【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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アズカバンの囚人④

 冷たくて熱い感触が容赦なく突き立てられ、引き抜かれ、また突き立てられる。悲鳴を上げる暇もなく、また声を上げるなんて考えもしない。

――これだから

 膝を突く。これだから。なんだろう……いかれたやつは。いきなり刃物を持ち出すやつがあるか。

 かなり深いのだけはわかる。肋骨をくぐりぬけ、内蔵を傷つけているだろう。幸いかな、心臓のあたりでなく下腹を狙って……いやこれは幸いなのか。無駄に痛いだけで……。

 せめて、刺したままでいてくれればいいものを。血が流れる。何分の一の血を失えば死ぬのだったか。

「お前なんて」

 生かされているようなもんだ。冷たい声。蹴られる。なすすべもなく転がる。なにかをしようという気力も失せている。

――シリウス・ブラックの子だから

 ウィスタを憎み、刃を振るう。呪文で切り裂くなんて生ぬるい。もっと残酷に、派手に、知らしめたいと。

 相手は何人? 二、三……。グリフィンドール。わざわざ狙ってくるなんてご苦労なことだ。

 声が出ない。熱いなにかに浸食される。何度も蹴られ、手を踏まれ、石段を転がり落ちる。地下……厨房が近い。

――こいつら

 頭が悪いんじゃないのか。すっかり血に酔っている。見つかってもいいということか。

「どうせ……のゆるい女が――を開いて……」

 いや開かされてか? リーン・リアイスもバカな女だよ。せせら笑う声。これほど邪悪ななにかを聞いたことがない。

 眼が熱くなる。

――こいつら

 なんていいやがった?

 意識が冴える。立ち上がろうとする。

「うっそだろおい」

 まだ動けるか。紅が襲いかかる。肌が焼ける――腕輪の癒しが、ローブの守護が、ウィスタに力を与える。

 ぼた、と血が垂れる。ぼた、ぼた……。

 こいつらだけは。

 母をおとしめるこいつらだけは。必ず始末してやる。

 冷気が『冬の息吹』から流れ込む。ああ、こいつも怒っているのだ。

 黄金のグリフィンは。

 侮辱には相応の報いを下す。

 指を鳴らす。左手をかざす。白い顎が、眼を見開いたままの愚か者を呑み込む。悲鳴の形に凍り付いた唇。はためいたまま止まったローブ。完成した白い彫像三つの彫像。

 指を鳴らせば腕が落ちる。首を落とすのは最後にしようか。次はどこを落とそうか。再び指を鳴らそうとして。

「駄目だ!」

 誰かが猛然と飛びついてきた。

「十分だ。だから」

 やめるんだ。震える声に瞬く。

「セド……?」

 力が強い。羽交い締めにされ、身動きもできない。ああ、誰かがすすり泣いている。坊ちゃま坊ちゃま。しっかり……と。妖精たちの、小さな影が……。

「だって、あいつら」

 俺の母親を、舌がもつれる。視界がかすむ。ああ、始末しなけりゃいけないのに。

 世界が光を失っていって、やがて真っ暗になった。

 ◆

「グリフィンドールの愚か者は報いを受けたから安心なさい」

 威厳のある声に言われ、ウィスタは頷いた。上等な寝台の上に身を起こし、ぼうっと『その人』を見る。引っ詰めた髪。若い頃はとびきりの美貌だったのだろうなあと思う、上品な顔。淡い色の眼。品格という衣を着た魔女。

「……始末し損ねたと」

「ウィスタ」

「あいつら、俺の母親を売女みたいに言いやがった」

「――隻腕にしてやったのだから我慢なさい」

 ホグワーツ副校長、変身術教授、グリフィンドール寮監はぴしりと言った。が、両の眼がぎらぎらと光っていて、襲撃犯どもの発言を許していないのは明らかだ。

「で、なんで俺は先生のお部屋にいるんですか」

 安全のためです。言って、マクゴナガルはウィスタを寝かしつけた。

「私の守りを破ってまで、あなたに危害を加えようとするものはいないでしょう」

 各種の守りと呪いで固めましたからね。先生が言うのだからそうなのだろう。先生は凄腕である。寮監のスネイプのところに放り込まれるくらいなら、マクゴナガルのほうがいい。

