トンクス家に来て数日が経っていた。お客とはいえ、家事を手伝わなくてはいけないだろうかと思っていたときもあったが、それは杞憂だった。
杖を一振りするだけで皿洗いは終わっているし、掃除もできる。そんなものらしい。
書斎から拝借した本を片手に食堂に行ってみれば、台所で食器がひとりでに洗われていて、アンドロメダ・トンクスはテーブルで物思いにふけっているようだった。
部屋に引き返そうか迷って扉口で足を止めた。アンドロメダが自分を見る眼が気になっていた。あのどこか暗い眼差し。ウィスタのことを好いていないのではないか、と思ってしまう。いまはテッドもニンファドーラもいない。アンドロメダと二人は気詰まりだった。
「あら」
気配を察知したのか、アンドロメダが顔を上げる。嵐の空を思わせる灰色の虹彩が、ウィスタを捉えた。
――『誰』を見ているんだろう
そんな思いがやってくるが、口にはしない。訊きようがなかった。だから、黙ったままアンドロメダを観察していたが、彼女はウィスタの眼に気づいているのかいないのか、手招いた。
「いらっしゃい……そろそろお茶にしましょうか」
そろり、と足を踏み出す。アンドロメダが杖を振れば、戸棚が開きポットが飛び出してきて、独りでに準備を始めた。どういう魔法なんだろうと思い、養父は魔法を使っていなかったなと思い出す。まともな食事に衣服にしかもアフタヌーン・ティー、と孤児院とのあまりの差に驚くばかりで、細かいことを考える余裕なんてなかった。
勝手に動くポットや道具をちらと見ながら、席についた。テーブルに本を置く。
「薬草類の辞典ね……」
アンドロメダが表紙に眼を留めて呟く。不思議な響きに瞬いた。ただ呟いた、というのとは少し違う……ように思う。
「この本がどうか……?」
半端な問いかけに、アンドロメダがかすかに笑う。
「あなたのお母さんも読んでたなあと思って」
す、とティーカップが舞い降りてくる。湯気に混じる香りに鼻をひくつかせ、口を開いた。
「母さんは……どんな人でした」
自分に対してなにやら複雑な感情を抱いている相手に、どうして訊けたかわからない。けれど、アンドロメダは母に対しては、惜しむような哀れむような、好いていたかのような顔を覗かせていた。それがウィスタの背を押した。
「どんな……」
ほっそりした指でティーカップを優雅に掬いあげながら、アンドロメダが記憶を引っ張り出すように辞典を見やった。
「黒髪の綺麗な子で……眼はあなたと同じ色。物静かだったわね。無口とはまた違うんだけどね。話すときは話すし、ちゃんと自分の考えを持っていたし。弱みを見せようとしなかったし、あの子には厄介事がたくさん降りかかってきたのだけど、年々魔法の腕をあげて、すべてはねのけていったわ」
厄介ごと、と呟き返す。アンドロメダが視線を揺らした。
「リーマスから聞いていない? リーンはね、スリザリンだったの」
そして、ウィスタの顔をじっと見て、苦く笑った。
「ぴんと来てないって感じね……そう、リーマスは言ってないのね」
アンドロメダが眉根を寄せて、ティーカップの縁を撫でた。
しばらく何かを考えていたようだが、ため息を吐いて、言葉を継いだ。
「あなたが行くことになるホグワーツは、四つの寮があってね。グリフィンドール、スリザリン、ハッフルパフ、レイブンクロー……生徒はそのどれかに振り分けられるの。そして、寮はたいてい家系で――血筋で決まるとされている。例外もあるけど。たとえばリーンの家、リアイス一族は代々グリフィンドールで、私の家は代々スリザリン。そしてこの二つは仲が悪いのよ。とてつもなくね。それぞれ自分の家系に誇りがあるものだから……純血名門だし……代々行く寮以外に振り分けられでもしたら一大事で」
リーンの時も大変だった、とアンドロメダが言う。
「リアイスは代々グリフィンドール。リーンの代まで『それ以外』なんてありえなかった。ありえてはならなかったの。私の家と同じように。けれどあの子は……スリザリンに振り分けられてしまって」
声がかすかに震えている。
「敵地にひとりで放り込まれたようなもので、私は見ていられなかった。だから、声をかけて……少しだけ庇うことはできたんだけど。いえ、ほとんどなにもできなかった。彼女のほうがよほど、リーンを……」
