【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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五十話

「――キャスはどうだね」

 短くて呼びやすかろう。魔法薬学の授業後、スラグホーンの私室――椅子に腰かけ、肩にはニーズルを乗せ、長い尾を首に巻き付けられながら、ウィスタは瞬いた。

「由来は?」

「キャスパリーグ」

「頂戴しておきます」

 いつまでもニーズルだとか仔ニーズルと呼ぶわけにもいかない。考えるのも億劫で名付けを放っておいたのだが、いい加減に決めるべきだった。アーサー王伝説に出てくる化け猫、あるいは魔物の名を冠したニーズルはご機嫌だった。スラグホーンも機嫌がよい。ついでに、ウィスタの痩せ細りようを憂慮しているようで、こうして招かれたのだ。断る理由もないのでありがたく受けた。スリザリン出身の教師と親交を深めても損はないだろう。スネイプと仲良くなんてごめんだが、スラグホーンならよい。彼ならば歯呪いにかかった女の子に暴言を吐いたり、衆人環視で生徒いじめをすることはないだろうから。

 午後のお茶を口実に少しでも食べさせたいらしい。卓には小さく切られたサンドイッチ。減量している乙女が食べそうな代物である。バターと辛子が塗られたパンに、肉と野菜がたっぷり挟んである食いでのあるサンドイッチをいつか食べられるようになるのだろうか。厨房のおばあちゃん妖精やらドビーやらウィンキーが心配しているようなので、どうにか戻したいのだが。いいやつらである。

――妖精が全部悪いわけではない

『坊ちゃんが言ったのですよ』

『だからクリーチャーはそうしたのです』

 闇を湛えた眼と、腐った吐息を振り払う。口の中が切れた。熱い紅茶を流し込む。傷に染みたが、その痛みがウィスタには必要だった。

「――フェリックス、君が受け取らなくてよかったのか」

「俺には必要のないものです」

 魔法薬学の授業は『生ける屍の水薬』の調合であった。スラグホーンは生徒のやる気を引き出すためにとある薬を景品にした。約束された幸運の薬ことフェリックス・フェリシス。輝く黄金の薬は、調合におそろしく手間がかかる。しかも工程を完璧にこなしたとしても、薬が黄金に変わるかどうかは運次第。悪戯な女神等々の悪名もある薬であった。しかも調合中に香気を吸って向こう見ずになり、いわゆる酩酊状態になって事故死することも、稀にある。ほいほいと量産できない代物だ。リアイスの第七分家ならば調合できそうなものだが、そういった話は聞いていない。どうせ幸運薬を調合する手間とその他諸々、得られる利益を天秤にかけているのだろう。ウィスタも調合したいとは思わない。

「――幸運なんてもんは逃げ水ですからね」

 喉から手が出るほど欲しいときは過ぎてしまった。たとえ幸運薬でもできないことはあるものだ。

 

 魔法薬学でも他の授業でも、ウィスタはそつなくこなした。ニーズルことキャスは、どうにか寮に置いて出られるようになってきた。

「ありがとうな」

 寮で明るい橙色の毛並みを撫でてやる。親愛なるクルックシャンクス先輩であった。豪奢な尻尾にキャスがじゃれかかっている。ダメもとで「うちの子の面倒みてくれない?」と持ちかけたら、クルックシャンクスが尻尾を振ってくれたのだ。飼い主に似てすばらしく賢い。

 かくして猫とニーズルの奇妙な関係が始まり、ウィスタはほっと息を吐いた。たまに鞄に潜り込んだり、ズボンにひっついてきたり、肩に乗ったりと甘えただが。少なくとも毎日授業に連れて行くことがなくなっただけよしとしよう。

