もはや、たいして必要のないものだ。彼は紅の眼で黄金の杖を見やる。伝来の宝であった。癒し手一族の象徴……もっとも優れたる力を持つ者が継承する。
――優れるもなにも
彼の一族は離散した。マグルと魔法族は近かった。近すぎた。そのせいだ。マグルに癒しを施したが、助けられなかった。彼は助かる見込みはないのだからやめておいたほうがいい、と言った。マグルと魔法族は違うんだから。父母に言っても無駄だった。助けを求める者がいる。ならば手を尽くす、と言って。
そして、逆恨みされたのだ……と遠い過去を思い出す。襲撃は深夜であった。マグルどもがやってきた。いいや、マグルどもだけならばよかったのだ。その中に魔法族がいた。癒し手一族の力をほしがる連中が。
混乱の中、父母は殺された――のだと思う。彼は逃がされた。黄金の杖を持って。癒し手一族は隠れるしかなかった。隠れ、ほうぼうに散ったのだろうと思う。彼が頼るべき場所はなくなった。
――そして
ここが帰る場所になった。床に座り込む。白い床だった。壁も天井も白い。台座に挿さる黄金の色が、ひどく美しく思えた。
「……役に立つのか」
これが。
呟き、振り向く。壁に寄りかかるようにして立つのは女だ。黒髪に紫の眼を持つ魔女。希代の先視は肩をすくめた。
「たぶんな」
時の一枝において、大悪を貫くであろう。
「あれこれ噛み合えばの話だが」
遠い先に生まれる子孫が、巧いことしてくれるだろう。
「子孫か」
「私の血が濃く出る者が現れる」
先を視るにしても、限界があるのだ。己の生が終わったその先まで視ることはできぬ、とされている、と彼女は続ける。
「お前はできる、と」
「悪戯な神に愛されているのでね」
彼女の唇が弧を描く。しかし、眼には寂寞としたものが映っていた。先視ゆえの苦しみがあるのだろう。干渉できる値は限られる。さて、未来を視ることと、過去を視ることのどちらが苦しいのか?
「あくまで原則は、だ」
例外はあるし、視たものが己の「先」のことなのかどうなのか、不明瞭なことはある。そして時は気まぐれだ。
「……未来は」
ふ、と問いがこぼれた。馬鹿げた問いだった。
「明るいか?」
「そうであればいいと思っているよ」
彼女は囁く。
「私はな、サラザール」
神の恩寵を、世の苦しみを祓うために使いたいんだよ。
――これが
お前の視たものなのか。
彼は――彼の名残は、螺旋杖を握ったまま立ち尽くす。脅威は去ったようだ。空いた片手を胸に当てる。とくりとくりと脈打つ鼓動を感じ取った。
四つの血筋が、この身に宿っている。彼の末裔。彼らの末裔。
血の記憶が彼に伝える。戦いの歴史を。対立の歴史を。
夢は破れたのだ、と理解した。彼の悪しき側面が、あのろくでなしを誕生させた。そして彼の良き面は、この器に引き継がれたのだろう。螺旋杖を受け継いだ末裔。絡まり合った血の呪縛に苛まれる者。
こんなはずではなかった、と思う。このようになる運命だったのだとも思う。
彼はマグルが嫌いだった。憎かった。
彼は魔法族も嫌いだった。憎かった。
なにもかも滅びてしまえと思っていたこともある。
「……お前は」
ぽつ、と声がする。星の眼を持つ者が、彼を見ている。器の父であろう。
どこともしれない墓場で向かい合う。
「名残、欠片。なんとでも呼ぶがいい」
ふう、と息を吐く。吐いたつもりになる。確かなことはなにも言わないほうがいい。男――器の父とともにやってきた者たちがいる。彼らは少し離れた場所からこちらを窺っている。灯火の眼を持つ男はなにを考えているかわからない。逆に灰緑の眼を持つ娘は、彼に向かってかすかに首を振っている。下手なことは言うな、ということだろう。ふと思いついてノクトか、と唇を動かす。ゴドリックの従者だった……。直感のままに問いかけ、明確な答えはもらえなかった。それでもわかった。あれはノクトであろう、と。血の記憶。魂の記憶。なんでもいいがそういうことだろう。
「頼んだ」
誰ともなしに言う。彼は過去の影、ただの名残だ。できることは限られる。
己が悪心の始末をつけることもできず。
己が良心を守ることもできない。
ロウェナ。神に愛された女。神の眼を持つ先視。
お前はこの未来を見越していたのか。
絡まり合う糸、もつれあう意図、交わった血の先。もはや彼の血は呪われたものとなった。
こんなつもりではなかったのだ。器に流れる血、その記憶は彼に訴える。ゴドリックに言ったことは、激情に駆られてのことだった。
――まさか
千年先まで続くとは。誰も思わないではないか。
「時間切れだ」
