先に作品を読破してからの閲覧を強くおすすめします。
———そして、またピアノは奏で始める。
少し、別の世界の話をしましょう。
いえいえ、そんなに時間は取りませんよ。〝時間〟に纏わる話ではありますが、ね。
それは独りの少女の即興曲、或いは幾つもの人生が折り重なる交響曲。
生まれながらに親殺しの罪を背負った少女は、運命の導きか悪戯か、噴水へ吸い込まれる。
水を抜けたで待っていたのは、少女が生まれる前の世界。そして、初めて逢う母との再会。
様々な拒絶、不安、理不尽に囲まれながらも、少女は必死に母の背中を追いかけ、女帝としての生き様を学んでいく。
やがて少女は母と暮らすうちに、今の自分が幸せだと感じるようになる。
だが、世界は変わらず残酷で、少女は未来という過去から目を背けているだけだった。
原罪に気づいた少女は絶望し、自らを道連れに運命を変えようとする。
だが、それを阻んだのは真実を知り……運命を受け入れた母の、何より大きな愛だった。
胸に抱かれ、背中を押され、生きる意味を与えられた彼女は、再び未来に産まれ落ちる。
そして少女は再会した父親と共に、自らの手で新たな楽譜を書き足していくこととなった……
簡単な要約ですが、こうしてとても奇妙な、しかし儚く美しい音の調べは一旦演奏を終えました。
しかし、物語にはまだ続きが、もう一人の遺された者の章があったのです。
物語が始まるのは、それから半年————
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昼休憩、低木の葉に露が滴り、紺碧の空を泳ぐ雲が午後の風を運ぶ。
午前の座学を終えた学園生徒たちが次々にグラウンドに飛び出していく頃。
待ち合わせやクールダウンで賑わう渡り廊下を外れ、トレーニングジムの裏手に向かっていく黒鹿毛の少女。
顎まで覆うほど伸ばした前髪は右の目をほとんど覆い隠し、けれど脚を前に運ぶ度、なびく髪の隙間からは深く澄んだ群青の小宇宙が覗いてる。
彼女の名はショパン。
〝女帝〟と呼ばれたウマ娘を母に持つ、稀代のロマン派作曲家の名を与えられたウマ娘。
そして、極めて数奇な、時間さえ超えた奇跡と愛を受けたウマ娘だ。
成長を見込んだワンサイズ上の濃赤のジャージを羽織り、リボンで隠れてしまう程小さな耳をひょこひょこ揺らしながら、これまた小さな足は慣れた動きで中庭を進んでいく。
目的地はコンクリートとタイルレンガの幾何学的なモノクロを彩る、広葉樹と低木を中心とした並木道。
毎日、トレーニング前にこの鮮やかな花壇に立ち寄ることが、今の彼女の日課だった。
「フラワーさん、何か手伝うことはありますか?」
蛇のように地を這うシャワーホースを追いかけ、木陰に見えるは芝生にかかる小さな虹。
「液肥を取ってくるので、後の水やりをお願いできますか?」
「分かりました!」
いつものように管理人に声をかけ、倉庫に向かう彼女からホースを受け取る。
ニシノフラワー、年齢不相応な童顔と、年齢相応の包容力で一部の生徒からカルト的人気を誇る、学園屈指の魔性の事務員だ。
そのマスコット的な魅力故、礼節を重んじるショパン以外の生徒からはほとんどタメ口で親しまれている。
実際30代を過ぎているにも関わらず、身長は平均以下のショパンを僅かに離す程度。
これから二次性徴が進めば、あと半年で彼女の優位性は永久に失われてしまうだろう。
尚、恋愛的好意を抱いた者は謎の芦毛ウマ娘によって制裁を受けるとの噂があるが、真偽のほどは不明である。
ショパンはシャワーノズルを回して拡範に切り替え、母譲りの手捌きで対岸の低木に散水していく。
〈〝散水は潤沢に、均一に渡るようにが基本だ。だが必要以上のやりすぎは禁物だ。根腐れの原因になる〟〉
遠い日に叩きこまれた感覚を呼び覚まし、葉の光沢具合で土壌の水分含有量を推察し、適切なタイミングでトリガーを離す。
「そろそろキンモクセイが咲きそうですね。液肥を持ってきたので、調子の悪い子がいたら差してあげてください」
「は、はい!」
倉庫から戻って来たフラワーから2、3本の液肥を受け取ると、今度は緑の薬莢をポッケに装填し、地べたに肩を擦りながら低木の幹を診察していく。
〈〝足元に留意しろ! 踏むんじゃないぞ〟〉
今も耳の裏には、あの柔らかくも覇気に満ちた声が焼き付いていた。
