【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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二十七話

――毎度毎度毎度毎度

 吸魂鬼に遭遇するたびにぶっ倒れていたのでは、平凡な学生生活が成り立たない。すっかりお馴染みになった病室の寝台で、ウィスタは呆然と天井を見つめていた。白い光に吸魂鬼どもが追い散らされたまではみたのだが、その後はさっぱりだ。気づけば寝台に放り込まれていて、頭痛発熱倦怠感喉の痛み。鼻水はずるっずるで、悪夢の試合から三日経っても寝台から出られない始末だ。ハリーなんて翌日には退院できたのに。

「……ヘカテ」

「はい。林檎ですか桃ですかランパント」

「いやそっちじゃない」

 看病で付き添っている又従兄弟殿は、せっせと果物を剥いている。なんだかこんな立派な大人の魔法使いに《ランパント》だなんて呼ばれるのは奇妙な気分だ。

「ハリーの箒さあ……買えないかなあ……」

「高級車が買えるくらいのガリオンが吹っ飛びますよ」

「そんなにすんの」

 高級車だなんて言葉がよく出てきたものだ。ヘカテは純血魔法族だ。ウィスタのようにマグル育ちでもない。眼だけを動かして彼を見れば、ヘカテはふっと息を吐いた。

「あなたにとってわかりやすい喩えのつもりでしたが?」

「馬がどうこうよりは、なんとなく」

 どこどこの産の駒で親がなんとかで、とかよりはよほどいい。

「ああそうそう、アシュタルテ翁があなたの天馬を用意しておりますよ」

「……初耳だよ」

「闇毛の仔馬です」

 何も言わないことにした。つまり、乗れと。馬に乗れるようになれと?

「話を戻そう。だからハリーの箒がさ」

 ハッフルパフ戦で、ウィスタはぶっ倒れただけだが、ハリーも散々な目にあった。セドリックにスニッチをとられる、グリフィンドールは負ける、ハリーは箒から転落、しかも乗り手のいないニンバスが風に飛ばされて暴れ柳にぶつかって、木っ端みじん。トレローニーじゃないが「ハリー、あなたの運勢は凶、大凶です」だ。

「子どもが贈るものじゃあないでしょう」

「そうだけど」

 もっともなのだけど。ヘカテに覗きこまれ、あさぎ色の双眸から眼を逸らした。なんとなしにばつが悪い。

――言えないよなあ

 試合中にハリーが気を取られていたのが、ウィスタが連れてきていたスナッフルズだったなんて。しかも死神犬と間違えられていて、致命的な数秒の間にセドリックがスニッチに迫っていたなんて。校則違反で犬をこっそり飼っているのはどうにかできるだろうが、ハリーが充分な力を発揮できないまま試合を終えてしまった事実は消せない。

「人の心配をしている場合ではありませんよ」

 箒はハリー自身でなんとかするでしょう、とヘカテは結ぶ。

「また吸魂鬼が出てきたら、俺もハリーも困るんだけど」

 あいつらは穏和しく城外にいればいいのだし、ブラックを阻めばいいのだ。今のところなんの成果もあげていないわ、迷惑だわで最悪だ。

「あれ、アズカバンに送り返せない?」

「ファッジが断固拒否するでしょうね」

「クソじゃねえか」

「誰がどこで聞いているのかわからないのにうかつなことは言わない!」

 ガミガミ叱られた。病室の一角をカーテンで仕切ったうえに、耳ふさぎ呪文その他盗聴防止をかけている男が言うことか。

「クソなのは否定しないんだ」

「なにか手を打っていると思わせたいのですよ」

「闇祓い投入してくれよ。ルキフェルとか。ほら」

「……彼らはブラックを追っています」

――まともな奴ならとっくの昔にホグワーツから逃げているよな

 そう考えたからこそ、ルーファス・スクリムジョールはホグワーツに人員を派遣していないのか。夏の頃ならともかく、今は事情が変わった。ダンブルドアが渋っても、闇祓いを投入くらいできるだろう。ひとまず吸魂鬼が城を包囲しているので、外を探す……という方針なのか。