ほろほろと、彼の輪郭がとけていく。名残は名残でしかなく、影でしかない。つかの間の幻だ。
最後に、螺旋杖を撫でた。
「どうか」
この罪が浄められますように。
己が良心が、悪心を打ち倒しますように。
真の末裔が、どうか幸せになりますように。
サラザール・スリザリンは。
マグルが嫌いだった。憎みもした。
魔法族が嫌いだった。憎みもした。
みんな滅んでしまえばいいと思っていた。
それは本当だ。心の半分はそうだった。その半分は後に狂った。
残りの半分は、彼らとともに理想を追い、学び舎をつくった日々を美しいと思った。どこかで思っていた。こんな日々が続けばいいのに、と。
それは叶わなかったけれど。
あの日々がなければよかったとは思わない。
七つの禁を犯した者よ。いいや、あらゆる罪を犯した者よ。我が末裔よ。哀れなる者よ。
お前には、共に歩む者がいなかったのだ。
しかしそれは理由にはならぬ。
お前は倒されなければならぬ。
怪物の末路は決まっているのだ。
紅蓮の色がある。
風が吼え、この身を炙る。
――ああ
駄目だったのだ。未来は書き換えられた。最悪の方向へと。
時とは流れである。流動し、変化する。分岐する。
そしてこの『時』の一枝は腐り落ちた。
無数とも思える分岐の中、可能性の高い未来はいくつかあった。
ヴォルデモートが出現する。これは絶対である。可能性の絶対値。空に輝くは紅の星。禍つ星。「ヴォルデモートと名乗る誰か」は歴史上に姿を現す。
それは千年あまり前、グリフィンドールとスリザリンが仲を違えた時から決まっていたのかもしれない。
それから数代を経て、ランパントが末弟ペンドラゴンを爪弾きにし、ペンドラゴンが長兄――ランパントを殺した時から始まっていたのかもしれない。
ヴォルデモートは、悪しき純血主義を掲げる者は、いずれにせよ現れていただろう。
そして、と彼女は息を吐く。
禍つ星に対抗する者が現れる。これも可能性の絶対値である。この枝ではハリー・ポッターとウィスタ・リアイスであった……。
もしかして、ネビル・ロングボトムが選ばれていたかもしれない。
もしかして、ハリー・ポッターの役割を持つ者は、性別を異にしていたかもしれない。
もしかして、ウィスタ・リアイスではなかったかもしれない。
無数のもしかして。しかし、言っても詮無いことだ。未来は確定した。道は限られた。
ヴォルデモートに勝つか、ヴォルデモートに敗北するか。どちらか二つにまで。
「……勝てる、」
はずだったの。
彼女は笑う。ひぃ、と音が漏れる。ひぃ、ひぃ、と。笑いながら泣く。子どものように。
「私が視たものは」
勝利であった。夜明けであった。この「可能性」はごくわずか、誤差であった。
どこかで干渉があったのだ。きっとそうだ。だけれど、それでどうなるのだろう? いまさらなのだ。なにもかも。
「ごめんなさい」
間違えたの。誰も彼も。千年前から。
燃え盛る地で、彼女は膝を突く。影は、ただ彼女を見ていた。紅の双眸を光らせた。
「……いいんだ」
お前は悪くない。誰も悪くない。駆けつけてくれたんだろう。わかっている。わかっていても、それでも。
「それでも、」
耐えられない。お前たちが憎い。お前たちは死ぬべきだ。子どもの癇癪だろうよ。全員が全員、俺に悪意を持っていたわけじゃないだろう。
「……俺が殺されるのはいい」
だが、俺の伴侶をお前たちは殺した。お前たちのせいだ。
「ええ……」
わかっている。彼女は深くうなだれる。彼女は導く者であった。盟主の灯火であった。だというのに、こうなってしまった。どこかで何かがずれた。致命的な誤差。流れを押しとどめることはできなかった。
「――あなたが満足するのなら」
おとりなさい、この命。
もはや一族は滅ぶ。歴史から姿を消す。
「ならばせめて」
あなたにこの命をあげる。
紅の眼が彼女を見ている。先視の魔女を、神の恩寵を受けた女を。盟主を導く灯を。
「――謝らないぞ」
「いいのよ」
「馬鹿じゃないのか」
「ええ」
馬鹿だった。どうしようもなく。
「あなたを支えられなかった。色々なものを背負わせた。子ども時代を奪った」
「願いは?」
「ヴォルデモートを討って。あと、シスネのことは見逃して」
ルキフェルと同じことを言う、と影が苦笑する。彼女は吐息をこぼした。
「ナイアードも同じようなことを言ったでしょうよ」
「一撃で首を落としたからな」
わからないよ。ふふ、と影が笑う。
「あっちで謝っておいてあげるわ」
ウィスタ、と囁いた。影は長い長い息を吐く。
「ありがとう」
