【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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不死鳥の騎士団⑥

 休暇が明け、勉学に対する熱意なんてものは欠片も漂わせていないスリザリン生たちが帰ってきた。無理もない。だって闇の魔術に対する防衛術があれだもん……である。スリザリン生はなんだかんだ言って闇の魔術に対する防衛術を欠席することが多かった。理由はだいぶ適当であった。スネイプ先生のお手伝いをするように言われて、とか。スネイプ先生の補講を、とか。アンブリッジはスリザリン生には甘いのである。スリザリン生のほうも、アンブリッジのそんな甘さ――媚びを利用しているわけだ。表立ってはハリー・ポッター支持は唱えない。だが、アンブリッジにおもねりもしない。かといって、アンブリッジを非難しない。欠席はするものの、おおむね優等生、模範生で通している。

 もちろん、休暇が明けたからといって、似非模範生をやめるわけがない。だいたいみんな、防衛術の授業は無駄だし、嫌いなのである。

 休暇明け二日目の午後。

「……そんな水と油どころか、ガソリンとマッチみたいな組み合わせはどうなんでしょう」

 「スネイプ先生は俺の助けを必要としているんです。もー、とっても激務ですからね! ざまあ」ではなく「スネイプ先生は粉骨砕身してホグワーツのため、秩序のために戦っていらっしゃるので微力ながら僕がお手伝いしたいと思いまして」と憂いが半分、使命感が半分の顔をして、アンブリッジから欠席許可をもぎとったウィスタは、宣言通りに「スネイプ先生のお手伝い」をしていた。

 ちなみに教室から抜け出す時、ザビニは腹痛をこらえるような顔をしていて、パンジーは呆れていて、ダフネは「……あなた本当にスリザリンよね」という顔をしていた。マルフォイの幼馴染ズたちは「粉骨砕身って?」とこそこそ話し合っていた。今度、二人には辞書を贈ろうと思う。

 これとこれとそれを調合して瓶詰めしてラベルを貼っていけと遠慮なくスネイプに使われながら、言いたいことを言った。

「我が輩だって嫌だ」

 ポッターめに、閉心術を教えるなんて、とスネイプは吐き捨てる。素直である。いや、一応は生徒の前なんだが? そんなぶっちゃけていいのか。

「……押しつけたいくらいだ」

「ちょくちょくしごかれてなんべんもぶっ倒れる指導ならできますよ」

 イルシオンのスパルタ指導である。あの男、一切の手抜きなしでやりやがった。何度失神したことか。

 ウィスタは、スネイプの室――続き部屋の方をみた。

「マルフォイもできるでしょうけどね」

 ただの勘である。ちなみに、坊ちゃんは現在就寝中。どうもあまり眠れていないようなので「補佐が多いほうがいいですよね」とマルフォイを攫ったのである。心は閉じれるくせに、不器用なやつである。冬期休暇はホグワーツに残ることにして、わずらわしいあれこれには悩まされなくて済む……なんてことはなかったらしい。問答無用で続き部屋のソファに転がしておいた。スネイプは「休憩室じゃないんだが」と言いながらも許可した。一応、耳塞ぎその他は使っているし、続き部屋にはエリュテイアが待機しているので盗み聞きの心配はない。それでも、声を低めてウィスタは訊いた。

「下手に隠すより、神秘部になにがあるか教えてもらいたいですね」

 騎士団の任務が、神秘部にあるなにかを守ることなのだと、ウィスタは知っていた。父やダンブルドアをつついたら、少しだけ話してくれたのだ。ハリーには下手に情報をやるなと言われていたのだが……無駄になった。

「言えん」

「もうハリーは「神秘部」までは特定しちゃいましたよ。どこかの素敵な先生が、ハリーのメンタルをボコボコにしたから」

 ちくちく言ってやる。ついでに「衝動的な悪意も入ってるんじゃ」とさらにちくちく言えば、スネイプはすうっと眼を逸らした。

「先生……俺にも衝動的な悪意を抱くのでは?」

「貴様が父親にそっくりな顔面をしているのは、遺伝子が悪さをしたせいだ」

「悪さ」

「曲がりなりにも友人の子……」

 ぴくぴくとスネイプの瞼が痙攣した。

「父と決闘してきてもいいですよ。発散してくださいよ」

「黙れ。だいたいな、貴様はどうして平然としていられる?」

 その問いにはあらゆる意味がこめられていた。一、アンブリッジが勝手をしているのに。二、アズカバンから集団脱獄があったのに。三、ヴォルデモートの孫で、秘密を持っているのに。四、ヴォルデモートに狙われているのに。