「……あとあれだ、先輩よ。鳩はいらないんだが」

 なぜウィスタは自室の前でこんなやりとりをしているのか。クルックシャンクスが喉を鳴らし、黄色い眼でウィスタを見つめる。ご不満らしい。

「捌いて焼いて食えと?」

 尻尾が揺れた。食え、ということらしい。賢すぎるのも困ったものだ。猫にまで心配されてやがる。

 仕方がないのでクルックシャンクスを撫でてやった。ついでに菓子をやっていると、軽い足音が聞こえてきた。

「先輩、リアイス先輩」

 ウィスタでいい、と言っているのに先輩呼びを貫く一年坊だ。幼なじみともども、段々とホグワーツに順応している。最近ではマグル生まれ呼ばわりや、穢れた血呼ばわりされていないようでなによりだ。もっとも裏で誰かが躾したからだが。人間、最低限の道徳は必要だろう。グリフィンドールのみならず、ハッフルパフやレイブンクローのマグル生まれも穢れた血呼ばわりしていたのだから笑わせてくれる……。

「課題か?」

「いえ、違うんです。これを届けてほしいって」

 小さな手に握られた巻紙をそっと受け取った。そうして死んだ鳩に眼をやり、一年生を見て、壁際に控えるエリュテイアに告げた。

「鳩の調理は?」

「食べ盛りですし、おやつにしましょうか」

「頼んだ」

 一年坊の頭を軽く叩く。キャスがすかさずついてきて、肩まで駆け上がった。後ろから「え、は、鳩捌くんですか。鳩!?」と一年坊の声が追いかけてくる。落ち着いた声が「ええ。血抜きはいりますし羽根もむしりますが」と応じた。一年坊に言っておくべきだったかもしれない。魔法界のみんながみんな肉を捌けるわけではないと。一部のご家庭とエリュテイアができるだけである。マグル生まれにとっては強烈だろう。なにせたいていのものは店で手に入る。ウィスタも魔法界に『戻って』きたときは眼を回しそうだった。

 歩きながら巻紙に呪いその他がないか検分する。もっとも『冬の息吹』も反応していないし、エリュテイアも止めなかったので念のためだ。

 果たして、なんの障りもなかった。紫のリボンを解き、巻紙を広げる。細長い文字の連なりを追った。軽く指を鳴らし、上質な羊皮紙を灰にする。

「さあて」

 ダンブルドアは何を企んでいるのやら。

 

 ダンブルドアの呼び出しの件は気になったが、ウィスタは承諾の返事を『炎』で送っただけで済ませた。どうせその日が来ればわかることだ。

――考えることが多すぎる

 爽やかな風が吹き抜ける午後、ウィスタはセストラルを走らせていた。乗馬の腕を鈍らせたくはなかったし、いい気晴らしになった。六年生は来年に高等魔法試験を控えているわけで、それなりに空きコマもあったものの――それらは勉強に充てるべき時間だった。しかしウィスタはそんなものに頓着しなかった。課題は多いがどうにかなる。今は外の空気を吸うほうが大事であった。あのシリウス・ブラックの息子だのなんだの言われて、腫れ物にさわるような眼を向けられるのはうんざりだった。正面切ってなにかを言われることはない。ついでにリアイスが魔法省からガリオンをぶんどったうえに、大臣に謝罪させた件も密やかな噂として広がっている。表向きは魔法省が自らの非を認めて頭を下げたことになっているが。謝罪という機会を与えただけいいだろうよとウィスタは思うのだが、周りにしてみればリアイスはおっかないらしい。間違ってはいない。間違ってはいないが、ウィスタを怒らせるファッジが悪い。そんなわけで、下級生の一部からはおそれられている、らしい。

『だってあなた、全然笑わないんだもの』

 白金の魔女はそう言って、口端をゆがめた。とある隠し部屋でのことだ。気づけば彼女に膝枕されており、ウィスタは凍り付いた。急いで頭を除けようとしたら、がっちり押さえられ、身動きできなくなった。

『あなたの容姿で、にこりともしなかったら近寄るのも勇気がいるのよ』

 私は違うけれどね。

 淡々として、しかしわずかに震える声。神秘部での一件からこっち、ウィスタはろくに手紙を出さなかった。クインもクインで沈黙を守った。世間一般的な十六、七歳の交際というものを、ウィスタは知らないが――恋人を放置していたのは間違いがない。取り交わした手紙といえば、マグダラ家からの公的なもの――クインはマグダラの令嬢で長子であった――ウィスタの父の死に対する、見舞いの手紙だった。対してウィスタもリアイスの者としての返答をした――それだけだ。

