せめて、笑っていよう──食卓を囲み、眼前で綻んだ笑顔を見せるあやめさんを見て、ふとそんな考えが脳裏に浮かんだ。
今の僕に記憶は無い。それは確かだ。僕は時間と共にあの子を思い出し、自分を忘れていっている。記憶を薪に、あの子への愛情をぱちぱちと燃やし続けている。
「...美味しい。和食は元気の源ですね、ふふっ」
だから、笑っていたい。せめて自分が自分である間だけでも、穏やかでありたい。
「──そう、思ってしまうのは...悪いことですか?」
いつの間にか、あやめさんもミオさんも、箸を置いて僕を見つめていた。じっ、と。責めるでもなく、慈しむでもなく、ただじっ、と。
ツギハギに誤魔化した「僕」というパペットは、そのさり気ない優しさに、じんわりと心が華やぐ感覚に陥った。いっそ溺れてしまいたい、とまで思ってしまった。
「...この不思議な気持ちも、いつまで覚えていられますかね?」
「──さぁね、人はどうにも忘れる生き物だから」
ミオさんの顔が、僅かに翳った気がした。
「──記憶喪失、ねぇ...」
「いざなってみると面白いもんですね。考えがまとまらなくて、奇妙な感覚です」
あやめさんが小首を傾げながら声を漏らす。その色は懐疑ではなく、諦観に近しい。対して僕は楽観的だった。そうでもしないと、今にもプツリと「僕」が途絶えてしまいそうだったから。
「本当に何も思い出せないんだよね?」
「はい、何にも。お味噌汁の味は覚えてるんですけどね、大和魂極まれり」
そう言って一口、お付けを啜る。舌に馴染むこの味はやはり、僕の記憶喪失の任意性を証明していた。
ある面、都合よくできたシナリオだ。喪った記憶は「僕」というアイデンティティのみ。生活に支障はなく、故に「僕」は歩みを止められない、咎められない、それを理由に逃げられない。
「──天命」
「余ねぇ...」
言葉は介さないが、確かに今、僕とミオさんとあやめさんは同一の答えに辿り着いたらしい。
天命という。
「記憶喪失は、そのタイムリミットが針を進め始めたことの兆しだよ」
「世知辛い余...余たちには介入のしようがないから...」
「.......」
どんよりとした空気では美味い飯も味が落ちる、とは昔からよく言われてきたことだ。ただでさえ心労の種になっている手前、もはや自分のせいで2人の気を落とす真似はしたくなかった。
だからほら。笑っていろって。
「いずれ択を迫られることは分かっていたことです。覚悟はもとより、罪悪感に駆られて動いているようなものですし。だから大丈夫、これは僕の問題ですから」
無理に口角を吊り上げている自覚はある。果たして2人の目に、今の僕はどう映っているのだろうか。
自分でさえ自分を見失っている以上、人にどう見られているかなんて知ったことじゃない。
それを言い訳にするのは忍びなかったが、この作り笑いが2人を更にいたたまれなくしていることにまで、今の「僕」は気が回らなかったのだ。
──あぁ、ここは「僕」じゃなくて、僕か。
「自分が自分でないみたいです。言うなれば...ほら、『あ』っていう文字を見続けてると、それがバラバラになって...子供のラクガキのように見えてくる...」
「...ゲシュタルト崩壊、的な?」
「あっそうです、それそれ」
この直感に訴えるような感覚を平易に直せば、まさに
見つめれば見つめるほどに、「僕」は児童向けのだまし絵のように身を翻す。手を伸ばせば伸ばすほどに、「僕」はぐちゃぐちゃなラクガキへと型落ちする。
一旦忘れよう、と思った。もう忘れているのにね。
「...食べ終わったら、書斎に行こう。君に見せておかなきゃ」
「──?」
ぼーっと、ミオさんを流し見た。
「本当はもう少し後になると思ってたんだけど...時間は待ってくれないみたい」
「...えぇ、もちろん。全ての人に平等に、得てして残酷に与えられているのが、時間というものですから」
面白い。今日の僕は
ミオさんが腕によりをかけて作った食事は、どこか懐かしい味がした。この懐古の感情は、真か偽か、
事故や病気で四肢を欠損した人が、稀に「無いはずの部分が痛む」という感覚に陥ることがある。「幻肢痛」──「ファントムペイン」と呼ぶらしい。
それに倣えば、僕のこの望郷の念は「ファントムノスタルジア」とでも言うのだろうか。やけにしっくりくることからして、嫌な勘は当たっているらしい。皮肉なものだ。
