない動かし方を探りつつスマートフォンを取り出すが、その頃にはもう、あの鬱陶しい振動は鳴りを潜めていた。着信元を確認したいのは山々だが、先に現在時刻を知っておきたい。
(...すいせいさんのダンスレッスン、ちょうど終わった頃かな)
僕がスタジオを一人で出発してから、おおよそ二時間以上が経過していた。なんてことはない。この程度の睡眠なんざ仮眠に等しい。
これで、僕が植物人間状態だったという仮説は消えた。あとは件の発信者の名前を確認して──
───不在着信、星街すいせい
(...は?)
心臓を、50㎃の電流が駆け抜けたかのような。脳天に、鋼鉄の槍が突き刺さったかのような。何かになぞらえるにはあまりに大きすぎる衝撃が、僕を打った。
再び思い出す。自分が何をしたのか、その事の重大さを。
虫の音が遠のく。首筋を中心に、全身が異常に暑苦しくなる。
まただ。また。浅はかな自暴自棄に、意識が収束する。
気が動転する。
何をすればいい。求められているのは何だ。何が正解なんだ。
どうすれば、僕はあの人を傷つけずに済むんだ。
(僕は、僕は...僕は...)
自分が犯した行動には、すべからく責任が付きまとう。遅かれ早かれ、罪を裁かれ、罰を受けねばならないときが、必ず訪れる。
今か。今なのか。
心の準備なんて都合のいい言葉は、罪人の辞書に載っていない。
ならば。逃げ道などとうに塞がれているというのならば。
向かい合わねば。
(ごめんなさい...ごめんなさい...)
───Prrrr...Prrrr...
語彙の乏しい腑抜けた謝罪が、言霊となって胸を締め付ける。耳元で鳴り響く無機質な音が、死刑執行へのカウントダウンに聞こえた。
───ツー、ツー、ツー
(...え...なんで...?)
応答なし。つまるところ、たった数十秒の間に、すいせいさんは通話が不可能な状況に陥ってしまったということ。
わからない。彼女の身に何が起こっているのか。この状況に安堵している自分は何なのか。理解しようにも、わからない。
知りえないものに、人は恐怖する。自分が置かれた状況を恣意的に解釈する自分に、僕は恐れをなしている。皮肉で、滑稽で、なんとも低俗だ。
(...なにが、どうして...?)
例えるならば、僕に下された判決は、執行猶予付きのもので。
だがそれは、再犯の有無にかかわらず罰となって降り注ぐもので。
僕が全霊を以て償わねばならない、確約のもので。
(今更、後悔しても遅いんだ。後悔することも、許されないんだ...)
もぬけの殻になったスマートフォンを布団の上にぽとりと取り落とす。ぼふ、と凹んだ肌触りの良い生地を傍目に、僕は天井を仰ぎ見た。
(...?)
ヒノキの木目調が心落ち着く、そんな温かい和室に居座っていることに、たった今気が付いた。
「え、ぇ...え...?」
まるで漫画のような状況に錯乱を禁じ得ない。改めて思い返してみれば、石階段で派手に転倒してからの記憶が完全に抜け落ちているではないか。
「ちょっ...すみませ~ん!どなたか、いらっしゃいませんか!いたっ...」
慌てて布団から這い出ようとしたところに、再び鋭い痛みが顔を覗かせる。杭か何かが打たれているかのようだ。全身が布団に磔にされているがごとく、もぞもぞと、無様にうねることしか叶わぬ。
「はぁ~ぁ...」
ため息をついて正面を見る。
目の前に、桜の文様が刻まれた二枚組の襖。寒い冬を乗り越え一斉に開花する桜は、「物事の始まり」を象徴するものであると以前何かで読んだことがある。
(...暗に、僕のこちら側での生活の始まりを意味してるとも捉えられる...かな)
左側には、慎ましく開かれた丸窓。この建物は随分と高い場所に建立しているらしく、遥か彼方の山々がちらりと頭を出している。
(あの神社の中なのかな...?景色が似てるような...)
その手前には、小ぶりな観葉植物が可愛らしく置かれた床の間が見える。陶器の小鉢に身を包んだそれらは、このブラウンカラーの和室と調和し、ボタニカルな雰囲気を醸し出している。
───ドタン...バタン、ドタバタドタバタ!
一つ深呼吸を置いて、激しい足音が鳴り響く右方向へ顔を向ける。素人目でもわかる上質な和紙が張られた障子に、まさに今、背丈の低いどなたかの影が映り──
───バァン!!
