雨が降っている。さあさあと静かに降っている。
生意気なんだよ、と誰かが言う。タイルに紅い色が滲む。背の高い影がいくつもあって、不気味に伸びて、ゆがんで。
『■■の弟の鼻をへし折ったって?』
『おうとも』
『こんな小さくてガリガリなのによくやりやがる』
はは、と誰かが笑う。湿って汚らしい床に膝を突かされ、なんだかよくわからないゴムのようなものや、煙草の吸い殻が転がっているのを見るともなしに見る。正面きって
おれは、と口にして、殴られる。
『うっせえよ』
首を振った。おれはなんにもやっていない。あいつが、あいつらが村の小母さんがくれたノートを破ったから。やめろって言っても聞かなかったから。膝小僧を蹴ったはいいけどよってたかって押さえつけられて、手に釘を打ち付けたから。痛くて叫んで、あいつらが笑って、二本目をもう片方の手に打ち付けようとしたら。
――あいつらの鼻やら足が折れてたんだ
『やってない』
なんとか言っても、ぎらぎら光る眼に囲まれるばかりだ。
――拙い
『汚ねえ孤児のくせに。それか私生児なんじゃないか』
結婚していない親から生まれた子のことだ、とどこかで聞いた。フギがどうとかも言っていた。神様に認められない、罪の子だとかなんとか。そんなこと知るわけがない。なにも知らない。親の顔も、誰だったのかも。
――おれのせいじゃない
頭を押さえつけられる。すり切れた制服がはぎとられる。誰かの足が背中を踏む。
すう、とぬめる風が肌を撫でる。
そーれ、と笑いながら、押しつけられた熱。腕に、肩に、背に。鋭い痛みがはしる。
唇を噛みすぎて血がぼたぼたと垂れた。
『つまんねえの』
泣けよ、と低い声。無理矢理に顔を上げさせられて、三日月形に笑んだ唇と、獣の眼が。
『さすがにこれならどうだ?』
ぐいっと、指で瞼を開かれて。閉じることもできない眼に迫る。
――紅い、火
◆
悲鳴をあげて飛び起きた。片眼を押さえる。熱い呼気が喉を灼いた。
「どうしました。痛む?」
駆け寄ってきたのは女の人だ。ウィスタはゆっくりと息を整えた。消毒液の匂い。視界の半分は白い。夕暮れの色に染まるカーテン。窓からは秋の風が吹き込んでいる。
「夢を、見て」
「大変な目にあったのですから……怖い夢くらい見るものよ」
今日は泊まっていきなさい、と女の人――いいや、校医はやさしく言う。そっと寝台の傍らの椅子に腰かけた。
「あなたは薬をかぶって、火傷をして、気を失ったんですよ。頭も打っているし、片眼に薬も入って」
スネイプ先生ってば! と校医は気炎を吐く。頭から角が生えてきそうだ。
「ロングボトムはあなたがかばったから軽傷でしたよ」
盾の呪文が使えるなんてすごいのねえ、と校医は誉める。お手柄でしたよ、と言われてそっと頷いた。
「あとでマクゴナガル先生が加点すると思うわ」
そして、校医はウィスタを眺め回した。杖を一振りする。何かがカチン、と音を立てた気がした。
「あちこちに傷跡があるけれど」
密やかな声に、ぐっと拳を握る。なにかの拍子に見られたのだろう。顔に血が昇っていく。かっかと熱くなった。
「ごめんなさいね。状態を確認したかったから……沈黙の誓いを、聖マンゴの名の下に」
校医は人差し指を己の唇に当てる。聖なんとかが誰なのかは知らないが、とても大事な約束をしたのだと分かった。
「正直に言いましょう。お薬である程度は綺麗になります。ただ、手の甲を貫通している痕と、煙草の痕は、完全には消えないでしょう」
なんだか校医は悲しそうだ。たまにリーマスが見せる表情にそっくりだった。
