【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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三十話

 グリフィンドールは浮かれ、スリザリンの士気はどん底で、結果としてウィスタの周りは静かになった。誰もブラックの息子になんて構っていられないのである。

「……脅しも効いたみたいで重畳、重畳」

「土星がなんだって?」

「落ち着けロン」

 クィディッチ杯を獲得したからといって、教師は甘くなかった。課題の量は増え、ハーマイオニーは試験勉強を開始した。引きずられるようにしてハリーとロンも勉強するしかなく、付き合うような形でウィスタも図書館にいた。

 占い学に勉強が必要なのだろうかと思うが、ホグワーツの方針なのだろう。そもそも、インチキ占い師をダンブルドアが雇っている理由がわからない。

 クロードを招いたほうがいいだろうに。しかし、筆頭分家当主《パッサント》である又従姉は頷かないだろう。学校教育に占い学は必要ないと仰せだ。ともかく無事に『谷』に帰ってらっしゃいと手紙を寄越してきて、ついでのように書いてあった。

 おそらく六月あたりかしら。ハグリッドのカボチャ畑のあたりに、鞍と手綱を置かせてもらいなさい、と。

 ◆

 試験勉強をそれなりに――いやほぼしないまま六月に入り、不可思議な指示に従って、魔法生物飼育学のあとにハグリッドに言ってみた。「なんじゃ。クロードの言うことなら意味があるんだろうが」と首を傾げながら、畑のところに馬具一式を置いてもらう。少し歩いたところに厩舎があって、そこにヒッポグリフたちがいるのだ。そちらに馬具はそろえてるのだから、わざわざカボチャ畑に置く意味がわからない。

「まさか、バ、バックビークを散歩させろと……」

 ハグリッドが涙ぐむ。控訴の判決は数日後らしい。学期末試験の最中だ。バックビークは厩舎に置かれず、ハグリッドが監視していた。逃がすなよ、ということらしい。

「どうだろうな」

 正直に答えた。ウィスタもなにもわからないのだ。そうだよハグリッドのためだよと答えたやりたいのだけど、下手に慰めても可哀想なことになりそうな気がした。マルフォイの莫迦が「あのヒッポグリフは死刑だ!」と自信満々に言っていたので「箒の性能をいいわけにしていた坊ちゃんがなんかほざいてる」と言ってやったから勘弁してほしい。見苦しいやつである。それを言ったらコメット系統の箒に乗ってるチョウが、ファイアボルトに乗ってるハリーを見事に攪乱したのはどう説明するのだ。

 そうして待ちに待った試験期間がやってきた。楽しみなわけではない。勉強漬けで死にそうなハーマイオニーがようやく楽になるからだ。インチキ占い師に堪忍袋の緒が切れて、占い学を蹴ったものの、それでも十一科目あるのだ。本人には言わないがクレイジーだ。ちなみに、マクゴナガルは占い学を辞めたハーマイオニーを咎めるどころか、満足そうだったと言っておこう。やたら加点していたので間違いない。

「……どうせならサンダーバードへの対処法とかしてくれてもいいのに」

 ウィスタはリーマスに言った。クリップボードを片手に「無茶を言うな」とリーマスはたしなめる。

「あとニフラーいっぱいの」

「はじめるよ」

 付き合ってられないと思われたのか、リーマスが遮った。ウィスタは舌打ちしながら杖を抜いた。教室をいくつかどころか、要は廊下の端から端までぶち抜いてある。かなり大がかりで、なぜかといえば『闇の魔術に対する防衛術』の試験は障害物競争形式なのだ。おいでおいで妖怪や赤帽鬼や水魔をしかけてある。沼地ありプールあり。最後はまね妖怪入りの洋服箪笥――数人くらい入れる大変大きなものだ――ペペンシー兄妹たちが入ったあの箪笥くらいあるだろう。

 ホイッスルが鳴り、ウィスタは嫌々ながら踏み出した。途中で脱落できればよいのだけど、どうせ最後までたどり着いてしまうだろうと分かっていた。手を抜けばリーマスに気づかれる。それに、まね妖怪が厭だからなんて理由で拒否もできなかった。