 だいたいヴォルデモートが悪いな。改めて思う。さらさらとラベルに名前を書いて、瓶に貼った。ちょっと歪んだ。

「俺がなんでもかんでも心配するのも変な話ですし」

 アンブリッジはどうせ自滅するし、少し気にかかっていた元息女ことシスネ・バグノールドが投獄された件もひとまず解決した。直後にアズカバンから集団脱獄が発生したが、これも遠からず起こることだったのだろう、と思う。そして、ピーター・ペティグリューことワームテールは脱獄するどころか、脱獄犯どもに八つ裂きにされて死亡したようだった。どうでもいい。

 椅子に座る。あれこれと理由を探る。案外「大丈夫」なのはなぜなのか。

「代表選手が誰も死にませんでしたからね」

 目の前で死なれてたら、ちょっと堪えてたと思いますよ。

 軟弱者め、と鼻で笑うスネイプは無視した。軟弱で結構です。そして、ついつい続き部屋を見た。

「あとは、近くにへろっへろなやつがいたら」

 却って安定したというか。そもそも、メンタルを崩している場合ではないというか。

「意外だな。それほどにも友情に篤かったとは」

「俺が何年もかけてじわじわ軌道修正してきたのに、変な方向に行かれたら嫌なだけですー」

 わざとふざけて言う。隠している「もうひとつの理由」を漏らさないように。

 ヴォルデモートの孫とおつきあいするなんて危険を冒させるわけにはいかないのだ。ウィスタは、彼女の手を離さないといけない。どうやって切り出そうかと悶々と考えていた。そんな重大な問題の前では、あらゆることが小さな問題に思えてならないのだなんて、言えるわけがない。

――だったんだが

「ふざけるんじゃないわよ」

 北塔――屋上。ホグズミードで「これが最後の逢い引き」と切ない気持ちでクインと時を過ごし、しかし「ハーマイオニー・グレンジャー、ギャラなしで記事を書かせる暴挙」の前にすべてが吹き飛び。『ザ・クィブラー』が最高益を記録し……な、あまりにも忙しない日常の一幕。

 これは拙いめちゃくちゃ拙い。ぐだぐだになって切り出せない! と我に返ったウィスタは、いわゆる愁嘆場を覚悟してクインを北塔に呼び出した。で、言った。「君と俺とじゃ方向性が合わないと思う。ここはさくっと別れよう」と。あらゆる罵詈雑言を用意して、クインを傷つけて嫌いにさせようと思っていたのに、案の定ぐだぐだになった。なんだそのわけのわからない理由は、と言った後に思った。で、クインは愁嘆場どころか……端的に言うとお怒りであった。怖い。ウィスタは背が伸びたはずで、クインの背も越したのに! なすすべもなく壁ドンである。ウィスタがクインにではない。クインがウィスタにである。新鮮な体験。

「なにか変だと思っていたけど。いったいどうしてなのよ吐きなさいよ。私があなたを煩わせたくないから身を引くわなんてタイプじゃないのよ」

 襟首をひっつかまれた。がくがくと揺さぶられる。組分け帽子になった気分であった。ユスティヌを改めて弔って、校長室に報告に行った際に 「もしかしたらヴォルデモートをさくっと倒せるなにかを入れてないかな」と好奇心がわいてきて、ウィスタは組分け帽子に「出すもんを出せや。剣が収納できるんだからなにかあるだろうよ」と言ってシェイクしまくった。結果、組分け帽子は恋文の束を吐き出した。誰のって? ゴドリック・グリフィンドールの恋文。明らかに恋文であった。ウィスタはちらっと一通だけ確認して、まとめて帽子に戻した。役に立たねえ。こんなことのために勉強をしているわけではないのだ、と嘆いた。