「よく耐えましたね」
うん、とだけ頷いた。リーマスも知らないはずだ。手の甲の痕くらいは気づいているだろうけれど。
「週に一度くらいでいいから、医務室においでなさい」
ありがとうございます、と小さな声で礼を言った。
いいのよ、と校医は笑う。
「ホグワーツはあなたの家。みんなの家。私には傷を癒し安心を与える義務があるのだから」
さあ、寝なさいと言われ横になる。布団をかけられて、眼を瞑った。穏やかな眠りに包まれる間際、校医がつぶやいた。
「あなたの息子まで、こんな眼に……」
ねえリーン、あなたの子はちゃんと治しますからね。
校医――マダム・ポンフリーに薬を塗られ、頬やら額にガーゼを貼られ、片眼には
――めちゃくちゃ重傷みたいじゃないか
身体は服で隠れるからいいけれど、顔は目立つ。困ったなあと思いながら病室で朝食を食べて、退院許可をもらった。
今日は休みで、授業はない。医務室を出てそのまま談話室に向かってみれば、ネビルに泣かれた。「そんな大怪我」「僕はどうしたら」などなど。俺が言いたいよネビル。どうすりゃいいんだ、とウィスタは固まった。こんなの軽傷じゃんと言いたかったが、ネビルの勢いを前にしてなにも言えなかった。
「マダム・ポンフリーは心配性なんだよ」
「いや、ちょっとした傷ならツバつけときゃ治るって言ってた」
二本の腕が、ネビルをひっつかんでウィスタから引きはがす。
「フレッド、ジョージ」
よう、と双子が笑う。じろじろとウィスタを眺め回し、肩をすくめた。
「入学早々そんなナリになるやつはなかなかいないぜ」
「一年生が大事故にあったって噂が持ちきり」
「勘弁してくれよ」
「噂じゃあマクゴナガルとマダム・ポンフリーとゴーストに」
「スネイプの野郎が説教食らったとか」
「最高だ」
怪我をした甲斐があった。よくやったと言わんばかりに双子に肩を叩かれる。
「ウィスタ、三時から予定空けとけよ」
うん? と双子を見返せば、にやりとされた。
「悪いことを教えてやる」
怪我をしようがなんだろうがレポートはあるらしい。
「頭と腕が無事ならよかろうとか言ってたよ」
「免除してくれよ」
談話室の隅で、ハリーやロンと魔法薬学のレポートに取りかかっていた。休みだろうと勉強だ。羊皮紙に羽根ペン、インクの三点セットで書かないといけないので不便でしょうがない。ペン先はひっかかるし、インクは滲むし。
「ハリーたちを目の敵にしてるよね、スネイプ」
ロンが憂鬱そうに言った。課題が難しいからかもしれない。ウィスタは辞典や『魔法薬調合法』を繰りながら、羊皮紙を埋めていく。辞典はトランクの中に入っていたもので、リーマスが入れたのだろう。古いものらしく、あちこちに書き込みがある。細くて優雅な筆跡で、ウィスタの粗い字とは大違いだった。
「グリフィンドールで、親が有名だからだろう」
「そうかなあ。どうなんだろう」
ハリーが自信なさげに言う。インクのしみがあちこちにできていた。ああ、なんでロンはすらすら書けているんだろう? 市販の紙にボールペンでいいじゃないか。
「気にするだけ無駄だ。ああいうのは反応したらつけ上がる」
相手が教師なのが厄介なのだけど、幸いなことに別の寮の寮監だ。授業以外で関わることはまずない。
「大人だね、ウィスタ」
ハリーにきらきらした眼を向けられ、そっぽを向いた。
「少なくとも、スネイプよりは大人だよ」
◆
大人げないスネイプの課題をやっつけて、休む間もなく双子に連れ出された。もとい引きずり出された。
「どこ行くんだよ」
「それは後でのお楽しみ」