どう考えても過剰な腕力によって、僕の居住スペースはさらなる拡張を遂げた。ド派手に御開帳された障子の安否が気になるところではあるが、鬼の少女の弾けるような笑顔がそれを阻止する。
「やぁ!人間さま!気分はど~ぉ?」
「...あっ、え...それなりに...?ていうか障子は大丈夫ですか...?」
さながら一面の花畑が広がっているかのような天真爛漫さ。生まれてこの方、こういったタイプの人とは関わりがなかったもので、お恥ずかしながら戸惑いが隠せない。
「あやめ!?力加減に気を付けてっていつも言ってるでしょ!また凹んだらどうするのさ!?」
「壊れるギリギリを攻めるチキンレース!!」
「意味わかんないよ!?」
次いで現れた狼耳の女性が、鬼の少女を嗜める。その様は、年頃の娘をもった母子のそれにしか見えない。蚊帳の外に追いやられた僕は、ただひたすらに沈黙を貫くのみである。
「後で境内のお掃除でもしてきてっ、もぉ〜!!」
「えぇ~!?そんなの聞いてない余~!?」
母子だなぁ。
「あっごめんね!起き抜けに不躾を...あやめも謝って」
「んん~...余は不服を申し立てます!」
「おつかいも追加しようかな」
「ごめんだ余...」
母子だなぁ...。
嵐のような邂逅を経て、少し落ち着きを取り戻した室内。狼耳のお母さまに白湯が入った湯呑を頂きながら、今は色々と話を伺っている。
「...というわけで、君にはしばしの安静期を課します」
「そうですかぁ...外に出ることも叶わないとは...とほほ...」
「この神社の中だけなら平気だ余!だから元気出して、人間さま!」
分かってはいたが、かなりの重症のようだ。逆にこれほどの傷を負って命がある方がおかしい、とまで言われてしまった。
不思議なことに骨は無事らしく、鬼の娘さんが言うようにこの建物内の移動は自由だと。それと...やはりと言っては何だが、ここは最初に降り立った神社で間違いないらしい。
「...隠す必要もないから、率直に聞くんだけどさ」
「ん?はい、なんですか?」
湯呑に入った残りを一気に飲み干す。少々はしたないかもしれないが、僕はそれ以上に、狼お母さんの妙に沈痛な面持ちが気になって仕方なかった。
「君、この世界の住人...ではないよね?」
体が強張る。唐突に空気が重くのしかかった。女性の隣でにこやかな表情を保つ鬼の少女のミスマッチ感が、僕の呼吸をさらに荒くする。
だめだ、まただ。情緒がぐちゃぐちゃにねじ曲がっていく気色の悪い感覚。息が詰まる、焦点がずれていく、波打つように鳥肌が立つ。
「大丈夫。何も君を責め立てるつもりはないの。ウチの推測に確証をもたせたいだけ」
推測と言えども、それは限りなく100%に近いものだ。わかっているに違いないでしょう、なんて口が裂けても言えない。取り調べで自白させられる被疑者の気分だ。
「...はい。僕は...別の世界から強い想いを引っ提げてここにやって来た、大馬鹿野郎です」
全てを打ち明ければ、心も軽くなるのだろうか。向こうからしたら迷惑極まりないだろうなと、なぜか他人事のように思う自分がいる。心底図々しい。
「──ここは、カクリヨと呼ばれる、カミとヒトが共に棲まう幻想の地。対して君が元居た世界、ウツシヨは、その対極にある科学の地」
息を呑む。この重厚感、この圧迫感。否が応でも意識を向けさせられる、明らかな荘厳さ。おそらくは、彼女たちが「カミ」と呼ばれる不滅の存在。
瞬きする暇もない。覚悟はしていたのに、いざ言葉にされると心が拒否反応を示し始める。
「そして君は、
一言一句、違わぬ事実。故に、僕は何も話せない。
流し込まれる情報を咀嚼し、飲み込み、そして嗚咽に悶えるのみ。
「マヨイビト...厳しいことを言うけれど、居てはならない人間なんだ。君は」
体温が下がる。心拍が勢いを失っていく。「居てはならない」という排他的な言葉が冷たいガラスの刃となって、僕に深く突き刺さる。
何も、言えない。言えども、変わらない。これが僕の犯した罪の全容だ。
「でもね、人間さま。余たちは君にいじわるをしたいわけじゃないんだ余」
「...?どういうことですか...?言われずとも、僕は罪を償います」
