【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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四十四話

「ネビルを助けていただいて……この子はいつもあなたの話をしていますよ」

 皺だらけの手が、杖を振る。現れたのは椅子と卓、湯気の立つ茶器であった。特別病棟は広々としていて、客をもてなすこともできる。室内は窓が大きくとられ、明るい色のカーテンとやさしい色の壁紙で整えられていた。だが、その明るさが――つくられた明るさが――胸に痛い。

「いえ」

 一言だけいって、ウィスタは茶器を手に取った。ロックハートに魔法を使用した咎で、女癒からはひどく叱られた。それはいい。ロックハートもさっぱり記憶が戻っていない割に、謎の詩を披露したりウィスタを見て拙い記憶の欠片に触れたのか「あああぁ吊しあげるのはやめて」と言ったり騒がしかった。それもいい。問題は五階から脱出する間もなく、病室から顔を覗かせたロングボトム夫人に捕まったことだ。廊下で立ち話くらいにして逃げる選択肢はめでたく潰れた。

 だらだらと冷や汗が流れているはずが、ウィスタの頬には汗の一粒も浮かばなかった。顔は笑みを貼り付けているし、ロングボトム夫人に相づちを打つ始末だ。

「ネビルは薬草に詳しくて……僕も助かってます」

 よそ行きの「僕」を使いつつ、心中ではあらゆる逃げ道を検討し、観念した。どうあっても無理だ。

「あなたがウィーズリー家のロナルドさんで、あなたがハーマイオニー・グレンジャー嬢、ああ、リエーフの嫡子殿……そしてハリー・ポッターさん」

 夫人は順繰りに握手しながら、まじまじとハリーを見て、ウィスタを見た。

「二人とも父君にそっくりだこと。眼は母君ねえ」

 よく言われます。自然と声がそろった。ウィスタはおずおずとロングボトム夫人を見、奥――カーテンに囲われた一角を見た。わざわざ父母のことに触れたのは、なにか含みがあるからなのか……。夫人とネビルが誰の見舞いに来ているかなんて知っている。ベラトリックスのせいであるし、しかもそいつはウィスタの父の従姉である。なじられても仕方がないのだ。

「――子どもが変な気を使うことはありません」

 開心術でも使えるのかと勘ぐってしまうほど的確に、夫人はウィスタの心境を読みとった。

「私が責めたところで、あの子たちは――」

 戻らないと言おうとしたのか、それとも別のことを言おうとしたのか。か細い声が、カーテンの隙間から漏れた。

「……シリウス?」

 ジェームズ? 息を呑む。ろくに手入れのされていない人形のように、ぎこちない動きで声のほうを見た。げっそりとこけた顔が、枯れ枝のような身体が、緑の檻から滑り出す。一歩、二歩とふらつき、壁際で縮こまっていたネビルがとっさに駆け寄ろうとする。しかしウィスタのほうが近かった。折れそうな腕をとる。

「危ないだろうアリス」

 唇が勝手に動く。ネビルの母親――アリスはにっこりした。ウィスタはこんなにも無惨な笑顔をみたことがなかった。元のふっくらしていた顔を写真で見たことがあっただけに。夫のフランクと闇祓いとして活躍していたのだと知っていただけに。

「リーンのことも気遣ってあげなさいね」

 誰かにとられてしまうわよ。彼女は夢見る眼でどこかを捉え、こことは違う世界を旅しているのだ。はあ、と嘆息する。それが『シリウス』を真似るが故なのか、ほかの感情からか、もはやウィスタにはわからなくなっていた。

「早く戻るんだ」

 軽く背を押す。そっと、そうっと。壊されてしまったひとを、これ以上傷つけないように。鼻歌をうたいながらやせ衰えた背が緑の檻へと消えていった。

 それから夫人やネビルとどういったやりとりをしたか、ハリーたちがどうしていたか、ぼんやりとしか覚えていない。とにかくロングボトム夫妻の回復を祈り、辞去しようとして、夫人にぎゅっと手を握られたことは覚えている。乾いた手の感触も。ネビルがくしゃくしゃに顔をゆがめていたことも。どうにかこうにか病室を出て、手洗いに駆け込んだ。