 熱が上がってきて、朦朧する中、つらつらと夏の一幕を思い出す。『谷』を訪ねてきたスクリムジョールとルキフェル。ブラックの脱獄に心当たりはと……。何かが変だ。リアイスはアズカバンにも人をやっている。だからといってわざわざ闇祓い局の長官が『谷』を訪問して尋ねることか? 依頼ならわかるのだ。手が足りないからリアイスの情報網を使ってブラックの居場所を探してほしいだとか。なら「ブラックの行方に心当たりはないか」と訊くべきで――。

――まるで

 お前たちが脱獄させたのではないか、と訊いていたようではないか。そんなわけがない……。けれど、曾祖父はなんと答えた。谷にも逃げ込んでおらん、と。なぜブラックが『谷』に逃げ込むのだ。見方によっては匿っていないと答えたように思えてしまう。

 頭痛がひどくなる。考えすぎだ。ルーファスはリアイスに敬意を払って、曾祖父に会いに来ただけだ。あのやりとりは、行方の心当たりについてだろう。

 瞼が重くなってきた。抵抗もできず、眠りという闇に引きずりこまれる間際、曾祖父の冷えた声が蘇った。

『やつを殺すなということだ』

――曾祖父様

 魔法騎士の中の魔法騎士、獅子公アシュタルテが――なぜ。

 死喰い人の存命を願ったのか。

 ◆

 熱が下がり、俺はなにをごちゃごちゃ考えていたのか、とウィスタは正気に戻った。調子が悪いとろくなことを考えない。

 マダム・ポンフリーを説得して、無理矢理退院した頃には月曜日になっていた。寮生はウィスタの復帰を歓迎して何回目かのおめでとうパーティを開こうとしたが、なんとか止めさせた。談話室の隅でオリバーがじめじめしていたし、ハリーは心ここにあらずなのだ。

 ハリーを引きずるように授業へ連れて行きながら、頭のなかであれやこれやと整理する。吸魂鬼対策を立てる。これはヘカテが「先輩に聞けばいい」と言っていたので、リーマスに聞いてみよう。守護霊の呪文があれば時間稼ぎくらいはできるようだ。ハリーの箒に関しては、ウィスタは手が出せないので、代わりにホグズミードに連れて行ってやろう。これは双子たちに相談すればいい。あとはなんだろう。相変わらず厭な視線を感じるだとか、チョウとクインが見舞いに来てくれた礼を……、そもそもセドや寮生たちやアーニーやジャスティンたちも来たのだから、彼らにも礼をするのが筋だろうか。

――真っ先になんでチョウとクインが浮かんだのか

 もっと言えばチョウではなくて……そのあたりは考えたら面倒なことになりそうだ。

「ほらポッター、リアイス吸魂鬼だぞ。おぉお――」

 直後、鈍い音がした。はっとしてそちらを見れば、マルフォイの顔面が真っ赤になり、髪はでろでろになっていた。

「君チェイサーになったら?」

 ロンがにやりとした。ウィスタは首を傾げ、マルフォイと、ロンと、なぜだか粘っている己の手をみた。ちなみのロンの手も汚れていた。ちら、と机を見ると材料の鰐の心臓があるではないか。

――やっちまった

 無意識は怖い。

「……チェイサーよりも別の才能があるらしいなリアイス」

「頭脳明晰ですしね」

 自分で言うことではなかった。間違ってもなかった。けれど、スネイプの怒りに燃える眼を見ると、言わずにはいられないのである。

「ウィーズリー、リアイス、後ほど罰則。グリフィンドールから七十点減点」

「それよか寮生の躾をしたらどうですか」

「黙れ」

 低い声に鼻を鳴らした。やーいやーいと言わんばかりのマルフォイに口端を吊り上げてみせた。

「その汚い口を閉じろとさ、坊ちゃん」

 数時間後、リーマスに「だからセブルスを刺激するのは止めなさい!」と叱られたが、ウィスタはそっぽを向いた。頭を抱える養父に守護霊の呪文を教えてくれとちゃっかりねだり、さらに困らせたが後悔はなかった。