 仕掛けを次々に突破し、洋服箪笥の前に立つ。踵を返したくてたまらなかったが、手は杖を振り、扉は開かれる。足は勝手に洋服箪笥に踏み込んだ。

 ふ、と血の匂いがする。母の亡骸が仰向けになって転がっていた。

――見捨てたら逃げられたのに

 そうしなかった。己の命よりもウィスタを選んだのだ。消さないとと思いつつ、棒立ちになった。ただ青白い顔を見つめる。たしか二十か、二十一かで死んだのだ。生きていれば……三十をいくつか超していたはず。

 死者の唇が動く。

「お前なんて枷だった」

「産まなければよかった」

「私は死にたくなかった」

 低く這うような声だった。ウィスタの心の声だった。リーマスは言っていた。幸せだと思わなければ、君を産むこともしなかったろう、と。もう訊くこともできない。死者は蘇らない……。

「黙れ」

――母が

 ウィスタを守ったのは事実だ。命がけだった。死の間際、ありったけの力で逃がしたのだ……。だからウィスタは生きていて、こうして母の死に痛みを感じている。痛みと負い目を。だからといって、母の覚悟をなかったことにするのか。

「俺は望まれてたんだ」

 杖を振る。母が喉を押さえる。せき込んで途切れ途切れに言う。

「ウィスタを……願い……貴方を置いていく私を赦して」

 シリウス。

 眼を見開く。まね妖怪は心を読む。思考を、あるいは記憶を……ではこれは。

――俺の記憶

「裏切られたはず、だろう」

 なぜ最期まで夫を信じているのだ。杖を強く握りしめ、振り下ろした。直後、まね妖怪が砕け散る。

 蹴るようにして扉を開け、外へ転び出た。青ざめたウィスタと、空っぽの箪笥を見てリーマスは首を振った。

「まね妖怪消滅で減点」

 それからどうやって試験期間を乗り切ったか記憶が曖昧だ。気づけば試験が終わっていて、ついでにバックビークの控訴判決が出る日だった。魔法生物委員会は判決を決めているらしく、死刑執行人まで連れてきているようだ。悪辣である。それほどにマルフォイの親父が怖いのか。ハリーたちは何かたくらんでいるようだが、ウィスタはなんの気力も無くなっていた。

 無性にリーマスと話したくなって、黄昏時に訪ねてみた。どうやら不在のようだ。さて、マクゴナガルと論文について話しているのか、フリットウィックとお茶でもしているのか。『脱狼薬』の準備だけしておこう。戸棚から杯を取り出し、床下の保管庫から『脱狼薬』の瓶をとる。杯と瓶を机に置いて、ふと思いついた。

「忍びの地図よ来い!」

 かた、机の引き出しが鳴る。鍵を開ければ、羊皮紙が飛び出してきた。

「我、よからぬことをたくらむ者なり」

 机の上に広げれば、忍びの地図に城内と校庭――禁断の森の際まで――が描かれる。さてリーマスはなにをしているのか……と眼をこらし、そういえばハグリッドはどうなったろうと、校庭を見て、息を詰めた。ウィスタはものも言わずに踵を返した。ローブの裾が翻り、ちりばめられた守りが煌めいた。

――なぜ

 今になって。報せるか報せまいか迷い、拳を握った。

 ブラックは俺の獲物だ。

 ◆

 シリウス・ブラックを示す点は、暴れ柳の近くで消えた。透明呪文を自分にかけ、走りに走って現場へ到着したウィスタは、暴れ柳に突入した。通路の先はホグズミードの先へ続いている。けれどホグズミードの『どこ』へ続いているのかまでは、知らなかった。  唇を引き結んだまま、ウィスタは黙々と進んだ。罠はない。静かなものだ。数十分か一時間か。長い時間が経って、通路が上り坂になった。そうしてしばらくするとぽっかりと空いた穴に出くわした。音も立てずに穴をくぐり、瞬いた。叫びの屋敷だ。ホグズミードの心霊スポット……。じっくり観察したかったが、そうもいかない。床板が軋むと同時に、ウィスタは杖を突き出した。

「――セクタムセンプラ」

 激情とは裏腹の、静かな声だった。強力な呪文はしかし、盾に阻まれる。ウィスタと向かい合った男の顔を、月光が照らし出した。灰色の眼、黒い髪。どこか傲慢で、しかしそれが嫌味にならない。