 クインの手紙はいくらかの慰めにはなったが、ウィスタの気力を奮い立たせるだけの力はなかった。夏の間、自らを忙殺させることで暗がりから眼を逸らした。愛想を尽かされても仕方がない、とどこかで思いながら。

『俺はあんたに』

 何かを返せているか。訊いて、鼻を摘まれた。馬鹿ねと言われた……。

「……いっそ」

 片手で手綱を握り、片手で首に巻き付いたキャスを撫で、呟く。

「政略的な関係なら楽だったのになあ……」

 どこぞの令嬢がどうの、の縁談は出てきているようだが、曾祖父――獅子公アシュタルテに任せてある。第一、今はそんなもんに構っている余裕はない。ちなみにグリーングラスのリディアから打診があったが、謹んで辞退した。というよりもリディアが知らない間に縁談が送られていたようだった。「いい男は歓迎だけれども。ひとまず互いに断りましょう。ついでに誰かいたら紹介して頂戴な」と手紙が来て、あまりのあけすけさに、ナイアードが腹を抱えて笑っていた。

 どこぞの市井の生まれがよかったな。言っても詮無いことを懲りずに思いつつ、道行きをセストラルに任せる。不吉な噂がまとわりつき、敬遠されがちな天馬は、軽やかに駆けた。全部が厭になったら天馬の育成を仕事にしようか。他愛もないことを考える。人間よりも生き物のほうが好きだ。噂もしないし、勝手に型にはめたりもしない。ただそこに在るだけ。ウィスタが天馬に――殊にセストラルに親しみを覚えるのも、考えてみれば無理もない話だ。どちらも遠巻きにみられ、偏見にさらされているのだから。

 物思いに沈んでいると、禁断の森の端にたどり着いていた。そうして、小道を見つけた。騎馬一騎が通れる幅だ。下ってどこかに続いている。好奇心のままにセストラルの腹を軽く蹴る。ゆっくりと道をたどると、白いものが見えた。突き立つ墓標だ。

 セストラルから降り、待っているように言いおいて墓場に踏み入る。整然と並んだ墓標は、ずいぶんと古びたものもあった。つらつらと名を読みとっていく。

 リアイス、ロングボトム、プルウェット、ブラック、ディペット、フォーテスキュー、ボーンズ、ダーウェント、ディゴリー、マッキノン、ギャンボル……。なるほど、これは歴代校長の墓だ。生徒が近づくわけがないし、周知もされないだろう。

 ふうん。意味のない呟きを漏らし、あちこち見て回った。初代校長はゴドリック・グリフィンドールなのだが、彼の亡骸はないだろう。そもそもリアイスにもないはずだ。ゴドリックだけが行方不明である。なにせ千年も前のこと、わからないことのほうが多い。

 居並ぶ墓標たちのなかで、まぶしいほどの白さを持つものがあった。近寄って膝を突く。刻まれた名は――。

「ウラニア・ペンドラゴン・ユスティヌ」

 墓碑銘を撫でる。没年は二十数年前。享年十七。若すぎる。校長ではありえないだろうし、校長の近親者かも怪しいものだ。そもそもユスティヌは滅びたと聞いている。

――つまり

 この魔女が、最後のユスティヌなのだろうか? だとすれば……。

『スラグホーン先生にね、私は闇祓いになりますって言ってきたの』

 わななく声が間近で聞こえ、ウィスタは振り向いた。黄昏時。細い影が一つ。黒髪は朱に染まり、至高の青色は紫を帯びている。母だ。若いときの。

 過去視が発動したようだ。本当に厄介な。

 後に希代の闇祓い、闇狩り等々の異名を贈られる魔女は、しかしいまにも消えてしまいそうなほど、柔く儚げであった。輪郭が溶けて消えてしまわないか、じっと眼を凝らしてしまうほど。

『先生は止めてくださった。でも……どうせ逃げても逃げても追ってくる。父は殺された。母も一族も……。実の娘のあなたですら、あれは手にかけた』

 姉、と呟いた声は誰にも拾われることはない。ここにいるのは死者だけ。生者と交わることはない。

 母に姉がいたなど、聞いたことがない。アリアドネ・リアイスはついに一人の子しか残さずに逝った。

 待て。声が漏れる。母なんと言った?