 親を困らせてこその子ではないか。

 ◆

 『脱狼薬』を瓶に流し込む。不気味に泡立っていて、飲み物とは思えない。劇薬の類だ。母親が書き付けを残していたし、スネイプ自身も手順書という名の不親切なメモを押しつけてきた。ほぼ箇条書きで、魔法薬学師向けだろうと思ったが、ウィスタは何も言わなかった。マルフォイに鰐の心臓を投げつけた咎で、ロンともども散々にこき使ったかと思えばこれだ。

「十三でこんな調合ができるようになったんだから、俺は天才かもしれない」

 実際は合間合間にヘカテにしごかれただけなのだが。リアイス式スパルタ教育である。ホグワーツの警護のために派遣されてきているはずなのだが、ウィスタの作品にああだこうだと駄目出しし、回転速度がどうの、素材を入れる間隔がどうの、と事細かに指導してきた。お陰で『脱狼薬』の調合を修得したし、調合の腕もあがったのだからよしとしよう。喜び勇んで『脱狼薬』の瓶を持って行けば、リーマスは唖然としていた。

 子どもがそんな気を遣わなくてもいいだとか、難しかっただろうにだとか、ぼそぼそ言っていたけれど、最終的には折れた。リーマスの「ありがとう」を聞けただけでウィスタは満足だ。

「最終目標は人狼病の完全治療薬だろう?」

 うん、と応える。第一段階は突破した。次は薬の副作用を抑えることだろうか。人狼を無害な狼にするために、服用者――リーマスにはかなりの負担がかかるらしい。月一回は寝込むのである。

「飲んでて無害でも側にいちゃだめだって言うしなあ」

「あれなりにお前を心配しているのだ。間違っても満月の夜に側にいてはいけない」

「でも『脱狼薬』は効いているんだろう」

 それでもだ、とネフティスに厳しく言われ、ぎりぎりと歯噛みした。

「どいつもこいつも心配性じゃないか」

 な、と傍らでお座りをしているスナッフルズを撫でる。

「万が一がどうこう言うんなら……」

 宙に視線を泳がせる。『グリフィンドールの部屋』には、様々な書物や先人の書き付けが残っている。その中には人狼の生態なんてものもあった。どこかの妖精さんがいつの間にか床に積み上げていたものだ。

「動物もどきになればいいんだけど……」

 手間の割にはあまり便利でもなさそうだ。そりゃあ曾祖父みたく獅子になるのもいいのだけど、日常生活で必要かと言われればノーだろう。

 スナッフルズが奇妙な声を出した。せき込むような、むせるような。悪夢の試合の日も、誰にも見つからずに『部屋』へ戻ったようだし、ウィスタが『最新箒カタログ』を読んでいたら覗きこんでくるし、不思議な犬だ。まさか本が読めるはずもない。構って欲しいだけだろう。

「今は学業に専念するとよい」

「もうじきクリスマスだ。学業もなんもないよ」

 誰も彼も身が入っていない。真剣なのはハーマイオニーくらいで、調子を崩しがちだ。時間割を詰め込んでいるのだから当然か。分身でもしない限り授業を受けようがないのに、どうやってこなしているのだろう。特別講義を組んでいるのかどうか、ハーマイオニーに訊いてもお茶を濁されるのだ。パチル姉妹のように双子でもない。だから彼女たちみたいにたまにパドマがグリフィンドールの授業に紛れていたり、パーバティがレイブンクローの授業に入り込んだりしないわけだ。

「ネフティス。分身の術なんてないよな?」

「あるわけなかろう」

 愚か者をみる眼で見られた。手厳しいご先祖様である。

「だって、あちこちで見かけるんだよ」

 一緒にいるはずなのに、なぜか物置から出てくるところをみたりだとか、階段の上にいたりだとか、渡り廊下で見かけたりだとか。去年も変なものが――学生時代の祖母を見かけたりしたが、どういうことか。気が狂っているわけでもない。なぜかは知らないが過去を見たのだとして――。