「お菓子もいっぱいあるぞ」
「行こうすぐ行こう」
はりきって五階の廊下へ向かう。甲冑がいて、壁には鏡がかかっているだけだ。かたわらにはドレッドヘアの少年――上級生がいた。 「遅かったな」
よう、と上級生が言い、双子とウィスタを見比べた。
「一年坊も連れて行くのか? まだ入院してなくていいのか。えらい有様だぞ」
「リーも知ってるだろ。マダムは心配性なんだ」
あー、とリーが声をあげる。そうしてにかっと笑った。
「よろしくな、ウィスタ。俺はリー・ジョーダン。こいつらの悪友さ……聞いたぜ。特急でマルフォイ家の坊主を追い出したとか、湖で小舟から蹴り落とそうとしたとか」
悪いやつだな、とリーは楽しげだ。
「ロニー坊やより根性ありそうだろ?」
「だからつれてきたのさ」
お前らがいいならいいよ、とリーは言う。するりと腰のベルトから杖を抜いた。す、と鏡に向ける。
「さあ、鏡よ鏡」
僕らを楽しいとこまで連れてって。
弾むような声とともに、鏡の輪郭が溶けていく。ぽっかりと口を開け、暗闇はどこかにつながっているようだった。
遠足遠足、とはしゃいでいる双子に押されるようにして踏み出せば、そこは岩肌がむき出しの通路だった。
灯りはこう点けるんだ、とジョージに教えられて「ルーモス」と唱えてみる。すると杖先がぼうっと光った。
三人に先導されるようにして、通路を進む。岩盤をくり抜いただけのようだ。少し湿っていて、気をつけないと滑りそうだった。片眼がふさがっているので転びそうになる。
「どこ行くんだよ」
「良いとこ」
「楽しいところ」
ろくな答えが返ってこない。麻薬売買人のところじゃないだろうなとちらと思って、それはないかと思い直す。双子もリーも、誰も彼も――ハリーは除いて――平凡で、けれどもあたたかい家で育ってきたのだろうと感じるから。荒んだ匂いがしないのだ。
眼を細める。なんだか眼が熱かった。ガーゼで覆われたほうが、やけに。外そうかなと迷っていると、ぱたぱたと後ろから誰かが走ってきた。
『さあ行こう!』
『そんなに引っ張らないでよジェームズ』
『君たちなんでつきあってないの』
『こんな雌獅子とジェームズが付き合う? ないね、ない』
『なんか言った? 言ったわよね――』
え、と振り向く。ゴーストのような影。背が高くて髪はたぶんくしゃくしゃで、誰かの手を引いていて……。
「ウィスタ?」
気づけばフレッドに肩を掴まれていた。はっとして身を引こうとする。
「いや、ええと」
「ここにはでかい蜘蛛も小さい蜘蛛もいないぞ。俺たちちゃーんと点検したからな!」
「うん?」
「振り返ってぼーっとしてるからさ。なにかいるのかと思って。具合悪いのか?」
「にしても蜘蛛はないよフレッド。ロニーじゃないんだから」
ジョージが言って、フレッドは眼を逸らした。
「つい癖で」
「今度あいつのベッドに蜘蛛のおもちゃでも入れるかフレッド」
「やめてやれよジョージ」
三人でぎゃあぎゃあ言い合い、ウィスタは蚊帳の外だった。ゴーストがいた気がして、と声を上げる。ああ、と三人そろってうなずいた。
「ありえなくもないな。ぎりぎり通路なら……移動できるのかな?」
「どうなんだろうな?」
「とにかく出よう」
ほら、ウィスタ、とジョージが前を指す。
「もうすぐ到着だ」
漏れ出す光と、ゆるい坂道。登って顔を突きだしてみれば、大きな樹の根元だった。ぐっと身体を引き上げる。外に転がり出てローブをはたいた。どこかの丘で、下には村が広がっていた。
振り向けば、三人はにっこりした。
「ようこそ、ホグズミードへ」