おねーさんから好かれるが全員病んでる天与呪縛 作:アストラの直剣
「右だ」
声に従い右に曲がると路地裏へ入った。夜ってだけで暗いのに、灯りひとつない路地裏は足元さえ不確かだった。
「真っ直ぐ進め」
「……この暗闇の中で?」
「まっすぐ」
微かに動く頬の口はただ方向ばかりを告げる。
路地裏には室外機や配管が密集しており、とてもじゃないが人が走れるほど整理されているとは思えない。仮に今が昼間だとしても、目で見て避けねばなにかにぶつかるだろう。
夜という時間帯もあってか、路地裏に差し込む光はない。真っ暗闇の中を走り抜けるには勇気が必要だった。
そんなかろうじて道と呼べる光景に絶句しながらも、僕は肩で息を整え、迷うことなく路地裏へ足を踏み入れた。
走らざるを得なかったのだ。
僕のような素人でも分かるくらいの、明確な命の危機が背後から迫っていたから。
ときどきつま先に空き缶が当たり、カラカラと高い音が鳴った。夜目が効かないので、物にぶつかるかどうかは運次第で、半ばヤケになって走り続けた。
「ハァ、ハァ……」
幸い障害物にぶつかることはなかった。
それが当然だとでも言いたげに、師匠は次の指示を出した。
「左だ。とにかく足を止めるな」
言われた通り、左へ向かうため足を踏み込む。すると、疲労からかぐらりと姿勢が揺らぐのを感じた。倒れそうになるのをどうにか立て直し、もう一度道を走り出す。
幼い頃からの道場通いで鍛えている方だと自負していたけれど、力ばかりで持久力はないのかもしれないなと思った。
かれこれ三十分もの間、全力疾走を強いられていたので、すっかり息が上がっていた。
「持久力も今後の課題だな」
「お小言はっ、また、後でっ」
見慣れた街並みも、夜になると姿を変える。
昼は人で賑わう往来も、その隅に暗がりがあるだけでいっそう不気味に感じられた。
こんな時間帯じゃ、灯りをつけている家なんてほとんどない。
街灯も少なく、ただ師匠の言葉のみが道標だった。
(命懸けだってことは、覚悟していた!)
……けれど、いざ命を狙われると人は困惑する。初めての体験に、どうすればいいのかがまるで分からなかった。
「しかし、いきなり呪術師と鉢合うとは……運が悪かったな」
溜め息混じりに師匠はつぶやいた。
気を紛らわすように、僕はその言葉に頷いた。
そう、わけあって僕は呪術師から逃げていた。
ことの経緯を振り返るなら、一時間前の家を抜け出したころから説明せねばならない。
師匠が放った「実戦に出るぞ」の言葉に誘われて、家族が寝静まった頃に僕は家を抜け出した。
抜け出す、とは文字通りのことだ。夜遊びが許されるほど養親は放任主義ではないので、見つからないように自室の窓から抜け出した。こういうとき、一人部屋でよかったと思う。
しかしもうじき夏とはいえ、夜の外気は肌寒い。もう少し厚着してくればよかっただろうかと、身体を暖めるために駆け足で家から離れた。
まあなんとなく、家から離れたい気持ちもあった。駆け足で家から離れたのにはそういう理由もあった。育ての親に断りを入れず外出したことへの罪悪感が少なからずあったのだ。
だがなにより、呪霊を倒して街を少しでも安全に保ちたいという気持ちが、ここ数日の間で高まっていた。少しでも自分になにかできるのなら、そうしたいと強く思うのだ。
そんな僕の気持ちを察したのか、師匠は冷ややかにこう言った。
「京介、浮ついた気持ちがあるなら家に戻ろう。その感情は
「大丈夫です。……呪霊の怖さなら、理解しています」
鳥の呪霊に殺されかけたときのことは、今でもはっきりと思い出すことができる。
あのときのことを思い出し、深呼吸をすると、まるでスイッチを切り替えたかのように気の迷いが取り払われた。
「ならいい」
それだけ言って、師匠は次の言葉を継いだ。
「呪霊は様々な場所にいる。特に人の思いが集中しやすい場所には、よく集まる」
「学校とか、病院とか、そういう場所に多いって話でしたけれど……今日はそういうところに行くのですか?」
「いや、その必要はない。この街は異様だ──わざわざそんなところに行かなくても、そこかしこに呪霊がいる。……はずなのだが」
と、そこで師匠は言い淀んだ。
一体どうしたのだろうと、僕は辺りを見回す。そこで一つ、気付いたことがあった。
「そういえば、今夜はまだ呪霊を一体も見かけませんね」
「ああ、やけに静かだ……呪霊の反応が明らかに少ない」
呪霊の反応、とやらは僕には分からなかったが、周囲を見る限り呪霊らしき存在は一つとして見当たらなかった。
まあ、呪霊なんて見える方がおかしいのである。僕にとってはこのなんの変哲もない風景が至って当たり前のものだった。
だが師匠にとってはそうでないらしい。引っかかることがあるのか、悩むように嘆息をついて考え始めた。