「点在する影……お前が見たものが過去だとして……」

 ネフティスが没頭し始める。こうなれば止まらない。

「お前はマアトを通じてレイブンクローの血を継いでいるから……力の性質が逆なだけで……ありえなくも――となると――」

「で?」

「淑女の秘密に踏み込むべからず」

「おい」

 散々焦らしたあげくに事実上の放置宣言とは。

 ◆

 諸々が消化不良なまま、ホグズミード行きの日を迎えた。その日は朝から最悪だった。『グリフィンドールの部屋』で起きて、違和感を覚えて布団の中をのぞき込み、悲鳴を殺した。動揺しきりで消失呪文で『なかったこと』にした。曖昧模糊とした夢の断片を追い払い、首を傾げるネフティスとスナッフルズに手を振って寮へ戻った。

 跳ね回る心臓をなだめつつ、どうにかハリーをホグズミードに連れて行ってやろうと決意する。考え込みながら朝食を食べ終わり、皆がわいわいがやがやとホグズミードに向かうのを見送って。さあ極秘任務開始だ、と意気込んでいたら。

「表が駄目なら裏を行け、だ」

「我ら悪戯仕掛け人からのクリスマスプレゼントさ」

 ウィスタは空き教室の一つで両腕を組み、にやにやしている双子を見た。まさかとっ捕まって教室に引きずり込まれるとは思わなかった。能ある鷹はなんとやら。敵をだますにはまず味方からとは言うけれど。

「俺には言ってくれてもよかったろうよ!」

 埃っぽい机に広げられているのは地図だ。悪戯仕掛け人、ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズと、彼らの盟友ルーヴによる魔法の地図。やたらとホグワーツに詳しいとは思っていたが、これのお陰とは。

「ほいほい渡すもんじゃないしな」

「俺たちにはもう必要ないし」

「去年、俺の居場所を突き止めたのもこれのお陰か……」

 秘密の部屋騒動を思い出す。ハロウィンの日、大広間を飛び出していったウィスタをどうやって見つけたのかと思っていたら。

「残念ながら――大事な時にお前とジニーを見つけてやれなかったけど」

「さすがの諸兄たちも秘密の部屋まではご存じなかったらしい」

 だから、話し合って決めたのさ、と双子が片眼を瞑った。

「恩人のために使うべきだってさ」

 グッバイ! と軽やかに双子が出て行って、ウィスタとハリーは顔を見合わせた。どちらも妖精に摘まれたような顔をしていることだろう。少なくともハリーは呆然としていた。

「あのねウィスタ」

「おう」

「地図は君が持っていて。案内は任せたよ」

「……いらないのか?」

「僕には透明マントがあるからね」

 欲がない。ウィスタは素直に受け取って、ハリーを手招いた。

「行こうぜ相棒」

 そんなこんなで魔女像から通路へ下って、二人で遠足に出た。前に使っていた鏡から行ける通路は落盤でふさがっているのだ。黙々と進んで、ハニーデュークスの地下倉庫へ出て、ウィスタは金の髪の灰色の眼の――まあ眼の色はいつも適当なのだが――デュランダルになり、ハリーは透明マントを被った。ちなみにデュランダルというのは曾祖父の父にあたる。名前だけ借りたのだ。