 がくがく揺さぶられまくり、ウィスタは降参した。実は俺の祖母がよからぬやつもといヴォルデモートに……えー、乱暴されてー、つまり俺はあいつの孫でーと、吐くしかなかった。クインは少し驚いた様子だった。しかし、両の眼を光らせて「早く言いなさいよ。あなたは怪物じゃないんだから」と言い切った……。

 そしてウィスタは、年頃らしいよからぬ衝動に負け、恋人に接吻してしまった。

 


 

「いいえ、いいえ我が君」

 掠れた声が、マルフォイの館――整えられた、客間に響く。寝台に横たわった女は、灰色の眼を潤ませていた。

「できることならば、私が産みたかった。それは否定しません」

 ですが、と女は声を詰まらせる。十数年もの間、監獄の闇に沈んでいたというのに、女は極めて正常であった。己が置かれた状況を、身体が弱っており、少なくとも数ヶ月の療養が必要だと理解していた。理解するだけの思考力が残っていたのだ。

――恐ろしい人

 客間の――ルシウスのものであり、ナルシッサのものでもある館の一室、その隅に控えながら、ナルシッサは横たわる女を見やる。己の姉を。その美しさは陰りがあるものの、十分に保たれている。痩せてはいるがすぐに回復するであろう。姉――ベラトリックスはあまりに強靱で、苛烈であった。でなくば監獄で正気を失っていたはずだった。もともと狂っていたから正常なのか、正常に見えているだけか、ナルシッサにはわからない。

 己が監獄にいる間に、主が断りもなく動いたことをベラトリックスは非難もせず、嫌悪も示さなかった。ベラトリックスの忠誠は「我が君」に捧げられている。保存していた受精卵を「よその女」に植え付けられても問題がないようだった。

 ナルシッサは遠い眼をする。闇の帝王は忠実な下僕にして「妻」と語らうのに忙しい。そもそも、闇の帝王はナルシッサに興味などない。ただの美しいだけの女だと思っている……。

 実際は、とナルシッサは頭痛をこらえた。問題だらけなのだ。受精卵を保存する。いくらでもすればよろしいが、ベラトリックスは仮にも人妻である。夫婦仲は冷め切っていたようだけれど、それでも夫婦なのだ。だというのに「よその男」との間に受精卵をつくってしまう? ほぼ不貞行為ではないのか。ロドルファスなんて、闇の帝王に救出された感謝と「妻が主との間に実質的な子を作った」事実の板挟みだった。上手に隠してはいるが、俗っぽい言い方をすると今にも死にそうな顔をしていた。挙げ句にその極めて倫理的に問題のある受精卵が、まさかの自分の従妹に植え付けられたと聞いて目眩をこらえていた。ラバスタンが「――が我が君の子を産んだら、俺に下げ渡してはもらえないか」と言ったものだから、八つ当たりも兼ねて弟に制裁を加えていた。ナルシッサも気持ちはとてもわかる。

「……不甲斐なくも監獄にて無為な時間を過ごし、我が君のお役には立てませんでした。それが、このような挽回の機会をいただけたのです」

 名誉なことです。ベラトリックスの声は震えていた。感動しきっているのだとナルシッサには分かった。狂っていようがなんだろうが姉なのだから。産むのはあなたじゃないのよベラと言っても無駄であろう。すっかり「私と我が君の子」に夢中になっている。おぞましい搾取の果てに産み落とされる命なのだと、意識の端にも上らないであろう。

「ライラックはよくやってくれている」

 闇の帝王は攫ってきた娘を花の名で呼んだ。名前を覚える価値もないのだろう。ただの花でしかないのだ。実を結べばそれでよいと言わんばかりに。

「楽しみにしているがいい」

 お前と俺様の子を。

 ぶるり、とナルシッサは震えた。

 どうすればよい。きっと実を結べば……。

 花は摘み取られるであろう。

 


 

 滑り落ちるように、時が過ぎた。

――悪夢のようだ

 生家の玄関ホールに立ち、ドラコ・マルフォイは天井を見上げた。彫り込まれた竜が、ドラコを睨みつけている。

 咎めているようだ、と思う。マルフォイ家の竜。そこかしこに装飾されていて、ドラコにとって、彼らは身近な存在だった。物心ついた時からここはドラコの家で、ずっとずっとそうであるはずだった。