「…………」
「良いことじゃないですか。きっと、呪術師の人たちがやったんですよ」
「それにしては、減りすぎだ」
「減りすぎ?」
「呪術師は一週間前にもいた。あの頃からちまちまと呪霊を狩っていたようだが、街全体への影響は微々たるものだった。……だが、今夜はどうだ? 昨日と比べて、明らかに街の様子が違う」
「……一週間かけて狩り尽くしたというわけじゃないんですか」
「呪霊の姿は、今日の夕方も見たろう?」
そこで僕は黙った。確かに変だと思ったからだ。
遅れて、周囲に注意を配る。
呪霊は見当たらない。人影もない。街はすっかり夜に沈み込んでおり、静かな暗闇がそこら中にある。
月明かりでさえ眩しくって目をつむりそうになるくらい、この街は暗い。
そんな暗闇の中で、一つ輝くものがあった。
爛々と輝くそれは、血濡れたように真っ赤で、獣のように生暖かい蒸気を発していた。動脈のように波打つ刀身の光は、確かに、こちらを見つめている。
「日本刀……?」
初めに抱いた印象はそれだった。自分でもなぜそう思ったのか分からない。
朧げに現れた光は、ゆらゆらと暗がりを進んでくる。一歩一歩、フラフラとこちらに向かってきている。
「構えるんだ、京介」
師匠が言う。僕は動けない。光はだんだんと近づいてきている。
「構えるんだ」
師匠が言う。僕はまだ動けない。光はすぐそこまで迫っていた。
「構えろ」
跳ね飛ばされたように、咄嗟に右腕を前に出す。呪力で強化された皮膚は滅多なことでは傷つかない。だが、肉を切り裂かれたような熱い感触と、骨の軋む音が確かな感覚として伝わってきた。
「────、──」
そこでようやく気がついた。僕は
(呪術師か?! 一太刀が重い……! 腕が痺れる!)
感じたことのない衝撃に戸惑いながら、距離を取るため後退りした。だが合間は一瞬で詰められ、休む間もなく刀が襲いかかってくる。
「急所への直撃は避けろ! 呪力を腕に集中させて守れ!」
師匠から供給された呪力を両腕に集中させる。全身を包み込むよりも、こうして特定の箇所に集中させた方が高い出力を出すことができた。身体の大部分における防御を捨て去ることによる簡易的な縛りといえるだろう。
一度、二度と刀が振られる。時には刺突もあり、そのたびこちらも何とか腕を使って、はね返すなり受け止めるなりし、生身への直撃を避けた。
ただそれで終わりでなく、相手の呪術師は勢いを削ぐことなく連撃を繰り広げた。息を吸う暇もないほどの無数の手数をもって僕に襲い掛かってくるのだ。
化け物じみた力と速度、また意味の分からない姿勢から繰り出される刃に困惑しつつも、どうにか僕は生きながらえていた。というのも眼前の呪術師の太刀筋は良くも悪くもまっすぐで、かろうじて反応できたのだ。
致命傷になり得る部位を的確に狙う殺意の高さには驚きだが、かえってその愚直さが分かりやすくもあった。
それでも防ぐのがやっとで、反撃しようだなんて意思を持てる隙は一つとしてなかった。
呪力の強化による防御を行ってこの有り様なのだ。生身であればアッサリと三枚に下ろされていただろう。それほどまでに、力、手数、スピードにおいて僕は遅れをとっていた。
(なんとか生き残っているのは、道場での修行のおかげかもしれない──)
ふと真希さんの顔が思い浮かぶ。ここ最近、徒手空拳での組み手の他に刀やら槍やらを持って立ち会うことがよくあった。そうした経験が少なからず活きていると実感する。
(けれど、このままじゃいつまで経っても平行線だ──きっとそのうち、僕が隙を見せた瞬間に殺される)
刀をいなしつつ、つい呪術師に目が行く。
呪術師は儀式に用いるような、細やかな刺繍が入った和装を身に纏っていた。目立った装飾品はつけておらず、磨き上げられた大理石のように冷たく滑らかな肌が和装の合間から垣間見えた。
目に光はない。この夜の中でなによりも暗い瞳が、こちらを見定めるように睨め付けている。
呪術師とはこういうものなのか。こうも冷たい目をしているのか。
まるで機械みたいだ──
──攻防の最中、ふと目と目が合った気がした。
僕はそのとき、一瞬、動きを止めてしまった。
「馬鹿者!」
師匠の怒る声が聞こえる。我に帰ったときには既に手遅れだった。目の前にいる敵は、一瞬の隙を見逃さなかった。
濡れた金属のように空間を裂く刃は、目、舌、喉、腹といった人体の柔らかな場所を狙い、舞踊のように大胆かつ無駄のない動きで各所を切り刻んでいった。
無論、僕とてまったくの無抵抗だったわけではない。いくつかはどうにかはじき返し、また身をそらすことで躱した。だが防ぎ切れなかった一閃が、腹を切り裂いたのだ。
「!」
ピシャリ、と飛沫の飛ぶ音がする。線を描くようにしてアスファルトの地面に血が飛び散っていた。
(やられた!)