「ブラック」

「招いた覚えはないが」

 ウィスタは彼を凝視した。狂った犯罪者だと聞いていた。アズカバンに入れられれば正気ではいられないと。だが――。

――なんだこいつは

 恐ろしいことに話が通じる。いいや、最初から狂っていれば正気も狂気もない……。

 ブラックは至って自然体だった。杖を構えているものの、殺気を感じられない。ウィスタが立て続けに呪文を放っても回避するか防ぐだけ。

「しばらく穏和しくしておけ」

 いつ杖を振ったのかもわからなかった。気づけば赤い光線がウィスタに突き刺さり――意識が暗転した。

 

 獣の臭気で眼を覚ました。ああ、スナッフルズの世話をしないとな――と身を起こそうとして、ここはグリフィンドールの部屋ではなく、叫びの屋敷なのだと思い出す。

 ぼやけた視界に、黒い犬が映る。なぜここにスナッフルズが――しかも引きずっているのはロンだと?

「ウィスタ! なんで」

 俺が知るかと言いたかったが、沈黙呪文をかけられていた。しかもご丁寧に縛られている。挙げ句に杖は遠くに転がっていた。

 事態が飲み込めないままでいるうちに、ロンが寝台の上に放り出された。ロンの悲鳴が響く。

――なにをやってんだあの莫迦犬

 なんでここにいるかはどうでもいい。なんてことをしてくれるのか。ロンの片足はどうやら折れている。

「ウィスタ、早く逃げろ」

 ロンは痛みに泣きながら、どうにか言った。

「犬じゃないんだ! ブラックだ!」

 次の瞬間、犬の姿が掻き消える。立っていたのはブラックで、きつい眼でロンを見下ろしていた。

「傷に障る。やめなさい」

「うるさい!」

「穏和しくしていれば危害は加えない……用事があるのは君では――」

「信用できるか!」

ウィスタの心臓が早鐘を打った。死喰い人を挑発してどうする。怯えていれば命は助かるかもしれないのに。そんなことがわからないロンではないのに。

 ふ、とロンの眼がウィスタを捉える。必死の形相だった。いや、まさかそんなことはないだろう。

――時間を稼ぐつもりか

 ブラックの注意はロンに向いている。ウィスタのことは放置だ。逃げろと言っているのか。

「裏切り者!」

 ブラックが身を強ばらせる。動物もどきだとか、よりにもよってスナッフルズだったとか、最悪なことに裏切り者を匿って世話まで焼いていただとか、大混乱だ。けれどウィスタが今すべきなのは、ロンの頑張りを無駄にしないことだ。

 武器さえあれば、と歯噛みする。すると左手が冷たくなり、拘束が切れた。そうだ。ウィスタは魔法剣『冬の息吹』の継承者なのだ。そっと立ち上がる。片手に魔法剣をひっさげて、距離を詰めた。

「――そこまでだ」

 背後から切っ先を突きつけられても、ブラックは笑うだけだった。

「お前にも、ウィーズリー家の子にも用はない」

「俺にはあるんだが?」

 ひりつくような沈黙が満ちる。ロンは暴れるスキャバーズを握ったまま、剣を構える息子と、甘んじてそれを受け入れる父を見つめていた。

「やらねばならないことがある」

「これ以上どんな罪を重ねようって?」

「今夜ひとりの命が奪われるだろう」

 く、とブラックが顔をゆがめる。今の今までみせていた、不気味なほどの冷静さは影をひそめていた。さらに強く柄を握ったとき、誰かが駆け上ってきた。ぱっと扉が開く。ウィスタは息を吐き出した。

――間が悪い

 ある種の才能だろう。

「お前ら逃げろ!」

 警告を発し『冬の息吹』を繰り出そうとした刹那、宙空に炎が燃え上がって消えていく。リアイス一族伝達術式『炎』。扱えるのは一族と、婚姻によってリアイスであると認められた者のみだと聞く。無論、ウィスタは使っていない。使う暇などない。では。

「俺はリーンを裏切ってはいない」

 だから『炎』も使えるのだ。

 完全に虚を衝かれた。そんな莫迦な話があるか。しかし『炎』は嘘を吐かない。裏切っていれば使えるはずもない……。術式が狂ったのではないか……。

 手が震える。呼吸が速くなった。

「僕の父さん母さんを殺したんだろう」

 ハリーが駆けてくる。ブラックは黙ったままだった。ウィスタは脇へ退いた。厭な汗が背中を伝う。ハリーが杖を構えたまま、ブラックを睨みつけた。するりと彼らの間に割り込んだのは、クルックシャンクスだった。まるでブラックを庇うように立ちふさがる。