 実の娘。ならばユスティヌは、呪いの血を受けた一人。母の腹違いの姉……だろうか。

 ウィスタの驚愕など知らず、過去は進む。

『勝たなければならない。わかっている。けれど――』

 誰も彼もが殺されたというのに。母がウィスタに近づいてくる。すっと膝を折り、すすり泣きながら墓碑銘を撫でた。労るように。

『ごめんなさい姉さん。私はあなたの死を利用する。臆病で卑劣で……ここでしか悼んであげられない。嘘つきで、ずっと欺いていくの。父親のこともあなたの真実も』

 いえ、あなたは真実なんて語ってくれなかったけれど。

 それでも、姉のように思っていた……。

 鐘の声が渡る。母が顔を上げ――過去は終わった。

 ウィスタは墓碑銘を撫でた。何度も何度も。ヴォルデモートはなんて罪深いのだろう。実の娘を二人も殺し、きっとどちらの娘も深く傷つけた。秘密を負わせ、生涯影から逃れられないようにして。

 あなたのせいじゃない、と母に言ってやれたらどれほどよかったろう。慰めてあげたかった。秘密を抱える痛みは、ウィスタも知っているから。

 言葉にならない呻きをこぼして、ウィスタは固く眼を瞑った。

 直後、さきほど鳴った鐘の音と、寸分違わぬ音が響いた。

 

 先触れを出したのだから当然だが、夜更けにも関わらずダンブルドアは起きていた。止まり木にとまった不死鳥を少し撫で、ウィスタは遠慮なくソファに腰かけた。

「……墓場に行ったと聞いたが?」

 ダンブルドアは執務机から呼びかけてきた。齢何歳なのだか知らないが、気の毒なことだ。本当ならばとっくの昔に引退して後進に校長の座を譲っているはずなのに。こうして夜更けまで仕事である。後継者を育てていないのが悪いというべきか、どいつもこいつもというべきか。

「ユスティヌの墓を見つけました」

 フィニアスの肖像画が「お前は頻繁に校長室を訪ねるな。ほいほいと踏み入っていい場所ではない」とうるさかったが無視した。小姑に構っていても益はない。

 ふむ、とダンブルドアは頷いてウィスタをまっすぐに見やる。ライトブルーの眼には憂いが深い。

「ウラニアは身よりがなくての。故郷に帰してもよかったのだが……君の母君が願ったのじゃよ」

 寂しい森に一人きりにさせるくらいなら、ホグワーツで眠らせてやってほしい、と。ダンブルドアは囁き、指を鳴らす。ウィスタの前に据えられた卓に、小さな本が現れた。昔の卒業アルバムである。頁がめくれ、とある箇所で止まった。スリザリン生の集合写真。右上に小さく写っているのは、黒髪に紅藤――青みがかった紅色の双眸を持つ魔女であった。ウィスタは彼女の姿を二度ほど見たことがあった。一度目は廊下で、二度目はあの墓場で。母とともにいた、母より若い魔女……。

――ではこれが

 ユスティヌなのか。

「ウラニア・ユスティヌ。優秀な生徒じゃった。君の母君とはまるで姉妹のようで……実際に、腹違いの姉妹じゃったわけじゃが……。殺されたのじゃよ。ヴォルデモートが止めを刺したわけではないが、ほとんどあれのせいといってもよかろう」