 だというのに、なにかがずれてしまった。噛み合わなくなった……。

 ぽた、ぽた、と髪から滴が落ちる。馬鹿なことをしたと思う。キングズ・クロス駅に来ていた迎えの馬車に乗って、館まであと一息というところで降りたのだ。御者には「連日勉強ばかりで疲れている。気分を変えたい。先に帰れ。父上には取りなしてやる」と言った。御者は、せめて傘をと言って差し出してきたがそれも断った。いいから行け、と馬車を送り出し、ドラコは雨の中を黙々と歩いた。通称竜の館周辺は整えられていた。深い色の緑、咲き誇る花々。雨がそれらを煙らせて、幽玄の美が現れていた。いつか誰かとここを歩けたらな、と他愛もないことを考える。できれば穏やかな気性の人が良い。マルフォイの領地を見て回って、素敵だと言ってくれたら嬉しい。

――だがそれも

 叶わないだろう、と雨の中の散歩に興じ、濡れそぼつドラコは思う。ぽた、ぽた、と落ちる滴がうっとうしい。髪をかきあげる。そんなことをしても意味がないというのに。館に帰りたくないあまり、わざと歩いて帰った。そんなことも意味がないのだ。なにも――逃亡の試みは成功しないであろう。

 今は五月。ドローレス・アンブリッジが好き勝手し、十中八九ポッターどもが組織したであろう「ダンブルドア軍団」は崩壊し、けれど構成員の誰もアンブリッジの毒牙にかからず、代わりにダンブルドアが「逃亡」した。

 噂によると逃亡という言い方は連想しにくい。ダンブルドアは魔法大臣コーネリウス・ファッジとアンブリッジと、秘書官と闇祓いたちを「ちょっと撫でて」、実に堂々と出かけていった、という方が正しいようだった。なんにせよ、校長は不在となった。アンブリッジは嬉々として校長室に乗り込もうとしたが、弾かれたようだ。友人――ウィスタは腹を抱えて笑っていた。おそらく、スリザリン生の何割かはウィスタに同調していたろうが、本当のところはわからない。ドラコは愉快であったが。アンブリッジが勝手に「セルウィンの血筋」だと吹聴していると聞いていた。要はほら吹きである。つまり信用できない。よって、一部を除いたスリザリン生はアンブリッジに協力することはない。目障りなポッターにクィディッチ禁止令を出すなんてことがあれば、多少は協力しただろうが……今となってはほぼない可能性だ。

 ポッターどころではないのだ。アンブリッジは醜態を晒しすぎていた。この前なんて、双子のウィーズリーにしてやられて、伝説の誕生の場を提供していたくらいだ。もう勝手にやればいいのだ。

――アンブリッジのお遊びなんかに

 つきあってられるか。苛々しながら杖を取り出して髪を乾かしていると軽い足音が聞こえてきた。階段を優雅にしかし素早く降りてくる影は、最後の一段をぽんと飛び降りると――まったくらしからない動きだった――ドラコを軽く抱きしめた。

「ドラコ」

「ただいま戻りました」

 ドラコは言って、母親を抱きしめ返す。

「ごめんなさいね」

「いいんですよ」

 本来ならばドラコがこの館に帰るのは、夏期休暇になるはずであった。だというのに五月――普通魔法試験の足音が聞こえてきたこの時期――になぜ一時帰宅したのか。呼び出されたのである。両親から。その裏に「あの方」の意向が働いているのは明らかで、ドラコは寮監のスネイプに連絡し、許可を得て速やかに帰宅した。そうするしかなかったのだ。

 小さく震える母親の背を軽く叩き、身を離す。いささかやつれたその顔をあまり見ないようにした。両親が館に閉じこめられるようにして、惨い任務を果たしているというのにドラコはなにもできていないでいる。そのことを直視したくなかった。

「それで?」

 あの方はどういった用件で……? 母親――ナルシッサは、杖を振ってドラコを乾かした。そうして、灰色の眼――星の眼とも呼ばれる双眸を潤ませる。ひび割れた唇が、何事かと呟こうとして、雷鳴にかき消された。