 ハーマイオニーも杖を構えながらやってきた。賢い魔女の眸に答えを読みとろうとしたが、彼女もまた混乱しているようだった。

――ブラックは黙りだった

 十二年前から沈黙していた。だから誰もがブラックを犯人だと思った。ダンブルドアの証言と、ポッター夫妻とリーン・リアイスが殺された事実、マグルの証言。状況はブラックが犯人だと示していた。ブラックも否定しなかった……。

「まさか……」

 ウィスタが呟く。ハーマイオニーは青ざめたまま、首を振る。ありえない、と。

 再び扉が開く。ヘカテとリーマスだった。

「ランパント、後で説教ですよ」

「シリウス……これは――待ってくれ……あいつが?」

 力が抜けそうになる。ヘカテは燃えるような眼でウィスタを睨み、リーマスは駆け寄ってきた。ハーマイオニーは声を震わせた。

「先生……ブラックと通じて?」

「違うとも」

「私、黙っていたのに。ずっと……」

「違うんだ」

「先生が人狼だって。ブラックを手引きしていたんだわ。信じていたのに。だから侵入も……ハリーとウィスタの死を願って……」

 リーマスが片手で顔を覆った。世界中のなにものからも姿を隠したいと言わんばかりだった。

「君は賢すぎる……だが、手引きはしていない。断じて。誰が養い子と親友の子を殺したいと思うものか」

「養い子?」

 ハリーが呟いた。ウィスタは肩をすくめ、ハーマイオニーの腕を掴んだ。そのまま部屋の隅へ引っ張っていく。

「先輩はシロですよ。ランパントを殺そうとすれば、私が始末しますし」

 穏やかに言って、労るようにリーマスに視線をやった。

「君やリアイスがいればこそ、私は安心して教師ができた……」

 ぞっとしない話だ。リーマスは人狼の自分を嫌っている。憎んでいるといってもいい。誰かを咬むことを恐れていた。教師になる条件に、万が一の時己を殺せる人間を求めたのではないか。たまたまブラックが脱獄して、ややこしいことになっただけで。

――確実に殺してもらえるように

「さて」

 呻くようにリーマスが言った。ブラックを見て、ロンを見る。

「私も細かいところはわからないんだ」

「あいつは逃げたんだ。指だけ残して……」

「ならば――?」

「ミイラ取りがミイラになった」

「なるほど」

「阿吽の呼吸で通じないでくれますか」

 ヘカテはうんざりしたようだ。ウィスタも同じくだった。彼は不機嫌そうに扉を見ると、問答無用で蹴り開けた。はら、と落ちたのは透明マント。眼に憎しみをたぎらせたスネイプが立っていた。

「貴様ら――貴様……よくも裏切った女の杖を使えるな!」

 そのまま踏み込もうとしたが、ヘカテが抑えた。

「リアイス! 恥を知れ!」

「先輩とかち合わせたら殺し合いするでしょう。困るんですよ」

 事情がなにもわかっていないんですからと告げ、ヘカテは素早く失神呪文をかけた。リーマスが手際よく縛り上げる。

「……説明してほしい」

 ハリーが言う。すっかり毒気を抜かれているようだった。ウィスタは勝算を弾き出した。ブラックにヘカテ、リーマスを相手にできるか。こちらは四人。人数は有利――。

――無理だな

 あっさり諦めた。養父に敵対できない。それにヘカテがブラックの味方……らしいのも気になる。そもそも、レディはブラックの正体に勘づいていただろう。だというのにウィスタに匿わせた。ネフティスも同意した。

 答えはひとつ。

 ブラックは裏切り者ではないからだ。

 ◆

――ポリジュース薬をつくったり、他の寮へ忍び込んだりなんて

 かわいもんじゃないか。校則を数百ほど木っ端微塵にした前科があるものの、ぎりぎりで法には触れていない。

「非合法の」

「動物もどき」

 ウィスタとハーマイオニーは言った。ハリーとロンは首を傾げている。なにせ動物もどきがどれほど『面倒』かは、調べないとわからないのだ。面倒で危険で、登録が義務づけられている。しかもなんだ、五年生でそれをやり遂げた。ありえない。