「君ね、手慣れてるね」

「どれのことだ?」

「変装もそうだし、ホグズミードに何回も来てたんでしょ」

 足許からの声ににやっとする。菓子を物色するふりをして、ロンとハーマイオニーを見つけ、そろりそろりと忍び寄った。

 肩をたたかれ振り向いて、透明マントの隙間から明るい緑の眼を認めた二人の顔は、たいそう見物だったとだけ言っておこう。

 『三本の箒』は混み合っていた。マダム・ロスメルタも忙しそうに立ち働いていて、宙をジョッキやグラスが飛んでいく。

「ごらんよ。だーれも僕たちのことを気にしやしないさ」

 ロンが勝ち誇ったように言う。対してハーマイオニーは「ええそうね」と渋々認めた。

「誰かの足をうっかり踏んでも大丈夫だね」

 ハリーの囁きに、ウィスタはこっそり返した。

「俺たちの後をついてこいよ」

 踏もうがぶつかろうがどうにか誤魔化せるだろう。店内は煌々と明るいどころか暖色の灯りがあるだけ。柔らかな薄闇とでも言えばいいのか。

「クリスマス前だからロマンティックにしているのかもね」

「へえそうですか」

 ウィスタは絡み合っている男女から眼を逸らした。もう『叫びの屋敷』でよろしくやればどうだよ。

「僕、バタービールを買ってくるね」

 絡み合いやらロマンティックやらに興味はないロンが、はりきってマダム・ロスメルタの許へ向かう。出資者はハリーであった。ロンのことだからバタービールとなにか軽く食べられるものくらい買ってくるだろう。なにせ外は吹雪で身体は冷えている。しかもウィスタもハリーも空腹だった。

「あそこがよさそうね」

 隅の席に狙いを定め、ハーマイオニーがするすると人混みを抜けていく。コーンウォールの寒村育ちのど田舎者は、彼女の先導に従うしかなかった。ハリーも穏和しくついてきている。

 席に着くと同時に、ロンがバタービールを持ってやってきた。唇がゆるんでいた。

「マダム・ロスメルタとは話せたのか」

「なんのことかな!」

「さっさと座りなさいよ」

 くだらないおしゃべりをハーマイオニーが切り捨てた。眼にはマクゴナガルそっくりの厳格な光があった。

「ぐるっと回ったし、ここを出たら二人は帰ったほうがいいわよ」

「ブラックが出てくるかよ」

 ウィスタはふんぞり返った。散々四人で意見を交わしたのにまだ足りないらしい。ホグズミードにはいたるところに手配書がはられ、夜になれば吸魂鬼の巡回まである。迷惑野郎がどこにいるかわからないが、ホグズミードにのこのこ現れるとは思えなかった。

――危険ではあるけれど

 乾杯し、バタービールを飲む。城に押し込められているのだ。たまに娑婆を楽しんだっていいだろう。

「世間はクリスマスなんだよハーマイオニー」

 ハリーがぼそぼそ言い、ハーマイオニーが唇を引き結んだ。

「でもねハリー」

「僕はダーズリー家でまともなクリスマスなんて」

「わかったわ」

 ハーマイオニーの変わり身のはやさよ。

「あー、じゃあ叫びの屋敷だけ見てから帰ったら」

 くつくつ笑いながらロンが言った刹那、弾むような小鐘の音とともに、凍みるような風と雪が吹き込んできた。ウィスタは扉口を見た。ハーマイオニーも見た。ウィスタはバタービールを飲みながら、さりげなくハリーを卓の下に押し込んだ。ハーマイオニーは素早く小さなツリーを動かして、彼らから四人の姿が見えないようにした。

「やあロスメルタ」

「あら大臣!」

――マズったな

 魔法大臣と教師陣がやってくるなんて、思わないではないか。

 ◆

 ひやひやしているウィスタたちの心境など知らず、吸魂鬼を送り込んだクソッタレファッジと、ホグワーツの教師陣たちは楽しげだ。

――やばいやばいやばいやばい

 大丈夫だ、と言い聞かせはするが、心臓は暴れ狂っている。ハリーに気づかれたら終わりだし、ウィスタは変装しているとはいえ、マクゴナガルもフリットウィックも鋭いのだ。ハグリッドは心配いらないだろうけれど。ファングを連れていたら危なかった。透明マントをかぶっていても、変装していても臭いまでは誤魔化せない……。

「大臣、どうしてお出ましに?」

 カウンター席に腰かけた一行に混ざり、マダム・ロスメルタが問いかける。どうしてと訊きながらも、なにも見逃すまいとしているのか、探るような眼をしていた。

「もちろんブラックの件だ。吸魂鬼に会ってきたがダンブルドアに猛烈に怒っていた。やつらは飢えている……」

 ファッジは重々しく言い、マクゴナガルが冷たい声を出した。

「あのようなものに居座られては、教育ができません」

「それに城の周りはずっと悪天候で、監獄にいる気分が味わえますとも」

「この村を徘徊しては『食事』をしているんですから、満足してはどうかしら?」

 口々に反撃され、ファッジは身を縮こまらせた。恰幅がよくてしかも魔法省の頂点に立っているというのに、教師たちとマダム・ロスメルタにかかっては冴えないおっさんに逆戻りだ。