 ドラコは上を見る。断続的に響く音。雷鳴のように激しいが、けしてそうではない。むしろ猫に近い……それも、怒り狂う猫だ。

――まさか

「……たのですね?」

 ナルシッサは、青ざめた顔で頷いた。

 

「ああ、来たかドラコ」

 入室し、恭しく膝を突いたドラコに父の「我が君」は鷹揚に声をかけた。許されて顔を上げる。こちらに来い、と手招きされ、そろそろと揺りかごに近寄った。

 二日に生まれた。名をデルフィーニだ、と闇の帝王は言う。とろけるような声が付け加えた。

「お前の従妹さ」

 ドラコ、と呼ばれてそちらに眼を向ける。椅子に座り、どこか退屈そうに片肘を突いた女が一人。黒の髪に灰色の眼。声は掠れているけれど、双眸は力強い。

「伯母上」

 丁寧に、恭しく呼びかける。会ったのはこれが初めてだ。ドラコが物心つく頃には、伯母はアズカバンに投獄されていた……。

「ルシウスにそっくりだ」

 ブラックの灰色の継がなかったのは惜しいことだ、と伯母――ベラトリックスは続ける。

「手厳しいことだ」

 伯母に茶を淹れてやりながら、父が呟くように言った。ドラコは即座に上下関係を読みとった。すなわち、自分たちは「下」である。闇の帝王と「妻」ことベラトリックス・レストレンジ――旧姓ブラック――が「上」なのである。マルフォイの館は乗っ取りにあったようなものだ。主導権は彼らにある……。

 いいや、とドラコは訂正する。揺りかごの中にいるこの赤ん坊も「上」であろう。

 まじまじと見つめていると、燃えるような紅の眼がドラコを見返した。闇の帝王の紅色。そして、呪いを受けて生き残った友人――ウィスタの左眼と同じ色……。

 まだ見えないはずなのに、一心にこちらを見つめてくる、澄んだ眼。髪はどうやら銀の色。しかし、金になったり、青になったりと忙しい。七変化のようであった。

 忌まわしい生まれ。マルフォイ家にとって厄介にしかならない存在。だというのに……。

 思いついて、そっと小指を差し出す。ちいさなちいさな手が、きゅっと指を握る。

「……可愛らしいですね」

 ドラコは心を閉じている。が、しかしこのときばかりは本音が漏れた。事実、赤ん坊――デルフィーニは可愛らしかった。おぞましい行いをした両親の卵と胤から生まれたとは思えないほどに。無垢ゆえの愛らしさであった。邪悪な赤ん坊はいないのだ、とドラコは悟った。

「ライラックのお陰だ」

 なあ、と闇の帝王が呼びかける。室の隅、安楽椅子にはほっそりとした影があった。

「光栄で、ございます」

 ぽつん、と影が答える。抑揚のない声であった。感情の抜け落ちた声であった。

 ふん、と闇の帝王は笑った。

「もう用なしだな」

 ぴりぴりとした緊張が室を支配した。いいや、緊張しているのは父母であり、ドラコであろう。闇の帝王もベラトリックスも平然としている。揺りかごのデルフィーニに事態がわかるわけもない。わからなくてもいいのだ。攫われた娘、植え付けられた受精卵……なんてことは。

 用なし、とドラコは心の内で繰り返す。攫われた娘。同意のない搾取。いいや、同意があっても難しい問題だろう。たとえばドラコの母、ナルシッサが今より若ければ……と考えただけで恐ろしい気持ちになるのだ。

――摘み取られてしまうのか?