 喉の奥から嫌悪感とともに昼食だったものや胃液をひとしきり吐き出す。

――悪趣味な真似だった

 反射的に父を装った。そうするしかないと思った。だけれど、それがネビルの母のためになったのだろうか。なにもわからない。彼女だってわからないだろう。砕けてしまった心の、思い出の欠片のなかで生きているのだから。あいつらはこんなことが正しいと思っているのだろうか。殺すよりも惨いことを。狂うまで拷問なんて。やつに逆らったから、やつの居場所を吐かせようと。それが大義だから……。

 鏡を見る。紙のように白い顔。前髪を払えば忌まわしい紅が輝いた。えぐり出してしまおうか。そんな考えが浮かぶ。呪いの血。呪いの痕。祖母の屈辱と母の悲憤の証。こんな眼はないほうがいいのに。マッド・アイのように義眼を入れれば。

 手をのばす。鏡のなかのウィスタも手を伸ばす。顔に爪を立てる。下瞼から頬へと一直線に紅がはしったそのとき、叩音が割り込んだ。

「我が君」

 凪いだ湖面か、雪の降る夜を思わせる声がウィスタの激情をさました。どうした。問いかける前に声は続ける。

「お出でになってくださいませ。緊急案件が――保護せねば――」

 どうぞ命が摘まれる前に。

 神秘部のボードに庇護をお与えください。

 

 うんざりだな。

 シャンデリアもまぶしくて仕方がないし、あちこちで色彩が泳ぐ樣もわずらわしい。能天気に踊っている紳士淑女の皆々樣をはり倒したくなってくる。クリスマス仕様のホールでおしゃべりしている場合か。

「いかがしましたレディ」

 上流階級の発音。ダンスのお相手は心配げに薄い色の眼を細めている。白金の髪は綺麗に撫でつけられ、いかにも貴族、いかにも坊ちゃんである。まさかこんな上品そうな男が、穢れた血だとか吐くなんて思うまい。

「いいえ」

 小さく笑ってみせる。ああ、女ってのは不自由だなとつくづく思う。特に上流の女は。大口を開けて笑えば下品だの言われ、こんな拷問靴を履かされ、化粧もしなきゃいけないし、クソ野郎とは踊らなければならない。

「ならよかった。僕が不調法でもしたのかと」

「不調法どころかお上手でしてよ」

 踊るのが楽ですもの。そっと言えば坊ちゃんことマルフォイは満足そうだった。嘘は言っていない。ドラコ・マルフォイのダンスは巧い。適当に任せていればダンスはどうにかなるのだ。気分は最悪だが。マルフォイもまさか同学年の、それも女に化けた男と――ウィスタと踊っているなんて思わないだろう。真実を暴露して凍り付かせたいところだが、ウィスタの心もズタズタになること間違いなし。坊ちゃんや、お前はリディアと踊っていると一生思いこんでいればいいさ。

 相も変わらず純血の皆様、あるいは名門でなくとも魔法大臣に気にいられている方々は宴に忙しい。冬の社交である。ウィスタはリディアに化けてパーティに潜り込んでいる。今夜の主催はスリザリン系、それもマルフォイに連なる家だ。グリーングラスの令嬢ももちろん招かれていて、参加している。

――省内に侵入者が現れたとか

――襲われたとか……

 くるくると踊りながら、耳を澄ませる。小鳥たちのさえずりはどこか暗く、しかし一抹の期待がこもっていた。悪意というほどのものではない、退屈を紛らわせる娯楽を求める無邪気さ。