最後のほうはただの独り言のようだった。アンドロメダの眼は虚ろだ。
「リアイス一族は、リーンを見放した。母君からも見切りをつけられて、あの子はひとりだった……途中で潰れてしまうのではないかと思ったし、スリザリンもグリフィンドールも、あの子に対して酷かったの。とても」
「……母親なのに、娘を見捨てたの?」
ウィスタに言えたのはそれだけだった。アンドロメダの言葉に込められた暗さと冷たさに身を震わせ、夏だというのにティーカップで手を温めるはめになった。
「母娘だからよ。たぶんね」
アンドロメダは紅茶を一口飲んで、話を続けた。
「……私ならとても耐えられなかったでしょうし、ほかの純血名門の子も一緒だったでしょう。けれど、リーンは生き残って、歩いていった。険しい道をね。闇祓いになって…………闇の帝王に、殺されてしまった……」
うめき声の合間に「裏切られて」と聞こえたような気がしたが、訊き返す余裕はなかった。アンドロメダの様子があまりに痛々しく、そうさせているのは、ウィスタの母親の死なのだと思うと、居たたまれなくなった。
――母親は
覚えていないひとは、あちこちに傷跡を残している。この世界から去ったあとも、陰を落としている……。
養父にも、目の前のアンドロメダにも。きっと、ほかの人にも。
ウィスタにも。
痕跡にふれることが、いいことなのか悪いことなのか、ウィスタにはわからなかった。
トンクス家に滞在してかれこれ二週間ほど経ってわかったことがある。ニンファドーラはウィスタの母親であるリーン・リアイスに憧れを抱いているらしいということ。それに、彼女が不器用であるということ。それに、テッドやアンドロメダと違ってウィスタに複雑な思いは抱いていないらしいとも感じた。
「リーンさんの記事は全部あるの」
今日は休みらしいニンファドーラは、ファイルを何冊か渡してくれた。彼女の部屋の寝台に腰掛けて、ファイルを開いてみる。
どこかへ向かって去っていく母親が、ちらりとこちらを見る。厳しい表情だった。頬についているのは血だろうか。
ニンファドーラに分からない単語を聞きながら読み進めていくと、母親が闇祓いで(これはたびたび聞いていた)、加えて、かなりの地位にいたことがわかった。第十一階位というと、闇祓い局の長候補も同然なのだという。
「普通は研修を三年かけて行うんだけど、リーンさんの場合は……いいえ、彼女が主に組んでた三人もだけど、一年足らずで実戦投入されたの。人手が足りなかったからなんだけど」
ニンファドーラがひらひらと手を振る。髪の色がピンクから金へと変わった。
「図抜けてたらしいよ。アズカバンの半分はリーンさんが埋めたっていうし……まあ捕縛した数より――」
なにを言いかけたのか、口を噤む。「とにかく」と少し慌てた様子で言葉を続けた。
「リーン・リアイスはすごい魔女だってこと。君なんてマグル育ちだけど、きっとホグワーツで巧くやるよ」
◆
――と言われたけど
トンクス家での日々を思い出しながら、ウィスタは小さくため息を吐いた。キングズ・クロス駅は混み合っていて、隣にいる養父からはぐれたら終わりだ。こんな場所になぜいるかというと、ホグワーツ行き特急に乗るためだった。そのホームは九と四分の三番線という冗談みたいな名前だ。
養父がどうかしたのかと言わんばかりに見てきたが、首を振ってやり過ごした。
いままで魔法界と無縁で育ってきて、どうやら自分が「いわくつき」らしいのに、そう簡単に巧くやっていけるだろうか。そもそも、小学校でもひとりだったのだ。孤児院からきた痩せて汚いウィスタなど「不思議な力」があるウィスタなど、みんな気味悪がった。
「……大丈夫だよ」
養父の声が降ってきて、顔を上げる。琥珀色の眼が、ウィスタを見つめていた。
「きっと友達もできる。組分けだってふさわしいところに入れられるだろう……私も、不安だったものだ……入学のときは……」
呟きは雑踏に呑まれていく。養父に導かれるままに歩いていって、ある柵の前で立ち止まった。
「――ここ?」
「魔法で隠してあるんだ」