 ダンブルドアの声が熱をはらんだ。ウィスタは偉大な校長に、曾祖父と似たものを感じ取った。ヴォルデモートへの強烈な侮蔑、嫌悪感。鋼の意志……。

「ウラニアは父を――ウラニアも決して認めないだろうが――見限った。そうして実の父は……ウラニアの妹を人質にした」

「母を……?」

 そうじゃ。いまだに余熱を残した声に、それが告げる事実に吐き気を覚えた。見下げ果てた男だ。どこまでも。

「妹を盾にされれば、ウラニアとて下手に動けん。彼女は攻撃され、息絶え絶えで守護霊を儂に飛ばし……駆けつけた時には、虫の息じゃった。そうして心臓が爆ぜて死んだ」

 言葉を失った。異常な死である。

「あれはそこまで……」

 ヴォルデモートならやりかねない。たとえば母に衝撃を与えるために、ことさらに惨く殺すことだってやるだろう。なにをどうすれば人が傷つくか、熟知している男だ。祖母を壊したようなことを平気でするのだ。

 いや、とダンブルドアが首を振った。

「では……?」

「呪いじゃ。ユスティヌの血に継がれた妄執じゃ。死の間際、ウラニアは言った。ユスティヌは、リアイスに相対しながら殺さなかった役立たずを赦さない。呪いは我が血管に、心臓に、全てに……」

 ひやりとした。ユスティヌ。滅んだ家門として、ほとんど忘れられているといってもいい。敵対していたとも聞いていた。だが、これほどとは。

「血は最高の魔法媒体じゃ。祖の怨念を引き継ぎ、引き継ぎして、ウラニアは死んだ。そうしてユスティヌは絶えた……」

 思い悩むのはお止め。柔らかく、ダンブルドアが告げる。

「ウラニアとて、誰一人悼む者がいなかったわけじゃないのだから」

 ◆

 母の姉、つまり伯母の話を聞いたことも、墓場のこともウィスタは誰にも漏らさなかった。口にした瞬間、何もかもが希薄になるように思った。ダンブルドアの哀悼もなにもかもが。

 途切れ途切れに日々が過ぎ――ウィスタはどうも、記憶に障害があるようだ――ハリーは魔法薬学で好成績をおさめ続けた。プリンスとやらの蔵書を手放すつもりはないようで、ハーマイオニーが歯噛みしていた。歯がすり減って平らになっても知らんぞ、と思うほどに悔しそうだった。

――怪しいんだよなあ

 ハーマイオニーは正攻法に拘るが、ウィスタはとある魔法薬師を敬い倣っている。リーン・リアイス。母親だ。彼女の書き付けは役に立つ。そうして、正体不明のプリンスの走り書きに、母と似たものを感じた。感じたというより、いくつかの効率化に関する記述が酷似していたのだ。これが一定の水準以上の実力者がたどり着く境地なのか、それとも先達から伝わっているものなのかわからない。ただ、プリンスの書が役立つことは確かだ。ハーマイオニーもロンも不満らしいが、ウィスタはどうだっていい。

「……頭を柔らかくすりゃいいのになあ」

「なにが?」

「ハーマイオニー」

「ああ……」

 ハリーは苦虫を噛み潰したような顔をする。才女の無言の圧に耐えかねているのだろう。ウィスタは不干渉だが。

 土曜日夜の廊下は静かだった。ウィスタとハリーは連れだって校長室に向かっていた。万一見回りに出くわしても校長の一筆を持っているので安心だ。見回りはともかくピーブズがうるさかったのは計算外だが。どこからともなく男爵が現れて、ピーブズを蹴り飛ばし連行していった。魔法騎士の礼で謝意を示せば「なんの。淑女の頼みゆえ」と言って去っていった。本当に、先祖たるヘレナとの間になにがあったのだ、男爵。

 そんなこんなで校長室前に到着し、ガーゴイル像はウィスタの顔を見るなり脇に退いた。

「いいの?」

「いいんです。この方の魔力と顔を誤るはずがなし」

 ハリーとガーゴイル像がこそこそやりとりしているが、振り返りもしない。石段に足をかける。するすると螺旋階段が動き出し、ウィスタは真鍮のノッカーを鳴らした。音もなく開いた隙間から、校長室に入る。