「あの者たちは退学させ、ある程度治療が終わればアズカバン行きです」

 死の呪文を使ってやればよかったなあ、と今更ながらに思う。やはり冷静ではなかったのだ。正当防衛でどうにかなったろうに。なにせウィスタは火傷切り傷打撲滅多刺しで死にかけたのだ。しかも複数の毒を塗ったナイフで滅多刺しなのだから、相手の殺意のほどが知れる。

「死の呪文はなりません。いえ、そもそもなぜ知っているのです」

 考えが口から漏れていたらしい。心配をいっぱいに浮かべているマクゴナガルに返した。

「リアイスなんで。半分だけですし、望まれてなかったらしいですが」

 投げやりに答える。たぶん無理矢理どうこうされたか騙された母親が哀れだった。どっかの時点で気づいて、堕ろしてくれればよかったのに。

――なんで産んだのか

 守ったのか。ヴォルデモートと対峙したとき、ひょっとしたら母だけでも逃げられたのではないか。夫の裏切りを知ったのだから。ウィスタを見捨てればよかったのだ。

「リーンは、あなたのことを大切に思っていました」

 ぽつりとこぼされたつぶやきに、顔をしかめる。椅子に腰かけた女史の、憂いの深い顔を見た。そういえば、ファッジがブラックについてどうこう言っていた時は肯定も否定もせず、ハグリッドがブラックをけなせばさりげなく止めていた……。

「ろくでもない男との間の子でも?」

 ぴしりと返せば、マクゴナガルの眼が潤んだ。いつだってしゃんとした女史のこんな顔……どうすればいいかわからない。ウィスタが悪いみたいじゃないか。

「裏切りの真実はわかりません。でも……あなたは、望まれて、祝福されて生まれてきたのです」

「嘘を、」

「リーンは望まなければ産まなかった。辛い子供時代を過ごしてきたのですから……ブラックとてそうでしょう。あの二人は、家族の……あたたかい家族の形を知りませんでしたから。でも、」

 あなたを抱いて訪ねてきたとき。

 二人は本当に幸せそうだったのですよ。

 どうかそれだけは信じてください、ウィスタ。

 

 

 

「――で、グリフィンドールは大減点。寮杯をとる見込みはなくなった」

 椅子にふんぞり返り、ざまを見ろと言わんばかりに口にしたマルフォイにただ頷いた。

――寮杯なんてどうでもいいのだが

 マルフォイにとっては違うらしい。どちらかというとグリフィンドールが負けるのがうれしいのだろう。

「それよか俺の話題で持ちきりだろ」

 つ、とマルフォイが眼を逸らした。見舞いの品を山盛りにした籐のバスケット片手にやってきたときの、自信と達成感にあふれた様子が消し飛んだ。

 マクゴナガルの守りは幾重もの呪文と、課題という名の試験だった。どうも一年生から七年生まで各種取りそろえているらしく、クイズ形式であるらしい。マルフォイはぎゃあぎゃあ言いながらどうにか解いていた(歴代魔法大臣をすべて答えよとか。地理に関する問題とか)。

「……あー……それは……えーと……」

「ブラックの息子ってバレた?」

「……………………うん」

 ため息しか出ない。それくらいしかすることがないのだが。なにせ怪我人である。包帯とガーゼまみれで、定期的にとりかえて薬を塗らなきゃいけない。やってくれるのは往診に来てくれるマダム・ポンフリーだ。彼女は大層お怒りだった。癒者の使命感から、ウィスタを襲ったバカどもは治療したもののそれとこれとは別だ。

「心配するな。お前は完璧に被害者だ」

 多少の怪我ならともかく、とマルフォイは顔をしかめる。

「現場はすごい有様だったらしいし、お人好しのディゴリーが激怒しているし、明らかにお前は殺されかけたわけだしで」

 お前を襲おうなんてやつは出てこないだろう。

 これは復帰したら覚悟しないといけないかもだ。今をときめく大犯罪者の息子なのがバレたわけで、実力行使こそないものの、陰口その他はあるだろう。

 ウィスタが眼を覚まし、話せるくらいは回復したという噂がどこからか広まり、マルフォイだけでなく、何人か見舞いにやってきた。もちろんその中にはリーマスもいて、奇妙に気まずい時間を過ごすはめになった。

 君は不義の子じゃないから。あのリーンが君を産んだということはそういうことだ。無理矢理(ここでリーマスは吐きそうな顔をした)なんて無理無理。リーンはそいつを八つ裂きにしたろうよ。

 じゃあなんでリーンがブラックと結婚したか?