「人狼と一緒にいても害はない。ジェームズとシリウスとリーンは大型の動物に変身できたから、私が暴れようとしてもどうにか抑えられた……」

「ですがしくじりましたね?」

 ヘカテは容赦なかった。リーマスは眼を逸らし、ブラックは苦々しげな顔をした。そうして二人とも転がっているスネイプを見た。

「……あのときは変身する暇もなく……いや……俺が悪い」

「リーンが止めてくれなければ、私はセブルスを咬んでいた――」

 リーマスによればこうだ。当時からブラックとスネイプは仲が最悪だった。スネイプがリーマスの周りを嗅ぎ回るものだから、ブラックは一計を案じた。暴れ柳の止めかたと、満月の晩に行ってみればいいという二つを。悪趣味極まりない。だが、ブラックの『悪戯』を聞いたジェームズは血相を変えた。スネイプを連れ戻しに行き、そこにウィスタの母も加わった。結果としてリーマスは銀で貫かれ、母も大怪我をした。

「軽挙妄動甚だしい」

「やめてくれ」

 ヘカテはちくりと言い、リーマスは「話を進めよう」と急かした。

「忍びの地図はわざとフィルチさんに没収させ……色々あったが卒業し――」

「お前見た目によらず雑すぎないか」

「黙ってシリウス」

 とんちきな夢だと言われれば納得しそうだ。ウィスタの冷めた眼に、養い親と一応の実父はたじろいだ。

「……で。ヴォルデモートがハリーとウィスタを狙っていると判明した。対抗措置としてダンブルドアは忠誠の術を提案してきて、ジェームズは俺たちの守り人になってくれた」

「そしてあんたは――」

「ジェームズたちの守り人になった……、とダンブルドアには言った」

 ダンブルドアには『言った』。だからダンブルドアはブラックが犯人だと証言した――。

「……ふりだった?」

 そっとロンが言った。ハリーは瞬き、ハーマイオニーは考え込んだ。ウィスタは唇を引き結んだ。

 今生きているのはリーマスとブラックだ。しかしブラックは守り人ではなかったとしよう。だとしたら誰が。

「私は守り人を辞退した。どうか守り人が誰だか言ってくれるなとも告げた」

 リーマスが話を引き取った。

「人狼は不安定だ。満月が近づけば近づくほど……守り人には向いていない。漏らさない自信もなかった」

「俺が闇の陣営ならば、すぐに思いつくだろう。守り人はブラックだと。だから――守り人に、ペティグリューを推薦した。平凡で、目立たない。裏をかけると……思っていた」

 ブラックはすがるように杖を握りしめていた。手の震えは全身に伝播し、叫びの屋敷を悔恨で満たしていた。

「いや、だったら父さんと母さんが死ぬはずがない。ペティグリューは死んでいる!」

「生きている。こそこそと隠れて……何人も殺して……のうのうと」

 灰色の眼が青を帯びた。灼熱を宿した双眸が、ロンへ向く。ロンが握りしめているネズミへと。

「ペティグリューは動物もどきだった。変身したのは」

 ネズミだ。

「彼の……残された部位は」

 ハーマイオニーが囁いた。信じられないとばかりにブラックとネズミを見る。ウィスタは呆然として呟いた。

「指だけだった?」

 そういうことだ、と誰かが言う。ヘカテかリーマスかブラックか、判然としない。

「けど……マグルたちの証言が――」

「人の記憶ほど当てにならないものはない。現場は混乱していた。生きていたのは――そう思われたのは――俺だけだった。薄汚い裏切り者は言ったのだ」

 私がジェームズとリリーを裏切った。私が秘密の守り人だった、と。

「マグルもろとも現場を混乱に陥れ、指を切り、己は逃げ延びた。潔白の証明はもはやできなかった……できるはずも……俺のせいで……ジェームズとリリーは死んだのだ。なんという……ハロウィンパーティにしたって」