養父が左右を見回し、ウィスタの腕を掴む。さあ行くよと声をかけることもせず、問答無用で引っ張っていった。ぶつかる、と一瞬思ったがレンガは彼らを通した。水の中を通り抜けるような感触を越えてしまえば、白い世界が広がっていた。
フクロウ や猫がいる。そしてたくさんの魔法使いや魔女たち。その向こうに、紅のホグワーツ特急が止まっていた。
「懐かしいなあ……ここは変わらない……」
掠れた声を漏らして、養父はホグワーツ特急を凝視している。表情が懐かしさよりも重たいなにかに彩られているように思ったが、ウィスタは気づかなかったふりをした。
「リーマス」
発車時刻が近づいている。促せば、養父は頷いた。屈みこんで抱きしめられる。思ったよりも強い力だったが、どうにか耐えた。
「……辛くなったら、帰ってきなさい。私は君の味方だから」
ゆるく首を傾げる。養父が『別の何か』を言いたがっているように思えたので。わからないなりに答えるしかなかった。
「やるだけやってみるよ」
囁いたそのとき、抱擁が解かれた。養父の傷だらけの手が特急を指し示す。
「行ってらっしゃい。ウィスタ……城は君を迎え入れるだろう」
◆
養い子を送り出したリーマスは、紅色の特急が去っていくのを見届けて、振り向いた。
「……これはこれはナイアード殿。このような場所にどのようなご用件で」
壁しかないはずの場所をにらみつければ、次の瞬間には黒髪の青年が出現していた。空色の眼をした、二十歳半ばにさしかかったあたりの容姿をしていた。マグルの扮装は完璧だったが、腰のベルトに挿してある杖だけが不似合いだ。
「そんな剣呑な顔しなくてもいいじゃないですかリーマス先輩」
先輩ねえ、と苦笑う。たしかにホグワーツ在学期間は被っていたし、本家当主であるリーンの親友ということもあって、リアイスの面々からは「先輩」と呼ばれていたものだった。彼らも自分もグリフィンドール寮であったし。
「ウィスタの護衛かい? わざわざ、君が」
リアイス一族第二分家当主《ステータント》が、と暗に告げれば、青年――ナイアードの眼が泳いだ。
「だって見たかったんですよ。先代の息子を……当代の《ランパント》候補を」
「仕事を放り出して」
「いやあ俺の部下はそれはもう優秀で」
「……最長老に叱られないかい」
「あー……まあ……殴られそうですけど後悔してないです」
「君がそう言うんだから、いいけどね」
ナイアードを促す。二人そろって歩き始めた。途中で赤毛の夫妻と女の子を見かけた。ウィーズリー家だ。あちらはナイアードとリーマスに気づいたのか、軽く会釈してくる。ナイアードはかすかに笑って会釈を返した。
ナイアードの母方とウィーズリー家のモリーは辿れば親戚だったはずだ。そもそもがウィーズリー家や他のグリフィンドール系名門とつながりが深いのがリアイスなのだけど。 ウィスタの場合も薄くはなるが母方の血筋を数代さかのぼれば繋がっている。父方を考慮してしまえば……純血名門はすべて親戚になってしまうのだが。
九と四分の三番線を抜け、マグルに混ざって進んでいく。
「……どうです。ウィスタは」
ナイアードが、それまでのふざけた態度を一変させた。《ステータント》としての貌になる。
「酷い扱いを受けて育ったにしては、ずいぶんといい子だよ。……人との距離を掴むのは、学校でどうにか……君たちが期待する《ランパント》らしさを持っているかはまだわからない。もしも貴族らしい傲慢さをお望みなら期待外れだろうね」
冷ややかに言い切れば、ナイアードの顔がひきつった。
「先代の時代よりはマシになってますよ。あの、先輩怒ってます?」
「親友がどんな酷い眼にあってきたは知ってるからね。しかも功績をあげた途端に手のひらを返してきたしね」
「それに関しては返す言葉もなくて」
ナイアードの肩が落ちる。
「君に言っても仕方ないんだけどね」
長く息を吐く。
「とにかく……万が一リーンと同じ寮にあの子が組分けされて、リアイス一族がかつてと同じ過ちを犯そうとするなら。私は絶対に許さない。それだけだ」
ヘカテ…親戚のおにーさん。第七分家の息子。落ち着きあるおにーさん。
ナイアード…親戚のおにーさん。第二分家当主。ビルの親友。錬金術師。落ち着きのないおにーさん。
そのうちどっかで設定まとめ投げたほうがいいのか?(下手したら三千字こえます)