「待っておったよ」

 ダンブルドアは淡い笑みを浮かべ、二人を歓迎した。ウィスタは銀色の輝きを認めた。執務机の上に置かれた水盆――憂いの篩。記憶を選別し、客観視するための道具だという。

 こんばんは、とダンブルドアに言う。眼が憂いの篩から離せない。なんの授業かと思っていたが、まさか誰かの過去をみるのだろうか。うんざりなのだが。

 胸の奥底にじりじりとした熱がわき上がる。厭な予感が止まらない。

「今夜はとある記憶を見てもらう」

 歌うように言うダンブルドアを見た瞬間、予感は確信に変わった。絶対に不愉快に決まっている。

 ダンブルドアがやたらとほがらかな時というのは、腹に何かを秘めている時なのだ。

 

 これは、とダンブルドアは小瓶を振った。中に揺らめくのは白銀の靄――いいや靄となり、液体となり、形が定まらない。

「ボブ・オグデンの記憶じゃ。先日亡くなったが、どうにか記憶の提供に頷いてもらえての」

 ウィスタは柔らかなソファに腰かけたまま、眉をひそめた。まったく覚えのない名である。

「先生……その人がどうか? 『授業』に関係あるんですか」

「大いにあるとも」

 ハリーの問いにダンブルドアは頷いた。ウィスタは一つ息をこぼした。つまり決闘術その他を教える『授業』でないと。うっすら予感はしていたが、これで確実になった。

「我々は霧に包まれた、未知の世界を往く。過去を覗き、知らねばならぬのだ」

「オグデンとは何者です」

 ウィスタは厭々ながら立ち上がり、ダンブルドアの手から小瓶をもぎ取った。怪我をした手を無理に使うもんじゃない。ちらと見れば偉大なる魔法使いの片手は相変わらず黒くしなびている。かすかな呪詛の臭いが鼻をついた。

「おお、ありがとうウィスタ――オグデンは魔法法執行部の者じゃよ」

 どうしたものか。ダンブルドアが何を考えているかさっぱりわからない。ウィスタは頭脳明晰だと言われることがそこそこあるけれど、本当にわからない。ハーマイオニーならわかるんだろうか。ちらとソファを見れば、ハリーも立ち上がっていた。二人で顔を見合わせる。ハリーにもわからないようだ。少しだけ安堵した。

 小瓶の中身を憂いの篩にあける。その昔、第二分家がダンブルドア家に贈ったとされる魔法具は、するすると記憶を飲み込んだ。

 一族の至宝『冬の息吹』がはまった左手で、ダンブルドアの傷ついた手に触れる。凍てつく魔力が呪詛を阻んだ。誰かが術を結んでせき止めているようだが、じわりじわりとダンブルドアを浸食しているようだ。多少の助けにはなるだろう。

「爺のために力を使うものではないよ」

「俺がしたいようにします……本当に過去を視なければいけませんか?」

 ボブ・オグデンとやらがどんな記憶を持っているかは知らないが、視ても楽しくないのは分かり切っている。駄目もとで訊いても、ダンブルドアは首を振った。ウィスタの背を軽く叩く。

「君にとっては酷じゃろうが……お行き」

 強引に憂いの篩に――過去に飛び込びこまされ、たまらず眼を瞑った。強い陽射しに眼が眩んだ。そろそろと瞼を上げれば、空は絵の具を塗ったような青色で、刷毛でさっと描いたような雲が流れている。草の香が鼻をくすぐった。

 小道に立っているのは、ウィスタ、ハリー、ダンブルドア。先にいるのは小男だ。マグルの格好をしようとして、ただの変態に成り下がっていた。仮にも魔法省勤務、魔法法執行部という花形にいるというのに、嘆かわしいこと甚だしい。ここが過去――記憶でさえなければ、哀れなオグデンを物陰に引きずっていってきちんとした服を着せてやるところなのだが。幸い、小道の両側は生け垣に彩られている。内に入ればどうにかなる。言っても仕方のないことだけれど。