かろうじて致命傷は避けられたが、あと数センチ違えば命に手が届いていたのではないかと思われるような深手である。
痛みで表情が歪む。実感として得られた生命の危機に、全身の筋肉が強張る。
眼前の敵は、未だ勢いを緩めない。切り返す刀で今度は首元を狙って──
「████」
誰かがなにかを呟いた──すると僕の身体は車にでも轢かれたように後方へと吹っ飛んだ。
一体なにが。
ガラゴロと金属の音が鳴る。どうやら道の突き当りにあるゴミの集積場まで吹っ飛ばされたらしい。
状況の把握が上手くできていない僕に対し、
「起き上がって、走れ!」
と師匠が檄を飛ばした。
顔を上げると、先ほどまで僕がいた位置に例の刀使いが立っていた。どうやら向こうも突然の出来事に驚いたようで、疑い深くこちらを観察している。
「ほら、早く!」
よろり、ふらつきながら僕は立ち上がり、走り出した。
そういったわけで、冒頭の逃走劇へと話が戻る。
謎の呪術師との追いかけっこは終わりの気配を見せなかった。追いつかれぬよう走るのが精一杯で、それ以上の発展はない。この状況は非常に不味かった。
師匠曰く、「呪術師の仲間が来るとどうしようもない」とのことだった。今は追っ手が一人だからなんとかなっている。けれど追っ手が二人や三人に増えてしまうと、逃げ切るのは困難になるだろう。
こうしてただ走り回っているだけじゃ、どうしようもないのだ。
「少し休憩しよう」
公園に逃げ込み、茂みに隠れると、師匠はそう言った。
「さっき斬られた傷を見せてみろ」
言われるがまま、上のシャツを捲る。
腹筋の縦筋を断ち切るように、真っ赤なラインが腹部に浮かんでいた。内臓まで刃は達していなかったが、かなりの傷であることに違いはない。
「世話のかかるやつだ……。後で治してやるから、ひとまずそれで戦え」
「戦えって……」
思わず不満の声が漏れる。
呪術師の見せた剣技は尋常のものではない。防ぐだけでやっとだったのに、怪我を負った状態で戦うというのは、負け戦に思えて仕方がなかった。
だが師匠はそうとは考えていないらしく、呆れたようにこう話した。
「あの呪術師と対峙したとき、私がなんと言ったか憶えているか?」
「確か、構えろと」
「そうだ。逃げろとは言わなかった。……それはお前が、あの呪術師を十分無力化できると思って言ったことだ」
迷いなく師匠は言う。
僕が、あの呪術師を無力化できると、真っ直ぐな言葉で言ったのだ。
それはある種の信頼とも言えるだろう。それに応えたい気持ちは十分にある。だが……自分にそれができるとは、思えない。
「ですが」
「怖いのか? ……相手が人だから」
「!」
図星を突かれた思いだった。腹の傷なんかよりも、師匠の言葉のほうがよっぽど痛い。
そう。僕は怖がっていた。
初めて祓った鳥型の呪霊──あれに殺されかけた記憶は今でも恐ろしく感じる。だが、あれを祓ったときのこと──頭蓋骨をあっさり砕いてしまう呪力の強さに、僕は言い知れぬ恐怖を感じていた。
(人を守るための力と自分を騙してきたけれど、そうじゃない。人をあんなふうに殺してしまえる力でもあるんだ)
それは自分の望みじゃない。誰かを傷つけたいとは思えない。
けれど無抵抗のままだと、僕はあの呪術師に殺されるだろう。呪術師の目を見ればわかる。話し合いが通じる人間だとは思わなかった。
「京介、なにを躊躇うことがある。相手はお前が守りたいと願う一般市民ではない。明確な敵だ」
「…………」
師匠の言うことは、理解できる。
きっと呪術界というのは、こういう殺し殺されが当たり前なのだろう。自衛のため殺すというのは至極まっとうだ。僕自身、あの呪術師になにも思っていなければ、戦う意思を決めていたかもしれない。
けれど、僕の気持ちは違っていた。
あの一瞬──呪術師と目が合った時、こう思ったのだ。
とても美しい目だと。
機械のように虚ろで、暗く淀んだ血色の瞳であっても。
ただ殺戮のみを本能とする不純なき浄化された目が、とても美しかったのだ。
(人は、殺したくない)
その気持ちは変わらない。
それになによりあの目を見てしまうと、殺せない。もうこれ以上人を殺させたくない。
だからこそ、殺し以外の手段を選ぶ。
(刀を折って、無力化する!)
その決意を胸に、僕は茂みから飛び出た。ちょうど呪術師も僕らに追いついたころだった。
続きは早くに出ると思います。(もともと一話だったのが書いていると長くなったので、半分にして投稿したため)