――省員がひとり

 亡くなったとか。

「……ウィーズリーのやつならよかったのに」

 ぽそり。こぼされた呟きに肯定も否定もしなかった。今は『リディア』なのだ。殴る蹴るも御法度だし、坊ちゃんの不興を買うわけにもいかない。

「ああ、純血の――?」

「血を裏切る者ですよ」

 留学中の令嬢とは、関わるはずのない連中ですが。巧みにステップを踏みつつ、弁舌もまた滑らかだ。

「子沢山で貧乏で、我々とは違うのです」

「あまり悪し様に言うのはどうかしら。特に死を願うような……」

 つ、と眉をひそめてみせる。マルフォイは瞬いて、息を吐いた。

「令嬢の前で言うことではありませんでしたね」

――そういう問題じゃねえよ

 ヒールで爪先を砕いてやりたい。グリーングラスのお母様とお祖母樣が淑女の心得を教えてくれた。畜生な男なんて爪先をぐりぐりしてやりな。もちろん貴族らしい言い回しだったが。

 曲が終わる。一礼し、マルフォイから離れた。ドラコ・マルフォイはリディアのお相手としては失格だ。彼女の姿を借りて好き勝手する代わりに、なぜに男を見定めねばならないのだ。脳内に縁談リストと候補の身上書を思い浮かべつつ、次々と踊っていく。どいつもこいつも。

 つつがなくすべてを終えて、エスコートされて車に乗り込む。グリーングラスの家紋つきの車だ。即座に拷問靴を脱ぎ捨てた。髪をまとめたピンも抜いていく。ゆるゆると金髪が背中に流れた。

「……だーーれも気づいちゃいない」

 ボードが独身子なしで助かった。座席にもたれかかり、口紅を拭う頃には車が動き始めていた。運転席の男が小さく笑う。

「あちらは一安心していることでしょう」

「そりゃお前、葬儀もしたし、土の下には中身入りの柩もあるし」

「疑いませんよ」

 そっと言ったのは、隣に座る男こと、忠実なる従者である。主が女に化け、従者が男に化けるなんてどうかしてるぜ。

「あれらは傲慢ですしね」

 だから直接手を下したほうがいいのに。手を抜くからですよ。侮蔑をたっぷり込めて言い切る従者は、今日も通常運転だ。今回の一件は、少なからず従者の貢献が大きいので何も言うまい。

 眼を瞑る。休まる暇がないとはこのことだ。ネビルと祖母、哀れなロングボトム夫妻との遭遇からの、一連の騒動……。

 かれこれ数日前、特別病棟に罠が仕掛けられた。神秘部のボードへ贈り物があったのだ。それは変哲もない鉢植えで、誰かからのクリスマスプレゼントだろうと女癒が持ってきた。ブロデリック・ボードは正気を失い、意味の分からないことを延々と呟いて、特別病棟に送り込まれた患者であった。そんなボードが幸運だったのは――。

「……あいつがいなけりゃ死んでたぞ、あのおっさん」

 気味の悪い、長い触手を揺らめかせた植物はお世辞にも贈り物には見えなかった。ネビルはふと女癒と鉢植えに気づき「それはダメ」と止めた。

「だから直接手を下せと」

 は、と運転手ことイルシオンが鼻を鳴らす。こいつら癖が強すぎる。

「いいだろうがよ」

 ネビルは「悪魔の罠だ」と断言し、女癒はあまり真剣に取り合わず、そこにロングボトム夫人が参戦し、騒ぎを聞きつけたエリュテイアが収拾した。そして吐きまくって目眩すらしていたウィスタが呼ばれ、事態を理解した。

「第七分家から連絡が。回復に向かっているとか」

 ちなみに女癒はこちらに引き込みましたよ。報告を受け「ああ」と頷いた。ボードがどこに匿われているか、ウィスタは聞いていない。英国か大陸かすらも。女癒はうまいこと手を回して、聖マンゴの支部に異動になった。これもまた第七分家の手配である。

 悪魔の罠を回収し、ロングボトム夫人とネビルに特別病棟を出てもらい――もちろん罠の存在は他言無用、ここでは何も見なかったと暗に伝えた――女癒を説得にかかった。ほぼエリュテイアが話したわけだが。