 ウィスタはオグデンが不審者として逮捕されるのでは、と危ぶみながら彼の後を追った。どうやらここは田舎のようで――つまりオグデンは目立つはずだ。見つかれば終わりである。

 そのうちに、オグデンが小道を左に曲がり、急な坂を下っていった。木の看板が突っ立っている。リトル・ハングルトン一マイル。看板に偽りなし。眼前に丘二つに挟まれた、谷間の景色が広がった。村――教会から墓地まではっきりと見て取れる。丘のひとつに館が立っていた。村は、そびえる館に睥睨され、縮こまっているようにも見えた。

 小規模な村で威張りくさっている村長宅……いいや、村長はいるものの、それよりも上にいる地主か成り上がりの商人か。そういったところだろう。遠目にも、館には年月の重みが感じられなかった。

 オグデンは坂を下りきり、村へ入るかと思われた。けれど急に右に曲がる。獣道のような細い道に踏み入る。両の生け垣が緑の獄となってウィスタたちを、オグデンを捕らえるような錯覚に見舞われた。背中に冷たい汗が滲む。

――考えすぎだ

 ここは記憶の中。過ぎ去った時。害はない……。

 言い聞かせ言い聞かせしているうちに、生け垣が途切れ、曲がりくねった樹々が生い茂る場所へ出た。ウィスタならば間違ってもこんなところに居は構えないが、驚いたことに家があった。こちらは丘の上の館とは違って時の重みに潰されたらしい。かつては綺麗に整えられていたろう石壁はこけむして、屋根瓦は剥がれ落ち、窓は何枚か割れている。庭――庭と呼んでもいいものか、ともかくも庭らしきものは草が生い茂っていた。喰い詰めた者の、終の住処といった風情である。なによりも、住人に住まいを整える気がまるでないのが致命的だ。いるとすればだが。もはや樹を切って日当たりをよくしようだとか、屋根を直そうだとかいう気力もないらしい。

 こんな朽ちかけた家にオグデンは何の用があるのか。あちらこちらに視線をやり、ウィスタは眼を細めた。戸に打ち付けられているのは蛇の死骸か……白い蛇だ。特殊な呪いその他諸々の可能性を検討しているウィスタの耳に、ざらついた声が飛び込んできた。

 かわいい蛇よ

 モーフィンさまの機嫌とれ……

 戸口に釘付けされぬよう

 シューシューという音と重なって聞こえる戯れ歌。胃のあたりがむかついてきた。蛇語。ということは――いやまだわからない……。

「ゴーントさん。モーフィンさん! 魔法省から参りましたボブ・オグデンです!」

 やってられるか。踵を返そうとしたウィスタを、ダンブルドアが縛り上げた。暴れようとすれば呻いて片手を抑える始末。思わず抵抗をやめれば、ダンブルドアがにっこりした。

「君はお人好しじゃの」

「なんであなたはスリザリンじゃないんですか!」

 ウィスタが吼えてもダンブルドアは柳に風と受け流す。ハリーに気の毒そうに……そして不思議そうに見られて脱力した。ここがどういった一族が住んでいる場所なのか、把握しているのはダンブルドアとウィスタだけのようだ。ユスティヌは滅びたと聞くし、つまり……蛇語を操る可能性のある一族といえば――必然的に――。

 なすすべもなく荒屋のなかに連行される。汚らしい魔法使いたちが、オグデンを威嚇していた。ペベレルの指輪がどうこう、父祖の歴史がどうの。二人とも髪は灰色で、眼の色は暗がりで窺い知れない。

「――これを見ろ!」

 年経た男が高笑いし、誰かを引きずる。首飾りをもって、娘らしき魔女を無理矢理に引っ張った。

「サラザール・スリザリンのロケットだ!」

 父に蹴られ、魔女が転ぶ。とっさに駆け寄り、喘ぎながら身を起こした魔女の、その顔をはっきりと見た。

 やつれかけた面に垂れ下がる髪が、あるかなしかの陽に煌めく。両の眼は鮮やかな紅。

 禍つ星の彩。

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