自己嫌悪がピークに達していた僕は、なんの躊躇いもなしにそう言い放った。張り詰めた和室に、微かに笑い声が木霊する。
「罪なんてそんな仰々しいものじゃないよ。たまにあるんだ。こういうことが」
「...そう、なんですね」
「うん。今までウチが出会ったマヨイビトも──最後はその人自身の力で、ちゃんとウツシヨへと帰っていったよ。だから君も、きっと大丈夫」
ウツシヨへの帰還...それは、絶対なのだろうか。あの子の隣で、添い遂げたいと思い続けてしまう僕は、馬鹿げたことを言っているのだろうか。
「...マヨイビトはね、みんなが何かしらの
「未練たらたらで、大人しく指しゃぶって帰れるわけない余ねぇ」
天命。たった漢字二文字に押し込むには、到底もったいなさすぎる言葉だと、僕は思う。切り取られた意味だけが注視され、あぶりだされた残りは淘汰される。
「だから教えてほしいんだ。さっき君が言っていた...『強い想い』ってものを」
僕が背負った天命。僕が御伽の世界...カクリヨへと足を踏み入れた、最大にして唯一の理由。言葉にしてしまってもいいのだろうか。そもそも、それが果たされることはあるのだろうか。
畳八畳ほどの和室で、一人のマヨイビトは思考に耽る。迷いが迷いを生み、僕は──
「僕の...目的は...」
あの子に、逢うこと。
逢って、話をすること。
話をして、笑い合うこと。
あの人懐っこい
───笑顔...?
「どうして、顔が、思い出せるの...?」
体が震えた。
一瞬、自分の想いがついに病的な範疇に踏み込んだのかと思った。
大丈夫、幻覚じゃない。僕の想像じゃない。
あの子だ。あの子の、笑顔だ。
嫌なことを全て忘れて、ふにゃりと安堵してしまうこの感覚は。
十数年前に失ってしまった、あの──
お願いだ、もうどこにも行かないでくれと、心が叫んでいた。
体が感情に追い付いていない。きっと嬉しいんだ。嬉しいのに、なぜか。
涙が、止まらないんだ。
相反する自分自身に板挟みにされながら、僕はただ。
ノイズがきれいさっぱり消え去った、あの子の表情を。
触れば雪のように解けてしまう、繊細な表情を。
色濃く、まばゆく、温かく...思い出せる今のうちに。
神さまの前で醜態を晒すことさえ厭わず、ありありと想起し続けた。
「──やっぱり、君は...」
狼耳の神さまが何かをぼやいた気がしたが、それが僕の耳に届くことは終ぞなかった。
───はぁ...はぁ...はぁ......
視界がぐらつく。
頭が割れるように痛い。
寒い。体が冷えて、動かない。
───ざぁー...ごろごろ...ざぁー......
濡れた服が、心も、体も、重たく蝕んでいく。
神社。白上、神社。
この丘の上に、あの人が。
雑踏に、力が籠る。
───ザッ、ザザッ、ガサッ
ぼんやりと目に映る、苔むした階段。
幽かに見え隠れする、鬱蒼とした草。
───どう、して。
呼吸も忘れて、駆けのぼった。
あの人を思い、駆けのぼった。
くすんだ、赤い鳥居の向こう。
雨でぐしゃぐしゃにされた、寂れた境内。
───......。
誰も。
誰も、いない。
とうとう、座り込んでしまった。
スマートフォンが、滑り落ちた。
───ぽつぽつ...ぽつ......
滴る雨粒が、放り出されたスマートフォンの。
画面に。
───不在着信、マネージャー
感情が、こと切れた気がした。
もう、何も思わない。
痛みも薄れた。
足に力を入れて、鳥居をくぐる。
───ぐじゅ、ぐじゃ...ぐじゅ......
濡れた木の葉が、潰れる。
私の心が、潰れる。
───ざぁぁー...ざぁぁぁー......
拝殿。
湿気で、腐りそう。
───ぐじゃ...ぐじゃ...ガリッ......
音。
違う、音。
賽銭箱の前。
彼の、財布。
小銭だ。
散らばってる。
これを踏んだんだ。
あ、五円玉。
ご縁、だって。
あは、おかしい。
ぽっけのなか、どろだらけだ。
だいじに、だいじに、しまっておくの。
いまは、これだけ。
これだけが。
あのひとがいたことの、しょうめい。
わたしと、あのひとをつなぐ。
おまもり。
つかれちゃった。
このかいだんで、ねてたらさ。
あのひとが、むかえにきてくれたり。
しない、かなぁ。
歯車を廻そう。