 このままではあなた、責任を負わされて失職するでしょう。悪魔の罠を贈り物だと思って持ち込んだのはあなたなのですから。あんな風になったボードを殺したい誰かがいるのです。もしかしなくとも、あなたのことも……ひとまずここを離れたほうが……。

 女癒は青くなった。エリュテイアの――リエーフ家令嬢の提案を呑んだのだ。ウィスタたちは聖マンゴを離れたので細かいことまでは知らないが、ボードを仮死状態にして、偽装したのだ。なにせ聖マンゴは第七分家の縄張りで、職員も多くいる。それに残酷な言い方だが、回復の見込みの薄い患者に対する関心は薄い。ボードの死も不幸な事故で片づけられた……。

「ボードが正気を取り戻したら」

「聞き取りはすると」

「ならいい」

 言ったものの、ボードから有力な証言が引き出せるかはわからない。神秘部にやつの求めるなにかがあって、服従の呪文をかけられて、操られ、仕上げに錯乱の呪文か忘却呪文か。そんなところだろうと踏んでいる。だとすれば犯人の顔を覚えているかどうか。ウィスタも断片的な情報しか持っていないので、神秘部に何があるかも知らないし、ハリーにも漏らしていない。ダンブルドアがハリーに言っていないのだから言う必要もないだろう。ただでさえ参っているのに。ボード暗殺未遂に衝撃は受けているようだが、なんとか折り合いをつけてはいるようだ。

「ほとぼりがさめた頃に社会的地位を戻してやれるようにだけはしてやってくれ。一連の出来事は――」

「ボードは死喰い人に拉致監禁されていたことにしましょう」

 さすがだなとは言わずにやりとした。一市民の死を偽装したり匿ったり、リアイスならば軽いのだが、あんまりにも出張るのはよろしくない。都合の悪いことは死喰い人のせいにすればいいのだ。

 それか、そのうちスクリムジョールあたりに耳打ちして、適当に誤魔化してもらおうか。ファッジを追い落とすための諸々の材料集めに邁進しているようだし、あと半年もすればけりもつくだろう。

「重い話はお止めになって」

 車が止まる。運転席からイルシオンが振り返った。

「クリスマスを楽しみなさい。お坊ちゃん、お嬢さん」

 ブラック邸に帰ると、すっかりクリスマス仕様に飾り付けられていた。住環境を整えるべくせっせと洗浄した甲斐もある。邸は往事の姿を取り戻していた。あんな幽霊邸がよくもまあ復活できたものだ。

 どこからか響く鈴の音がクリスマスらしさを引き立てる。ウィスタは自室に戻り、さっさと着替えた。いくら身体はリディアでも、女物はきついものがある。リディアも豪儀なものだ。己のスリーサイズと写真をちょくちょく送ってくるやつがいるか。ポリジュース薬を使わない変身なので、本人からのデータと家族の監修は必須である。ウィスタだって一時間おきに薬を飲むなんて面倒な真似はしたくないし、リディアだってけっこうな量の毛髪を提供するのは嫌がったのだ。

 食堂に降りれば、深夜だというのに笑いさざめく声が絶えなかった。ツリーが飾られ、大人たちは酒をたしなみ、子どもたちはケーキをほおばっている。

 お帰り、と口々に言われ片手をあげる。

「ほら、とっておいてあげたよ」

「ありがとう」

 トンクスが差し出してきた皿とフォークを受け取った。切り分けられたケーキは、モリー小母の手作りだろう。邸の飾り付けは父が、料理はモリー小母が……と二人で暗黙のうちに了解していたようだ。ちなみにクリーチャーは拗ねているらしく、最近姿を見ていない。父とクリーチャーは仲が悪いのである。

――あとでケーキでも持って行ってやるか

 働かないどうしようもない爺さんだし、性格も悪いが、それくらいいだろう。直系権限で口汚い言葉を禁じているし、接触頻度も減っているからおおむね無害である。本音を言えば面倒な「奥様」の肖像画をおしつけて、どこぞの辺境の施設にでも放り込みたいが。なんせ奥様もとい、ウィスタの祖母樣は強敵で、未だにウィスタのことを「混ざり者」だの「ふしだらな女の子」だの罵ったかと思えば、レギュラス叔父と勘違いしてきたり、はたまた父と勘違いしたり、だ。相手にするだけ無駄である。さすがにフィニアスが仲裁したり、ブラック家のほかの肖像画が諫めているものの、面倒極まりない。