「私にはわからないよ」

 リーマスは肩を落としていた。マクゴナガルの課題にすらすら答えていた大人の余裕はどこかに行っていた。ちなみに難易度は教職員用もとい高等魔法試験より上。どうやら魔法省員採用試験級らしかった。

「わからないばっかりだな」

 ついつい声が尖る。死ぬほど心配させているのもわかっているし、案じられているのもわかっている。そもそもリーマスにウィスタを養育する義務なんてものはない。養父は律儀に約束を守っているだけだ。だからウィスタはリーマスに感謝こそすれ、八つ当たりするべきではない……はずなのだ。

 大人は親切心から隠していたのだろうが、蚊帳の外にされてたまったものではない。リーマスもマクゴナガルもダンブルドアもほかの大人も隠していたのだ。ブラックの息子どうこうを知っていれば、ウィスタだってもっと警戒したろう。恨みを持つ者がいるかもしれないと。

「二人が学生時代に付き合って、結婚したのは事実。君が二人の子だというのも事実」

 生き写しだよ。

「ブラックにそっくりだし、眼はリーンの色だし……」

 リーマスはため息を吐いてうつむいた。

「誤魔化せなくはなかったが」

 君がレギュラスとリーンの子だということにしてしまう手もあったよ。

「誰だよそいつ」

「ブラックの弟。君の叔父。消息不明……彼とブラックはよく似ていた」

 ふうんとだけ返した。純血家門は血が濃いものらしい。ブラックと弟――ウィスタの叔父が似ていても不思議はない。ついでにマルフォイはウィスタの又従兄弟らしいと発覚した。ナルシッサがブラックの従姉なのだ。

「……が、それをしてしまえば、リーンが夫の弟と不義を犯したことになる。彼女の名誉は守らなければならなかった」

 だから伏せた。

 ウィスタは養父を見た。うつむき、肩を落とし、ひどく惨めそうにしている彼を。ウィスタを悪意から守ろうとしている男を。

「あんた、ブラックに会ったら……」

 喉が粘つく。

「始末するつもりか?」

「吸魂鬼がやつを捕まえるだろう」

 私の出番はないと言いながら、どうしてそんなに冷たい声を出すのか。やるつもりなのではないか。

――それなら

 ウィスタが片づけるべき問題だろう。リーマスに手を汚させるわけにはいかない。ブラックがなにを思い脱獄したのか。なにを考えて十二年間の沈黙を破ったのか謎は多い。だが、明らかにして何になる。狂った犯罪者の考えなど知る意味などあるのか。

 どうせなにをしたところで。

 母が生き返ることはないのだ。

 アズカバンの囚人はウィスタの手で始末してやる。

 

 

 

 マクゴナガルの室から無理矢理脱出する頃には、クリスマスなんてもんはとっくのとうに終わり、ついでに冬休みも終わっていた。二年生の時なら悔しがっていたろうが、今はどうでもいい。

「……ブラックが幽霊だって言われたほうがまだいいんだが」

 どうなっているのか。グリフィンドールの部屋に手紙が落ちる。差出人はナイアードだ。『谷』の近辺に姿はない。やはりホグワーツ――森にでも身を潜めているのだろう、と。

『杖なしでこれほど長期間潜伏できるとも思えない。彼はどこかで杖を手に入れたのかもしれない。だとすればそれは』

 弟のレギュラスのものかもしれない。

 舌打ちが漏れる。手紙をにらみつけた。ウィスタは「ふざけんなあんたら知ってたくせに隠してたな俺は去年散々父親は誰かって聞いたよな! ブラックの最新情報はないのかよ!」をなるべく丁寧に――いや、ほぼそのまま送った。そしたらまったく返事になっていない返事が来た。