「洗い物くらいすぐ終わるよ。水につけておけばね」
「余っ!お皿洗いはおまかせあ~れ~!」
「そこまで急を要するんですか、一体なにを?」
ミオさんの足取りがやけに忙しい。それが僕──あるいは「僕」に残された時間の短さを象徴しているようで、少し吐き気がした。
「マヨイビトはみな一様に、それぞれの天命を授かってやって来る」
歩を進める先は、僕が借りていた和室の更に奥。陽の光と影の割合が逆転し、木々の間からギャップが生じている、その先。何本かの光が導のように差し込んでいる、古い木製の扉。
迷いなく、ミオさんはその寂れた金のドアノブに手を掛け、軋んだ音を響かせた。
「──懐かしい」
「むふふ〜!この部屋、いい雰囲気だ余ねぇ〜!」
「ファントムノスタルジア」──とも言い切れない妙な感覚。そも記憶が無いなら、その感覚の真偽は50/50だろう、なんてシラケた話ではなく。50/50と言えば「シュレーディンガーの云々」、とか言いたい訳でもなく。
「...こういう場所に、来たことがあるような」
「デジャヴってやつですか!?」
「いえ、ではなく...」
来るべきところに、回帰したような──。
「──君も、そう言うんだね」
「...『君も』、ですか」
踏み入れて、ふと木枠の窓から落ちてきた陽射しを見やって、頷いた。
鳥居が、立っていた。
石造りの、苔むした鳥居が。
僕を見下ろして、微笑んでいた。
直感的に理解した。ここが、僕の帰る場所なのだと。マヨイビトとウツシヨを結ぶ、開祖の──。
「...ここに連れてきたマヨイビトの子は、全員が口を揃えて言うんだ。『帰りたい』『帰らなきゃ』って」
「包まれてる〜って思うんだって!余も分かる!その感じ!」
菩薩をその奥に幻視するかと思った。優しくて、泣いてしまいそうだった。帰らねばと、本能が、「僕」が、訴えていた。
「──『迷ふべき童の帰り道は、願ひ果たされやうやうさまを現す』」
戸棚からいくつかの文献を取り出したミオさんが、振り向いて唱える。
「『長く幽世に居らば、魂失ひ、物の怪となる』」
机にそれらを広げて、一つ一つ頁を捲っていく。捲られる度に漂う埃が、どれだけ古い書物であるかを如実に示していた。
「『物の怪となりて尚、幽世にゐ続けし者は、遂には泡沫となりて忘れ去ねらるべし』」
少なからず古典の造詣がある僕は、その意を汲んで立ち尽くした。驚きも恐怖も後悔もなく、ただ「そうかぁ」という納得に落ち着いていた。
次いでミオさんは、もうひとつの文献を開いた。
「──『大和に住まふ神々は、信仰を生にて、廃尊を死とす。尊を廃せられし神々は、形失ひ、物の怪と化す』」
一文、一文。複数の文章を飛ばし飛ばし指でなぞられながら、事実を反芻して嚥下する。
「『物の怪となりし神々は、世の人より氣を奪ふ。故に、寂れし土着には近づくべからず』」
事実...事実を。
理解しろ。
(「僕」は今まさに消えかけていて、あの子は今まさに忘れられかけている)
(「僕」はあの子に奪われ続けていて、あの子はそれを拒み続けてきた)
──事実を。
(...なるほど、確かに)
あの子は僕から、逃げている。
──涙が、煤けた床を穿った。
「...『神々の息吹を甦らするには、信仰取り戻すや、荒びし土着を祓ふべし』──」
体は、震えなかった。心は、その限りじゃない。
結ばれた。点と点が線となり、しかし像とはなり得ない。
迫られた択の惨いこと。観念の範疇を飛び越えたそれが、僕を、「僕」を苦しめる。
「...君は、どうしたい?」
指先を伝う本心が、さてはまたもや嘘ではないかと慄いている。
終わりのない自問が、地を這ってやって来た。
(僕は...僕は、「僕」は、僕...は──)
「ウチたちは、君の決断を受け止める。ここから先は君次第。今すぐウツシヨに還すことも、カクリヨに留まらせることも...ちょっと大変だけど、頑張ればできちゃうから」
あ、
「...でも」
あぁ、
「──その十字架を背負うのは、君だけじゃない」
ぁぁぁ、
僕は考える。
禁忌と希求を天秤に掛け、考える。
灯篭の薄明りに照らされた本棚を見やり、考える。
本と本の隙間と心に空いた穴を重ねながら、考える。
埃っぽい空気を肺に入れながら、考える。
体の震えと全身を伝う冷汗に眉をひそめながら、考える。
いつか来たる運命の時を想起しながら──「僕」はただ、考える。
monologue.