 先日、ナイアードに言って硝子ケースをつくってもらった。かくして祖母樣は封印状態である。完全防音仕様で、眼を覚ますこともない。カーテンと硝子の向こうでお休み中だ。フィニアスは大変複雑そうだったが「んなもん祖母の狂いっぷりを見る側の気持ちにもなってくれよ」と言えば黙った。

 軽い頭痛をこらえ、双子の「手品」をみたり、トンクスの変身を見たりしているうちに零時を回った。

 誰ともなしに席を立ち、パーティはなし崩しに解散となる。ウィスタもあくびをこらえ席を立とうとしたとき、軽く肩を叩かれた。

「なんだよ?」

 父である。けっこうな量を呑んでいたはずだが、まったく顔色が変わっていない。さては酒豪だな。母も強かったのだろうか。やくたいもない考えを巡らせているウィスタを、父は手招きする。仕方なしについていった。階段を上がり、父の私室に入る。

「やっと終わったんだ」

 白い手が、室にうずくまる影を示す。明かりがつき、鋭利な輝きに眼が吸い寄せられた。

「……ちょくちょく籠もってたのは、これのため……」

 鎮座していたのはバイクである。大型の。車種はわからない。ウィスタは馬には詳しいが車やバイクには疎かった。

「なんせ十数年放置されてたから、修理に時間がかかった」

 父は腕を組み、誇らしげな顔をする。錬金術をかじっている――どころか結構な腕前なのは知っていたし、色々な魔法に精通しているのも知っていた。が、まさかバイクの修理まで自力でできるとは思っていなかった。

「こいつの名はフェンリル。お前にやるよ」

 大事にしろよ。言って頭を撫でられる。いつもなら避けるところだが、撫でさせてやった。

「ありがたく頂戴するよ」

 高級箒より断然いいクリスマスプレゼントだった。

 ◆

 クリスマスが終わり、浮かれた気分がどこかに吹かれて散らされていった。ハリーは浮かれるどころか落ち着きを取り戻した。ウィスタが忙しくしている間に、悩みは解決したようだ。ヴォルデモートが乗り移ったのではないかとか、操られているんじゃないかと心配していたらしい。ジニーが懸念をひとつひとつ潰してどうにかしたようだ。そこらの野郎どもよりしっかりしている。

 反対に、父は日に日に沈むようになった。そのうちブラック邸の床を突き抜けて地下へ埋まりそうな勢いである。わりかしあちこち出かけているのだが、気鬱は晴れないようだ。

「……正直ここまでとは思っていなかったんだけど」

 どう思うよ養父殿。朝食の席でこそこそと相談すれば、リーマスは顔をひきつらせた。

「帰省前後に親がかかる症候群の一種だと思っておきなさい」

「どっちかというとハリーのこ――」

 とを気にかけているんだろう。言おうとしたが問答無用でベーコンを口に突っ込まれて黙るしかなかった。

「あれは結構子煩悩だからね」

「……わかってるよ」

 四苦八苦してベーコンを飲み込み、リーマスから眼をそらす。わかってはいるが。普段が普段なものだから。

――でも

 数ヶ月前を振り返る。確かに父は父なのである。でなくば十二年も耐えられないだろう。父親族ならば誰にでもできることではない……はずだ。

 なにやらマッド・アイと話し込んでいる父を盗み見て、唇を噛む。見れば見るほど胸がざわつく。何にせよ激しいひとなのだ。英雄的というか、無謀というか。グリフィンドールらしいというか。父は大人で、ウィスタは子どもで、つまりウィスタにできることなどないのだけど。