「消息不明の叔父の杖とか知るかよ。どうやって手に入れんだよ。どうせそいつも死喰い人……」

 うう、と小さな唸りが聞こえる。ウィスタは枕にしているスナッフルズを撫でた。機嫌が悪そうだ。ウィスタがグリフィンドールの部屋に入ってきたときは大騒ぎして飛びついてきて押し倒されたのだが。そんなに遊んでほしかったのかと思ったら、穏和しく枕になっている。でかい犬っていいね。ふかふかだし。

「あー……だとしたら、リーマスが俺の出生のねつ造を検討しないか」

 というか、本当にねつ造してそれがバレたらドロドロの三角関係で……。

「兄弟で一人の女を巡って争うわ、夫の弟と通じる悪女に……」

 奇妙な音がした。悲鳴じみているそれは、スナッフルズのものだ。ん、と背後を見れば灰色の眼にありありと驚愕が滲んでいた。犬ってこんな顔するもんだっけ。

「ブラックとリーンは互いに貴族の出だ。交際にも婚姻にも慎重だったし」

 不義などなかった。

 祖先のネフティスがウィスタをたしなめる。

「でもあいつは逃亡犯だ」

 他に誰が裏切るっていうんだ?

「……百歩譲ってブラックが無実だったとしよう。なら……なら、真っ先に俺に会いに来てもいいんじゃねえか」

 結局母は快楽のはけ口にされたのだろうし、父だという男は息子のことなんてどうでもいいのだろう。闇の陣営に華々しく帰還するための手みやげ扱いだ。

「場所を突き止めて、どうにかしなきゃ……でも杖を持ってるとしたら」

 熱が上がってくる。解毒はしたし、怪我も治療したけれど、身体ががたがたになっている。もう動けますとマクゴナガルやマダム・ポンフリーを押し切ったが、本当は寝ていたい。

――眠るわけには

 あいつを始末しなきゃいけないのに。

 瞼が降りていく。身体が重い。

『私は、』

 本当は。

 細い細い声が聞こえる。涙に濡れた声。

『あなたと……結ばれてはいけなかったのに』

 巻き込んではいけないのに。

 シリウス。

 胸をかきむしられるような、締め付けられるような声だった。ああ、なにか言ってやらないと。そうしないときっと壊れてしまう。

『もう巻き込まれてる。俺は構わない……それに』

 俺が軽い気持ちで、――を重ねたと思うか?

 何度でも言おう。

 とっくのとうに腹を括ってるんだよ。リーン。

 ◆

「ややこしいことになっちまった」

 はあー……とシリウスは天を仰ぐ。卵形の天井には、黄金のグリフィンが躍っている。善なるものの象徴。勇気の証。

「リーンとレギュラスがどうこうとか、狂ってるのか。まったくリーマスときたら……んな捏造してくれなくてよかったよ」

 ぶつくさ。十二年の間に独り言が多くなった。周りは狂っていて、話す相手もいなかった。

 眠ってしまった息子を抱え――驚くほど軽い――寝台に転がす。布団をかけてやり、熱冷ましを飲ませ、汗を拭いてやった。

 誰かを看病するなど久しぶりだ。悪阻に苦しむ妻の面倒をみたのが遠い昔のことのようだ。

 本当なら、小さな息子の看病をする機会はあっただろう。あのような別離さえなければ、平和に暮らせていたならば。

――成長を見守れるはずだった

 読み書きも計算も教えてやれず、魔法の手ほどきもしてやれず、箒の乗り方も教えてやれず。親としてなにもしてやれなかった。

 椅子に腰かけ、息子の頭をそっと撫でた。

「お前はきっと俺を始末したいんだろうが」

 そうはさせない。

「やるべきことがある。だが――あれの首を獲り、そのうえで俺の冤罪が晴らされなければ」

 罪人の父なんて、足かせになるだけ。お前の汚点になるだけ。

「ならば」

 

 俺はこの命を

 お前にくれてやる

 

 

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