「連中より質の悪いものから守るためだと、理解してほしい。なにせあいつは脱獄したのだ……アズカバンの安全神話は崩壊してしまった――」

「ねえ大臣、本当にあの子が……ブラックが――まだ信じられなくて」

 ぽつんとマダム・ロスメルタが言い、ぴくり、とマクゴナガルとフリットウィックの肩が揺れた。

「だって、あのブラックですよ。色々な人を助けて……闇側に荷担するなんて」

 蜂蜜酒の飲み過ぎが見せた夢なのではないかしら、と思うのよ。暗く沈んだ声音に、ファッジはゆるゆると首を振った。

「状況証拠はそろっていた。ブラックは黙りで――」

「だって私は――あの子が見誤るとは……」

 マダム・ロスメルタの綺麗な唇が動く。囁くような声は不思議とウィスタの許まで届いた。

「リーンが騙されていたなんて。死喰い人を夫にしたなんて」

 誰が思います?

 音が遠ざかる。ロンとハーマイオニーが凍り付いたようにウィスタを見た。

――リーンといえば

 それはリーン・リアイスのことで。リーンの夫が死喰い人。示しているのはブラックのこと。つまり。

「ち、ちおや?」

 ジョッキを持つ手が震える。ハーマイオニーがそっとジョッキを引き取った。

「ジェームズだって賢い子でしたよ。それがあなた、ブラックに欺かれていたと? 親友だったじゃないですか」

 からころと、足許で音がする。ウィスタは悲鳴を漏らさないように手で口を覆った。そうでもしないと叫びだしそうだった。

 やつは、いいややつらは巧妙なのだ。最初は親友だったかもしれない。成人してからもそうだったかもしれない。リーンとブラックは愛し合っていたのだろうよ。けれど、どうだ。

 会話が通り過ぎていく。けれども自分の名前が出て、ふっと意識が引き寄せられた。

「とても言えるまいよ。一族だってウィスタには隠してきた……惨いことだ……」

「その言い方ですと、父親が死喰い人であること以上に、なにか……?」

「ただのちんけな死喰い人ならばまだ――よくはないが――よかったのだ。だが、ブラックはジェームズ達を裏切った」

 ひとりの人間に秘密を封じ込める高等魔法。忠誠の術。守り人が裏切らない限り、敵から身を隠すことができる鉄壁の守り。

「ジェームズはブラックを信頼していた。しかしブラックは守り人になって一週間も経たないうちに闇の帝王に夫妻を売った」

 息が止まる。くらりと世界が揺れた。

「さらには妻子を売った。リアイスの別邸もまた忠誠の呪文に守られていたが、ブラックが大まかな位置を教えたのだろう。闇の帝王は嬉々としてリーンを待ち伏せし、惨殺したのだ……」

 なにせブラックはリーンの夫だったのだ。行動など筒抜けだったろうから。

「マグルたちとペティグリューを殺したことも罪ならば、親友を裏切り妻子を売ったのも罪……そして今や己が子と親友だった男の子を狙う鬼畜だよ」

 知られてはならない。知らせてはならない。

「こんな事実など、子どもには――」

 酷だろう。

 

 『三本の箒』を飛び出して、城に帰るまでの道中をよく覚えていない。気づけば隻眼の魔女の像の前にいて、ウィスタはふらふらと歩いていた。

 床も壁も天井も冷え切っていて、居並ぶ甲冑たちもよそよそしく思えた。

――ここは

 俺の家だった、とウィスタは思う。森の別邸と、ホグワーツと。孤児院から連れ出されて魔法界を知って。居場所ができたのだと。けれどそんなの夢でしかないとわかっていたではないか。なんにも望めない汚泥の中から掬われて。家族ができるだとか、友達ができるだとか、いてもいい場所があるだとかいう望みも叶えられて、勘違いしていたのだ。何の疑いもなく、明日が来るのだと。よりよい日が来るのだと。