 刻々と出立の日が近づく中、ブラック邸に珍客が現れた。

「リディクラス」

「莫迦者が」

 玄関ホールに現れた人物は、眉間に皺を立てた。こいつは年がら年中不機嫌だし二十四時間性格が悪いのだ。知っている。ウィスタは杖を構えたまま、首を傾げた。

「クリスマスは過ぎてますよ」

「黙れ」

 しっしと追い払われ、ひとまず脇によける。スネイプは相変わらず真っ黒い外套を着て、服もズボンも靴も黒くて、不吉の使いのようであった。

「どのようなご用件で」

「ポッターに用がある。やつはどこだ執事」

「……疲れてますねあんた」

 意外とノリがよかった。ものすごく疲れているのは確かだろう。薬の匂いもするし。

「なんだとハリーに用!? 帰れ!」

 食堂から、ハリー専用セコムこと父が飛び出してきた。落ち着いてほしい。

「バカ犬をなんとかしたまえ」

「俺の父なんですが」

 スネイプとは分かり合いたくないが、この瞬間だけは利害が一致した。

「ダンブルドアの命なんでしょう。ひとまず室に案内して、ハリーを呼んできますから」

「いいか俺の息子も同然なんだぞなにかしたら――」

「……立ち会ってもいいですよね?」

 ちろりとスネイプを見れば「よかろう」とぶっきらぼうに返された。

 

 人間は永遠に大人になれない生き物なのかもしれない。ウィスタは壁際に控えながら、長机の――金持ち宅の食堂にありそうなやたら長いあれだ――もちろんブラック家は名門で資産家、つまり金持ちなので室は広い。机も長いわけだ。ついでに金持ちと呼ばれるのを名門は嫌う。上流の方々、もっと上になるとやんごとなき方々……である。無論、口で教え諭してやるほど親切ではない。うっかり彼らを金持ち――成金呼ばわりした愚か者を落第させるだけである。

 そのやんごとなき血筋の、それも当主たる父と、やんごとなき……ではなく、身分的にはホグワーツ教員であるところの教授は机の端と端に座っている。二人とも互いを何億光年も隔てたいのだろうが、あいにくさすがのブラック邸でも四次元ではないのだ。

「――ほかにも人がいるだろうが」

「我が輩が知るか」

 互いに睨み合う獣が二匹。父は黒い犬か狼、教授はなんだろうか。蝙蝠? あれは獣に分類されるのか否か。ともかく、室の空気は冷えて、ウィスタは何度も窓を確認した。割れていない。壁にひびも入っていない。魔力で破壊活動をするほど理性は飛んでいないが、どうなることやら。極力この二人を同じく空間にいさせたくはないのだけど。