影は剣を構える。白銀の輝きがひどく美しかった。
「私の最期の預言よ」
きっと、
――これは
とある分岐。「ヴォルデモートが勝利した」時の枝、その一つの形である。
……ぽたり、と。
滴が垂れた。それは白を染め、花を咲かせる。紅の花を。
「――そうか」
神に愛されし者、呪われし魔女は囁く。誰ともなしに。
ゴドリックの谷はパッサント城の地下。『思索の間』には、彼女――先視の魔女クロード・リアイスのみがある。ホグワーツの地下にあるレイブンクローの『思索の間』を模したそこは、先視に適した場所であり、先視のための奥津城であった。
細い細い可能性の枝まで辿ったせいで、身体は重い。眼は灼熱に包まれているようで、呼吸するのも苦しい。
「……そうなのか」
ぷつぷつと呟くさまは、心を失った病んだ者のよう。間違ってはいない。先視も過去視も、異なる『時』に心を飛ばすのは同じである。力の方向は違えども、現在を放棄する――そういった性質は同一なのだ。
ロウェナ・レイブンクローの、あらゆる先視の、セレーネの、ディアドラの血を引き継いだ魔女は床に手を突く。どうにか立ち上がった。その拍子に、青の長衣が床を流れる。さらさらとした衣擦れを聞くともなしに聞きながら、魔女は手の甲で口を拭った。ふわり、と鉄錆の香が漂う。
――己が死ぬ瞬間を
視てしまったからだろう。消耗が激しく、衝撃もまた強い。そのせいか、視たものの絵図が欠片となって零れ落ちる。
遠い未来。ありえないとも言い難い、可能性。今はまだ。
「……させはしない」
今ここにある世界もきっと時の一枝。細かい分岐の先であろう。
もしかしたら、ウィスタ・リアイスがグリフィンドールに組分けされていた世界もあったろう。
もしかしたら、もっと友達がいたかもしれない。
もしかしたら、彼が当主になってもそこまで反発されなかったかもしれない。
無数のもしかしたら。もうない「もしかしたら」。
ウィスタはグリフィンドールに組分けされていたはずだった。少なくとも、魔女が視た「可能性の高い未来」はそうであった。だというのに、悪戯な神様が気まぐれを起こしたのだろう。時の枝は分かたれた。違う未来へと。この未来へと。
魔女は呼吸を整える。再び、時を視る。道筋を探る。
この『時』には変化があった。ウィスタがスリザリンに組分けされた。それにともなって流れも少し変わった。
揺らめく水面、時と呼ばれるそれをどうにか視ようとする。先視の矜持で以て。厄災を祓わねばならぬと。
眼を凝らす。ちらちらと視える。
はあ、と息を吐く。
――掴んだ
「そうか……」
我知らず、呟く。ぼんやりと視えたものがある。黄金の杖。幾星霜の時を経て、先視の手を経て下賜された恩恵……。
『眼』を閉じる。長い長い間、沈黙した。
おそらく、異なる『時』の己は、このことを知らなかった。なぜならば、ウィスタはグリフィンドールに組分けされ、「スリザリンに組分けされたウィスタ」の可能性まで覗く必要もなく、託宣もなかったのだろう。
しかし、魔女は知った。最悪の未来を視ることで。ウィスタの出自を。その秘密を……。
最悪の未来において、魔女が知った時には遅かったのだ。
今ならば、その可能性を潰せるだろう。あの子が絶望する未来を絶ち切ることができるであろう。
なぜならば、クロード・ウルズ・パッサント・リアイスは。
盟主を導く灯であり、未来の暗雲を打ち払う剣であるから。
そしてヴォルデモート復活より数日後。
スリザリンのリアイスは、先視の魔女に呼び出され、こう言われた。
あなたがたとえ何者であろうとも、私はあなたの先視である。
その身に流れるのは三つと一つの血脈。その身に宿るのは三つと一つの善。
なにも言わなくていい。秘密を守るために私を殺してもいい。
ただ、信じてほしい。
きっと秘密を知っても、ナイアードもルキフェルもヘカテも沈黙するでしょう。
あなたを守るために。
私たちは、シリウスとリーンが好きだった。宝物のようにあなたを抱いている姿を見た。
それはとても尊く、愛しいものだったのだ、と。
クロード・リアイス
ナイアード・リアイス
ルキフェル・リアイス
ヘカテ・リアイス
彼らを筆頭に、多数のリアイスが命を落とした。
時の一枝において、ウィスタ・ブラック=リアイス、後にウィスタ・ブラックと名をあらため、黒の大君と呼ばれる者に殺害された。
なぜならば。
彼の伴侶、クイン・リアイスが殺害されたからである。そして彼女を庇ったイルシオン・リアイスも共に命を落とした。
その報いによって、リアイス一族は滅びたのである。