 リーマスに会おうか。会ってなにを話せばいいのだろう。ウィスタがシリウス・ブラックの息子だと知っていたのだろう。なのにウィスタの後見になった。どうかウィスタがブラックの息子ではないと言ってくれないだろうか。悪い夢なのだと……。

『君のことを手放しで歓迎する層ばかりじゃないってことだ』

 ナイアードの言葉が蘇る。ウィスタが子どもだからだとか、孤児だからとか、そんな理由ではなかったのだ。死喰い人の息子――よりにもよって妻を裏切った男の子だから。リアイスの当主を殺したも同然だから。

「なんも否定できねえ」

 息子ではないと、証明する術はない。そのためにはブラック以外の誰かの子だという証拠を見つけなければならない。あることは証明できてもないことは証明できない。悪魔の問い。

 どうすればいいのかまったくわからない。寮にも戻りたくない。だってあそこはグリフィンドールの寮。騎士道を重んじる、勇猛果敢な騎士の住まうところだ。真実を知ってしまった今では、ウィスタは己が異物としか思えなかった。

――あれほど知りたかったのに

 自分のもう半分。大人たちが隠すから余計に気になった。ろくでもない半端者が父親だったらどれほど楽だろうか。

「なんで、」

 喉の奥から熱いものがこみ上げる。なんで、どうして、母親は、ブラックを夫にしたのか。結婚する前からずっと騙されていたのか。それとも。

 がらんとした玄関ホールで立ち止まる。ホグワーツにはいられない。だってハリーにどの面下げて会えばいいのかわからない。ウィスタは己がグリフィンドールに組分けされた不運を呪った。孤児院から連れ出された幸運を呪った。なにもかもが呪わしかった。

 曾祖父様のところへ行こう。ホグワーツにいるよりかは『谷』にいるほうが何倍もいい。リーマスを遠慮容赦なく問いつめるなんてウィスタにはできない。できるわけがない。

 息が白く凍るほどの寒さの中を、ウィスタは突っ切った。玄関ホールから廊下へ飛び出して、誰かのおどろおどろしい声を聞いた。

「お前、実家から勘当されたんだって?」

 出来損ないを処分すれば……その先は声の輪郭が朧だ。男が数人。いいぞ、と囃し立てている。狂ったような熱と粘るような笑い。黒髪の女の子の頬を、男が殴る。

――おいおい

 血も凍るとはこのことだ。しかも男たちがつけているのはグリフィンドールのネクタイで、女の子のほうは緑と銀。スリザリンだ。

「やっていいことと悪いことがあるだろうが!」

 注意を引きつけようと声を張る。喉が痛むが気にしていられない。杖を振り、もがく女の子と男たちの間に盾を出現させる。けれどどうしたことか。女の子の黒髪が――綺麗な髪が断ち切られた。

「どういう」

 盾は出現している。座標もあっている。なのにどうして女の子は酷い目にあっている? 考えている暇はない。踏み出す。駆け出そうとして。

「見ぃつけた」

 誰かの声と、衝撃。廊下に叩きつけられる。こつ、と革靴の音。

「ウィスタ・リアイス。こーんなところでどうしたのかな? せっかく寮で待ってたのに」

「そうだぞウィスタ」

「歓迎してやろうと思ったのに」

 一人、二人、三人……。つけているのは紅と金のネクタイ。上級生。顔は知っていても名前はなんだったか。

「快気祝いならいらないぞ」

 悪ふざけにしては痛いんだけど、と切れた唇を手の甲で拭う。立ち上がろうとして、腹に爪先がのめりこんだ。

「――ッ」

 かろうじて杖を向ける。あてずっぽうな呪文が炸裂し、男の一人が悲鳴をあげた。

――ひとり

 悪ふざけではない。じゃあなにか。なんなのか。

 今度こそ立ち上がる。しかし、間髪いれずに光る縄に絡みつかれ、口をふさがれ腕も足も縛られ、たまらず倒れた。

「寮の空き部屋でじっくり料理しようかと思ったけど」

 まあなんだ、ここでもいいか?