蕾を多くつけた木に葉の張りが無いのを見抜き、片手スコップを効き手に持ち替え近くに小さな穴を掘る。
かつて母に教えて貰った、液肥の成分が表層で流されないようにするテクニックだ。
幸いショパンが治療した株以外の異常はなく、5分遅れで開始した手入れは5分早く完了となった。
昼休憩も終わりに近づき、首筋の汗をタオルで拭いながら、二人は道具を戻した倉庫を施錠する。
「お疲れ様でした。今年は美化委員が少ないから助かります」
「いや、私はただのボランティアですから……」
さりげなく、まるで人生の修羅場を潜り抜けたような謙遜するショパン。
その達観したような目線に形容しがたい疑問を覚えたフラワーは、言葉を引き出すよう訊ねる。
「ショパンちゃんは、どうして毎日ここに? 委員会活動は中等部2年からですよ?」
「……おかあさんが、好きだから」
胸のペンダントを両手で包みながら、ショパンは幼い声でしっかりとそう答えた。
生前、エアグルーヴは女帝として、この花壇を慈しみ美しく保つことに誇りを持っていた。
——その想いを、今度は私が背負っていきたい。
「私の力が、少しでも誰かの助けになれるなら、できる限り力になりたいんです……!」
それはかつて、自分が母親から生きていく力を与えられたように。
かつては人見知りで及び腰でも、今のショパンには自分の意志を貫く頑固さと打たれ強さがある。
なんだかどこかの誰かさんに似ているなと、フラワーは昔見た最速の7秒間を駆ける紅星を思い浮かべた。
「ショパンちゃんはいい子ですね。うちの子にしたいです」
「そ、そんなにいい子でもないですよ? 昔、ここを滅茶苦茶にしちゃったことあるし……」
「昔……? ショパンちゃんは今年入学ですよね?」
「あーッ! そ、それは
「へ~、子どもの1年前はもう昔なんですね~……何だか羨ましいです」
「かっ、からかっても何も出ませんよ!?」
ぽんぽんと頭を撫でられると、遠い昔の大失態が羞恥と大反省を誘発する。
顔面を赤に青に点滅させる姿は、まだまだ年相応の中学生だ。
陽は頂上を通過し下り坂に、間もなく1時を告げる鐘が響く。
「ていうか、もうこんな時間! フラワーさん、私もう行かなきゃ!」
耳をピクリと震わせ、ショパンは瞬時に全自動ほっぺこねくりマシーンから離脱する。
「何かご用時ですか?」
「あ、はい、理由はわかんないんですけど、理事長さんに呼ばれてて……怒られないといいんだけど」
義務感と憂鬱を晴れ渡る空に対比させながら、ショパンは校舎の方へと再び駆けていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「し、失礼します……!」
ノックを3回。否、緊張で手が震え、ノックを4回。
然れどその扉の隔たりの向こう側から入室を許す言葉はない。部屋を間違えたのだろうか。だが、室名札には間違いなく記されている。
『理事長室』と。
ショパンは扉の取っ手に手をかける。ここで待ちぼうけを貰うのも少しばからしいと思ったからだ。扉に施錠はなされていなかった。
「理事長さん、この時間にって言ってた筈なのにな」
待ち合わせ時間は間違っていない。呟きと共に確かめた、その時。
「すまない、入ってきてくれ!」
珍しく焦っているような、上ずった声が扉の向こうから突き抜ける。
言葉の意味をそのまま担保とし、ショパンはわざとらしく丸い頬を更に丸く膨らませて入室した。
まず目に映ったのは、窓に対して直角、扉から直線上に配置された執務デスク。
シンボリとしての志もインテリアの志向も、生徒会長時代と大きく変わらないらしい。
「失礼します。連絡を受けて来ました、中等部1年のショパンです」
「突然呼び出してしまってすまない。よく来てくれたね」
その中心、革張りキャスター付きの玉座に構え、その威圧は宛ら馳せ参じた勇者に相対する魔王。
シンボリルドルフ——かつて皇帝としてその名を世に轟かせ、また就任期間の最長記録を持つ学園生徒会長として、類稀な才を振るった人物。
——そして、副会長としての母を誰よりも知る人。
「それで……本日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
「そんなに畏まらなくていいよ、君の事ならよく知ってる」
どこかの
若干老け込みはしたものの、元より年不相応に大人びていた彼女に抱く印象は、20数年前で見たあの姿とあまり変わらない。