 父はたいそう怒っていて、ウィスタは静かに歩を進めた。怒れるグリフィン起こすべからず。机の上に放られた手紙に指をひっかけ、広げて読んだ。スネイプを見て、父を見た。

「ダンブルドアはあんたに嫌がらせをしようとしているのでは? あと父にも」

「口を慎め」

 スネイプの頬が痙攣している。父は完璧な無表情だった。

「だってそうでしょう。あんたにハリーの――」

 個人教授をさせようって。

 言ったか言わないかの絶妙な時に、扉が開いた。エリュテイアに引きずられるようにしてハリーが入室し、室のふれれば切れそうな殺気に顔色を悪くした。

「……僕、なにかしましたか」

 ◆

「やはりダンブルドアに話してくる」

 父の声は削りに削った氷のようだった。たぶん人を刺し殺せる硬度だ。

「君の言うことなどダンブルドアは聞くまい。それとも関わっていたいのかね」

 立ち上がりかけた父を、スネイプがせせら笑う。ウィスタは腰に手を添えた。いつ何時両者が爆発してもおかしくない。どこかでなにかか軋る音がする。

「ハウスキーパーと子守くらいしかしていないと聞くが」

 父の眼が青みを強くする。ウィスタはいつでも動けるように構えた。ここで決闘なんてされたらたまらない。

「ダンブルドアはお前を高く買いすぎている! なにが改心しただ。いいか、私の名付け子になにかしようとすれば……」

「泣かせるねえ。親友の忘れ形見。生き写し。反吐が出るね」

「その口を閉じろ」

「我が輩とてポッターなんぞに教えたくはない」

 ウィスタは途方に暮れ、ハリーは今にも吐きそうな顔をしている。そりゃあ、教授と二人きりで楽しい授業なんぞ見込めるはずもない。しかも閉心術の授業ときた。ウィスタもイルシオンに嫌々ながら習ったものだ。祖が双子だったと伝わる第三分家と第四分家。前者は開心術士を輩出し、後者は閉心術士を輩出している。かなり地味な術なのだが、情報、あるいは諜報に関わる連中にとっては重要な技術であった。

――開心術も閉心術も方向性が違うだけで同じ術ですがね

 飄々とイルシオンは言ってのけた。実は彼は開くも閉じるもできるのだ。リアイスの暗部を担う筆頭であり、暗殺者。最近は運転手だが。

 シリウス、杖を抜いちゃだめ! ハリーの叫びが響く。ウィスタはうんざりしながら杖を振ろうとした。けれど、控えていたエリュテイアのほうが早かった。スネイプに武装解除をかけてしまう。なんと父だけでなくスネイプも杖を抜いていたのだ。

「やるならもっと広い室でやってくださいな。先生、無駄に挑発しないでください」

 零度以下の声に、二人とも歯を食いしばった。ウィスタはスネイプに笑いかけ、エリュテイアに告げた。

「客人をお送りしてくれ」

「御意に」

 怒り狂ったスネイプは従者に任せるに限る。父がため息を吐いて椅子に腰かけた。

「ありえん。元死喰い人に……ハリーの個人教授――」

「シリウス小父さんしっかりして」

 父はなにやらぶつぶつ言って、役に立たない。ウィスタは杖を振って茶器を呼び出した。ひとまず自分たちとエリュテイアの分の紅茶をいれた。ハリーを座らせ、肩を叩く。

「無理なら言うんだぞ」

「僕は嫌だ……嫌だけど……」

「リアイスでどうにかしてやるから」

「なんでスネイプ!」

「妥協せずに教えられそうだからじゃないか? 気をつけろよ。あんなことやこんなことが暴かれる危険がふんだんに」

 それはもうふんだんに。ウィスタはまず曾祖父に手ほどきを受け、次にイルシオンにしごかれた。

――あれ相手に秘密を守れるならば

 お前の術は完璧だ。曾祖父の物憂げな眼が蘇る。わすかに亀裂が入ってしまった硝子玉。

 万が一秘密が漏れても安心しなさい。イルシオンは始末しよう。曾祖父が言うものだから、ウィスタは本気になった。かつてなく集中した。絶対に暴かれるわけにはいかなかったから。祖母から続いた偽りを。知ればイルシオンはウィスタを殺しにかかるだろう。リアイスとはそういうものだ。そしてイルシオンを殺したくもなかった。ウィスタさえしっかりしていれば始末せずに済むのだ。必死にもなる。

『どうりで父君に教えを請わないわけだ』

 閉心術の訓練を終え、イルシオンは顔をしかめた。灯火の双眸がウィスタの顔から首――全身を検分する。

『子を守れなかった父親ほど無様なものはありませんから』

 暗い声。どこか投げやりな言葉に悟った。秘密は守られ、けれど見られたのだと。

 孤児時代の、どうしようもない時代の欠片を。そうして次の一言で凍り付いた。

『父君は優秀な男ですし、もちろん閉心術の訓練もできましょうが……下手をすれば死にますよ』

 なにかの拍子に心が暴かれそうになったとき、死ぬように術をかけているでしょうからね。

 声も出ないウィスタに、暗殺者は優しく教えてくれた。

 リアイスの伴侶であるということは、そういうことなのだと。

 ウィスタは呻いている父を見た。

 父が術をかけているのは確実だろう。伴侶を、リアイスを守るためだけはなく。ウィスタのために。

 裏切るくらいなら死を選ぶのだ。

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