「ペティグリューが提案した……」

 リーマスの声もまた震えていた。

「ジェームズたちも君たちもまとめて始末すればいい。それができなくとも……リーンと君が外出するようにし向けた?」

「多少は予定がずれたが」

 結果は同じだ。

「皆死んでしまった……できることをするしかなかった……やつが潜伏していると知って、脱獄したのだ。動物もどきならば、吸魂鬼の影響を受けないから」

 信じる、とも辻褄が合う、とも言わず、ウィスタは数歩進んだ。ロンのいる寝台へと。

「それで――どうやってこいつを始末するんだ」

 ◆

「ウィスタ。君は手を汚さなくともいい」

 リーマスのせっぱ詰まった声に、首を振った。両眼がじわりと熱を持つ。リーマスがさっと手で覆った。薄闇の中、淡々とブラックが――父が告げた。

「こいつを人間に戻す……万一動物もどきではない、ただのネズミならば害はない。いいかね? ウィーズリー家の……ロンだったか……」

「わ、わかりました」

「ヘカテ、術を」

「もう結んでいますよ。逃げられません」

「シリウス、同時にやろう」

 すっと手が離れる。よろめくように後退し、剣を握ったまま目撃した。

 閃光と、ゆがむ影。ややあって現れたのは小汚い男だ。垢じみて、貧相な、穢らわしい。

 唸りが漏れる。ここにすべての証明は成った。齟齬はない。生き残ったのは三人。一人は守り人を辞退し、一人は投獄された。ミステリの常道だろう。被害者のふりをした真犯人。死んだと思わせた真犯人。

 罪人は確定した。

「――首があれば」

 証明になるだろう。唇が弧を描く。『冬の息吹』が静かに振り下ろされようとして――。

「駄目だ!」

 ハリーの待ったがかかった。ぴたり、と切っ先が止まる。濃い尿の臭いがたちこめた。ウィスタは粗相をした裏切り者を睨み、さらには飛びついてきたハリーを睨んだ。これで二度目だ。

「マグル殺しだけで死罪相当だろうよ」

「そういう問題じゃない。こいつの口から証言させるんだ! 生かさないといけない。冤罪も晴らせない」

「首じゃ駄目?」

 ハーマイオニーが耐えきれずに泣き出した。すまなく思うが、ウィスタにも止めようがないのだ。

「……生きているほうが望ましいです」

「そうか」

「手を汚すなら俺たちでやる。お前は子どもだ……」

「そうとも」

「うるさいんですよあんたらは」

 ヘカテが怒った。

「生かして連れて帰って吐かせてダンブルドアに話を通して、あとスクリムジョールあたりに来てもらって……アメリアにはファッジを抑えてもらって――大臣と闇祓い長官と魔法法執行部長官権限で処刑。どうです?」

「いささか回りくどいがそうするか」

 父が疲れたように眼を瞑った。

 

――運命の女神様っていうのは、なんでこんなに意地悪なのだろう

 臍を噛む。今宵は満月。人狼が目覚める夜。

 リーマスは薬を飲み忘れたのだ。慌てて飛び出したから。そうして獣に成り果てた。

 ペティグリューは逃げ出して、ヘカテは裏切り者を追っていった。悪いことは重なるもので、リーマスは狼になり……父が組み合い……。

 禁断の森に駆け込み、荒い息を吐いた。やり過ごせればいいが、人狼の嗅覚は鋭敏だ。ハリーたちの状況もわからない。

 さて校庭を突っ切って城へ駆け込むべきか。それとも森に隠れているべきか。人狼に相対したくはない。ペティグリューを前にしたときは、なんでもできると思っていたのに。

 夜明けまで粘ることができれば勝ちだが――。

 と、そのとき。間近に影が降り立った。金の双眸が光る。

 距離はたったの数歩。

「嫌だ」

「リーマス」

 うう、と人狼が唸る。話に聞いていただけだった。人狼は恐ろしいのだと。理性などないのだと。

――こんな形で知りたくはなかった

 獣が迫る。ウィスタは凍り付いたように動けない。殺されるとわかっていても。しかし魔法剣は闇の生物に反応した。主の意に反して、邪悪を滅ぼさんと。ウィスタの片手がひとりでに動いた。