かつて腰のあたりまで伸びていた後ろ髪はうなじを過ぎた辺りでカットされ、ワックスで伸ばされた毛並みがカジュアルさと律義さと両立させていた。
学生時代の眼鏡は伊達だったと風の噂で聞いたが、今の眼鏡は本当に度が入っているようだった。
「そ、その節は大変なご迷惑を……」
「気にしなくていい。君が無事だったならそれで充分だ」
求肥のように白く上品に膨らんだ唇は、すっかり染み付いた癖で謝罪を口にする。
ショパンが世間一般的に行方不明となっている1ヶ月、URA幹部役員だったルドルフは報道規制を含めた関係各所との交渉、対応や知人である近親者へのメンタルケアに追われ、一日の睡眠時間が3時間は切っていたという。
未来から帰還した後、入院中に『そのベッド、次に私が寝ているかもね』などと笑いながら聞かされた事で、ショパンは顔面蒼白になりながら『生きねば』と固く胸に誓ったのである。
「就任したてで多少散らかっているが、まぁ気にしないでくれ。君の席はある」
鹿毛のセミロングを靡かせて、くいっと眼鏡を奥に押し込んだ理事長は、右手に携えていたペンを書類をの脇に置き、応対用の少しだけ草臥れたソファを指す。
だが、ふとショパンは彼女が向けていた視線の先に気が付いた。
部屋に充満する、換気していない埃の匂い。コーヒーの渋が染み付き、重ねられることも無くゴミ箱から溢れた紙コップの群れ。
隅に丸められた寝袋は、この部屋の主がもはやこの部屋に生息していることを示している。
そして辺り一面を支配する、恐らく見てはいけないタイプの書類とファイルの山、山、山。
副会長が存命なら、今この瞬間に彼女は鬼籍に入っているレベルだ。
理事長交代の際に室内の全面的な改装が行われたと聞いたが、成程、最近のカーペットはコピー紙でできているらしい。植物繊維を使用した新手の植樹だろうか。
これを多少と評するなら、この世に特殊清掃員は必要ないだろう。と、ショパンは心の奥で呟いた。
「それにしても、随分立派になったものだな。昔の私なら、きっと副会長としてスカウトしたがるだろうね」
『いや、昔の貴女は私を詰問攻めにした挙句拘置所まがいのところにぶち込みましたよ』と、思わず恨み辛みの五寸釘を目の前の藁人形に打ち込みたくなったショパンだが、寸前で思いとどまる。
攻めるのも無駄だと、心の底では察していたからだ。
あの日、噴水から始まった夢のような、けれど確かに存在した日々から4ヶ月。
授業にも追いつき、行方不明の後処理に追われた毎日は徐々に日常に戻りつつあったが、彼女には未だ拭いきれないひとつの違和感があった。
——私以外の全員が、過去で会った私のことを覚えていない。
初めのうちは秋名……父親との認識の齟齬から始まった。
過去で父と観戦したレースの話を振った時、秋名は酷く驚き「よく知ってるな」と娘を褒めた。
まるで記憶のアーカイブから〈ショパン〉の項目だけがすっぽり抜け落ちたように、父も、職員の人も、副会長も、会長ですら何も憶えていなかった。
それだけではない、学園図書館に収蔵されているあらゆるレース記録や学園だより、生徒会新聞。それら全てから自分に関する項目、言及が抜け落ちていた。
まるで、神が奇跡でも起こしたみたいに。
唯一残っているのは、おかあさんが遺してくれたCDと手紙だけ……
無論、あの再会と過去で過ごした時間が嘘だと疑っているはずがない。
母との再会は、決して都合のいい理想郷では無かった。
迫害され、拘束され、常に疑念の目を向けられ続けた。
しかしそんな地獄の中で、女帝から託され、受け継いだ幾つもの言葉、強さ、愛情、意志。
それらは決して消えることのない喪失の痛みと共に、今も彼女の胸に勲章として刻まれている。
だから自分は、「逢えてよかった」と思い続けてられているのだ。
「それで、私はどうしてここに……」
視界に入った湯気に回顧録を閉じ、向かいに腰かけたルドルフに問う。
衛生管理上の懸念のため、紅茶は相手が口を付けてからカップを持つ。何の変哲もない、美味しいアールグレイだった。
「すまない、本題を伝えていなかったね。実は理由あって文書に残せないんだ」
口頭でしか伝えられないこととは何だろう。と首を傾げるショパンの傍らで、理事長は一度、次の話題へと言葉を翻す為に呼吸を整える。この話をするのならば、
「君に会いたいという人がいる」
後編へ続く……