 筆頭らしい男が言って。そうだ、そうだなと子分たちが賛成する。なにがいいのか。罰ゲームなんて雰囲気ではない。ウィスタに向けられているのはれっきとした敵意――殺意だ。

「やっとこさポッターもグレンジャーもウィーズリーも離れたし、みんなホグズミードに行ってるし、廊下はがらがら。よい日和ってやつだ」

 一語言うたびにウィスタを蹴り、杖を持った手を踏みつける。玩具を痛めつけるように。

「不思議か? リアイス。いいやブラック」

 男がかがむ。ウィスタの前髪を引っ張って顔を上げさせる。狂気に彩られた眼。

「なんだこいつ驚かないな」

「え、じゃあ知っててグリフィンドールになったのか」

「お前なんてスリザリンに行けばよかったんだ」

 痛みに顔をゆがめながら、ウィスタは男を――男たちをにらみつけた。厭な絵ができつつある。そうして厭な予感ほどよく当たる。

「俺ら死喰い人に親を殺されてな? お前がブラックの息子だって噂で聞いてびっくりよ」

「リーン・リアイスもなんで死喰い人と結婚したんだろうなあ」

「そりゃお前あれよ」

 ■■されたんじゃないの。ぎゃはは、と笑いが弾ける。闇祓いもたいしたことねえなはっはは! 股■■■されて腰■■――。お前なんていらない子だぞははは!

「傑作傑作。英雄殿の子が、穢らわしい犯罪者の子!」

「どうせお前がそんなだから、リアイスは放っておいたんだろうよ。マグルの孤児院に捨てられたんだって? かーわいそうになあ」

 壊れた音の羅列が、ウィスタを浸食していく。けらけら笑う男たちが悪魔に見えた。もっともらしいことを言う悪魔。

 熱が満ちていく。両の眼に涙の膜が張った。頭が痛む。いいや、どこもかしこも痛む。内側で何かがはちきれそうだ。

「おしゃべりはこのくらいにして」

 ひゅっと風切り音。次の瞬間、紅蓮の炎が現れて。

「あぁぁああ!」

 苦痛に身をよじる。塞がれた口から叫びが漏れ出す。ウィスタの叫びが。

――熱い痛い

「親は生きながら焼かれてさあ」

「闇の帝王もその部下も赦さないって思ったね」

 朗らかな声。やっちまえ! と熱狂するやつら。

「お前は異端のリアイスなんだから。手元が狂って死んでもいいだろうよ。死喰い人に■開いた女の子な、んて――」

 鮮やかな深紅が花開く。眼を見開いたまま、男が倒れ、従っていた男たちも倒れた。

「黙れ」

 戒めが解ける。どこにそんな力が残っていたのか、ウィスタは立ち上がった。杖は廊下に放り出されたまま。魔法剣は指輪となってはまっている。武器はない。

――できる

 杖がなくても魔法は使える。この感情さえあれば。灼熱の、すべてを壊さんばかりの念を、ウィスタは知っている。まるで祖母が乗り移ったかのよう。倒れ、逃げようとして這う男たちを見下ろした。

「あ、ああ……」

 なんて無様なのだろう。こんなやつらにいいようにされた自分が情けない。

「赦してください」

「うる、せえよ」

 はぁ、と吐息が漏れる。

――できる

 こいつら灼いてやる。指を鳴らそうとして――。

「ウィスタ!!」

 誰かの悲鳴と衝撃が一緒くたにやってきた。

「駄目だ! 駄目なんだからな!」

 体当たりされもんどりうって転がって、鮮やかな緑の眼に射抜かれる。

「それをしちゃいけない」

 静かな声に、ふっと意識が切り替わる。熱病のような狂気が解けるように消えていって、切り離されていた心と身体が元通りになった、代わりにやってきたのは耐え難い痛みと熱。そうして暗闇だった。

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