「嫌だあぁああ!」

 澄んだ切っ先が人狼の爪を防ぐ。火花が散り、せめぎ合った。ウィスタは死にもの狂いで『冬の息吹』を従えた。

「だから」

 鋲付きの靴底を人狼に炸裂させる。

「あんたを」

 よろめいた隙に剣身で頭を殴った。

「殺さないって言ってんだろうが!」

 うずくまる人狼をもう一度殴り、束縛し、口も封じた。へたりこみ、じりじりと距離を取ってウィスタは吐いた。一歩間違えたら養い親を殺すところだった。あのまま『冬の息吹』を御せていなかったら……。震えながら立ち上がる。はあ、と息が白く凍った。

――待てよ

 今は六月だ。こんなに冷えるわけがない。ややあって、ウィスタは眼を見開く。そうだ、ホグワーツにはあいつらがいる。獲物はシリウス・ブラック。ならば――。

 駆け出す。より寒くなるほうへと、全速力で。そこは湖の畔で、信じられない数の吸魂鬼が渦を巻いていた。倒れ伏しているのは父。庇うように立つハリーとハーマイオニー。

――こんなところで

「死なせてたまるか」

 熱が身のうちに灯る。吸魂鬼ですら奪えない思い。赫怒であった。

「守護霊よ来たれ」

 だが、はかなげな光が現れるだけだった。数が多すぎる。そうして、こんな状況をひっくり返せるほどの力を、ウィスタもハリーもハーマイオニーも持っていなかった。

 せめて大人だったら。もっと時間を稼げたかもしれない。なんでウィスタはまだ子どもなのだろう。

「守護霊よ」

『この子は黄金のグリフィン……あなたとは相容れないのよ』

 母の声が聞こえる。凛とした、覚悟を決めた声。

 吸魂鬼と、闇の帝王と。母と……森と。過去と現在が入り乱れる。

「守護……」

『せめてもの慈悲をくれてやろう』

 優しい声だった。それは玩具に向ける愛に似ていた。

『何度でも――必ず、お前の前に……次の黄金のグリフィンが』

 立ちはだかる。

 視界が暗くなる。母が遠ざかる。待ってくれと手を伸ばして。吸魂鬼が迫る――。

 白い光輝が夜を切り裂いた。穢れの使徒を滅ぼして、湖面を滑るようにやってくる。

 軽やかに降り立ったのは、ニ体の守護霊。

 片方は牡鹿。片方は。

 深紅の双眸の、グリフィンだった。

 ◆

「……お前が気づかなけりゃ、みんな破滅だったかも」

 青ざめながらウィスタは言い、杖を下ろした。湖をうかがいみれば、吸魂鬼が次々と滅ぼされ、あるいは逃げている。

「自分のことながら冴えてると思ったよ」

 ハリーもまた杖を下ろした。仕事を終えた守護霊たちが戻ってくる。なでようとすれば去ってしまった。

「……で」

 ハーマイオニーが血相を変えてやってくるのを、なるべく見ないようにしながら水を向けた。

「君、ハーマイオニーのこと頼める?」

「いいとも」

 いいですとも。前に座らせて安定させるにしろ、後ろでしがみつかせるにしろ、ロンに殺されそうだが。すまないロン。他意はない。不可抗力だ。そしてお前は友達ルートでいいのか、どうなのかはっきりしろ。

「あ、あ、あなたたち……」

「種明かしは後」

 カボチャ畑から回収した馬具一式は、バックビークともう一頭に装着済みだ。なんせ時間だけはたっぷりあったのだ。

――気が狂いそうだ

 逆転時計なんて考えたやつはおかしいのではないか。第三者目線で自分を見るって結構厭なものだ。

「待――」

「行くよハーマイオニー」

 ハリーはさっさとバックビークに乗っていた。こいつ、練習もしていないのに姿勢がいい。嫉妬しそうだ。

 拝借してきたヒッポグリフは、じっとハーマイオニーを見て、嘴を鳴らした。

「こちらのレディは慣れていないのでどうぞお願いします」

 矜持をそこらに放り捨て、ウィスタは頭を下げた。ヒッポグリフは膝を折って、ハーマイオニーが乗れるようにした。

「まあ、ありがとう!」

 なんてすばらしいのとハーマイオニーがほめたたえ、ヒッポグリフは当然だとばかりに胸を反らせた。ウィスタも乗って、手綱を握る。よしよし首尾はいい。信じられないほどに。