 闇の帝王のライラックは。ちらと安楽椅子を――娘を見る。娘、という言い方は適当ではない。年上の女性だ。犬のように連れてこられ、いわば繁殖用の雌犬として扱われ、だというのに綺麗に化粧をされ、花であれと扱われる。そうして不要になれば摘まれるのだ。

 見捨てればいい。ドラコには関係がないだろう。だが、と逡巡する。なぜか、友人の顔が浮かんだ。ウィスタの顔が。あいつならどうしただろうと考えてしまう。一年生の時から散々な目に遭ったくせに、今では監督生。スリザリンの「勉強会」の主催。頼られれば文句を言いつつ動く男。

――手が届くのならば

 助けるべきだ。

 馬鹿なことを、やめろと理性は囁く。関係のないことに首を突っ込むなと。この女性がどうなろうが知ったことではないと。そんな無駄な勇気なんて、グリフィンドールの連中の専売特許だろうと。

『勇敢じゃったよ』

 今度はダンブルドアの声が脳裏に響いた。秘密の部屋事件が起こった年、彼は確かにダンブルドアに声をかけられた。誉められたのだ。容姿だとか、賢いだとかではなく、ドラコが発揮した勇気を。その行動を。

 ほんのちょっとの勇気だと言い聞かせる。名目はどうとでもなる。闇の帝王は「ライラック」にほとんど興味を失っている。不要品だから。

 ゆりかごから踵を返し、一歩、二歩と闇の帝王に近寄った。適正な、礼儀を損ねない距離を保って、ドラコは膝を突いた。

「我が君」

「どうしたドラコよ?」

「貴方様のライラックを」

 落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。なんとかなる。父の姿を思い浮かべる。完璧な貴族の所作。闇の帝王に仕えても今まで生き残ってきた父。ドラコは父の子だ。これくらいはなんでもない。

「僕に下さいませんか」

 面を伏せる。ほう? と闇の帝王は笑った。

「お前も年頃というやつか、ドラコ」

「枯れかけた花とはいえ、未だ十分にお美しい」

 いいや、枯れかけているからこそ美しいのかもしれませんね。

 ドラコはくすくすと笑う。

「捨てるくらいならば、と貴方様の物を望む僕は」

 とても卑しいのでしょう。

 言い切った。早鐘を打つ心臓をどうにかなだめ、けして心を覗かれないように注意を払いながら、永遠に続くかのような沈黙に耐える。一拍、二拍……三拍。

 ふ、ふと笑声が降ってくる。それは弾けるような高笑いに変わった。

「よかろう! 卑しいドラコ。お前に我がライラックをくれてやる」

 好きにしろ。

 マルフォイ家の嫡子を屈服させる喜びに、卑しいと言わせた愉悦に闇の帝王は酔いしれている。

 ドラコは頭を垂れた。心を悟らせないように、深く。

――そうして

 雨の降るとある朝、聖マンゴの前に一人の女が捨てられた。捨てられたというのは不正確だろう。金の髪にライラックの眼をしたその女は、しっかりと外套にくるまれ、マグルの目には触れないように魔法を施されていた。

 やがて、一人の男が現れた。先視に「あなた、そのうち大きな拾いものをするわよ」と言われていたことをすっかり忘れていた。

 彼の考え事は姉の横暴についてであった。聖マンゴで癒者をしているできる女。人使いの荒い姉。手が足りないから臨時の事務仕事をしに来い、と命令され、弟という悲しい宿命からのこのこと参上したのである。

 そして、姉の巣もとい職場――が見えてきて、眼を見開いた。早足で残りの距離を飛ぶように進む。

「……嘘だろクロード」

 聖マンゴ――汚らしいビルにしか見えない建物の、その壁にもたれかかる影に声をかけ、応答がないとみるやそっと抱き上げた。

 そうして、ヘカテ・リアイスは聖マンゴの中に消えた。

「大当たりだな」

 隣の建物の陰から一部始終を見守って、ドラコはほっと息を吐いた。父から借りた透明マントの中でぶつぶつと呟く。ライラックをうっかり虐めて殺したことにして「死体」をトランクに詰めた。さも面倒そうに捨てにいくふりをして、どうにかこうにか聖マンゴにたどり着いた。癒者に拾われれば安心だと思ったら、まさかのリアイスの男に拾われた。よしよし。三年生の時にホグワーツで見たことがある。城の警護に召集されたリアイスの一人だ。名前は知らないが、善人そうであった。

「……幸せにならないと」

 僕が承知しないぞライラック。きっちり忘却呪文もかけたんだから。知らなくていいんだ。お前が闇の帝王の子を産んだなんてことは。

 らしくもなく、必要もないのに他人を救い、らしくもなく祈りを捧げ、ドラコはニンバス2001にまたがって、その場を去った。

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