「じゃあ――」

 行こう、と言う前に、ヒッポグリフが走り出した。ウィスタは足でしっかり馬体を挟み、ハーマイオニーの腰に片腕を回した。

――これは拙い

「待ってちょっとこれは」

 しゃべるなと言う暇もない。ヒッポグリフは一気に上昇する。張り切っているのだ。

――誉められて

 嬉しかったのだな……。

 満月に、二つの影が重なる。ハーマイオニーの絶叫が響いた。

 ◆

 北塔のてっぺんに、父とウィスタ、ハリーとハーマイオニー、二頭のヒッポグリフはいた。

「助かった」

 しばらく姿をくらます、と父は言った。そうしてへたり込んで、ヒッポグリフに慰められているハーマイオニーを見た。

「大丈夫か彼女」

「乗馬に慣れてなくて……」

「可哀想なことをしたな」

 本当に可哀想なことをした。あんなもん怖いに決まってる。ハーマイオニーが逆転時計を持っていなかったら、父は廃人になっていたというのに。功労者にする仕打ちではなかった。

「そろそろ行く」

 ハリー、と父は呼びかけた。

「君はお父さんそっくりだ。本当に……代えのない親友だったとも……。ありがとう。ハーマイオニー、君にも感謝してもしきれないだろう。ロンにも礼を言っておいてくれ。それと、役人に何か訊かれたらこう言うんだ」

 シリウス・ブラックに錯乱の呪文をかけられましたってな。

 にっと笑って、父はバックビークにまたがる。なにもかも吹っ切るようにして、夜空へと滑り出し――見えなくなった。

 ◆

「なにを悩んでいるんだい」

 ブラック逃亡から数日後、ウィスタは校庭の湖の畔で、空を見上げていた。吸魂鬼は送り返され、空は青く澄んでいた。試験も終わり、ひとまず父は逃げおおせ、悩みなどないはず――だった。

「……過去の行状への羞恥心で死にそうになってる」

「暴力はいけないね」

 セドリックが隣に座る。

「そっちじゃないんだよな……」

「君、黙っていれば貴族の子弟に見えるんだから」

「あんたさ、犬好き?」

「人の話を聞こうね。家ではラブラドールを飼ってるけど」

「あー……枕にしたり、添い寝とかした?」

「それはないね。はしゃいで無理だし」

「……そう」

 ウィスタは両手で顔を覆った。なんてことだ。穏和しくて賢い犬だと思っていたら、それが。それが。

――実の父だとか

「ゴドリックよ我を助けたまえ」

「ウィスタ。落ち着こうか。なにかまた言われたの? 僕は前から知ってたけどね」

 顔を上げる。諸々が吹っ飛んだ。

「今なんて?」

「君がシリウス・ブラックの息子だって知ってた」

「……は」

 どこ情報? だとかお前なんて食わせもんだよと言いたかったが、口が動かない。なんだって。

「会った時から。リーン・リアイスの子が入学してくるから、なにかあったら助けてあげなさいって、父さんと母さんから。父親はシリウス・ブラックだけど色眼鏡で見ないこと、と厳命されてて」

「あの」

「クインも知ってたみたいだよ」

「な、」

「頑張るんだよ」

――なにを

 セドリックは楽しそうだ。してやったりと言わんばかりで。

「なにを、頑張るって」

「わかってるだろう?」

 立ち上がる。じゃあな、と乱暴に手を振って、校庭を走り抜けた。

 頑張るって。つまり。その。

 最近はご無沙汰の、夢の残像が蘇る。じわじわと熱が昇ってきた。

「くっそセドリックめ」

 余計なことを!

 

 ホグワーツ特急、コンパートメントの一室で、ウィスタは膝を抱えていた。

「……ちょっとウィスタどうしちゃったのさ」

「大丈夫よロン、青春の悩みよきっと」

「なあにそれ」

「――あなたたちにはちょっと早いんじゃないかしら」

 ハーマイオニーの察しの良さには恐れ入る。ウィスタは「そんなはずは」と「莫迦な」とぶつぶつ言った。彼女は上級生で親切なだけでほらそんな……そんなことは――。

 頑張ってどうこうしてどうなるのだ。

 ウィスタはリアイスで、ヴォルデモートに狙われていて。

 そんなやつを選ぶひとがいるもんか。




アズカバン編終了
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